郷土をさぐる会トップページ     第18号目次

《温泉発見から買収まで》
吹上温泉と飛澤清治の功績(上)

元町史編集員 野尻 巳知雄
昭和十二年三月三十一日生(六十四歳)

はじめに

「いい湯だな!」こんな言葉が自然に口に出てくるほど、早朝の吹上温泉露天の湯はすがすがしく、朝もやが消えていく樹間から「チ・チ・チ・」とさえずる小鳥の声と眼下に雲海が広がる光景は、まるで天上の別世界で温泉に浸っているかのような錯覚を覚えます。
吹上温泉が発見された明治末期頃は、温泉の温度は三十七度弱でしたが、昭和六十三年の噴火以来温泉の温度が上昇し五十度(現在は上段が54・2度、下段が48・2度)を越えるほどになりました。
町では温度の上がった吹上温泉を活用しようと、平成三年八月に「吹上憩いの広場」として露天の湯の整備を行っています。
最近では吹上温泉の評判を聞き、朝暗いうちから大勢の人々が近郊からやってきて温泉を楽しんでおります。また、平成十年二月にテレビ「北の国から」のロケで宮沢リエが田中邦衛と入浴したことから全国的に知られるようになりました。
このように多くの人が訪れるようになった現在の露天風呂も、その昔、道も無い山奥に道を造り、駄鞍に少しずつ積んで運んだ木材で家を建て、遠くから人力で運んだ飲み水で温泉旅館の経営をするなど、想像を絶するような困難の数々を乗り越えて、今日の十勝岳観光の基礎を築いた先人の労苦の歴史など誰ひとりとして知る由も無く、今ではその記憶を語る人もほとんど居なくなっています。
この原稿を取りまとめ中に、取材にご協力いただいた方ですでに何人かの人が他界されています。生前のご協力に感謝申し上げるとともに心からご冥福をお祈りし、謹しんでこの原稿をささげたいと思います。
この原稿を書くきっかけとなったのは、平成十年度の「郷土をさぐる」誌の編集で、印刷を依頼している旭川市土井デザインさんから『上富良野で十勝岳の観光事業に私財を投じた飛沢清治さんについて、誰か書く人は居ないのかなあ!きっと面白いと思うよ!』と提案され、清治さんの次男で中町に住む飛沢尚武さんに相談したところ、快く承諾され『もう、古い資料などはほとんど無いが!』といって清治さんが晩年に書かれた「日記」と、吹上温泉を中川三郎から買収した当時の「売買契約書」を貸していただきました。
平成十一年二月に、飛沢清治さんが生まれ育った縁りの地秋田県大曲市と六郷町の資料室を訪ね、六郷町では生家にお住まいの高橋右さんにお会いし、清治さんの姪や従兄弟に当たる方々からのお話も聞く事が出来ました。
また、飛沢家を継いで大曲市に住んでおられる清治さんの甥飛沢良造さんには仕事の都合でお会いできず、電話でお話をお聞きしましたが、『古い資料や写真は台風の大雨でほとんど消失して現在は何も残っていない』とのことで、お伺いしたときには昔の位置に建っている良造さんの住宅を見せていただいただけで、残念ながら裏付けとなる資料を入手する事が出来ませんでした。(大正元年当時の選挙有権者数を見ると大曲町二二九人、六郷町は二〇九人であり町の人口はほとんど同じくらいであった)
吹上温泉の経営に携わった人には中川三郎、飛沢清治、飛沢辰巳、飛沢英壽、陶治助と言った方々がいますが、中でも実際に経営に苦労された方を中心にその人物像や歴史の流れについてご紹介させて頂きます。(なお、失礼とは存じますが、文中人名敬称を一部省略させていただきますのでご了承願います)
温泉の発見と開発
十勝岳で温泉が最初に発見された時期は定かではありませんが、いろいろの資料から解ることは、十勝岳の硫黄採掘と温泉の発見(利用)は密接な関係にあるということです。
明治二十年北海道の開拓を進めるために行った殖民地選定と同時期に、鉱山などの地質調査も行われました。この調査によって明治二十四年に十勝岳の硫黄鉱床が報告され、資本家や鉱山関係者による旧噴火口の硫黄採掘は明治三十三年頃から始まっています。
翁温泉
翁温泉は十勝岳硫黄鉱区(旧噴火口)の途中にありますが、温泉は硫黄の採掘と運搬のために働いた人々によって発見され、古くから多くの人が利用していました。その後、小さな小屋がけで温泉宿も経営されています。
大正十三年の《条例規則参文書》には、
「翁温泉の経営者は西村治氏で年間千人の利用者あり、湯治客が多く合宿的設備あり、宿料は五十銭から一円である」との記載があります。
同十四年の《村勢要覧》では「浴用温泉で主なものは中川吹上温泉、翁温泉の二ケ所で共に温泉宿の施設あり駅より四里、噴火口まで一里にして途中に硫黄精錬所あり」と書かれている事から、大正十五年に起きた十勝岳大爆発までは、翁温泉も旧噴火口の硫黄精錬所もまだ経営を続けていたものと思われます。
翁温泉に通じる道路は現在の翁道路の終点(旧多田弾薬庫)から登山道となり、ヌッカクシフラヌイ川の右側を登って四キロ地点から川を横断し、旧精錬所(翁山荘「バーデンかみふらの」から下方約二百メートル地点)を通って翁温泉に着くコースとなっていました。
大正十五年の十勝岳爆発で吹上温泉から飛沢辰巳の家族と従業員の六人が避難した時のコースも、このコースを逆に通って山を下りています。
吹上温泉
吹上温泉は「明治年間に吹上温泉のそばの木に《近文・丸谷捨吉》と書いてあった」と旧町史(昭和四二年刊)に載っています。
また、上富良野百年史には「明治三十五年吹上温泉発見、明治三十九年頃より中川某氏が経営」(昭和十二年《北海道温泉地案内》北海道景勝地協会刊)との記載があります。おそらく、この頃に吹上温泉が発見されたものと思われます。
また、《北海道市町村総覧及び町百年史》では、
「明治四十四年に鉱区税滞納により、競売になった十勝岳硫黄採掘権を札幌控訴院検事長・中川一介が持つことになり、採掘は弟中川三郎が吹上温泉の経営と合わせて行い、広さは八間・奥行き十二間で約百坪の宿舎を建てた。湯までは外を歩いて行くものであった。主に硫黄鉱山で働く人の憩いの場所として利用されていた。また、中川三郎が硫黄の採掘に着手したのは大正六年の初夏で、平山鉱業所社長平山徳治と共に上川営林区署へ『十勝岳硫黄採掘許可と事務所建築木材の払い下げ出願』をし、技術者・鉱夫(計5名)と共に美瑛丸谷温泉を仮宿舎として調査と煙道設置に当たり、翌七年から数十名の鉱夫を雇って家屋の建築、道路の開鑿を行い本格的に採掘を始めた。しかし、採掘には大規模な精錬所と索道の設置に多額の投資が必要とされ、資金難から大正九年に平山鉱業所に権利を譲渡した」
と記載されています。
これらの資料によると、大正六年に行なった硫黄採掘調査の折には仮宿舎に丸谷温泉を使っており、その時点ではまだ吹上温泉の名称が出てこないことから、中川三郎が吹上温泉の宿舎を建てたのは大正七年と考えてほぼ間違いないと思われます。
中川三郎と飛沢清治
この頃からすでに中川三郎は吹上温泉の名目だけの経営者となり、飛沢清治が実質的に経営にタッチしておりますが、飛沢清治がどのような経緯で吹上温泉と関わりを持つようになり、何時の時点で経営に参加するようになったかについては資料が少なく、また資料によって年度や解釈も異なり詳しい事は解っておりません。
旧町史によると、札幌控訴院の検事長をしていた中川一介と飛沢清治が知り合いであったことから、飛沢清治に温泉経営の話が持ち込まれ、資金面の援助もあって引き受けることになったとあります。
中川三郎が飛沢清治に正式に温泉旅館を譲渡したのは「売買契約書」によると大正十一年十一月十八日で、金額は建物・什器類を合わせ千三百円となっています。しかし、色々な資料によると飛沢清治はもっと早くに経営に参加していることが伺われます。
その裏付けとしては、大正九年(または十年)に義弟の飛沢辰巳氏(以後敬称略)を温泉旅館経営のために秋田から呼び寄せていることです。
旧町史、その他の資料では辰己が温泉に来たのは大正十二年となっていますが、これは間違いで飛沢家の戸籍を見ると、辰巳の長女イヨは大正八年二月二十四日に秋田の於倉で出生しており、大正十年九月六日に生まれた次女智子は上富良野市街地で出生しています。辰己が家族と一緒に北海道に渡って来たことを考えると、上富に来たのは九年頃であると考えるのが妥当と思われ、売買契約のあった大正十一年以前に温泉経営に係わっていたものと思われます。
しかし、大正十四年の村勢要覧には売買後も「中川吹上温泉」と記載されており、資料だけで年度を確定出来ませんがこれは当時、吹上温泉用地を中川三郎名義で旭川営林区署から引き続き年期貸付により、昭和三年三月まで借り受け名義をそのまま残したことから、中川吹上温泉の名称が売買後も使われていたものと推測されます。
大正十四年村勢要覧《温泉》には「浴用鉱泉として道庁より許可されているもの大小十四ケ所あり、何れも十勝岳の中腹より湧出する鉱泉なり、その主なるものは中川吹上温泉、翁温泉の二ケ所なり、共に温泉宿の設けあり、上富良野駅より約四里。浴客四季常に絶えず、温泉場より噴火口まで約一里にして途中に硫黄精錬所あり、頂上へ容易に登ることが出来、目下北海道山岳会にて計画中の石室既に竣工せり」とあることから、大正十四年には中川吹上温泉と翁温泉の二ケ所で温泉経営が続けられており、登山客も多かったようです。
道路については「郷土をさぐる」誌第二号で、清治の知人佐藤敬太郎氏は飛沢清治の温泉開発について触れ、「大正八年の夏には、私財を投じて吹上温泉迄の道路を開削。大正十二年から同志と共に吹上温泉を経営されることになりました」と書いています。
大正十三年の資料や地図などを見ても道路は中茶屋付近までで、その先は細い登山道路のみとなっており、道路の表示は出ておりません。
飛沢清治が私財を投じたという道路開削は、登山道路だったのか、どこから何処までを開削したのか、始めたのは大正八年とあるが、当時一般利用者は僅かの登山者とスキー客のみであり、また、平山鉱業所が硫黄採掘事業で主に使用する道路に、関係の無い飛沢清治が多額の私財を投じて開削したとは、考え難い問題であり詳しい事は良く解りません。
しかし、清治が温泉事業に関わりを持つようになった後には、細い登山道路を広げようと相当の私財を投じて来たことは、関係資料から間違い無い事実であるといえます。
道路開削の年度を知る資料としては、当時の経営責任者であった飛沢辰己の次女智子さん(旭川在住)が温泉の生活で苦労した話の中で、
『苦労と言えば子どもの頃、冬は道が無く馬で通ったことと、夏休みになると親に会いたい一心で山まで歩いて通ったことです。中茶屋までは馬車や駄鞍に乗り、そこからは姉と歩きました。当時は電気も無くランプを使っておりました。
昭和五年頃道路を造るとき、囚人を使ったものだから怖くて!怖くて!℃人は何日かに一度は風呂に入れる約束で使ったと聞いております。道路は平山鉱業所の鉄索の所までしかなく、その上は無かったので、そこからは鉄索で荷物を上げてもらいました。道路がつくまでは大変でした。最初は旅館と中茶屋だけに専用電話が付いていましたが、駅逓になってからは温泉と役場が直通で繋がるようになりました』
と話しております。
話の中から、道路開削は大正八年よりもっと遅く昭和五年頃に囚人を入れて大掛りな道路の整備を行なっていること、中茶屋と温泉には駅逓が出来る前に電話があった事などが解ります。
また、生前のインタビューで飛澤尚武氏(以後敬称略)が語った中でも、
『昭和五年頃、子ども心に兄と一緒に温泉道路の砂利敷きを手伝った記憶がある』
と話しています。
「郷土をさぐる」誌第三号では、上坂定一氏が大正十年に平山鉱業所の硫黄運搬で元山事務所から中茶屋まで道路に丸太を敷き、手橇でかますに詰めた硫黄を運んだ手記もあります。
当時の清治が行った温泉経営の事業と、大会社平山鉱業所の硫黄採掘事業とでは、その規模も財力も天と地ほどの差があり、道路開削は清治だけでなく、平山鉱業所も硫黄運搬のために多くの投資をしていたものと考えられます。
また、大正七年に中川三郎が建てた温泉宿舎には、ガラス・襖・調理用具などが調達されており、下から運ぶために駄馬が通れるような細い道路は、七年以前に造られていたようです。
飛沢清治が多額の私財を投じて開削したとされる温泉道路は、色々な資料や関係者の証言を参考に検討すると、年度は大正九年に温泉経営に関わった後からであり、平山鉱業所の鉄索終点から温泉までの登山道を馬車が通れるように道路を開削し、広げたものと思われます。(大正十三年《条例規則参文書》の温泉についての紹介で「吹上温泉まで交通は馬車と駄馬の便がある」との記載がある)
温泉道路を、自動車が通れるように大々的な道路として整備したのは、昭和二年六月に道庁道路課によって硫黄山駅逓所が認可され、上富良野から吹上温泉までの道路が準地方費道に昇格されてからとなります。
昭和二年に駅逓の建設とともに本格的な道路の改良整備が進められましたが、旧町史によると、当時は吹上温泉道路の整備に北海道は費用の半額しか支出しておらず、残りの半額の一部を飛沢清治が負担したのではないかと推測されます。(当時の村予算支出には、温泉道路の予算は見当たらない)
清治は大正九年に、温泉経営を進めるため、秋田から義弟の飛澤辰巳を呼んで経営に当たらせ、未開の十勝岳の開発に情熱を注いで道路開削に多額の私財を投じたほか、利益の上がらない温泉経営に苦労を重ね、今日の吹上温泉の基礎を築いております。
では、清治がなぜこれほどまでに十勝岳温泉開発に情熱と金品を注いだかについて、清治が生まれ育った土地柄と家庭環境、北海道に渡った背景などから考察したいと思います。
飛沢清治が生まれ育った背景
飛沢清治は旧姓高橋清治といい、明治十七年十一月二十七日に秋田県仙北郡六郷村遠槻(とおじき)で父高橋三左エ門、母フクの五男に生まれました。
高橋家は代々六郷村遠槻の名主で味噌、醤油でたまり醤油を造って商店に売り捌き、その利益を注ぎ込んで、どんどん田んぼを増やして行き、明治三十年頃は約六十町歩ほどの水田を所有するほどになっています。
家屋敷は広さが約千五百坪程あって門構えも大きく、庭には芍薬が一反ほど植えてあり、テントを張って花見を開いたほどであったと言います。(戦前に壊されておりその今は面影も無い)
飛沢尚武が父清治の代理で兄英壽と訪ねた折には、入り口が三ケ所あり、どの人り口から入って良いか分らなかったので真中の入り口から入ったところ『こらー!そこはお前達の入るところではない!』と叱られたことがあったと、生前語っていました。
清治の兄で長男の定次(五代目三左エ門)は、大正二年から昭和二年までの十五年間にわたり、六郷町で議会議員を勤めている外、定次の長男哲之助は昭和十九年から病気退任まで、一年半の短い期間ですが六郷町長を勤めています。
高橋家では代々戸主を「三左エ門」と呼んでおり、六郷町史によると四代目三左エ門も、明治二十年に六郷町が二級町村制の施行にともなって実施した議会制度で、初代町議会議員に選ばれており、明治四十二年まで二十二年間の長い間町の発展に貢献しています。
このように、現在でも高橋家の一族からは町の教育長や病院長などの要職で活躍している人や、数々の公職についている人も多いようです。
高橋家関係者の話
現在六郷町遠槻に住み、医療器具の販売会社を経営している高橋家の子孫の高橋右さんが、取材で訪ねた折にわざわざ事前に準備され、前もって清治の妹にあたる三女マツノ(藤井)の子孫でマサさんと、五女トメノ(五十嵐)の子孫の方から直接いろいろなことを聞いていただき、高橋家のことについて詳しく話してくれました。
高橋家の家風はとかく太っ腹で『出来ない』とは言わないという性格の者が多く、人の面倒をよく見るが金銭感覚に欠ける人も多かったようです。
当時のお金で三万円(現在の三億円相当)を出して《善応寺》というお寺を寄進したほか、たまり醤油工場にも同じく三万円を投資するなど、親戚の反対を押し切ってまで多額のお金をつぎ込んだことは、商いが順調であまりお金には不自由をしていなかったことと、高橋家の豪放な家風がそうさせたようです。
清治の性格
清治も高橋家の気風を受け継ぎ、豪放磊落な性格に加えて好奇心が強く、開拓精神も旺盛な反面金銭にはほとんど無頓着で、温泉道路の開削、温泉旅館の買収などの事業に次々と着手して行き、生家の高橋家からも相当の金銭を借用していたようです。
また、清治の人柄について色々な資料から抜粋して紹介すると《十勝岳災害志》では、
「飛沢清治氏(四十三歳)は上富良野市街地で医を業とし、公職にも携わっているが志操円滑稀に見る人格者にて『医は仁術』の具現者として村民に敬慕されている。後略」
と記載されております。
《北海道市町村総覧》には
「氏は威風堂々たる風貌の紳士にて、しかも接しては温和に物柔しく村民の信望厚い」
と紹介されております。
「郷土をさぐる」誌では、中野モヨさんが、
「清治先生は気持ちの大きい方で、村の事、病院の事、村民の健康の事などいつも先々を考えて実行された方でした。乳牛を飼育して、牛乳を患者や近所の人に飲ませ健康保持増進を図るため、郷里から高橋市造さんを雇い、乳牛の世話をさせていました。=後略=」
と書いており、同じく佐藤敬太郎氏は
「先生は豪放磊落な性格で、人の面倒をよく見る方でした。その頃は開拓間もない時代で、経済的にも余裕の無い者が多かったのですが、金銭を度外視して診察されたので、村民からは慈父のように慕われ感謝されていました。(次男尚武は当時、医療の借用証書が柳行李いっぱいに詰まっていたが、兄の命令ですべて焼いてしまったと話している)また、病院では多くの家畜を飼育していたので、これを世話する若い使用人が、常時十数人はおりました。この人たちに妻を世話し、土地を求めて分家させ、将来のことも考えてやったので、若い者から親のように敬慕されました。更に先生は非常に実行力があり、何事も自ら体験した後で人に勧める方でした。(後略)」
と書いています。
また、飛澤尚武は父清治について
『父は酒も強く、格式にうるさい人だった酒を飲むときは、カフェーやキャバレーで飲むな、飲むなら割烹で飲め!≠ニよく言われた』
と話しています。
これらの証言から清治の性格は、高橋家の伝統的な家風をそのまま受け継いでいるものと思われます。
生まれ故郷六郷村の様子
清治の生まれた六郷村は、立地条件から近在の商業地として栄えて来ました。
江戸時代に羽州街道沿の要地であったこの地は、宿場町として宿駅制度も完備し、常時多くの人夫とたくさんの馬が準備されており、羽前・羽後、陸前・陸中への荷物輸送で賑わい、月十二回の市日が認められて開設され活況を呈しました。また、門前町と言われるようにお寺が二十六もあり、湧き水が多いこともあって良質の清水を使った稲作や酒造業も多く、農業や商業の中心地として栄えて来ました。
明治三十七年十月慈恵会医学専門学校(現慈恵医大)を出た清治は、父三左エ門と懇意のあった大曲町於倉に住む医師飛沢壽吉に医者を継ぐ者がいない為、壽吉長女カネと婿養子婚姻をすることになりました。
大曲町於倉の飛沢家と六郷村遠槻の高橋家との距離は、直線にして二百五十メートルほどで、飛沢医院とは高橋家のかかりつけの医院として付き合いがあったようです。資料にある飛沢家の先祖が秋田藩主佐竹家の御殿医であったという事実は、高橋家の祖先と競合しており、真偽のほどは定かではありません。
清治北海道に渡る
清治は慈恵会医学専門学校を卒業後一時母校の助手をつとめ、その後、養父とともに飛沢医院で診療に当たって来ましたが、於倉の地域は大曲の市街から二・五qほど離れた数戸ほどの小さな群落で、医師は二人も必要はなく、また清治の豪放磊落な性格とは反対に養父壽吉は謹厳実直な性格で、何かと折り合いも良くなかったため、新開地を北海道に求めようと、旭川の向井病院(厚生病院の前身)の院長で慈恵医大の同期であった沼崎重平を訪ね、氏の好意により向井病院の副医院長として勤務する事になりました。大正元年五月、二十八歳の時に家族とともに北海道に渡り、新天地での第一歩を旭川で始めることになりました。
大正二年八月に上富良野村に医師が不足していることから、村の有志による上富良野での開業の懇請を快く承諾して、現上富良野町中町一丁目付近で開院し、その後二丁目に転居したのですが火災に遭い、大正十四年九月に二百坪(六六一u)の病院を建設して、その後の村民の健康管理と医療の充実に貢献されました。
飛沢家の家系
清治と妻カネの間には十一人の子どもがいます。長男英寿は医師として父の飛沢医院を継承し、村議も一期務めたほか、剣道を広めるため馬小屋を改装して武道場「明心館」を造り、子ども達に剣道を教え青少年の健全育成に力を注いでいます。
長女ヤエは札幌市の小田島俊造(小樽新聞政治記者)と結婚、『当時の新聞記者は相当の権威をもち、道庁の幹部とも深い係わり合いをもっていたので、硫黄山駅逓所の設置や吹上道路の地方道昇格には、大きな力になったと思う』と生前尚武さんが話していました。
二女トシは新得町の永井良次郎と結婚、三女千年は夭逝したが、四女せつは大曲市の栗林三郎(元衆議院議員)と結婚、五女は旭川市福居昇(合同酒精勤務)と結婚、六女は小田島勝治(教員)と結婚しています。
次男尚武は昭和十九年船上で兵役中に事故に遭い左腕を負傷して上富良野に帰り、兄の経営する病院の事務を手伝いながら、町の社会福祉事業や体育関係の役職に付き、町の発展に貢献して数々の受賞の栄に浴しています。
七女尚子(ひさこ)は林宏靖(獣医)と結婚、八女武子は湧別町の澤西幾三郎(農林省・食糧事務所勤務)と結婚し、三男儀一は出生日に亡くなっています。
清治の長男英寿には子どもがいないため、次男尚武の次女なお子を養女に迎えています。清治の婚家である飛沢家は、代々医者の家系でありました。養父壽吉は御殿医だったと言われている祖父飛沢玄伯の養子で、壽吉の長男・次男は早くに亡くなっています。
三男の辰巳が家督相続人となるべきところでしたが、辰巳は医者の職業を嫌い志願して兵隊になり二年ほどで辞めた後、営林署に就職してしまいました。
そのため、医者の後継者として長女カネの婿養子に、高橋家から五男清治を迎える事になったものです。
飛沢家には、辰巳の弟に五男悌三郎と六男雄三郎の二人がいましたが、五男悌三郎(十歳)は姉のカヨとともに北海道に渡り、上富から旭川中学に通って後に教員になっております。
大正九年に温泉経営のため辰巳(28歳)が上富に来ると、秋田には六男雄三郎(六歳)だけが父母と残る事になったので、寂しさもあってか「北海道にはあまり好感をもっていなかった」と尚武さん、智子さんが話しています。
飛沢家については資料も少なく、現在住んでおられる雄三郎の長男飛沢良造さんにも直接お会いする事が出来ず、電話でのみの聞き取りのためその様子を詳しく知る事が出来ませんでした。
飛沢辰己吹上温泉の経営に当たる
先にも述べたように、大正九年に飛沢清治が温泉経営の委託を受けることになった事から、山好きで営林署に勤めていた弟の飛沢辰己が温泉経営の責任者として秋田から呼ばれ、昭和十六年に山を下りるまで二十二年間の長い間、辰己は苦労を重ねながら温泉の経営に従事することになりました。
辰己は明治二十六年四月一日に於倉で生まれ、大正七年一月に六郷町佐藤貞一長女イナと結婚しています。
売買契約書
大正十一年に中川三郎と飛沢清治が契約した吹上温泉の「売買契約書」の抜粋は次の通りです。
第一万八千七百九十五号
「動産売買契約公正証書正本」
本職は左の法律行為に関し嘱託人より聴取したる陳述の本旨を録取すること左の如し
第一条 売主に於て第二条に記載する動産を売り渡し買主に於て該動産を買受けたり
第二条 売買の目的物たる動産は左の如し
売主の住所に存在する
一、玄関用桂材硝子戸      九尺四枚
一、窓用六牧入硝子戸      四十四枚
(一部省略)
一、弐階窓用九尺 弐枚  障子 弐枚
一、馬屋用弐枚入硝子戸  四枚
一、拾八番二連銃     壱挺
一、参拾番村田銃     壱挺
一、参拾六番ステッキ銃  壱挺
一、鍋          拾五枚
一、刺身皿        参拾枚
一、茶碗蓋付       弐拾個
一、茶碗蓋ナシ      参拾個
一、軟石爐大小      六個
一、釜          壱個
一、客用木綿布団     弐拾組
一、敷布         弐拾枚
一、座布団  絹     拾五枚
一、座布団  木綿    拾五枚
一、鍛冶用フイゴ・金敷  壱式
一、乗鞍         壱組
一、駄鞍         弐組
一、荷馬車        壱台
一、荷馬橇        弐台
一、ゴミカキ       弐挺
一、唐鍬         八挺
一、窓鍬         壱挺  (一部省略)
以上
第参条 売主及び買主に於て該動産売買代価は金壱千参百円と協定し買主は本契約締結の日に該代価全部を支払い売主は既に之を受領したり
第四条 売主に於て該動産は本契約締結の日に現在の儘買主に対し引渡しを為買主は調査の上其引渡を受けたり
第五条 本契約に関し訴訟を起すへき場合は旭川区裁判所を以て其管轄裁判所と為すへきことを合意したり
一、嘱託人の住所職業氏名年齢及び公証人法第参拾六条に依る本旨以外の事項は左の如し
売主
東京市麹町区西日比谷町壱番地寄留地
北海道空知郡上富良野村字上富良野番外地温泉業
明治七年四月拾六日生      中川三郎
買主
秋田県仙北郡大曲町大曲於倉谷地百八拾番地寄留地北海道空知郡上富良野村字上富良野市街地八百四拾弐番地医師
明治拾七年拾壱月弐拾七日生   飛沢清治

一、本職は右売主の氏名を知らす且面談なきを以って同人は印鑑証明書を提出して人違なきことを証明したり
一、比の証書は大正拾壱年拾壱月拾八日北海道旭川市四条通八丁目右拾号公証人菅原景忠役場に之を作成す
一、比証書を列席者に読聞かせたる処嘱託人は之を承認したり依て列席者と共に左を署名捺印す
旭川市四条通八丁目右拾号
公証人             菅原景忠
                 中川三郎
                 飛沢清治
比正本は買主飛沢清治の為原本に依り之を作成し茲に原本と相違なきことを認証す
大正拾壱年拾壱月拾八日 北海道旭川市四条通八丁目右拾号公証人菅原景忠役場に於て
旭川地方裁判所所属
旭川市四条通八丁目右拾号
公証人             菅原景忠
この証書から解る事は、温泉宿舎の建物は二階建てで部屋数は客室五室・茶の間一室、付属施設に馬屋、鍛冶屋があり、宿泊定員は二十名と多くなく、宴会は三十名分まで用意されていたようです。道路の整備が充分でないため、荷物の運搬には駄鞍や乗鞍を使用しており、銃を三挺用意していたことから熊の出没も多かったものと思われます。
宿泊料は一円から二円
開設当時の利用客数や宿泊料はほとんど資料がなく詳しくは解りませんが、大正十三年の《条例規則参文書》には、「吹上温泉の利用客数は翁温泉の三倍で、年三千人である。宿料は翁温泉の二倍で一円から二円である」と記載されております。
また、別の資料(大正十二年)では「温泉の客は七・八月及び冬期間が最も多く、平日十数人の滞在がある。山案内人五名一日二円五十銭」と書いてあり、登山客が多かったものと思われます。
飛沢智子(辰己の長女)さんの話から
「父辰己が上富に来たのは、清治さんから『温泉を始めることになったが経営を他人にやらせる訳にも行かないので、辰己悪いけど子供たちの面倒は俺が見るから山の温泉をやってくれ!』と無理やり頼まれたものです。温泉のお客は、冬は十二月末から一月末までと三月初めから四月末までで、夏は六月から九月中頃までしかおらず、お客の無い月は収入も無く生活も大変でした。収入の無いときは清治さん、英寿さんに世話になっていました。山の家族の他、病院の家族はいつも二十人位いたので、病院の経営も大変だったと思います。温泉のお客は登山とスキー客が多く、人手は近くの農家の人が冬の農閑期に手伝ってもらえたので助かりました。私たちが学校に行くようになった頃、父母に『何でこんな苦労する温泉に、秋田から営林署まで辞めてやって来たの!』と責めましたが、父は『おまえ達にそう言われてもその時、その時だから仕方なかったんだ』と言われたら、納得するしかありませんでした。
父は亡くなるまで、どこかに毎月借金を返していて『これは俺の一代限りの借金だから、お前たちには関係ないし、死んだら終わりになるお金だから』と言っておりましたが、あれも温泉時代の借金でなかったかと思います。清治おじさんは温泉のために於倉の財産をほとんど売ってしまった≠ニ聞いています。
父の辰己はばかがつくほど正直者で、仏さんのような人でした。母キエは、父とは従兄弟の関係にあり、外交的で明るくどちらかと言えば旅館のおかみさんに適していたのかも知れません。私は昭和十六年(二十三歳)まで温泉におり、学校を出てから四年間手伝いました。温泉には百組の布団と食器が揃っていて、温泉をやめるとき株主総会を開いて解散したのですが、『温泉の株が全部売れ、いい値段で売れたので当分これで食べていけるね!』と家族で話していました」と話を聞かせてくれました。
飛沢尚武(清治の次男)さんの話から
「父清治は飛沢家に医師が居なくて婿養子に入ったが、祖父は始末屋(倹約家)であり、清治は反対に豪放な性格のため祖父と合わず北海道に来たところ、妻も後を追って北海道に来た。その後、兄弟も一緒にやって来ることになってしまい、下の子(六男雄三郎)だけが残った。雄三郎は兄たちがみんな家を出てしまい、自分ひとりが残されて苦労を背負ったので、かなり恨んでいたと思う。だから、その息子の良造も成人してから一回も上富良野へ来ていないので、最近の事は良く解らない。辰己は一番上で家を継がないとならなかったのだが、上富良野に来てしまった。辰己はぼっちゃん育ちで商売気が無く、姉であるうちのお袋を頼って来ていた。性格は人が良く、他人には親切なので旅館の泊り客には評判が良かった。
北大生が合宿のときは、本当に親身に世話をやいていたし、真面目で固い人間で他人を裏切ったり、他人をどうのこうのと言うことは絶対になかった。昭和十六年に山を下りたが、株式会社の重役にはなっていなかった。当時、観光バスが一台きたので金子さんや山本さんが来て『これからはバスも入るので、温泉を売らないで続けたら!』と兄貴を説得したが、会社に三百円ほどの赤字があり、株主から『飛沢さんの親父さんとの付き合いで、うちの親父もとんだ荷物を持たされたものだ!』と言われ『そこまで言われてやることない!』と怒って赤字の会社を買い取り、配当金を株主全員に払って解散した。
昭和八年の駅前が火事のときには、建物は焼けてしまったが自動車は焼けていなかった。
家には色々な人が出入りしていた。ヤクザもいたし競走馬も持っていた。「カクタロ一号」「カクルン号」など四頭を飼養し、函館や札幌の中央競馬で走らせていた。調教師、騎手、馬丁、厩務員もいた。
当時は競走馬の他種馬が二頭・往診用の馬が二頭、乳牛二頭のほか七面鳥も飼っていた。レグホンの鶏の孵化には、秋田から技術者を呼んで運営していた。お袋は髪をいつもきちんと結っており、子どもの頃は寝ているのを見たことが無かった。髪結いの小泉さんの奥さんがいつも来ていた。お手伝いさんは常時五人位いた。親父は五十二歳、お袋は六十二歳で他界している」と当時のことを話してくれました。
あとがき
この続きは、編集の都合により「十勝岳爆発から近年まで」として次号に掲載させていただきます。
この原稿をまとめる途中で、清治の次男飛沢尚武さんが八十才で旅立たれてしまわれました。当時の事をもう少しお聞きしようと思っていました折でもあり、残念でなりません。心からご冥福をお祈り申し上げ、次号の原稿とともにご霊前に捧げます。
この原稿を書くに当たり、ご多忙の中にもかかわらず取材や、資料・写真提供にご協力いただいた関係者の皆様、大曲市教育委員会栗谷川生涯学習課長さん始め職員の皆さん、六郷町二藤公民館長さん始め職員の皆さん、高橋右さん、飛澤良造さん、飛澤智子さん外多くの皆さんに心から感謝申しあげます。
編集委員 野尻巳知雄

機関誌 郷土をさぐる(第17号)
2000年3月31日印刷  2000年4月15日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔