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各地で活躍している郷土の人達
上富良野と私 「木の実豊かな故郷」
札幌市 泉川 陸雄
昭和十九年四月七日生(六十歳)
私が家族と一緒に上富良野から旭川に移転したのは、小学校五年生の時であるから、十一歳まで上富良野で過ごした事になる。
間もなく六十歳になろうとしている私の人生の中で、上富良野での生活は時間的にわずかであるが、故郷での子供時代の思い出は、強烈に私の心に焼きついている。
私が生まれたのは、昭和十九年であり、物心がついた時は戦争が終わったばかりの頃であった。もちろん敗戦という事もあり、物資は乏しく、食料も不足していた。今はもう死語になってしまったが、当時「代用食」という言葉があった。文字通り主食の米の代わりに、とうきび・かぼちゃ・いもなどが食卓に出された。我が家でもそれほど多くはなかったが、食べていた記憶がある。ただ、とうきびは母の好物であったのか、おやつ代わりにもよく出された。
子供の頃に飽きるほど食べさせられたので、大人になってからしばらくは食べる気がしなかった。
結婚してからは、妻がとうきびが好きでよく買ってきてゆでてうまそうに食べている。「おいしいから食べたら」と勧められるが、「昔、代用食でよく食べたから食う気がしない」と言って口にしなかった。
妻がとうきびを買ってくる度にこの話をして妻を苦笑させる。
しかし、不思議なものであれほど食べる気がしなかったとうきびも、年齢を重ねてくると食べられるようになった。というより食べたくなった。口にしてみると懐かしさが込み上げてくる。味は当時のものと違う。シャキシャキとして歯ざわりが良い。品種が違うようだ。当時のままのとうきびを食べてみたいと思うが、今はなかなか無いらしい。
私の上富良野での十一年間の子供時代の思い出は、このとうきびに限らず、食べ物と密接にかかわっている。食料が不足気味の時代であったから、なお鮮明に憶えているのであろうか。
終戦後とはいえ上富良野は農村であったから、都市部に住んでいる人々よりは、食料に因っていなかったと思う。それでも後になって母から「よく買い出しに行ったものだ」という話をきいた。農村部に住んでいても農家でない人々にとっては、食料の確保が頭の痛い事であったのであろう。代用食があったとしても食べられるだけ幸せであったのかも知れない。
こんな時代であっても、子供時代の私は腹を空かせて育ったという記憶ははとんどない。むしろ、子供の頃はいろんなものをよく食べていたという記憶がある。
上富良野には自然の恵みがたくさんあり、特に木の実が豊富である。思い出すだけでも、グーズベリー・カリンズ・李(すもも)・はたんきょう・姫りんご・ぐみ・山ぶどう・こくわ・それに我が家の裏には栗や杏子(あんず)の木があり、オンコの実もあっした。熟するのが待ちきれずに、青いうちからよく口にした。グーズベリーや李・杏子などはもちろん固くて酸っぱいが、それをガリガリ噛んで食べるのだがうまかった。熱したものはそれぞれ独特の甘さがあって、これはすごくうまかった。
このような木の実が当時の上富良野には、畑の隅や道端、家々の庭などあちこちにいっぱい見受けられた。よその家のぐみやグーズベリーを黙って失敬しても怒られた記憶がない。熟する前のあの酸っぱい味を知っているのは私と同年代の人たちだけであろう。今の子供たちはほとんど口にしない。この体験からか今でも、妻がりんごやみかん、プルーンなどを買ってくると、酸っぱいものがないか聞くぐらいである。妻や子どもたちは酸っぱいものを嫌がるが、私は大歓迎である。特に固くて酸っぱいプルーンは昔の李や杏子の感触があって、懐かしい昔の味が楽しめる。
兄たちとよく山に採りに行った山ぶどうの味も忘れられない。上富良野と中富良野を結ぶ鉄道の線路沿いに千本松というのがあった。今思えば防風林か防雪林であったのであろう。この林の中にも山ぶどうがあったが、舌がそれこそぶどう色に染まり、ヒリヒリと痛くなるほど食べた。あの山ぶどうの酸っぱさは尋常ではなかった。
舌が染まるといえば、もう一つ忘れられないものに、桜の実がある。桜の花が咲いて、やがて花が散ると青い小さな粒が顔を出し、これが赤くなり熟するとこれを食べるのである。舌が紫色というより真っ黒になり、指まで黒く染まったものである。
現在私は、札幌の円山公園の近くに住んでいるが、円山公園は花の名所で、春には大勢の花見客で賑わう。この公園を散歩している時、桜の木にこの黒い実がたくさんなっているのを見つけた。辺り一面に黒い実が落ちている。懐かしさのあまり一粒手にとって食べてみたが苦い。こんな味だったろうか。もっと甘かった気もするが、子どもの頃はこれもうまかったのかと、しばらく鈴なりの実を見上げていた事がある。
ぐみの実もよく口にしたが、今ではあまり見かけない。ほとんど忘れかけていたが、札幌の藻岩山にハイキングがてら子供たちと登山をしたときに、頂上付近でぐみを見つけた。粒の大きいぐみで少し赤みがさしていた。思いがけない所でこういうものを見つけると懐かしさでいっぱいになる。出張などで地方に行ったときなどに、たまに目にすることがあるが、札幌にもあったのかとうれしくなった。
私の子ども時代は、このように遊びの中に食べものがたくさんあった。食べものというより、食べられるものといった方がよいのかも知れない。考えてみれば、これらを食べられるのは夏から秋にかけての限られた時季で一年中口にできたわけではないのであるが、記憶の中ではいつもこの木の実に囲まれて遊んでいたように感じられるのだ。
私が上富良野を思うとき、奇妙なことに子どもの頃に食べた木の実が特に記憶に蘇ってくるのである。
遊びの中ではよく魚釣りもし、網で魚を掬ったりもした。ふな・鯉・にじます・どじょうなど結構種類は多かった。どじょうといえば、一度全身が緋色のものを捕まえたことがある。珍しいのでしばらく飼っていたが、先日テレビで緋色のどじょうが見つかったと放映されていたが、それと全く同じ色のものであった。墓地のもっと奥の方に川があって、そこで捕まえたものであるが、あれはやはり相当珍しいものであったのだと、ひとり感慨にふけった。
このように捕った魚は鑑賞用として水槽で飼うことぐらいしか考えなかった。川魚を食べるという考えがそもそもなかった。どじょうも内地どじょうとそうでないものがあって、内地どじょうは食べられると聞いたのはずっと後になってからである。
子ども心に一度びっくりするようなことがあった。
私の家の前に登記所があり、転勤があって住人が時々変わった。ある時期、この登記所の子供と友だちになり、その子とざりがにを捕ってきたが、その子がざりがにを持って帰ると、その登記所の若い職員が七輪で焼いて食べたというのである。こんがりと焼けておいしかったというが、ざりがにでも食べられるのかとこの時初めて知った。
こんな話を聞いた後も、ざりがにを食べようとする気はなかったから、当時の上富良野の子どもたちは、いってみれば遊びの中では菜食主義であったのかも知れない。他の子どもたちは食べていたのかも知れないが、少なくとも近所の子が食べているところは見たことがない。子ども時代の上富良野は自然の恵みがいっぱいの地であった。
この様に原稿を書いていると更に上富良野の子ども時代がよみがえってくる。先日テレビニュースで中富良野のビールに使われるホップが映し出されていたが、これを見て当時上富良野にもホップがあったことを思い出した。そしてホップ摘みのアルバイトに行ったことを思いだした。軽作業であったから、大人から子どもたちまで大勢来ており、小さかった私も、兄や姉と一緒にホップ摘みに行った。場所はどこであったか思い出せないが、柔らかいホップの実(花かも知れない)を摘んで、竹で編んだ大きな寵に入れていくのである。籠がいっぱいになると係の人の所に持って行き、摘んだ分量に応じてお金をもらった。どれ程の金額であったかは憶えていないが、子どものアルバイトとしては結構な収入だったように思う。
アルバイトといえば、もう一つ思い出がある。我が家の裏に大きな杏子(あんず)の木があった。毎年たくさんの実をつけた。例によってまだ熟さないうちからよく食べた。お盆の頃であった。当時お盆には、提灯を下げて、「ろうそく出せー、出せよー」と声をかけながら近所を回り、ろうそくをもらって歩く習慣があった。この提灯を買うにはお金がいる。そこで姉と私は考えた。以前近所のおじさんに、家に杏子の木があるという話をしたとき、「持ってきたら買ってやる」と言っていた事を思い出し、杏子を売ろうということになった。杏子の実を籠に入れて近所に売って歩いた。意外と好評で、あっという間に売り切れた。その日母は留守であったが、帰ってきた母に二人は大目玉を食う羽目になった。今は懐かしい思い出である。
上富良野の十一年間は、こんな具合に、本当に自然の中で遊び、育ったという実感がある。旭川に転居してからはこのような思い出はあまりない。上富良野時代は、遊びの中で自然のすばらしさ、ありがたさを知らず知らずに体感出来たが、私にとっての「子ども時代」はイコール「上富良野」なのである。
上富良野を離れてから五十年になろうとしているが、今も年に一度母たちと墓参で故郷を訪れている。
今でこそ墓地まで車であっという間の距離であるが、当時はもちろん歩いて行った。木造の涙橋(現上富良野橋)を渡って砂利道を歩いて行くのだが、子どもの足だったからであろうか、墓地はかなり遠いという感じであり、今歩くとこんなに近かったのかと驚くほどである。
子どもの頃の墓参りはいつも暑い日であった。墓参りから帰るときまって母にアイスキャンディを買ってもらった。冷たくて甘いアイスキャンディは格別うまかった。
毎年、子供の頃と同じように、小高い丘の上にある墓地から、故郷の景色を眺めるのが墓参の一つのたのしみになっている。いつも昔と同じように十勝岳がその勇姿を見せている。
新しいバイパスを車がひっきりなしに走っている。
家並みもきれいで、昔よりずっと明るくきれいになった。
全国的にも有名な名所となり、故郷が発展していくことは、私にとっても大変うれしいことであり、もっともっと発展してほしいと願っている。
そう思う反面、ふと思うことがある。子供の頃のあの自然の恵みは、今もあるのだろうか。現在の子供たちも、私の子供時代と同じように豊かな自然の中で自由に遊んでいるのだろうか。もしそうならうれしい。いつまでも昔と変わらず、自然溢れる故郷上富良野であってほしい。
故郷を想う気持ちは複雑なものである。
泉川睦雄氏の略歴
・昭和十九年四月七日 |
上富良野町にて生れる |
・昭和三八年三月 |
旭川西高等学校卒業 |
・昭和四三年三月 |
北海道大学法学部卒業 |
・昭和四三年四月 |
北海道職員採用(根室支庁勤務) |
・平成八年四月 |
総務部人事課長 |
・平成十一年五月 |
保健福祉部次長 |
・平成十二年四月 |
渡島支庁長 |
・平成十四年四月 |
人事委員会事務局長 |
・平成十五年五月 |
総務部参与(退職) |
・平成十五年五月 |
北海道人事委員会委員(常勤) |
・平成十五年五月十九日 |
北海道人事委員長 |
機関誌 郷土をさぐる(第21号)
2004年3月31日印刷 2004年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔