郷土をさぐる会トップページ     第18号目次

―札幌上富会会員―
上富良野に想いを寄せて

田野 令子 昭和十一年九月十九日生(旧姓安田)

私が物心ついた頃で、確か満三〜四歳位だったと思う。市街の中央(現在の錦町二丁目三番)商店街の往来に面した家で、当時、洋裁店(店主・安田久太郎)を営んでいた家の末っ子、それが私である。
いつも踏むミシンの音、大きなアイロンに火を入れる為に炭を熾す父と、忙しく立廻る母の姿、それに年老いた祖母、姉達四人と元気いっぱいの小学生の兄という大家族であった。
私は、幼稚園(村農繁期託児所「楽児園」現在の「聞信寺」)が大好きで休んだ記憶がほとんど無い。
いつも駅近くの踏み切りで「カチン、カチン!」という快いリズムで鳴る赤いシグナルの音に、楽しさを覚えたものである。
その頃、上富良野といえば、冬は雪が深く、時折、馬橇が行き交うなど人の姿も疎らで、勿論、車の影などあまり見受ける事も無いのどかな田舎の風景を醸し出していた。
私はどういう訳か幼稚園がとても好きで、今想うと、夢の様な楽しさでいっぱいだった様な気がする。
私達を迎えてくれた門上先生や、その他の先生方の優しいお顔、そして楽しかった紙芝居の数々、今日は何のお話かとワクワク、ドキドキしながら瞳を輝かせて見ていたものだ。おやつの時、先生が鳴らして下さった鐘の音、真っ黒になって遊んだ砂場、お遊戯会で踊った色々な踊り等、その時の様子が手に取る様に浮かんで来る。
そして、何よりも自身で解せないのは、小学校へ入学してからも、学校から帰るとカバンを家に放って、すぐ聞信寺の幼稚園へ遊びに行った事だ。だから他の人より少し長く幼稚園に通っていた事になる。
その幼稚園に通園していた時、先生に連れられて旭川の日赤病院へ、兵隊さんの慰問に行ったことがあったが、幼い私達が一生懸命に踊る様子に、沢山の拍手を頂いた事を覚えている。
その頃の幼稚園は、現在の様に素晴らしい設備がある訳でなかったが、何かしら温かい人間関係(家族も含めて)の中にタップリと漬けさせてもらっていた様に思う。
これが私の懐かしい、そして楽しかった幼稚園の想い出である。
その後、家庭の事情で一年生の後半から三年生の中程まで、故郷上富良野を離れて東京で過ごしたが、終戦になるとも知らず、空襲を避けて、その一週間前に上富良野に戻ってきた。
そして日の出西二線北二十七号(現在の扇町三丁目)に住む事になったが、その当時、電気は無く、暗い夜を過ごしたものである。灯りと云えば、皿に食用油を入れ、布をよってそれに火をつけたものだ。
それでも家族が一緒であった為、楽しく過ごした様に思う。
丁度、私が四年生の十月の事、初めて人の死≠ニいう場面に出会う事になった。それは皮肉にも私の大事な二番目の姉である。
この年、昭和二十六年は上富良野に町制が敷かれた記念すべき年で、お祝いの日に、この日のために一生懸命練習し楽しみにして来た歌を、歌わない内に姉の危篤で呼び出された。その時、姉は苦しい息の中から『令子ちゃん、勉強頑張ってね』と言ってこの世を去った。
生前、姉は病床に伏す様になってからも、私と時折、野道を散歩する事があった。そんな時、姉は路傍から可愛い四ツ葉のクロバーを見つけ出し、可細い手で何本かの四ツ葉を渡してくれた。そんなある日、私に『私の分まで幸福になってね』と云って渡して呉れた一本の四ツ葉が、私の人生の支えとなっている。
その放か、私は四ツ葉が大好きで、毎年必ずと云って良い程、探すともなく歩いていると、ふと四ツ葉が目に映る。子ども達は『お母さん、よく見つけるね』と言って感心するが、私にとって亡き姉の姿を偲び、その分まで幸福にならなければ……、との思いがそうさせたのかも知れない。と同時に学生時代に歌った「四ツ葉のクロバー」は、今も忘れずに私の胸に残っている。『希望は深く、信仰は硬く、愛情厚くあれ、やがて我も摘みて取らん、四ツ葉のクロバー』。この歌詞が私にとって大好きな言葉になっている。
これから先も私は、生ある限り上富良野を想い、皆様方が倖せに成ってくれる事を祈りながら、四ツ葉を摘み続ける事でしょう。
(註) 聞信寺で開設された幼稚園は、上富良野で最も古く、昭和四年五月一日に「農繁期農村幼児託児所」として、春と秋の農繁期に開設された。
その後、戦時中は一時休園となったが、昭和二十四年に「村立保育所」として再開し、昭和四十一年に「ふたば幼稚園」として再出発した。しかし、町の過疎化と社会的な少子傾向から、年々入園する幼児が減少し、平成十年三月三十一日を以って閉園となった。

機関誌 郷土をさぐる(第17号)
2000年3月31日印刷  2000年4月15日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔