郷土をさぐる会トップページ     第20号目次

離れがたき我がふるさと
「父吉田貞次郎の思い出」

清野 てい 大正八年一月十一日生(八十四歳)

上富良野への移住

私の祖父母(貞吉四十八歳、トキ)が家族九人と共に、親戚の田村栄蔵さんに誘われて上富良野へ移住したのは、三重団体が入植した三年後の明治三十三年四月七日で、三重県伊勢國川藝郡一身田村犬字一身田字西之町四十七番地から、加藤さんと言う人が入植された所を譲り受け、移住しました。農業について何も経験が無かったことから、隣に住んでいた吉沢さんに教わって農家仕事を覚えたそうです。
家の周りは[うっそう―鬱蒼]とした原生林に囲まれていて、その木を切り倒して耕作地を作ることから始め、祖父貞吉と父貞次郎は相当苦労したようです。
「註」 一緒に入植した家族は、長男貞次郎十六歳(後に村長・衆議院議員になる)、次男吉之輔十五歳(商業を営み紋別へ転出)、長女やお(高田多三郎と婚姻)、次女よし(畑中)、三男修三郎(三重県庁勤務)、三女しづ(田中)、四男喜八郎(陸軍中将)の七人である。
父の思い出
父貞次郎は、真宗高田派の本山の寺侍をしていた祖先から数えて十二代目で、両親とともに移住してきた時は十六歳でした。父は私が生れた年の大正八年に一級町村制の初代公選村長として選ばれ、私が十六歳になった昭和十年、四期をつとめて退職しました。父は何事も凡帳面に手帳に記録している人で、昭和十八年衆議院議員のときに満州視察に上富良野を出発しましたが、今も手元にその時の旅行中の出来事を記した記録があります。
村の仕事の事は帰宅しても一切話しませんでしたが、十勝岳災害のとき復興が決まってからは、『復興事業が失敗しないだろうか、失敗したら復興に立ち向かった人々の苦労が無に帰するばかりでなく、復興資金を貸し付けてくれた国や道庁の人々が、責任をとって退職に追い込まれるような事にならないだろうか』と、それだけが心配だったと後になって述懐していました。
父は家では大変寡黙な人で、晩年は何時も机に向かって新聞を読んだり、手紙の返事を書いたりしていました。子ども達にも大きな声を出す事もなく、妹達や私も父に叱られた記憶がありません。無言の中に教えを受けたことになります。
十勝岳噴火
私は大正八年一月十一日、父貞次郎、母アサノの次女として現在の地で生れました。十勝岳が爆発噴火したときは数え年八歳、小学校二年生でした。五百メートルほど離れた上富良野尋常小学校(元草分小学校の前身)に通っていました。
先日西小学校の四年生に噴火の体験を話してほしいと頼まれ、堅固な合掌つくりで爆発の泥流にも流されなかった私の家を、解体復元して作られた開拓記念館で、お話をする機会がありました。みんな熱心に聞いてくれて大層嬉しく思いました。
その頃、運動会は六月十日と決まっていて、いつもは運動会の練習をしていたのですが、その日はから雨が降っていたので、午前中で帰宅いたしました。家に帰ると、新築中の家の壁を塗りに来ていた藤森左官屋さんご夫婦と職人さんが、雨がひどいので仕事を早めに切り上げて、祖母と母親と世間話をしていました。
そのとき、雨とは違う異様な音がしたので、母が様子を見に外へ出たところ、線路の向こう側で西二線の若林さん、分部さんの家が浮かんで流されており、それを見た母の『大変だ!』という大声で、みんなが窓から外を見ました。とっさに、祖母が『逃げよう!』と言い、下方の山に向かって逃げました。
押し寄せる泥流の中で
代掻きが終わったばかりの水田の中を素足で、私は藤森さんに背負われ、母に背負われた妹と祖母、兄とともに西の山を目指してみんなで逃げました。
近所の高橋さんの家が線路の上で激流とともにグシャッと横倒しになり、バラバラに壊れたのを見た私は早く早くと背中で暴れた為、藤森さんは足を泥にとられて倒れ、その後何回も倒れましたが、その度に私を背負いなおして逃げてくれました。田圃の中を走れない祖母は畦道を走って逃げている最中、山にぶつかって流れを変えた泥流が押し寄せてきて流されてしまいました。祖母は最後に母に向かって『覚悟せー』と絶叫したそうで、それが気丈な祖母の最後でした。
今の伊藤さん(当時三百メートル位後方で米村さん付近)の防風林のポプラの木までたどりつき、必死で木にしがみついたと同時に泥流が押し寄せてきて、流木に周りを取り囲まれてしまいました。しばらくして流れが止まってから、周りに折り重なった流木を伝って米村さんの家に入りました。家の人はすでに逃げたあとで、膝のあたりまで水に浸かって畳が浮いていましたが、その晩は米村さんの家で何とか一夜を過ごしました。母は『おばあさんが死んで嫁の私が生きて居られない、私も死ぬ!』と言って聞かなかったと言います。そんな母を藤森さんが一生懸命なだめてくださったそうです。本当に藤森さんがいなかったら、私ども一家はみんな死んでいたと思います。その後もときどき、泥にまみれながら最後まで私を背負って下さったことを思い出す度に、今でも涙が出て来ます。(災害記録写真の中にある、泥の中から自転車を引き出そうとしている人が藤森さんです。)
災害から一夜明けて
翌朝、線路の上は救援の人たちでいっぱいでした。当時線路は水田よりも一メートル五十以上も高かったので、堤防の役目をして西側の私の家は流失を免れたのでした。レールが流失した線路上をやっと歩いてきた捜索隊が私の一家を呼ぶ声が聞こえ、藤森さんが返答して捜索隊の若い人が助けに来てくれました。私と兄と妹は米村さんの下駄箱に乗せられ、ロープで引かれて二時間くらいかかって線路まで運ばれました。子ども三人が乗っても下駄箱が沈まない位ドロドロの泥水だったのです。
線路の上は黒山の人で、その中に父の姿がありました。絶望と思っていた私達が生きていたので、父は本当に嬉しそうでした。笑った父の白い歯と膝まで泥にまみれたズボンが今でも目に浮かびます。しかし、大切な母親を失った父の胸中はいかばかりだったかと思い、胸が締め付けられる思いがします。
線路から見る建築中の私の家は周りに流木がギッシリと重なり合って、線路はレールが枕木ごと家の近くへ横に流されていました。そんな状態が三百メートルほど離れた四線道路まで続いており、大人の藤森さんや母達はレールの上を慎重に伝いながらやっと線路にたどり着きました。レールから滑り落ちると胸まで泥水に浸かり、昨日なま温かった泥水もすっかり冷えて、氷のように冷たかったそうです。
その後、鉄道官舎の人にお世話になり、濡れた衣服を着替えさせてもらい、遠廻りして西の山伝いに市街の叔父の家に向かいました。
しばらくの間街の学校へ通いましたが、流木の上に板を並べた一本道が出来たので、街の叔父の家から草分の小学校に通学しました。板の道をカタカタと下駄を鳴らして学校へ通ったのを覚えています。
平成の噴火
午後十時頃、突然十勝岳噴火の警報が鳴って、指定されていた会館へ逃げようと思って支度をしていたところ、隣の金谷さんが飛んできてくれ、娘さんの嫁ぎ先の伊藤牧場へ一緒に行こうと言って下さり、娘さんご夫婦の車に乗せていただいて一晩ご厄介になりました。
その日はクリスマスイブで、伊藤さんの家に着くと大きなクリスマスケーキがあったのをよく覚えています。伊藤さんで一晩泊まらせてもらい、翌日家に戻りました。
その後は東神楽に住む妹が私を迎えに来てくれて、暮れまで妹の家で厄介になりました。しかし、妹が駆けつけてきてくれた時は、津郷農場の所で交通がストップされており、『山伝いに迂回しなさい』と言われ、妹は負けずに『姉を助けに来たのに行かせてもらえないのなら、ここで待っているので、あなたが連れて来なさい』と食い下がると、『それでは直ぐ行って戻って来なさい』とようやく通してもらえたそうです。
十二月三十一日、避難が解除になって家に戻ったのですが、一人暮らしは不安でしょうからと勧められ、横浜に住む息子のところへ避難しました。
実際にそうであったのですが、大正の噴火の経験者は今回の噴火は大した事は無いと感じていました。今は情報がたくさんあって何も心配することがありません。また、砂防ダムは日本一の規模のものもあり。安心して住んでいます。
二十年間も一人暮らしですが、『不自由な独り暮らしをどうして何時までしているのか』と、よく友人などから言われますが、その度に返答に窮します。生まれ育ったこの土地からどうしても離れられないのです。
十勝岳は恐ろしい山でもありますが、このように美しい山はほかにありません。美しい自然と温かい人情に囲まれた、この静かな生活をもう少し楽しみたいと思っています。
「十勝岳爆発災害志」第十一章 第三節
    罹災地児童の感想文より
五月二十四日
上富良野尋常小学校 尋二 吉田 てい
五月二十四日ハ、山ガクヅレテキテ、大スイガイニアッタノデス。
私ノオバアサンモ、トウトウスイガイノタメニ、ナクナッテカナイヂュウガ、カナシガッテヰマス。私タシモモウチョットデ、シヌトコロデゴザイマシタ。ハダシデ一シヤゥケンメイニ、ニゲマシタ。ソウシテ米村サンノトコロデフトンヲシイテスワッテヰマシタ。
ソノアシタハハコニノッテ、ドロ水ノ上ヲヒイテモラッテヤットセンロニ出マシタ。ソレカラ山バカリツタッテ、シガイマデニゲマシタ。シガイノヲジサンノトコロカラシガイノガクカウニ、カヨッテヰマシタガ、ミヱダンタイノ方ガ、ヨクナッタノデ、ミヱダンタイノガクカウヘニイサントカヨッテヰマス。
イキカヘリニハイヘモナクナッタノデサミシクテナリマセン。トモダチモ大ゼイシンデカハイソウデス。ウチノオバアサンガナクナッテカラナントナクウチガサミシクナリマシタ。
ウチノマヘヤヨコニハ、センロヤ大キナ木ヤデンシンパシラガヨッテ、一メンノドロ水デス。イツ、モトノヤウニナルデセウト、ニイサントハナシテヰマス。ヱハガキニ私ノウチガ出テヰマス。

機関誌 郷土をさぐる(第20号)
2003年3月31日印刷 2003年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔