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七十年前の豊里を偲んで

旭川市西神楽南二条三丁目 菅野 弘彌
大正十一年一月二十三日生(八十二歳)

当時の里仁地区

上富良野の街から草分そして深山峠を上り下って又上りになる国道と、美馬牛駅から美瑛町のルベシべ地区に向かう道が交差する美馬牛峠から、少し上富良野寄りの国道わき(今は菅野ファーム)に私の家がありました。
この柾葺きの小さな一軒家がわが生家でした。その横に、国道から真直ぐに沢を抜け向いの山の頂まで山道があって、そこに津郷農場の氏神である神社がありました。又上富良野と美瑛の境界の一寸上富寄りには小さな祠があり、座像の石地蔵が祀られてお大師さんと呼んでおりました。
私の本家は、津郷農場の北の端で、隣は美瑛町のルベシベ地区になっていました。上富良野の一番北にある家で、−今も五代目が後を継いでおります。この地には明治四十年末に曽祖父が入植したそうで、次男の父は善治といい、分家をしてその長男として私は生れました。
まだ私の生れた頃は畑のあちこちに大きな根株が残っていて、又拾い集めた石の小山もあって開墾のあとが生々しい処でした。
大きな根株を掘り起こすのは大変で、父のその作業する姿が目にうかびます。大正十四年八月、向いの畑で皆なで亜麻引きをしていたときに、小さな従姉二人が湯を沸かそうとして火事になり、本家は丸焼けになりました。その家はルベシベに行く道の直ぐ側にあったと記憶しております。晴天で大変暑い日、しかも当時は草囲いの家ですから、あっという間のことだったそうですが、従姉達二人が無事であったのが幸いでした。
美馬牛駅の開業
私が三歳の時ですが、曽祖父達がしばらく私の処に来ていた事がありました。その秋、現在地に移ったのですが、その折の建前の様子をうっすらと覚えております。その翌年の五月二十四日が十勝岳の大噴火で、黒い煙が高く高く昇っていました。この月の三十日に曽祖父が亡くなり、三十一日が葬式で骨揚げ法要の折大粒の雹が降り、四つ足のお膳を持出してそれを受けたことを記憶しております。
葬儀の前か後かはハッキリしませんが、津郷の婦人連と豊里の婦人連打ち連れて噴火の後を見に行きました。私は皆さんに手を引かれたり、おぶってもらったりして、深山峠を降りて向いの小高い丘(線路班のあったあたり)に登りました。そこからは、一面が泥海となったひどい臭いのする中を、小船で長い熊手等を持ってかき乍ら探している様子があちらこちらに見えました。しかし、帰りのことは全く覚えておりません。多分どなたかの背中で眠ってしまったのだと思います。
この年は気候が悪く、大不作の年であったそうです。しかし、豊里地区には大変良い出来事がありました。美瑛・上富良野間は約二十粁近くありますが、どちらの街に出るのも大変で、上富良野は二里半、美瑛には一里半余りあります。ところが九月に美馬牛駅ができたのです。地区の奥からでも三十分余り、私の処からは約十分と近い処です。この駅ができるまでは、農作業で忙しいときには役場に行くのも大変なことです。子供が生まれても、特に次男、三男ともなれば出生届は何ケ月も遅れ、時には翌年となったことがしばしばあったのでした。ですから本当の誕生日は戸籍に届けた日ではなく、親でなければ知らないというのが普通でした。私の従弟達もそれぞれ生れ月が余り離れていないということもあって、祖父が本家の三女、私の妹、叔父の長男(學)を三人一緒に届けに行ったのだと言っておりました。學氏が最後に生れてからだったということです。
このような事情ですから、美馬牛の駅が出来たのは大変有難い事だったのです。駅が出来たので鉄道官舎十数戸も建てられて、その周りに小さな街が現れ、雑貨や呉服を売る店として佐々木商店と江浪商店が出来ました。現在の佐藤商店は江浪商店の跡です。又旭川からも行商が来るようになりました。全くの僻地が文明に初めて浴する事になったのです。
役場へ出生届に行くのにも、前に記したようなことはなくなりました。私もよく街へお使いに行かされたものですが、大変だったのは水物で、正油、石油等のビン物でした。一升ビンを持っていくのですが、小さい者には重くて大変で、落としたら大変ですから、割れないように運ぶのが苦労の連続でした。
当時の教育環境
学校は里仁小学校で、当時校長と外一人の先生の二人です。今では、生徒が五人でも先生が三人というような時代になりましたが、当時は八十人余りの生徒に教室は二教室で、体育館などはありません。
休み時間の遊び場は、夏は運動場で、雨の日や冬は教室か廊下です。特に冬はストーブの側に皆な寄り集まるので、やけどをする子も出る始末です。女の子は男子生徒に押され、常にストーブの側には行けません。てんやわんやです。着物が多かったので、袖をちぎられ泣く子やわめく子も多く、小さな世界の弱肉強食の世界で大変なものでした。
一年生の時の校長先生は池田校長で、他一人の先生はその長女の雪子先生でした。二教室ですから、校長先生の受持ちは一年、五年、六年生で、雪子先生は二年、三年、四年生でした。複々々式とでも申しますか、今では考えられないような時代でした。
学区は豊里、津郷、阿波、沼崎の四地区でしたが、その前からもあった越境入学者が、美馬牛駅が出来たこともあって増加し、三十人余りにもなったと記憶しています。美馬牛駅の所在は、村界ぎりぎりの美瑛でした。美馬牛小学校もあったのですが、三粁以上離れた処にあり、又一年から六年まで一教室の単級でした。その為もあって少しでも条件のよい処ということだったのです。戦後は、七師団演習場に開拓者四百戸程が入植した為、駅の近くに小学校、中学校が出来、長く続いた越境入学は終わったのですが、中学校が出来たので逆にこちらから越境入学がしばらく続いたようです。
農家の生活
私達が小学生の時代は毎年のように冷害で、特にこの地区は沢が狭く標高が高い地区ですからその影響は大きかったのでした。小沢には飯米分程度の水田を作り始めていましたが、年によっては皆立穂で収穫皆無の年もあったのです。このような年には豆類等の畑作も悪いのでした。その為に学校の弁当にそれが現れるのです。米二分麦八分は良いほうで、蕎麦饅頭等が主食で梅干一個、猫跨ぎ(鱒の塩漬け・猫も食わない)、たくわん等がおかずでした。ところが国鉄職員の子供達は純白の米の飯、しかも秋田米で、おかずは大きれのあきあじや天ぷら、その他で、それを横目で見ながら羨ましい限りで、私達とは大変な違いでした。当時の国鉄職員は大変恵まれていたのです。村一番の村長、そして校長さんの給料は八十円で、上富良野や美瑛級の駅長は百二十円と大きな違いでした。
農家は皆家計が苦しく、冬場は造材作業の出稼ぎに出ていました。また、政府の救済事業が雪の降る前や年前の雪のまだ少ない時期の短い期間でしたが仕事があり、生活の助けになりました。賃金は、人夫で日当七十銭、馬出で一円四十銭というところで、主に道路の補修でした。このようにして何とか年を越したのですが、同じような事が昭和の初めまで続きました。そんな状態ですから病人も多く出ました。
特に結核です。津郷、豊里、沼崎地区はそれほどでもなかったのですが、阿波団体はひどいものでした。岡久さん、後藤さん、杉本さん等はほとんど一家がこれに罹り、若い働き手の大事な人が次々と亡くなりました。中には一家全滅に近いほどの気の毒な家もありました。
結核との因縁
図らずも、私はこの結核菌と軍隊で戦うことになりました。甲種合格と言われてから、黄色の紙の衛生兵としての令状が来ました。昭和十八年一月十八日旭川駅に集合した時、列車(軍臨)は六両編成でした。上川管内からの十三名を含めた全道からの五百名程が、この列車で広島まで直行し、そこで軍装になり、三泊後再び臨時列車で朝鮮から南満州の埠新と言う炭鉱の町に着きました。
そこで三ケ月の歩兵の訓練を受け、その後十人、二十人と別れ別れになり、それぞれ満州中の陸軍病院に配属されました。私は、北満の「ノンジャン」というロシヤに近い処にあった陸軍病院に配属され、そこで結核菌と出逢ったのです。出逢ったという表現はどうかと思いますが、それは次のような事です。
病院に多く入院している内科患者で、特に胸部疾患と見られる患者の結核菌を見出すのが仕事で、勤務個所は病理試験室です。まずシャーレガラスの容器に、患者個々の名前を貼って痰や、時には尿(これは尿容器で)も集めて、それを顕微鏡で見るのです。その作業は専門的ですので詳しくは省きますが、この集めた痰等をガイ板(薄いガラスの板)に薄く塗り、さっとアルコールランプの火で乾かし、それに酸性のガベットという薬品で青く染めます。その上にチールという赤い色のアルカリ性の薬を塗ります。結核菌は抗酸性菌なので青い酸性の薬は撥ねつけて染まらず、赤い色のアルカリ性薬品には染まるのです。その赤色に染まった菌が見出されると結核と判定されるのです。
この菌は四百倍の倍率で見ることが出来るのですが、なかなか大変です。検査に使用したのは千代田の四百五十倍とチャイスの九百倍の顕微鏡で、ドイツ製のチャイスが非常によく見えたので、これが結核専門に使用されました。今は日本製のレンズが世界で一番と言われておりますが、当時はドイツ製の方が優秀でした。農家の場合若い働き手でもあり、相当病気が進行するまで病院には行かず、悪化してからの治療となるのが常でした。初期に入院して完全休養を取り、栄養食に気を配れば良くなる事も相当あったと思います。病気が進んでから仕方なく通院が始まり、初めは十日置きに症状悪化と回復を繰り返し、更に進行すると一週間そして三日置きにと周期が短くなります。最後は入院となった時はもう遅かったのですが、入院もままならず、家で寝ての病床生活と言うことも多かったのです。
この様になりますと一回の咳で痰の中には数万、数百万の菌が排出されるのです。ひどい開放結核に相当前からなっているわけですから、次々と家族に広がってしまうのです。病院に通院しても与えられる薬は胃散とカルシウム剤、ブドウ糖等の注射、そして飲薬としては米糠エキス、これは米糠を絞った液にクエン酸が入っている水薬なのですが気休めになるぐらいのものです。そんなことですから、遠い病院、そして暑い日や冬の寒い時などの通院は、治療効果よりも疲労悪化を招くようなこともありました。本来は早期に入院して、休養と十分の栄養を取ると言う事しかなかったものと思います。
私の知り合いで、軍隊を疾病除隊となった人が蛇を集めて食べ、結核を完治した人がいました。蛇の効果は私も経験しました。満州から沖縄の宮古島に転戦しましたが、その折食料事情が極めて悪くなり、兵隊の多くに夜盲症になる者が出ました。これには濃厚肝油が効くのですが、それが無くなったのです。
私は兵隊達に蛇を取って来てもらい、それを食べさせた処たちまち良くなりました。それも一人や二人ではなく、皆良くなるのです。夜盲症と言うのは、通称鳥目と言われているもので、明るい内でも夕方四時頃になると見えなくなるのです。その効果には驚きました。
小学校生活と同級生の消息
結核の話が長くなりましたが、小学生時代に戻ってみたいと思います。私は二年生のとき、家の事情(父の病気等)もあって叔父の家に行くことになり、十八歳まで世話になりました。現在の菅野學氏の処です。その時代の地区に住まいした人達の所在を示しますと、美瑛境の方から私の本家で菅野、次は渡辺さん、佐々木さん、津郷さん、西出さん、私の家、荒武造さん、佐藤甚七さん、佐藤松治さん、菅野善作(私の叔父の家)、小野寺さん、佐々木さん、横山さん(現在長谷川さんの処)、久保米八さん、荒良雄さん、山を越して鈴木盛さんの以上であったと記憶しています。
その当時は子供が多く、少ない家でも五、六人以上で、多い家は十人以上の処も相当ありました。私の男の同級生は七人で佐々木千里、西出信雄、菅野金一、打越新次郎、伊藤武、成田喜春君達です。千里君は三十歳代、武君は四十歳代、西出君は五十歳代と早く亡くなり、特に早かったのは成田喜春君の二十歳前後でした。現在は打越君、菅野金一君、そして私の三人が健在です。一番の仲良しは佐々木松太右さんの三男の千里君でした。家も近かったのと、千里君の姉さんの貞子さんに、子守りをしてもらったことがあったことにも影響されたものと思います。学校に入る前から仲良しでした。一年生の時から六年の卒業まで同じ机で学び、先生が席替えをしょうとしても聞き入れず、離れませんでした。学校に行くも帰りも必ず一緒でした。
いたずらと遊びの日々
二年生のある日であったと思います。二人で学校帰りに、道路を横切ろうとしている大きな青大将を見付けました。二メートル以上はあったと思います。
これを棒切れで叩き付けて殺し、いつもうるさい婆さんのいる佐々木さん(私の叔父の家の隣)の家が直ぐ近くで、丁度そのとき軒下に金だらいに洗濯物を潤かして置いてあったので、その中に外からは見えないように、蛇を忍ばせて知らん顔して帰りました。洗濯物を洗おうとして、婆さんは腰を抜かす程に驚いたのは当然です。二人には日頃うるさい婆さんでしたので、仕返しの気持ちもあったのです。ところが、その悪さをしている様を一級上の女の子が見ていたのを、私たちは夢中になっていて知りませんでした。その子が先生に話したものですから、翌日学校に行くと先生に呼び出され、大変なお叱りを受けました。校長は私の母の弟で、熊谷二三男でした。悪いことは出来ないものとつくづく思いましたが、まだ子供です。その後も何かとこの叔父を悩ませました。良いことも悪いことも必ず二人での行動でした。私が策を持ち掛け、それを二人で考えるという事が多かったと思います。五、六年生の秋、学校の近くに学校林があり、その隣に砂川さんの山林がありまして、どちらも落葉松(からまつ)でした。当時落葉林(らくようばやし)と一般は呼んでおり、またこれが秋には黄色の落葉で林間いっぱい絨毯を敷きつめたようになるのです。しかも下枝は切ってありますので、最高の遊び場になり、戦争ごっこに熱中しました。道具はといいますと、美馬牛駅に行き貨車にビート大根を積む時に使う竹竿から手頃のものを抜いてきて、八番線(太い針金)を「サーベル」様に造り、枯れ木等を集めて燃やしたその中に入れて焼き、竹の節を焼き抜いて、鞘にして腰に差し、これは将校用にしました。私と佐々木君は将校です。外の兵隊は主に棒切や竹の棒を持って鉄砲にしました。千里君と私の共作です。はとんどの全校の男子生徒を集めて落葉林へ繰り出すのです。昼休みの四十五分はまあ良いのですが、十五分の休みでも戦争ごっこです。遊びに夢中になって帰ることを忘れてしまい、先生を大変困らせたものです。校長が叔父であったので、叱られても叱られてもあまり気にしませんでした。
小餓鬼大将でした。この戦争ごっこの最後の締め括りは、六年生の秋の学芸会でした。演題は、「のらくろ」の漫画の四十七士の討ち入りです。自主的にやりたいと私が先生に申し出て許されました。「のらくろ漫画」は私たち少年時代の最高のものでした。
しかし、配役をどうするかと、これがなかなかもめました。特に「吉良」をやる者がいないのです。なんとか金一君を口説いてやってもらう事になりましたが、シナリオでは大高源吾が吉良の首を上げるという事になっており、これが主役です。私にということになりましたが、私は大石をやりたかったので、どうしてもそれをとねだって私と決まり、大高は佐々木千里君と決定しました。私がどうしても大石をやりたかったのは、山鹿流の陣太鼓を打ち鳴らしたかったからでした。
そのシナリオが大変面白いものでしたので、しかも出来映えも最高で大喝采を受けました。いつも余り誉めてくれなかった校長にも、大変誉められたものでした。そして翌昭和九年三月に卒業となりました。
高等科へ進学
私たち農家では新聞を取っている家は五十軒に一、二軒ほどであったと思います。そんなことなので、少年クラブ等の本は買ってもらえません。鉄道員の子供達のものを借りて、回し読みさせてもらったのです。新聞と言えば、殆どの家では内壁に天井までも、防寒の為に古新聞を毎年のように張り替えるのです。部屋の温度差でひびが入り、重みで落ちてくる所もありました。この様に張られた新聞の大見出しを、子供同士で読み合って覚えたりしたのです。六年を卒業すると男の子は高等科に入りましたが、女の子はほとんどが家の手伝いでした。学業成績が良くても中学に行けないのです。成績が同等か私たちより良くない子でも、国鉄職員の子供達は中学に進む子が多かったのです。農家育ちは残念ながら行けませんでした。又親達も入れようとしなかったことにもありました。ですから高等科を卒業すると、一番の目標は兵隊になる事でした。複々式の学校から上富良野の高等科へ入ったのですが、学力は余り遅れてはいませんでした。学校が小さくても、大きくても、小学生時には余り関係がないものと思います。利尻の島からでも東大に入った人もあるのです。校長先生は関田校長であったと思います。私の受持ちの先生は関下先生でした。同級生は松原、瀬川、三野、遠藤、勝井、三好、松藤君等々でした。
国鉄に就職
高等科卒業後、十八歳の九月まで叔父の家で農作業を手伝っていましたが、従弟達二人が卒業して働き手も出来たので、昭和十五年の九月国鉄に就職しました。振出しは根室線の金山駅です。普通は卒業して直ぐ入る人が多かったのですが、若くて入った人達に負けないようにと頑張りました。
佐々木千里君が軍隊を志願して行きましたので、その時私も志願したかったのですが背が小さくてあきらめました。鉄道に入ったからには、千里君が伍長になるまでに雇員になるべく、頑張らなければと励みました。当時は国鉄の階級制度がハッキリしていて、就職しますと傭人職で私の給料は日給一円十銭でした。傭人は銀ボタンの服で木綿です。雇員になると金ボタンで夏服はセル、冬服はラシャになり袖章一本が入り、外套は両前で金ボタンです。判任官は桐の襟章がつき袖章は二本、高等官は襟章が金モール、袖章が三本となるのです。上富良野や美瑛の駅長は判任官で、旭川、深川、滝川、名寄、留萌等の主要駅の駅長は高等官です。又管理局の課長は高等官、部長は勅人官です。このように身分と服装までがハッキリしていました。ですから皆な上に向って努力したのでした。
私が金山駅に入った翌月の十月に、助役さんの異動があって、二十八歳の鉄道学園普通部を卒業した若い助役さんが来ました。非常に若い職員の指導に熱心な人で、私達は大変助かりました。昭和十六年三月に雇員資格試験があり、助役さんの勧めで同僚四人で受験したのですが、就職してわずか六ケ月目で受けた私だけが合格したのです。競争率十数倍という厳しいものでした。駅長さん、助役さん始め先輩から大変祝福を受けましたが、私より古い人が不合格でしたので、余り嬉しい顔を見せることが出来なかったものです。当時根室線は滝川から新得までが、旭川鉄道運輸事務所の管轄でしたが、その中で合格者は六名でした。就職して僅か六ケ月での合格は、余り例がなかったのです。当時の鉄道の組織は、北海道鉄道局の下に函館、室蘭、旭川、野ケ牛(北見)、釧路、稚内等々北海道各地区に運輸事務所、保線事務所が下部にあったのです。戦後は札幌、旭川、函館、釧路の四鉄道管理局となりました。それをまとめる総局、又は総支配人室等があったこともありました。総局は札幌鉄道局と併設です。私は晴れて雇員となったのは昭和十七年一月一日付けで、月給三十六円となり一人前の職員となったように思いました。この時代の国鉄は、国の一般会計にその利益の中から十億以上を繰り入れていたように記憶しております。当時国の予算は二百から三百億円のように思います。
国鉄の郷土出身者
さて私事を長々と申しましたが、ここで上富良野出身で国鉄に就職し、名を成した先輩の方々のことに移ります。
まず、挙げますのは須藤源吉さんです。須藤さんは料亭須藤の息子さんです。小学校を卒業して教育者をめざし、師範学校の受験で筆記試験には合格したのですが、人物試験で家業が料亭であったという事で不合格になったそうです。昔のことですから、それからが立派です。料亭の子がどうなるか見ていよと、国鉄の当時保線事務所給仕として就職したのですが、その後勉学に励み判任文官(普通文官とも言った)、高等文官と国家試験を突破されたのです。
独学では難関中の難関です。私が就職した頃は旭川運輸事務所の経理課の係長をされておられたと記憶しております。最後は北海道総局の総務部長をなされた方で、私達後輩の鑑となった人です。
また、柾屋の息子さんで末広忠さん、この人は国鉄高等専門学校を出られて運輸長等要職を歴任され最後は函館駅長になりました。私もお世話になりました。末広さんと同級生で、豆腐店の息子さんで幌延の駅長、副運輸長、北見車掌区長を又渡辺よそ吉さんと言う方は副運輸長、新旭川の駅長の現職で亡くなられました。若いのに惜しい人でした。私と同郷の久保米八さんの息子で勝氏は労働課長、旭川資材事務所長と出世されました。又江幌出身の細谷君は幌内駅長、倶知安副運輸長、そして本州に転出されました。以上の方々が主な人達です。
上富良野駅長をした人では、最後旭川駅長になられた月澤さんが居ります。また、駅員で上富良野に居られました吉田さんは旭川車掌区長に、変わった処では戦時中国鉄にも青年練成所が出来て、その教官として私達の受持ちをした関下先生と田中先生、須藤先生の三人が国鉄に入られました。関下先生は室蘭の出身でしたので室蘭、須藤先生は旭川の練成所でしたが、田中先生はどこか記憶にありません。
関下先生は若い内に戦後間もなく亡くなられました。
須藤先生は練成所がその後学園と名称が変わり、最後は旭川鉄道学園長となりました。これらは須藤源吉先輩の配慮もあったのではと思います。下って私は、金山、美馬牛、旭川駅、旭川車掌区と職場を変わりましたが、その後助役試験、駅長試験を経て深川車掌区旭川車掌の助役、管理局の係長、そして旭川駅の総括助役、留萌駅長、管理局の保安課長を最後に昭和五十二年春退職です。
昭和四十六年総裁表彰を受け宮城内で天皇陛下に励ましのお言葉をいただきました。生涯の思い出です。
国鉄の衰退と労働運動
一般には駅長にならないと何をしているのかと思われたようですが、駅長から助役にと言う発令がありますと、降格されたのかと言われたのですが、小さい駅の駅長より大駅の上席助役の方が格が上の場合が多くあるのです。ですから降格ではないのです。
笑い話になっておりますが、旭川市の公的会合で管理局長の席が駅長より下だったことがあって、これは主催者の認識が浅かった為で局長は旭川の駅長より数段上格なのです。私も時々結婚式や葬儀等で帰った折、美馬牛の又は上富良野の駅長にそろそろなれぬのかと言われました。車掌区の助役、駅の助役、管理局の係長等が長かった為で、叔父にまで言われました。叔父は私が駅長になるのを待っていたのですが、旭川駅の総括助役の時亡くなってしまいました。その時実は上富良野の駅長よりはずっと格が上だったのです。とうとう駅長の帽子姿を、残念ながら見せることが出来ませんでした。その翌年二月留萌の駅長を拝命したのです。
戦前は国鉄家族主義で良い時代でしたが、戦後は労働運動が極めて激しくなり、四十年代になりモータリゼーションにも押されて、経営が四十五年頃から赤字に転落、その後数年の間に大きく赤字が膨らみ民営化となりました。
振り返って見ますと、なんと言っても一般常識では計り知れない労働運動が続いたことが大きいと思います。私が保安課長の時、八日間もの全面ストライキで線路が赤さびになり、これにより大手の貨物はほとんどトラックに切り替えられ、その後もサボタージュがあって生もの等が腐る、又大きく遅延する等があって社会の信頼を大きく損ね、これでは民営化もやむなしでした。
私も管理者になってから大変な苦労を体験しました。特に旭川駅の総括助役の折、駅長の組合対応が悪いと言うことで、罷免闘争と言った名のもとに長期サボタージュがあって、十三日間寝ずの対応に今でもぞっとする思いをしました。組合の本質は労働条件の改善にあるのが主ですが、それを大きく超えて社会運動、政治運動まで、果ては思想集団にまで発展すると言う、これは社会のルールに反する大きな問題ではないかと私は思っています。自由主義の世の中とは言え、社会の通念、そして常識を超える集団化は外にも大きな社会問題となっております。
全ての人々、特に教育に携わる人々等は特に留意すべきものと思います。
戦後憲法が変わり、天皇制はやむないとしても、日本固有の家族制度の破壊にも大きく影響があるのではと思います。これは老人の愚痴でしょうか。
里仁地区の作物と農作業
長々と横道にそれましたが、古里の話に戻ります。
津郷農場は津郷三郎さんが農場主でした。私の幼児の頃は牛がいたように思いますが、定かではありません。澱粉工場があったことを憶えていますが、その後は丘一面に除虫菊が栽培されていました。何十町歩で花の時期は大変見事なものでした。また草取り時期には白い三角帽子にかすりの着物、モンペ姿の人達が二十、三十人と揃って除草しているのは見物でした。今はこの地区もラベンダーで有名になりましたが、真っ白い花が丘一面に咲きほこる様は、雄大な眺めだったのです。もし今もあの様子が残っていればラベンダーと競う、それにも勝る観光の極みではと思います。
前田真三さんのお陰で有名になった美瑛の丘とこの地区も大きく変わりました。農作業には苦労な高低のある丘の畑は、農家としては厄介な土地柄です。
観光に来る人達にはこの事はわからず、農家の人達には観光の余裕などはありません。今では化学薬品に押されて除虫菊は全く姿をなくしましたが、当時はお盆の前に早刈りの除虫菊を出荷してその費に充て、これが一番早い収入でした。八月は燕麦、大麦、小麦の刈取り時期で、大変多忙の日々が続きました。
厄介なのは雨です。この時期は、よく夕立やにわか雨が来るのです。特に七師団の演習場の方で野砲の大きな弾の音がすると、夕立やにわか雨があったような気がしました。雨に当たると品質が下がり大損になりました。
夏の作業で特に大変だったのは麦焼きです。暑い日焼いたものを唐芋でたたくのです。この時焼け残った穂先の毛が、首や体中に刺さり痒いやら痛いやら、そして暑いやらで、それは大変苦労なものでした。その頃の主な作物は燕麦、小麦、大麦、小豆、菜豆、馬鈴薯でした。馬鈴薯は澱粉原料の紅丸が主で、八俵(一俵は六十キログラム)で澱粉一袋(二十五キログラム)と交換されたものです。これがイモや南瓜と混ぜられ、団子となって戦後の人々の代用食となって私達を助けたのです。今でも子供達におまえ達はイモと南瓜で、そして団子で造られ育ったのだと言って笑わせております。
美馬牛駅にいた時、大松沢さんの畑を一反歩ほど借り受けて馬鈴薯を作りました。肥料も手に入らない時でしたので、過リン酸だけでしたが草取り、土寄せを大事にして収穫し一部の八俵を澱粉工場に持って行き一袋の澱粉と取替え、残りを畑に土をかけて生けて置いたのですが、数日して本家から馬を借りて運びに行ったところ、すでに盗まれてしまっていました。その馬車の轍をたどって見たのですが、道路に出てからはどっちに行ったかも分からず、警察に届けてはと言われたのですが、イモに印があるわけでもないので止しました。工場に行った時家まで運んでおけばと悔やんでも後の祭りでした。苦労して作ったものをと。
水辺の生き物
今では姿もなくなりましたが、本家のすぐ下手で泉さんの住んでおります処に湧水があって、それが相当量の清水でした。笹の葉や蕗の葉で飲んだものです。上の箇所から又少し下手に、津郷さんが造った用水池があったのです。面積は五反歩ぐらいのものでした。春、雪解け水を溜めた時は、子供でしたので相当広く感じたものです。夏になり用水に引かれて浅くなった池は、最高の遊び場となりました。
泳ぐ者、釣りをする者、終日ここが遊び場でした。
今は本家の処から美瑛町との境の分水嶺からコンクリートの排水溝となり、下手の沼崎農場入口まで続いていて、昔の小川の様子は全く無くなりました。
小川にはドジョウ、ウグイ、谷地ウグイ、たまには鮒等もいたのです。大雨が降った夏の土用頃、田んぼの水落にドジョウや小鮒がうようよ集まっていたこともあったのです。農薬とコンクリートのせいで、今では絶滅したのでしょう。美馬牛の駅から線路を渡って直ぐが演習場で、その奥の今は拓真館の下手の川によくカジカを釣りに、又はカラス貝を採りに行ったものです。
カジカは木綿糸でミミズを何匹も通して、団子にして棒の先にくくり付け小川の中に立てるのです。
口が大きいので、これに喰いつくと素早く上げるのです。大きな口ですが、ミミズの団子も大きいので直ぐには吐き出せず、そこがねらいなのでした。
また、カラス貝は砂の中で口をあけているのです。
その採り方は八番針金を適当に切ってその先をつぶして平たくし、棒先に結び付け、開いている口に入れるのです。貝はビックリして口を閉める、その時上げて採るのです。こんな事をよく考えたものです。
子供の頃の遊びの知恵は大変なものです。しかし、このような事は必ずしも子供自身で考えたものばかりではなかったのです。お爺ちゃん、お婆ちゃんの伝えたものが相当あったものと思います。
今は核家族ですから、子供達はかわいそうです。
昔は大家族が多かったので、お爺ちゃん、お婆ちゃんの役割は大変なものであったと感心しております。
私の本家のお爺ちゃん、お婆ちゃんもそうでした。
十余人の三食をよく毎日作っていたものと思います。
お爺ちゃんが臼やひき臼等を使って、うどん粉、蕎麦粉、米粉、きな粉、じうねん、こうせん等々を作り、時には餅類等をと日替わりに色々と食べさせたのです。日々今日は何を、明日はこれを考えるだけでもそれは大変であったと思います。材料も十分ではない時代でしたのに。
今の世はコンビニ等にたよって、少ない家族なのにどうでしょう。祖父祖母の愛は勿論母の愛すらも子供達にまともに通じないのではと大いに心配です。
何でも労せず、農家でも手の掛かる野菜も作らず買って、又水田農家でも正月の餅も買って来るか、賃餅屋でと言う家も多いのではないでしょうか。物があり過ぎ、便利になり過ぎて総てが単純で深みもなく寂しい世の中です。もう少し労をいとわぬ生活に戻ることも、必要なのではないでしょうか。
心に残る仙台訛
私の育った豊里は宮城県登米郡豊里から移住した人達です。私達の祖父母や親達は豊里町の赤生津という処から来たのです。先に来ていた豊里団体の伝(つて)で来道したようです。ですから祖父母は勿論父母達も国誰りでした。特に祖父母は死ぬまでそれを通しておりました。俗に言う仙台訛りです。その例を二三上げてみたいと思います。
小さい子供は「わらし子」、赤子の場合は「おぼ子」、遊びに来なさいは「遊びにきなっせい」又は「遊びくなっしょ」、蛙は「びっき」、草のオオバコは「ぎゃろっ葉(ぎゃろは蛙の鳴き声でこの草のある処は蛙が良くいると言うことからか)」、道を通る人を指して「きゃどっこふとこ通る」でこれは「街道を人が通る」の訛です。人は「ふとこ」と言うように、末尾に「こ」が付く言葉が多いのです。赤ん坊を「めごいおぼ子だこと」(かわいい赤ん坊だこと)、若い娘さんは「めごいあねこだこと」等私が感心したものには、「なれたから捨てろ」です。これはご飯等が腐った時は捨てなさいと言うことです。深く考えれば、物に慣れすぎると進歩がなくなり駄目になる、と言うことに通ずることをも意味しているのです。
お国靴りは悪いものではないと思います。祖父母の出た処に遊びに行きますと、皆この訛言葉が残っております。そこに行きますと祖父母の懐に帰ったような、極めて懐かしい暖かい思いにかられます。
しかし、先人の人達はその故郷に帰らずに北海道の土となったのです。一度でも帰って見たかった事と思います。故郷は何が無くとも古里なのです。私も古里を離れて六十年を過ぎました。早いものです。
最後の住まいをどこにと思いましたが、旭川の中でも十勝岳が見える場所のこの地、西神楽を選んだのです。
大変長々と自分よがりに勝手なことを申して来ましてはなはだ恐縮ですが、傘寿のたわ言と御勘弁願いますと共にお許しください。
最後に故郷の皆々様の御健康で精進されます事と御発展されます事を心からお祈り申し上げまして筆を収めます。

機関誌  郷土をさぐる(第21号)
2004年3月31日印刷   2004年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔