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高等小学生となりて

水谷 甚四郎 大正二年十一月四日生(八十七歳)


          出征(いゆ)く時 駅をうずめし 人波も
                 帰郷の時は 息(こ)がひとり待つ



昭和十八年十月、関東軍要員として召集を受け、終戦となってシベリヤに抑留され、昭和二十二年の十一月、首尾よく復員した時、中学生の服装をした長男の喬(たかし)が駅の待合室でボツンと待っていてくれたのを、驚きの目で見たことを思い出す。
私達の学校時代は、中学校や女学校に行ける生徒はクラスで一人か二人ぐらいで、余程頭の良い上級家庭の子弟でないと中学生にはなれなかったので驚くのも無理はない。懐かしい我が家に着いてよくよく聞いてみると、終戦後、学校制度が変って六・三・三・四制となり九年間は義務教育だという事を始めて知らされた。
私の時代、尋常高等小学校と呼称されてはいたが尋常科は義務制、高等科は任意制で毎月五十銭也の授業料を収めての入学で、私達の頃は男子で八十%、女子に至っては半数がやっとで卒業迄には大分中退する有様であった。
私は前年の十勝岳爆発の被災者で貧乏のどん底であったが、唯一人の後継者であった為か一ヶ年は兎も角、二年になったら五月と十月の農繁期には休校して手伝うんだぞと約束させられてやっと通学が出来た。
私達のクラスでは級長の中尾君だけが中学生となり、師範を受ける生徒も一しょに勉強する事になってどうにか一クラスがまとまった。今でもそうなのだが東中を除いて全町から市街へ集まる関係上、随分遠くからの徒歩通学なので、夏場はともかく冬になると朝暗いうちから夕方暗くなる迄休みもせずによく通ったものと、その努力には頭の下がる程感心していた。
そんな事で尋常科の時とは大分事情は変ったが、それ以上に変ったのは、担任となった先生のほうで軍服を黒く染めた様な詰襟の服装に坊主頭に黒ぶち眼鏡、一見不気味な風体なのでどうなる事かと思っていたが日が経つにつれ次第に考え方が変った。
高等科だからといってそんなに期待したわけでもなかったが、取上げる教科内容が余りにも範囲が広いのに目を丸くして驚いた。
各学科の教育方法も臨機応変、教科書などは参考程度、生徒を教壇に呼び黒板に向わせる方法であった。
現在の様に管理職だとか北教組やPTAなどという複雑なしくみのない自由教育の時代だった事もあり、先生も独自性を自由に発揮したのだろうが、私なんぞのお調子者には望んで止まない先生だった。
私は元来が物好きで単行本なぞは殆ど読みこなしていたし、その頃は新聞はもとより講談社発行のキング、富士、其の他手当り次第に借り読みをしていたせいか歴史や国語は得意な科目であり、何回か積極的に黒板に向った私の態度に惚れこんでくれたのか各科目の科長を決めた時、私を国語と歴史の科長にして同級生の試験答案を私如きに採点するよう命じられた。
私以外の各科長にもそうしたであろうと思はれるが、こういう事実があったことは確かで、こんな事が先生の一存で行はれたのであるから、今の学生、いや全教育に携る人達には信じられない事であろう。
たまたまその年の五月に十勝岳の大爆発があり、国内はもとより諸外国からも膨大な救援の手が差し延べられた程の大災害となり、六月の運動会も中止された。
それから暫らくして、これら援護に対する謝礼の意味も含めて児童作文を送る事になり、学校全体で綴方を書く様宿題が出されたので、私も被災家族でもあり身をもって災害の恐しさを体験していたので、当時の実相をありのまま何のためらいもなく作文として提出したところ大変良く書けましたとの評価をもらい道庁迄届けてもらった事があった。
これは後日談となるが、旭川在住の三浦綾子先生が泥流地帯の続編を執筆するに当り、当町を訪れた際何か爆発に関する資料が欲しいとの要望があり、私は当時の作文に添えて十勝岳爆発の歌なるものをお届けした処、北海道新聞の日曜版に続泥流地帯の文中に実名入りで採択してもらい嬉しかった事もある。
こうした学年生活も二学期に入った或る日、私を交えた数人の生徒が呼び出されて当時の役場庁舎の向側にあった空家に行って便所の汲取りから家の中の大掃除や窓拭き、襖の張り替えなどをさせられて帰って来たが誰の為にと思っていたら、豈(あに)はからんや旭川の師範学校を出て軍隊で短期教育を終へ、更にお嫁さん迄もらった新婚ホヤホヤの新人先生で私が上富の学校を卒業させてもらった早坂亀一先生だった。
事ほど左様な高等科一学年も第一線校舎の完成と同時に移ったばかりで、大過なく卒業時には相変らずの図画と書方だけは「乙(あひる)」が泳いでいたがあきらめた。
高二、といっても今の中二というところなのだが、学校では最高学年なので看護生といって紅白の襷(たすき)を掛けて校舎内全般に亘って監視して巡り、放課後にその日一日の様子を日誌に書いて当番の先生に提出してから下校するという組織があって、週番制で勤務に付かなければならなかった。
夏休みが終って間もなく雨降り日だったか四、五人の女性徒が廊下で車座になって遊んでいるところへ、何気なく歩いていた私を突きとばして去ってゆく男がいたので、起き上るが早いか猛然と襲いかかった。私は彼の襟首を引っかんで張り倒しさんざん痛めつけて仕返しをしてやったが、この事がさも大げさに看護日誌なるものに書かれてしまったからたまらない。翌日何事もなかったかの様に登校するのを待っていたとばかりに職員室に呼びつけられ、優等生が喧嘩するとは何たる事だ、俺はお前を見そこなったぞと、ビンタこそなかったが物すごい権幕で叱りつけられ、さんざん油をしぼられる憂き目にあってしまった。
理由もなく突きとばされたから仕返しをしただけなのに、忠臣蔵の松の廊下でもあるまいし、事実を目撃していた生徒もいるのに証言もとらず聞く耳もたぬの一方的な対応には大不満の私だったが、看護日誌に書かれた以上詮(せん)ない事と諦めざるを得なかった。
その後も何べんか卑劣な挑発的行動はあったが、私はいつも毅然として無視する態度をとっていたので、さすがの彼も私にだけは尻っぼを巻いて卒業に至ったが、然し入学以来操行だけは甲で通したかったのに、品行方正の箔は一枚はげたのは情けなかった。
これは後になって漠然と思いついた事であるが、その当時わが校では、高学年になると各単位部落ごとに男女一組の班長がいて、互いに連絡をとり合って学校行事を進める仕組になっていた。島津では私と女生徒側でEという女子とで役目を果していたのだが、その女子こそかの暴力男の意中の人、つまり初恋の人であったらしい。故に私とK女が打合せの為とはいえ親しそうに話をしているのを何回か見て、彼なりのジェラシーなる感情を秘めていたので、彼女の所に突きとばして自分の存在感を誇示したかったのだが、私が仕返しをした事で裏目に出たらしいのであった。
現在、中学、高校などで、いじめとか学級崩壊、刃傷沙汰、首つり自殺などと随分マスコミが騒いでいるが、青少年期にあり勝な微妙な裏面にも立入って考えなければ、そう簡単に根絶できない事と考える。
こんな事の外にもまだいろいろな事が記憶に残っているが、とに角八年間の通信箋なるものを見て思われる事は四年間の皆勤賞と、六年間の連続優等賞だが、高等科の時は春と秋に一ケ月ずつきっぱりと休校し、おまけに喧嘩ざた迄したのに学術はともかく、筆太に品行方正の賞状をいただくとは少々後めたい気がしないでもなかった。早坂先生も大分情状を酌量してくれたものと、後日毎年のクラス会には出席して感謝の気持ちで接していた。
因みに先生が亡くなる四、五年前であろうか、私と親友だった信岡君それに高等科の二年間級長だった札幌西工業高で教鞭をとっていた川井信男君と三人が旭川駅で待合せて、川端町で悠々自適の生活を送っていられた先生宅へ押しかけて夕方遅く迄、奥様を交えて回顧談に花を咲かせて帰ってきた事もあった。
先生が亡くなってから間もなく、奥様も後を追うかの如く亡くなられたのには深いお悔みを申し上げている。
お悔みといえば、前述の川井君、それに信岡君迄も相次いで亡くなって淋しさ一しおのものがある。
担任外の先生でも次から次へと面影は浮んでくるが高齢者として何人が暮しておられるであろうか……米寿を迎へた私の小学校生活の記憶物語りである。

機関誌 郷土をさぐる(第17号)
2000年3月31日印刷  2000年4月15日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔