郷土をさぐる会トップページ     第18号目次

―札幌上富会会員―
上富良野の思い出

小嶋 富美子 昭和十二年三月十二日生(旧姓広瀬)

今、ふる里かみふらのも、ラベンダーの花咲く町として多くの人が訪れ脚光をあびています。とても嬉しいことです。
その昔、今のように交通手段の無い頃、私の生まれ育った小さな集落東中から、市街地の商店街まで出かけるには、徒歩か自転車を利用し、長い一本道を往復しました。その途中必ず足をとめた場所があります。
そこは、「硫黄川」(註・十勝岳旧噴火口を源流として流れるヌッカクシ富良野川)と、その近くの「ホップ畑」(註・現在の自衛隊駐屯地、富原、丘町周辺にはホップを耕作する者が多かった)です。
市街地に入るかなり手前に「硫黄川」があり、さして広くない川幅でしたが、両岸が薮のような間を、流れも速く、白濁し硫黄臭を含んだ水の行方をしばし眺めた覚えが幾度もあります。
また、ホップも、上へ上へと延びた多くの蔓に、無数の白い花を付けていました。色彩豊な派手さこそありませんが、これも「かみふらの」の特産物のひとつだった気がします。
上富を離れて四十年が経とうとする今、一番記憶に残っているのは生まれ育った東中の生活です。
昭和十五、六年頃から二十年代、三十年代にかけて、世の中が激しく変わって行く渦中で子ども時代をすごしました。
周りはみんな農家で、男の人はもっばら馬を使い夏は農作業、冬は丸太を引き出す仕事につき、丈夫な身体だけが頼りの自給自足に近い生活でした。
私の家も小さな農家をしておりました。勿論ランプ生活でしたが、それでも農機具の以外に当時では珍しいラジオや、蛇腹のついた写真機、自転車の外、母が里から借りたという蓄音機もありました。
動物は、父が母乳の足しにと、長野県から取り寄せたという山羊をはじめ、鶏・豚・緬羊・牛と、子ども向きには兎・猫・犬・蚕など多くのものを飼い世話をしていました。
洗濯も飲み水もすべて家の近くを流れる川の水を使っていたので、いくらか神経質だった母は、『ポンプが欲しい。ポンプさえあれば』とよく言っていました。子どもはそんな事に頓着無く、その川でドジョウをすくって鶏の餌にしていました。
昭和二十年、広島に原爆が落とされようやく終戦となりましたが、極度の物不足とつづく冷害凶作による食糧難で、日本中が食糧に窮していました。そんな時でも農家の自給自足的な生活は質素ですが、お腹いっぱい回虫の分も食べ、ひもじい思いはしませんでした。
着るものも緬羊の毛を紡いで、セーターや靴下、手袋、ももひきなど全て母の手作りのものを身に付けることができ、まさに草を食べさせるところから、一枚のセーターになるまで一貫していました。
今、東中の実家は弟夫婦が引き継いでいますが、サラリーマンの家庭から嫁いできた義妹が辛抱してしっかり家を守ってくれたお陰で、生まれ故郷に『里でございます』と、気兼ねもせずに訪ねられる幸せに感謝しております。
後年、山羊のふるさと(長野)に四年、原爆投下の広島に三年近く住み、北海道と違った歴史と文化にほんの少し触れる事ができました。現在の住まいに落ち着いて十五年になりますが、第二のふるさとをいくつか持つ今、心によみがえる遠い日の、ささやかな私だけの観光スポットと郷愁でした。

機関誌 郷土をさぐる(第17号)
2000年3月31日印刷  2000年4月15日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔