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『郷土をさぐる』第二十一号発刊に寄せて

郷土をさぐる会会長 菅野  稔

明治、大正、昭和、そして平成へと百有余年に亘る歴史を重ねながら、豊かで平和な郷土かみふらのが築きあげられて参りました。
想うに、未踏の大地に夢を托して汗を流した明治の世代に始り、開拓に成果があがり農業経営も漸く軌道にのりつつあった大正末期の十勝岳爆発による大惨事、その復興にかけた昭和初期、そして長期に及んだ戦中戦後の苦難な時代を経験された方もその数を減らしつつある今日、あの忌まわしい戦争体験さえも平和のかげに風化されようとしており、過去の歴史をさぐる道はますます遠のいております。
「郷土をさぐる誌」の発行は実にその所以でもあります。「郷土をさぐる」会の創立は昭和五十五年でありますが動機はその以前からありました。発刊当初からの功労者であります故加藤 清氏が本誌十号記念号に(機関誌「郷土をさぐる」発行の思い出)と題しての寄稿文の中に次の様に記しております。
……昭和五十三年の春、私は和田町長に呼ばれ「郷土館が近く開館するので専門指導員として仕事をして貰いたい」とのことで未経験の私でありましたがお受けした次第です。仕事は開設する郷土館の準備と開館の運営管理をお手伝いする業務でしたが、翌五十四年春頃、平塚 武教育長から「郷土館の陳列、整理等も一段落したので古老の声の収録に取り掛ってほしい」と指示され、私はこの仕事に興味を持っていたので「公用車を必要なとき使用できることを条件でお受けしました」……と記述されています。
当時、上富良野町社会教育主事でありました村端外利氏と、この事業に深い理解を持っておられた岩田賀平氏(車まで出していただく)と共に取材し、資料の収集につとめたのでした。またこの仕事をすることにより一般の方とお話をする機会も多くなり、有志の方々から「古老の方々との話し合う組織を作ろう」との意見が盛り上がり、昭和五十五年「郷土をさぐる」会が発足することとなります。この年の一年前の昭和五十四年に、昭和十二年生れの丑年会(会長平山 寛前町立病院院長)の皆さんが四十二歳の厄祓いに何をしようか、との話題の中で「神社への寄進もよいが、かみふらのの町に遺る役立つ何かをしてみよう」と言うことから纏まったのが「かみふらの百話」をつくろうと言う事でした。古老の方々の体験談を苦労しながら収録され、三〇〇ページに余る冊子「かみふ物語」が昭和五十四年十二月に発行され、読む人々に大きな感動を与えました。初代会長金子全一氏が第一号発刊のことばの中に「先に厄年会の人達が『かみふ物語』を刊行してよろこばれたこともあり」とありますが会の発足に一つの参考になったのではないかと思われます。現在「郷土をさぐる」の編集委員十七名と共に活躍している、中村有秀(幹事長)野尻巳知雄(編集委員長)両氏は共に丑年会の会員であり「郷土をさぐる」第一号発刊当初からの編集委員でもあります。本誌十五号は上富良野町開基百年記念事業として、「かみふらの事始め物語」とふるさと上富良野昭和十一年頃の街並みと地区の家々」を発刊しましたが、他方女性の方々の発想により「かみふらの女性史を作る会(会長倉本千代子)が結成され、明治、大正、昭和に亘る激動の時代を男性に伍して働き、家を守り、たくさんの子供を生み育て、その時々の苦労に堪えて懸命に生きて来た女性達の姿がそこに記されております。四〇〇ページ近くに及ぶ語録は読む人々に大きな感銘を与える事となりました。会長、倉本千代子氏・会員の羽賀美代子氏は共に「郷土をさぐる」編集委員として活躍されております。想いを同じくする多くの同志に支えられ、今日の郷土誌がある事を思うとき感無量の念を禁じ得ません。此の度「郷土をさぐる」第二十一号発刊の運びとなりました。これも四半世紀に及ぶ長い期間終始変らぬご愛顧をいただきました皆様のご支援の賜ものと心から感謝申し上げると共に、更なるご受読下さいます様お願いいたします。何もわからぬままに大任を引受けた私でしたが、会員の皆様のあたたかい御支援の下に何とか務めさせていただきました。お陰様でたくさんの人とのふれ合い、新しい発見等いろいろな体験をさせていただきましたが、楽しい思い出ばかりです。特に編集委員の皆様は大変ご苦労される仕事なのに、心を一つにして活躍される姿には心から敬服いたします。今後一層内容も充実し立派な郷土誌が継続される事を信じて止みません。私もやがて八十路に達する年齢ともなりました。長い間ご指導下さいました諸兄に重ねてお礼申し上げ、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

機関誌  郷土をさぐる(第21号) 
2004年3月31日印刷   2004年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔