郷土をさぐる会トップページ     第21号目次

各地で活躍している郷土の人達
熱き想い 我が心の故郷

千葉県柏市 長谷部 元雄
昭和十七年二月五日生(六十二歳)


はじめに


本誌との出会いは、昨年(平成十五年)十一月十四日、オブザーバーで出席させて頂いた札幌上富良野会の席で、思いもかけず三十数年ぶりに先輩の野尻巳知雄氏(上富良野町郷土をさぐる会編集委員長・(社)かみふらの十勝岳観光協会理事)とお会いしたのがきっかけでした。
会場では、旧交を温める間もない短い会話で再会を偲び、その後、同先輩から本誌への寄稿依頼が寄せられました。
これまで故郷にお世話になりながら、私からお返しをさせて頂いたことありませんでしたので、これを機会に今では浦島太郎か異邦人のような私が、少しでも皆様と本誌を通じて交流を深めさせて頂ければ、望外の喜びと感謝しながら寄稿をさせて頂きました。
一 我が家のルーツ
我が長谷部家は、秋田県生まれの父金治(明治四十年〜平成元年)が、大正十三年ころ長兄直治の住む北海道上川村に入りましたが、昭和元年秋ころ秋田県に戻り、翌昭和二年ころ再び樺太に渡りました。しかし、日本とロシアの戦況が思わしくなく、昭和八年に長女君江(故人)、次男忠雄(長男は樺太で死去)を連れて、長兄直治が転居した上富良野村に入り、東二線北二六号(後の日の出二の上)の田畑僅か五町歩の農地(現在の新町四丁目四番「フロンティア・フラヌイ温泉」などが所在する地)に移り住むようになりました。
そして、この地で、半民半農の生活を送りながら、昭和九年に次女八重子(現改名 さい子・札幌市)、昭和十四年に三男秀雄(美幌町)、昭和十七年に四男元雄(私)、昭和二十年に五男公雄(札幌市)、昭和二十二年に六男行雄(札幌市)が生まれ育ちました。
二 幼少時代の生活
私が生まれたのは、昭和十七年二月の第二次世界大戦最中であり、上富良野村も食糧難・物資不足の時代でありました。
幼少の頃、アメリカ軍の飛行機が我が家の上空を飛来してきておりました。
ある日、私は疎開してきていた従兄弟達と一緒に家の窓から米軍機を眺めていたところ、親や疎開してきていた叔母達に叱られて急いで抱かかえられながら、一〇〇m程離れた大きな栗の木の下の防空壕の中に逃げ込みました。私は抱かれながら防空壕の中で、幼な心にも米軍に攻撃されているという思いを抱いておりました。
そして、ある日、富良野市内が米軍機により襲撃され、同市内に転居していた父金治の長兄直治の家が機銃掃射を受け、さらに富良野駅構内に停車中の汽車も襲われて、鈴なりの人々と共に同車内に乗り合わせていた疎開途中の母の弟(札幌市)が脚に被弾するなど、多くの人々が被害を受けました。
この時、我が家では、富良野市の方から米軍機による機銃掃射音が聞こえてくると大騒ぎになり、長兄直治の安否を気遣って父金治が、荷車を付けて急ぎ馬で迎えに行きました。途中、荷物を持って徒歩で避難して来た長兄直治の家族(直治は自宅に残った)と出会い、馬車に乗せて我が家に連れてきました。
この時の私の記憶は、馬車を仕立てて出かけて行った父の姿と、その日の夕方、伯母や従兄弟達と荷物を馬車一杯に積んで父が意気揚々と戻ってきた姿でした。その姿は、私の幼な心にも父は人助けをしているのだなあという思いをしたものです。
こうして、我が家は、さらに大所帯となり大賑わいの毎日でありました。
なお、母の弟は、その後も脚に弾を入れたまま摘出することもなく、私達に時々脚を見せては昔話をしたりしておりましたが、数年前に天命を全うしました。
また、ある日のこと、飛来した米軍機が日の出の丘の畑に墜落したことがありました。周辺はたちまち大騒ぎになって皆と駆け出したのですが、大人や年上は脚が早く私はかなり遅れて現場に辿り着きました。そのため、墜落現場の周りには人だかりで何も見えず、身体の小さい私は止むを得ず皆の足元を掻き分けながら中に入り、残骸を見ることが出来ましたが、既に米軍パイロットの姿はありませんでした。
残骸といいましても、実際に飛行機を見たのはこの時が始めてで、絵本等で見ていたのでしょうか、想像していたのとそれ程遠っていなかったという思いが記憶に残っています。
この時代は、食料難などで大変な時でありましたが、我が家は五町歩の小さな田畑を持っておりましたので、幸い十数名の大所帯が食べるだけの米、餅米、穀物、野菜等は生産していたようで、麦ご飯、粟などを食べることはありませんでした。
三 終戦直後の生活
終戦直後は、物のない時代が続き、砂糖、塩、ゴム靴など様々なものが配給されるという不自由な生活が長く続いておりました。勿論、米も配給されておりましたが、幸いに我が家で生産をしておりましたので、不自由な思いをすることはありませんでした。
村では、駄菓子類、飴類、アイスキャンデーなどが販売されるようになり、徐々にではありますが水飴、アイスキャンデー、魚などの行商や紙芝居なども回って来るようになりました。
この頃、我が家では山羊(やぎ)一頭を飼って、私も時々乳を搾乳して乳飲み子の弟達に飲ませたり、鶏を飼って卵と食用肉にしたり、羊を飼って私も恐る恐る毛刈りして、その毛で私も毛糸を紡んでセーターや手袋、靴下、ショールなどを手編みしたり、また、業者に委託して毛布などに加工したりするなどして、大所帯ながらも何とか質素な生活を送っていました。
そして、この頃から徐々に、麦粉を練って焼いた香ばしい「煎餅」、麦粉と重曹を練って焼いた腹持ちのする「おやき」や「パンケーキ」、これを蒸かした餡入り等の「パン」、寒天と小豆粉を水で溶かしたさっぱり味の美味しい「水羊羹」、日の出二の上の和田澱粉工場(故和田松ヱ門氏で和田昭彦氏の父)で製造して頂いた澱粉と市販のキザラ(砂糖)で練り上げた口当たりの良い「澱粉飴」、澱粉にお湯を注ぎながら練り上げたこざっばり味の「澱粉練り」、澱粉の塊を水に濡らして薪ストーブで焼いた淡白な味の「澱粉の薄皮焼き」、蒸かした馬鈴薯を擂り練った素朴な味の「芋餅」、米やトウモロコシのポップ(今風のポップコーンなど)など、素朴なものでありましたが食べられるようになりました。
また、家の中の明かりはランプが主体で、他にカーバイトに水滴を垂らして発生させたガス灯やローソクが長い間用いられ、電柱が立てられて電気が引かれるまで使用しておりました。
四 小学生時代の生活
昭和二十三年に上富良野小学校へ新入学した時には、親から買って貰った新品の学生服を着て、母に付き添われて担任の中尾栄子先生にお会いし、一番前の二人机に本間さんという泣き虫の女の子と同席しました。
我が家では、当時、配給札を貰って砂糖、塩、ゴム靴などを買い求めておりましたが、小学二年生頃に、大変に貴重な配給札で私の為に買ってくれた三馬印のゴム長靴を履いて行ったその日のうちに、学校の生徒玄関にある下駄箱で盗まれてしまいました。
この頃、学校では盗難が頻発しており、被害に遭うと戻って来ませんでしたので、私も、それなりに注意をして下駄箱の陰に置いたのですが、いとも簡単にその日のうちに盗まれてしまい、私は親に何と申し訳のないことをしたことかと本当に慙愧の念に耐えない思いをしたものです。
小学校では、毎年一回、海江田山など村内の色々な場所に遠足をしておりまして、今では楽しい思い出になっております。また、遊びも今とは凡そ異なるもので、皆で毎日のように陣取り合戦、跳び箱、ドッチボールなどを行ない、また、野球、スキー、バスケットなども徐々に行なうようになりましたし、当時、盛んになってきましたNHKラジオ体操にも、夏休みなどに参加しました。
私達の周りには、遊べる自然が沢山ありましたので、放課後には、隣近所に住む同級生の和田昭彦氏(現和田牧場主)、伊藤欣治氏達などと、和田氏の近くを流れるヌッカクシフラヌイ川などで泳いだり、私の実家近くにあった林に入って自生する自然の山ブドウ狩りしたり、グスベリ、山苺などを穫って食べたりして遊びました。
五年生(昭和二十七年)からは、特に担任の林利光先生指導による野球中心の生活になり、六年生の時にはピッチャー佐藤修氏(元町建設課長)、レフト杉本伊三雄氏(現杉本生花店主)、サード長谷部元雄(私)、植田耕一氏(現町助役)、平田善臣氏(前町議会議長)などのベストメンバーで小学校野球全町大会に優勝して、記念写真を撮ったことが今でも良き想い出となっています。
この当時、死亡率の高い国民病となっておりました伝染病の「結核」予防接種として、ツベルクリン注射が長年の間全員に行なわれておりました。また、四年生頃からでしょうか「虱(しらみ)」が横行してきましたので、一時期、数回全員の身体に白いDDTが降り掛けられました。
この頃になりますと、学校で脱脂粉乳ミルクの給食が行なわれるようになりましたし、有料で肝油も配られたりしました。
確かこの頃であったかと思いますが、学校資材等を購入する資金稼ぎのために全校生徒によるホップ摘みが盛んに行なわれるようになりました。
また、運動会には、仕事を休んで来てくれた両親達と運動場で一緒に稲荷寿司、巻寿司、卵焼などのご馳走を食べたり、アイスキャンデーを買って家族揃って食べた楽しい想い出があります。
上富良野村も昭和二十六年には町へと発展して、年々行商が盛んに来る様になり、我が家では、大所帯でしたのでニシン、サンマ、イカ、カレイなどを箱毎買っておりました。当時、海から遠い上富良野にどうして新鮮な魚を大量に運んでこられるのであろうかと私なりに不思議に思ったものです。魚は、刺身に出来るイカなど結構生きの良い魚が、リヤカーや自転車などに乗せられて我が家の前を行き来しておりました。母は、傍にいた私に刺身に出来るイカなどの見方を教えてくれたりしましたので、見よう見まねで自然と覚えて母と一緒に品定めをしたりしておりました。
五 中学生時代から高校生時代の生活
昭和二十九年に、上富良野中学校に入ってからは野球とバスケットを行なっていたのですが、昭和三十年(二年生)の夏の終わり頃、体育の時間に体育担当の遠藤博三先生(旭川市)から顔色が悪いので病院で診て貰うように言われて行ったところ、慢性腎炎と診断されました。直ちに、無塩の食事療法と安静のために数ヶ月長期休校し、その間、和田昭彦氏から数学のノートを借りたりしました。以来、通学が始まっても食事と安静療養や通院を続けながら、体育授業を見学し、修学旅行にも行けずに卒業しました。
なお、それが奇しくも、一昨年の平成十四年に古希を記念して行なわれた同期によるお座敷列車で、この時の修学旅行巡りの旅に参加をさせて頂くことが出来たことは、私にとって望外の喜びでありました。
昭和三十年九月には、国土防衛を任務とする防衛庁の陸上自衛隊が上富良野町に駐屯して、静かな町が騒がしくなるなど環境が大きく変化してきました。
そして、昭和三十二年に富良野高校に入学してからも、依然病状は回復せず食事と安静療養や通院が続きました。が、京都などの修学旅行の時だけは、中学校の修学旅行に行けなかったので死んでも良いからという私の我が儘を聞いて頂いて行かせ貰い、結局治癒することなく卒業しました。
この間、同居家族には、一日三食欠かさず私専用の無塩のオカズ・吸い物などを作って食べさせて頂いたことは勿論のこと、我が家の真向かいの自衛隊栄養士の山田幸子氏には、私や家族に食事療法をご指導して下さり、また、旭野中ノ沢に住む義理の叔母多田ツル氏(長姉・故君江の姑)には、作るのに手間暇の掛かる腎臓に良い西瓜糖を約五年もの長きにわたり作って届けて下さる等、大変多くの方々にお世話になりましたが期待に応えることが出来ず、成長盛りの約五年の歳月を闘病生活で過ごしてしまいました。
この頃になりますと、町民の物資や食料事情が急速に良くなってきた時期でもありました。
六 デイージー食品工業株式会社時代の生活
闘病生活を送っていた私は、進学どころではなく、止むを得ず無理を承知で実家から通える条件を受け入れて、昭和三十五年四月に富良野市のアスパラガス缶詰工場のデイージー食品工業株式会社で事務職の仕事を始めることになりました。
仕事を始めてからも私は、西瓜糖を欠かさず飲み続けておりましたところ、皆様のお陰をもちまして幸運にも三、四カ月後位の夏には慢性腎炎を治癒することが出来ました。
私は、こうして皆さんに助けられたことが、闘病というマイナス面だけではなしに、その後の私の実生活に役立ち、そして現在の健康体操などにも役立たせて頂いていますことに、深く感謝を申し上げている次第です。
デイージー食品工業株式会社は三井物産や大洋漁業などの出資会社で、当時、アスパラガスのホワイトを缶詰にして、主としてマルハ(「マルハ大洋」というブランドです。)で大阪など関西地区の料理屋向けに出荷をしておりました。なお、グリーンは、当時商品価値がないということで集荷されずに、生産者の各家庭で食用にされていました。
そのうち、私は士別市に転勤することになりましたことから、健康を心配した親の意向を受け入れて昭和三十七年三月に同社を退職する事にしました。
アスパラガスは、当時、営農の多角化の一環で進められておりまして、当時のアスパラガス耕作組合には、父など多くの組合員がおりました。
この時に、私はアスパラガスのことを少し学び知ることが出来たお陰で、その後の農業観や家庭菜園などに役立たせて頂いております。
七 防衛庁時代の生活
昭和三十七年四月に上富良野駐屯地業務隊に事務職(シビリアン)として勤務することとなり、両親の元から通勤が始まりました。なお、この時には、大先輩の杉本伯龍氏(札幌市)に大変お世話になりましたこと紙面をお借りしてお礼を申し上げます。
この年は、千歳駐屯地から部隊が異動するなど大きな部隊編成替えにより、同駐屯地が強化された時期でもありました。
業務隊在職中は、厚生科防衛庁共済組合の貯金経理・貸付経理・物資経理業務などを順次担当したり、管理料の輸送業務、総務科の人事業務を担当しました。
その間、十勝岳の新々噴火口の爆発、自衛隊の演習、各種行事など様々なことがらについて経験を積ませて頂き、また、シビリアンの大先輩高橋七郎氏(故人)、杉本伯龍氏(札幌市)、坂上源一氏(千葉県)、伊藤勝男氏(町在住)清野達氏(陸士四七期・故人)、大森明氏(町在住)、増谷伸也氏(札幌市)、松山芳雄氏(町在住)、山中勝氏(町在住)などの先輩諸氏や、同僚、後輩の五十嵐光男氏(千葉県)、山本弘樹氏(旭川市)などのほか、自衛官(ユニフォーム)の木村賢弥隊長(故人)、山下明隊長(故人)、鎌倉厚生科長・総務科長(町在住)、野口総務科長(故人)、氏家厚生科長(札幌市)、前川二尉(町在住)、山中准尉(札幌市)、秋野准尉(故人)など多くの方々に大変お世話になりましたこと、この紙面をお借りして厚く御礼を申し上げます。
この時の経験が、私のその後の仕事に大きく役立つことになりました。
昭和四十六年三月に、札幌市の北部方面総監部(防衛庁事務官)へ異動し、約十ケ月間人事業務を行ないました。引越しの時には、札幌駐屯地業務隊厚生科長に異動しておりました氏家味代冶氏(札幌市)には大変お世話になりましたこと厚くお礼を申し上げます。
八 公正取引委員会時代の生活
日本大学法学部専攻の関係で、私は、昭和四十七年一月に防衛庁から公正取引委員会に出向(行きっぱなし)し、札幌地方事務所(現北海道事務所)に勤務しました。
同事務所では、係長として着任早々から立入検査に同行したりしたものですから、親戚・知人等から私の姿が新聞に掲載されたとか、テレビに映し出されていたよという電話等が入るようになりました。
それを聞いて私は、これから仕事することを考えると顔が割れない方が良いのかなと考えて、以後なるべくカメラに入らないようにして仕事をしてきました。しかし、数十年後になって思い起こした時に、それ程気にすることはなかったと思っております。
昭和五十三年七月に、札幌地方事務所から東京都千代田区霞ヶ関の同委員会に転勤し、以後、途中、昭和五十九年から同六十二年まで仙台地方事務所(現東北事務所・宮城県仙台市)審査課長に異動した期間を除いて、平成十三年六月三十日に審査局第二審査・上席審査専門官を退官するまで、霞ケ関の同委員会で勤務をしました。
公正取引委員会で私は、行政官として、@我が国の経済憲法と言われる独占禁止法(カルテル・入札談合・不当廉売・優越的地位の濫用など)、A下請法(下請代金の支払遅延・長期支払サイトの手形払・下請代金の減額など)、B景品表示法(不当な表示・過大な景品付き販売など)など、我が国の競争政策の運用に携わってきました。
具体的には、事業者によるカルテルの防止、入札談合の防止、ヤミ再販売価格維持行為の防止、不当廉売の防止、優越的地位濫用の防止などのほか、下請取引の不適正な行為の防止、過大な景品付き販売の防止、不当な表示の防止を図るための業務であり、違反事件の立入検査及び証拠資料の収集、関係者の事情聴取、事業者に対する法的措置、審判における立証等を行ってきました。
例えば、上席審査専門官(管理職)では、事件審査の全責任を負って、事件毎にキャップ(課長補佐)、サブキャップ(課長補佐)などを指揮して事件解明に当たります。最初に、応援を受けてキャップや審査専門官などが全国の事業所を一斉立入検査して証拠資料を収集し、その後、関係者から事情聴取するなどして事実関係を解明し法的措置を採って行きます。これにより事業者の競争を促進させて地域経済を含めた日本経済の発展を図るのが仕事になります。
在職中には、我が故郷から公正取引委員会の職員になられる方が何時の日か来られることであろうと期待をしておりましたが、残念ながらその願いは叶えられませんでした。
なお、独占禁止法等は年々強化されて地域経済にも深く係わりを持つようになって来ましたので、上富良野町の事業者及び発注者の皆さんも、同法等を研鋳の上理解をして頂きますとともに、違反することのないように十分に留意して頂きたいと思います。
この点について、若し、必要があれば何時でも何処へでも飛んで行きますので、お声を掛けて頂ければ幸いに思います。
九 退官後の生活
退官後の現在は、東京都内において、全国団体である医療用医薬品卸売業公正取引協議会、社団法人日本人形協会、全国病院用食材卸売業協同組合の非常勤顧問として、独占禁止法(カルテル・入札談合・不当廉売・優越的地位の濫用など)、A下請法(下請代金の支払遅延・長期支払サイトの手形払・下請代金の減額など)、B景品表示法(不当な表示・過大な景品付き販売など)のほか、C入札談合等関与行為防止法(発注者による談合の明示的指示・受注者の意向表明・秘密情報の漏洩)などについて、意見交換や法律相談を受けたり、講演、執筆などを行っております。
また、さらに、「行政総合 はせべ事務所」の代表として行政書士業務ほかの行政コンサルタント業務も行っています。
この他に、後記で述べます健康増進体操「真向法(まっこうほう)」を、平成十一年から地元の柏市を中心に、私が開設した複数の教室とカルチャーセンター主催の複数講座で、家内と共に夫々地域住民に普及活動を行っています。
十 心の故郷
 1 遠きに在りて想う故郷
私は、正に、「故郷は遠きに在りて想うもの」であると実感しながら日々を過ごしています。
我が故郷といっても、私が思い出すのは、今日のように経済成長を遂げた締麗な故郷とは凡そ異なるもので、村・町民全てが等しく質素にしかも慎ましく送る生活でした。
今でも蘇るのは、小学校、中学校、そして高等学校からの帰り道に雄大で神秘的な感じさえ与えてくれる十勝岳連峰を仰ぎ見ながら、この大自然こそが我が町なのだと誇りに思いつつ家路に就いたことです。
こうして幼い時代に培った心は、その後の私の心に中に根付いて今日があることに、しばし驚きを感じますとともに、故郷というのは何と偉大なものなのであろうかと、日々深く感銘をしている次第です。
特に十勝岳連峰は、今でもテレビやカラオケボックスなどの映像で目にすることが多く誇りに思います。
 2 美しい丘の町
ただ、私は当時、丘陵地帯の美しさについては今日のように感じ取れる感性を持ち合わせていなかったためか、生活が優先されてユトリがなかったためか、それとも今日のような車社会とは違い行動範囲が狭かったためなのか、余り感じ取っていなかったように思います。これは、私一人だけのことではなしに、当時の時代が背景にあったのではないかと思います。
それが、近年では著しく脚光を浴びるようになって一段と磨きがかかり、映像などで誠に美しい風景を醸し出している姿を見ると、なんと美しく素晴らしい故郷なのであろうかと一人感嘆し賞賛しています。
 3 訪ね歩いた丘の町
実のところ、近年、私が目にする美しい丘の映像は一体何処にあるのであろうか、地元出身の私も是非一度見てみたいものであると想いながら、数年前から先祖のお墓へりの都度探し訪ねてみたのですが、短時間であったことと、目的地を私自身はっきりと認識していないこともあって、訪ね当てる事が出来ずに数年経過してしまいました。
そこで、昨年(平成十五年)九月に思い切って少し時間を取って泊りがけで探しましたところ、漸く数箇所に巡り会えることが出来ました。暫しの間、何と美しい風景なのであろうかと改めて感動し望外の喜びを味わせて頂きました。
こんなに素晴らしい景色と土地を故郷に持つ私は、何と幸せものであろうと。
この美しい風景を眺めながら、私はその土地の多くの方々に深く感謝をし、そして何時までも護り続けて欲しいものであると心の中で強く願うばかりでありました。
 4 我が家とその跡
我が家の母屋は、父金治が昭和八年上富良野村に転入して以来、昭和六十一年頃転出するまで使用し続けてきたもので、その位置は現在の新町四丁目四番「フロンティア・フラヌイ温泉」の西側駐車場当たりになります。
唯一面影を残しているのは、同温泉の玄関口西側(登山道路から見て左側)の「サイロ」でありまして、当時我が家で実際に使用していたものです。
登山道路沿いに並んで、「サイロ」の西側に牛舎、その西側に母屋、さらに西側の道路を隔てた所に私が結婚した当時の住まい(現在理髪店の地)がありました。
そして、我が家の玄関口から登山道路に出た真向かいには、昭和二十四年開設の上富良野農協家畜人工授精所(入口は現在尾岸孝雄町長宅)があり、大田所長と芳賀氏がおられました。その直ぐ右隣には、昭和二十九年頃に引っ越して来られた農林検査所検査員の山田氏宅がありました。
我が家の敷地五町歩は、市街化が進んだこともありまして昭和四十年頃からぽつぽつと宅地化が始まり、昭和五十年代前半になりますとかなり宅地として切り売りされて、我が家の近くにはこれまで見られなかった家屋が立ち並んで目立つようになってきました。
そして、昭和五十五・六年頃か或いは五十七・八年頃であったと思いますが、父母、兄弟姉妹による親族会議で父金治から次男忠雄に財産の一切が相続されました。この時点では、切り売りしたと言ってもまだ三分の二程度の土地が残っており、さらに以前に購入し耕作していた近くの山畑を四町歩半程持っておりました。
そうした中で、昭和五十九年頃でしょうか、次男忠雄一家が敷地内において温泉のボーリングを始めたという情報が私の耳に入りました。その頃、私は、霞ヶ関から仙台市に赴任したばかりのことであったと思います。
それから暫くして、私が仙台市在任中に、ボーリングが成功して温泉は出るには出たものの手形を騙し取られて資金繰りがつかなくなったという情報が入ってきました。そして、追っかけ昭和六十一年頃のことでしょうか、次男忠雄は破綻したという話が入ってきました。
当時、私は遠方にいたこともあって、実家に帰ることもなく過ごしておりましたので、その時の状況を知る由も無いのですが、後で聞くところによりますと、父金治、長女君江(故人)、叔母佐藤カネヨ氏(父金治の妹)や道内にいる三男秀雄、五男公雄、六男行雄達が、当初から繰り返し皆で人任せにしていた手形の問題点を指摘して改めるよう注意をし続けてきたようですが、聞く耳を持たず改善は見られなかったということでした。したがって、父、兄弟達も実情を全く知らされず立ち入ることの出来ない状況であったようです。
次男の兄忠雄には兄なりの言い分があったのであろうと思いながら、事情の知らない私が、数年後にどういう方々に迷惑を掛けたのか兄に直接問い質したことがありましたが、何も得ることは出来ませんでした。しかし、上富良野町長、役場、農協組合長・理事などの関係者や周りの多くの方々に多大なご迷惑を掛けたことは想像に難くありませんので、関係者の皆様にはこの紙面をお借りして心から深くお詫びを申し上げたいと思います。
兄忠雄には、皆さんに心からお詫びをして頂くとともに、父金治がこれまで長い間築いてきた長谷部家の名誉を汚してしまったことや、町内に住む長女(故人)、叔母など親戚の方々に肩身の狭い思いさせてしまったこと、そして、上富良野町で生まれ育った「故郷」に大きな汚点を残し、実家を失ってしまった親戚兄弟の心に深い痛みを与えてしまったことに責任を感じて欲しいと願っています。
父金治は、こうした事態になったことに慙愧の念ではち切れんばかりの苦しみを味わい、命を締めてしまったに相違ないと思うと、誠に可哀想でなりません。
このように想像だにしなかった事態を経験して、私は、頭では知りつつも、改めて人というものは夫々に器量というものがあるのだなと、しみじみと感じ入っている次第です。
十一 故郷と「東京かみふらの会」
上富良野町縁(ゆかり)の方で、夫々の事情により故郷上富良野村・町から離れて本州等に渡って来た方々の中には、帰郷出来る人達ばかりではなく里帰りをしたくても帰れずに、人一倍強く望郷の念を持たれている方々がおられるのを、忘れてはならないと思います。
東京地区では、こうした様々な心を持つ、北は宮城県から西は愛知県に在住する上富良野町縁の方々によりまして、「懐かしき我が故郷『かみふらの』の空気に触れ味わい、交流を図る」ことを目的に「東京かみふらの会」を不定期にこれまで五回開催しています。
当会は、生みの親であります大垣信雄氏(昭和八年度生)及び河村一郎氏(昭和十年度生)が、昭和五十六年及び昭和六十年に約三十数名で仲良しクラブ的な集いを行い、平成七年に年代層を広げて会員六十一名で第三回「関東地区かみふらの会」が行われました。
その後、世話人を私共が引き継ぎ、平成十三年に会員九十二名で「第四回東京かみふらの会」、平成十五年に同七十六名で第五回を開催し、現在に至っています。
場所は、毎回、東京都目黒区の「目黒雅叙園」で、時間は昼約四時間、町長及び町議会議長等(第四回・第五回は町観光協会の関係者、町在住者)のご臨席を賜り、町特産品等の販売等も行いました。
当会では、これまで何度となく代表世話人の若い年代への世代交代をお願いしてまいりましたが、先の世話人会議において、経済情勢が厳しくリストラなどが行われている最中での交代は困難との衆議により、残念ながら続投することが決まりました。そして、会長を長谷部元雄(昭和十六年度生)、副会長を岩井幹雄氏(同)とし、世話人を高田勉氏(昭和十二年度生)、新屋保一氏(同十五)、佐々木亮氏(同十六)、大森勲氏(同十七)、小島隆士氏(同十九)、杉本劭氏(同二十二)、徳永理恵子氏(同二十七)、水上秀一氏(同二十八)、森川真好氏(同三十一)の総勢十一名として、次回予定の平成十八年秋に向けて準備を進めることになりました。
また、同世話人会では、今後この会が途絶えることのないように会則、役員、ホームページ、会旗、名簿作成の世話人等の検討を進めることとなりましたので、今後も引き続き皆様のご支援とご協力を賜りますよう宜しくお願い致します。
皆様の中で、本州在住者の住所をお知りの方は、私共にご連絡を頂きますよう宜しくお願い致します。
なお、次回、平成十八年秋には、予め町民の皆様にもお知らせ申し上げたいと考えておりますので、その節は是非有志の方々のご参加を切にお願い致します。
十二 その他の故郷会
「東京かみふらの会」のほかに、東京周辺では次のように様々な形の故郷会が行なわれています。
@ 東京都を中心として北は青森県から西は九州に在住する東京地区上富良野中学校第十回卒業生同期会を不定期に開催しています。また、一部他の同期会も開催されています。
A 東京都を中心として北は東北から西は九州地区に在住する東京地区富良野高等学校第七回卒業生の同期会や級会を不定期に開催しています。また、一部他の同期会も開催されています。
B 昭和五十七年に関東地区に在住する富良野市、上富良野町、中富良野町、南富良野町、占冠村に縁のある方々で東京富良野会が発足し、以来、各市町村の首長、議会議長等のご臨席を賜りながら、毎年秋に開催されています。
十三 地域住民に対する健康体操の実践
私は、公正取引委員会の職場同好会「公取真向会(こうとりまっこうかい)」で、長年四つの簡単な健康増進体操「真向法(まっこうほう)」を実践し、老若男女の心の調和と元々身体に備わる自然な治癒力の活性化を図って健康作りをしてきました。
その最中の、平成十一年に「柏(かしわ)真向会」を開設して、地元の柏市等で三教室と、平成十五年からカルチャーセンターの二講座で、夫々地域住民に普及をさせて頂いています。
真向体操は、僅か四つの体操で、身体中の萎縮した筋肉を柔軟にし、骨の強化や内臓の働きを活発にするもので、腰痛・膝痛・疲労感を一掃し、足腰強化・自律神経の安定・頭寒足熱の効果があります。
上富良野町の老若男女の皆様にも、病気予防や生活習慣病等の回復を目的として、是非、健康で自立した生活が送れますよう真向体操の体験をして頂ければと願っております。何時でも参上致しますので、お声を掛けて頂ければ幸いに思います。
なお、「真向法」は、昭和四十四年に文部省(現文部科学省)から認可を受けた公益法人「社団法人真向法協会」が主宰するもので、ホームページアドレス「makkoho.or.jp」の「真向法」で詳しく述べております。
また、その中の「全国支部」の中に、私が開設する「柏真向会」の概要を紹介させて頂いておりますので、ご高覧頂ければ幸甚に存じます。
十四 故郷に期待するもの
上富良野町は、役場、町民の皆様のご努力によりまして、今日大きく発展を遂げて、綺麗な町に変貌致しましたこと、心から敬意を表したいと思います。
故郷のこれからさらなる発展に欠かす事の出来ない大きな要素として、@役場の活性化、A地元産業の活性化、B観光資源の活用などが挙げられます。
このうち、既に実践されているものも多いと思いますが、私なりに日頃感じていることを少し述べさせて頂きます。
1 役場の活性化
 (1) 役場も経営に徹すること
   ア 役場は経営が基本
役場は、経営に徹し、独立採算により運営されるのが基本になります。
これが実行されますと、地方自治の確立が図られることになります。
したがって、役場の事業は、補助金等に頼らずに、健全財政を維持して全て独自の収入で賄うようにすることです。
こうした経営感覚のある役場は、財政が健全化され、事業が活性化されてきます。かたや、旧態依然とした体質では、赤字財政となって財政破綻を招き、行き着くところは他の自治体と併合せざるを得なくなります。
   イ 役場の財政資金と地元産業の事業収入
役場の「事業」、即ち「仕事」は、町民に対する「行政サービス」ですが、それも財政あっての物種であり、資金なくして今や役場は独立して存続することは出来ません。
財政資金は、基本的に町税等の収入で賄われるべきもので、黙っていて貰えるものは別として、求めてまで中央省庁からの補助金等で賄われるべきものではありません。
こうした町税等は、地元の農業、林業、酪農、畜産業、製造業、加工業、商業、工業、医療産業、観光業、環境衛生業、不動産業、ホテル・旅館業、運輸業、飲食業、風俗産業、サービス業など多くの業種にまたがる事業収入等に課税されて、始めて収入に結び付くのであり、この税収を増やすためには、どうしてもこの事業収入等を上げるための努力をして貰う必要があります。
この事業収入等を上げて貰うためには、基本的に当該事業者に委ねることに議論の余地はないのですが、個々の事業者で対応していたのでは大きな力には成り得ず、勢い、力のある町外の資本事業者に駆逐されてしまうのは火をみるより明らかです。
そこで、地元産業に大きな力を持たせるためには、どうしても役場の力が必要になります。
   ウ 役場の事業活動支援の重要性
役場は、町民から納めて頂いた税金を一部使用して、地元産業の更なる事業収入を増やすための事業活動支援を弛まず続けることが必要です。
そのために、役場の事業コストを大きく引き下げる努力も必要です。
そして、町税等の収入を増やすために、役場は地元産業の売上を図るための施策を立てて実行することが必要になります。
聖域といわれる福祉については、金があっての物種で、無い袖は振れないのであり、若い納税者が重税で倒れてしまっては元も子もなくなりますので、資金が無い時は辛抱も必要です。
したがって、役場の事業活動には、役場も民間もなく全員参加なのです。
 (2) 公僕の基本的な考え方
   ア 役場は町全体の公僕
役場は、町全体の公僕として地元産業の発展に責献する責務があり、それをミクロで見ますと個々の営農者、営酪者、加工業者、商業者、工業者、サービス業者、観光業者などの利益になることに貢献することです。
それによって、各業態毎の利益が図られるのであり、それにより町全体の独自色が出て地元産業の発展に責献することになります。
役場が、こうした大きな役割を担うことが、正に公僕たる仕事になります。
   イ 発想の転換を図る
尾岸町長が事ある毎に発想の転換を提唱されてきているように、これからの役場は、公的な立場にある者は私企業の営利事業の分野には立入らない、企業活動に役場は入らないなどというお役所的な考え方を捨てて、営利事業分野や企業活動に踏み込んで、町全体の地元産業が自立と発展の血肉となるように生き残るための仕事を行うことが必要です。
これまでのような考え方では、町外資本の力に蹂躙されて、主要な地元産業が消滅していく憂き目をみるのは明らかで、到底許されるべきことではないと思います。
 (3) 産官民学一体の精神
役場が、地元産業の発展のために行なう強力な支援策の一つに、産官民学一体があります。
地元産業が個々では力が出ず、産官民学一体でないと今日の難局は乗り越えられません。したがって、これからは役場全体がこうした精神を養いながら対応する必要があります。
地元産業の発展のためには、町は何をなすべきかを産官民学が一体となって考えて、自ら行動に移す必要があります。そのためには、役場が、研修、研究、開発、商品化、広告宣伝、セールス等を総合的に実行することで、中でも広告宣伝、セールス等に力点を置くと良いと思います。これらのことは、既に一部実施されてきていると思いますが、より深めて行く必要があります。
 (4) 役場が事業化を図る
役場は、一企業を含めた地元産業の利益と発展のために、必要な事業活動(町政)を行って、地元産業の事業所得の向上を図り、また、それにより町民の所得水準を向上させて、自然と町の税収等の増加を図ることです。
こうして増大した町税等を使用して、役場は、町政に当てたり、更なる新規事業の仕事を行うなどして、地元産業の利益を益々増大させながら町税等を増やし続けて行きます。そうした役場の事業化により、
  @ 地元業者の事業収入の増大が図られること
  A 地元産業の発展が図られること
  B 町の税収入の増大が図られること
  C 更なる役場の新規事業活動が行なえるようになること
など、これらを循環して繰り返すことによって、地元産業は発展し続け、自立した活力のある地方自治体が生まれ育ちます。
これが正に町民のための公僕であり、又、新しい地方自治体の姿になります。
今、正に眼を見開く時で、役場の維新です。
こうして、役場や町民が、地元産業と一体にあることを認識して、新しい役場のあり方を構築するとともに、同時に地元業者の経営者の意識改革を断行することが肝要であると思います。
 (5) 人材の活用
これまで、一部、実施されてきているようですが、金をかけず次のように町内外の力を無償に近いもので活用します。
  @ 町内で活躍している若年者層、町民の力又は知恵等を活用
  A 町内で活躍している町外資本関係者の知恵等を活用
  B 町外の各界で活躍中又は活躍していた方々の力又は知恵等を活用
  C その道の達人等の力を活用
役場が、地元産業の発展のために、人材を活用しながら、各種・各方面に亘りイニシアチブを取ります。
具体的には、例えば、PR、準備、お膳立てなどで、地元産業と共に行動します。
 (6) 過疎化の防止
以上のように、役場は、老人の町とならないように活力ある町造りをする責務があります。そのことにより、町は若者に魅力あるものとなり過疎化の防止につながります。
2 地元産業の活性化
地元産業を活性化させるためには、@地元産業による努力と研鋳が必要であること、Aこれに役場が強力に支援することです。
 (1) 地元産業の努力と研鑚
地元の一次産業、二次産業、三次産業などは、自らの努力と研鋳が必要であり、それが活力に繋がります。
そのためには、人真似ではなく、講演、講座、研修会、研究会、委員会、懇談会、意見交換会、フリーデスカッション、レポート発表など、あらゆる勉強の機会を設けて、独自に研究することです。
農業、林業、農産物製品加工業、酪農業、酪農製品加工業、商業・工業・サービス業、観光産業などの個別事業者・グループ・業態ごと、又は、異業種間、若しくは産官民学合同で絶えず研鑚・研究を重ねて、具体的に実現を図っていくと良いでしょう。
そのためには、町内は勿論のこと町外者の意見も良く聞く機会を設けることが必要です。
これには、@一企業で、A一業態で、又は、B異業種など総合的な力で夫々実施していく方法を採ります。
 (2) 役場の強力的な支援
役場が、地元産業の発展のために、研修、研究、開発、商品化、広告宣伝、セールス等を積極的に支援したり、実践することが必要です。
これは、産官民学一体の精神です。
産官民学一体でやることにより、力を発揮することが出来て今日の難局を乗り越えることが出来ると思いますので、役場全体がこうした精神を養う必要があります。
地元産業の利益のためには、町は何をなすべきかを産官民学が一体となって考えて、町民に見える形で自ら行動に移すことです。そのためには、役場が研修、研究、開発、商品化、広告宣伝、セールス等に参画し実行することです。
3 観光資源の活用
上富良野町には、豊富にある観光資源の活用があります。
そのためには、観光資源の集約、観光PR、観光業者・旅行業者との密接な連携・提携、観光客の受け入れ態勢の整備などを整えることが必要です。
例えば、観光資源の集約についてみますと、次のように限りなくある上富良野町の観光資源の一つ一つに力はなくとも、これを集めて総合的に取り扱うことで大きな力に生まれ変わります。
地元の農業、林産業、酪農、畜産業、製造業、加工業、商業、工業、医療産業、観光業、環境衛生業、不動産業、ホテル・旅館業、運輸業、飲食業、風俗産業、サービス業などをふんだんに活用します。
具体的には、土の館、開拓記念館、ラベンダー、フラワーランド、飲食店等、ホテル・旅館・民宿・山小屋・ロッジ・オートキャンプ場・宿泊所・温泉宿・露天風呂・温泉ランド、十勝岳の散策路(ハイキング)、農産物、林産物、酪農製品、畜産物、加工食品、温泉地、噴火口、演習場、スキー場など挙げればきりがありません。
このようにして、上富良野町が持っているありとあらゆる資源を活用して総合的なものにして打ち出しますと、大きな力となります。
そして、見易い案内版等の設置・入手し易い総合観光案内マップ図・入手し易い案内パンフレット等・利用し易い道路の整備・自動車の出入りし易い十分な駐車場・綺麗で利用し易い十分なトイレ・買い物し易い観光土産品等の店舗・十分な自動販売機・利用し易く美味しい食堂・利用し易い休憩場・サービスの行き届いたインフォーメーションセンター・周辺設備の整備・十分なセキュリティ、入手し易い他の観光他の総合案内図など、総合的な施策を講じます。
こうしたことについて、イニシャチブを取ることが出来るのは、後にも先にも役場です。
この場合に大切なことは、他の事業者の経営を圧迫するなどという考え方は、捨てることです。
また、町内外にモニターを置いて意見を聞くなどの工夫も大切な仕事の一つになります。
終わりに
今後は、地方自治体の合併問題が益々強化されつつありますので、最も良い方法で上富良野町の今後の行く末を皆さんで切り開いて頂くように願っております。
最後に本誌の趣旨を十分に理解せずに、長文かつ駄文を書かせて頂きましたことをお許し下さい。
町民の皆様には、上京の折に是非ご一報頂ければ幸いに思います。
それでは、町民の皆様の今後益々のご発展とご多幸を心からご祈念申し上げます。

長谷部元雄氏のプロフィール
・昭和17年2月5日 上富良野町東2線北訪号で出生
【学歴】
・昭和35年3月  富良野高等学校卒業
・昭和44年3月 産能短期大学卒業(前産業能率短期大学)
・昭和47年3月 日本大学法学部卒業
【職歴等】
・昭和35年4月 デイージー食品工業株式会社(富良野市)に入社
・昭和37年4月 陸上自衛隊上富良野駐屯地業務隊に勤務
・昭和46年3月 北部方面総監部(札幌市)に異動
・昭和47年1月 公正取引委員会事務局に入局(出向)札幌地方事務所(札幌市)経済取引係長など歴任
・昭和53年7月 事務局(東京都)に異動。審査局審査長補佐、特別審査専門官上席審査専門官など歴任
・平成13年6月 退官
・平成13年7月 医療用医薬品卸売業公正取引協議会顧問、現在に至る
・平成13年7月
  〜15年6月
医療用具業公正取引協議会顧問
・平成14年5月 行政書士取得
・平成14年5月 行政総合はせべ事務所代表
・平成14年6月 柏商工会議所会員
・平成14年11月 全国病院用食材卸売業協同組合顧問、現在に至る
・平成15年7月 社団法人日本人形協会顧問、現在に至る
【ふるさと会】
・平成12年5月  「東京かみふらの会」代表世話人
・平成15年5月 「東京かみふらの会」会長、現在に至る
【健康増進体操】
・平成11年5月  社団法人真向法協会 教士允許
・平成11年5月 柏真向会代表。現在、3教室開設及びカルチャーセンター2講座に出講

機関誌  郷土をさぐる(第21号)
2004年3月31日印刷   2004年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔