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―北海道― 農産物の包装の変遷

大森 金男 昭和七年四月一日生(六十八歳)

包装の使命

北海道において包装の重要性を認識して世に提唱したのは明治十一年、函館の回送業者・遠藤吉平氏であった。包装改善に関する建議書を時の内務郷に提出した。
遠藤氏は、東京から函館に回漕する米の荷造りについての改善を提唱したもので、開拓事業遂行の為、種々の物資が東京より輸送されたが、そのうち多量の米の海上輸送には従来の小移動を建前とした包装では不適当であり、国家的、社会的見地から包装の改善がとりあげられたのであった。
流通経済が発達した今日では多くの生産物は、生産地だけで消費することは少なく、多くは生産地から消費地まで輸送されて消費にあてられている。これらの生産物は包装を施すことによって、輸送保管中安全に保護し、目的地に運送することができるのである。それゆえに包装は商品の流通上の価値であって、商取引が発展しつつある今日はもちろん将来にわたって、益々重要性を帯びてくるのである。包装の商品上の価値は単に商品の販売価格を高めると言うことではなく、包装としてあく迄間接的にその価値を高め、その機能を増進するもので、流通経済上、商品の市場進出を最大限に助長することにあると言うべきである。
包装の使命は最小限、包装資材と能力をもって経済的に、しかも安全確実に生産物を荷造りし目的地に輸送し、最上の商品価値を以って市場に送り安全に保管することである。
従ってこの理想実現のため技術的要素が要求される。包装の製作、荷造りの技術的拙劣や包装資材の選択不適のため、包装、重量が規定よりいちじるしく重くなったり、或いは包装が脆弱になったりした場合、内容物の破損や減量等の事故を起こし、その商品価値を低下せしめるばかりでなく、労力・費用等を無駄にすることになるのである。更に包装は「美」的要素が加味され、好印象を与えなければならないと同時に、販売又は使用上の利便であらねばならない。
農家の粒々辛苦の結晶である生産物が陸運、海運により府県の市場に到着し、仕向地の人々に満足を与え且つ、道産品の販路拡張の目的に達しつつあることは包装の賜物であろう。
農産物の包装の主な種類
〔一、米麦用俵〕
昭和二十年代までは単俵(実子縄(みごなわ)二本で編む)で全量に使用されていた。材料は稲藁であるが道産の藁は短稈なので保管、輸送途中において俵が真二つに千切れる事故とか、編縄目の間から米麦の脱粒も多く包装容器として不適と指摘されていた。
昭和二十年に複式俵(実子縄三本で編む)が正式に米麦包装用に規定されたが、なかなか普及せず三本編複式俵製作競技全道大会を二十八年まで続け、又、米作農家の地区毎に製作講習会を開催し、三十年代には全量複式俵に普及された。
当時俵編に従事するのは専ら農家の主婦で、その苦労も大変なものであった。
〔二、雑穀用俵〕
豆類、えん麦、ひえ等に使用され北海道特有の「えん麦稈」で製作されたものであった。
〔三、馬鈴薯用俵〕
種子用並びに食用馬鈴薯の包装として古俵が利用され、昭和三十年代では年間二五〇万枚程度で、内、約百二十方枚程度は各県より移入されていた。種子用は稲藁複式俵であるが食用の殆んどは「えん麦稈」で製作されたものであった。
〔四、米麦用叺(かます)〕
昭和三十年代で年間四〇〇万枚程度使用され、主として三重県、富山県、福井県より移入されていた。
四十年に米叺の荷造り用として「ポリプロピレンダンバンド」の使用が認められる所謂「バンド叺」、然しこの叺は保管倉庫におけるはい付け、又は運送途中でも滑り易く、はい崩れ等の不安もあって僅少年で姿を消した。
〔五、雑穀用叺〕
大豆、小豆、いんげん、豌豆類に使用され、昭和三十年代で年間四十五万枚程度が青森県より移入、菜種、あま種用としては四十万枚程度移入されていた。
〔六、麻袋〕
黄麻の繊維より製作したもので、輸入食糧から発生した故麻袋が滞貨したことから昭和二十八年に小麦の包装に、三十七年には軟質米「北海道産」にも使用が認められ、四十一年産米から麻袋の使用が急速に増加された。包装別の比率では麻袋八〇・九%、叺一九・〇%、複式俵〇・一%で麻袋が主包装となった。
〔七、樹脂袋〕
昭和四十三年産米の包装に、更に五十年には麦についても樹脂袋、化繊袋の使用が認められたが、取扱い、保管上の問題等で普及は遅延したが現在も使用されている。
〔八、紙袋〕
始めは、でん粉に約七〇〇万程度使用されていたが後には馬鈴薯用、豆類用に使用され、米については、北海道の特殊事情(軟質米で水分十六%(府県の水分十五%))から紙袋の使用は平成六年に北海道においても規制が廃止され、現在に至っては、米の生産者出荷の多くは紙袋包装となっている。
〔九、布袋〕
未粉でん粉(篩(ふるい)に掛けていないもの)用として使用しており、精製でん粉(篩に掛けたもの、通称かたくり粉)は布袋の外装に麻袋を被せ二重包装として使用されていた。
〔十、隙箱(すきばこ)、木箱〕
馬鈴薯の隙箱は所謂、八角隙箱で百封度(四十五キログラム)のものが使用されており、木箱はりんご、玉葱用に使用されていた。
〔十一、フレキシブルコンテナー(ばら)〕
昭和五十五年からばら麦の出荷が開始された。後にはライスセンター等の施設により調製された米穀で、大型搗精工場へ出荷するものは(略してフレコン)この移送である。
道東地方の豆類出荷農家の主は、トラック荷台にばら積みで、豆類調製工場に搬入している、又小麦等は農協調製工場から大型トラックにばら積出荷され港の大型サイロへ移送されている。
俵包装による農産物輸送の時代から「ばら」輸送に一層進展していくものと思われている。
俵編の最も多かったころ―S三十年―
農産物の出荷も概ね終わると、外回りの片付けに入る畑作地帯では、春出し馬鈴薯の凍結防止のための覆土、大豆、玉萄黍は湿度の低い二月頃まで、家敷回りでシバレ乾燥するためのにお積、玉萄黍は稲架(はさ)掛けをする。
これらの作業が終ると、いよいよ来年使用する包装「俵編」作製が始まる。稲作農家では稲藁を材料とし、畑作農家では燕麦稈(えんばくから)を材料にした俵である。
窓の少ない納屋は昼間でも薄暗い。板壁の節穴から差込む光も屋内を見回す助けになるほどで、軒下の隙間から雀が出入りし、冷たい北風が遠慮なく吹込んでくる劣悪な環境での作業だ。火災防止のため火気厳禁は当然で湯湯婆(ゆたんぽ)が唯一の暖房であったが、家族が少なく茶の間の広い家ではストーブのある部屋での俵編ができた人達もいた。多くは納屋での作業で、指はヒビやアカギレで痛み、苦労と斗い乍ら一日当り十枚から十五枚編上げていた。
実際に俵編に携っていた人達に、当時(四十―五十年前)の状況を思い起してもらった。
(1) 戦後粗方電灯もついたが、以前の明りは安全灯くらいのもので、火災が恐ろしく窓明りで、休憩もとらず頑張った。
(2) 厳寒とならない年の瀬までに俵編を終らせ、裁縫や編物習いに通うため一生懸命であった。
(3) 経験の少ない嫁さんは姑さんの指導を受け、ほぼ同じ枚数を編上げるべく必死で頑張った。
(4) さん俵編は男の人も多く従事していた。中腰よりなお下向きでの作業で腰痛や肩の痛みも強く苦しい労働であった。
(5) 俵編み材料の藁は足ふみ脱穀機ですぐり(稲藁の葉の部分を除去する)、俵こも一枚分に計量するのだが神経をつかった。
(6) 実子縄(みごなわ)は購入するが、荷造縄は足踏による縄綯機(なわないき)で製作していた。
以上聴取りであるが、この苦労を将来において、俵編の経験可能とするため編方を記す。
複式俵、さん俵の編方
編縄の作り方
一図の編縄は長さ約三、九四メートルのもの四本と一、九七メートルのもの四本を用意する。三、九四メートルの縄の中心に一、九七メートルの縄を結びつけると一図の様に一、九七メートルの縄が結び目を中心に三木出来ることになる。次に結び目から約二十一―二十四センチ残したところから掌に内巻にして止める。
出来上った四組の縄を夫々、二図のように結び目を中央にして縄止器にはさむ。
縄止器にはさまない縄を「遊び縄」と言う。三図の細線の縄は遊び縄、点線と太線の縄は編み縄。
俵の編み方
良く乾燥した越年のわら(十二―十三本)を四図のように置く、図に示した番号の順序に従って縄を移動して編んで行く。図でも判る通り遊び縄のない方の縄を縄止器から外して遊び縄の反対側へおき、はずした後へ夫々遊び縄をはめ込むのである。
芯縄を入れる箇所とその編み方
芯縄二、三ミリのもの二本を用意し、それを入れる箇所は五図のように俵を十七センチ編んだ箇所に芯縄一本を、わらと共に編みこみ更に三十二センチ編んだ後に残りの部分を折り曲げて編み込む。二本目の芯縄は更に三十二センチ編んだ後、前回と反対の方向より同様に編み込む。
芯縄の編み込み方は、七図のように縄の端をわらこもから二十一―二十四センチ出し、わらと共に(1)(2)と右から二箇所編んだら(ロ)図のように芯縄をはずし、わらだけを(3)(4)と編み込む。
次にわらと共に(3)(4)の箇所にわらを入れ(4)(3)(2)(1)の順に編み込む。
俵の結び合せ方
六図のように表面を外側にして、編み始めと編み終りを合せて完全に結ぶ。
さん俵の作り方
さん俵組台の外縁に三センチ間隔の目盛を刻み、わらを把む量を明らかにする。
わらは大束一把をよくすぐり、重量三七五―四五〇グラムに計量して根本から四十二センチ上った位置を固く括(くく)るために、その位置でわらをよく折曲げて縛り直し、根元の方を二等分してよく捌き、さん俵組台の芯に押しこむ。
根元を図のように均等に拡げてから、穂先の方も根元の分け目と交又する位置で二等分し、根元に重なるよう平に拡げる。
組数は三十五以上に堅く組むことが肝要である。
目貫の通し方
長さ六メートルの小口縄二本を用意し目貫を作る。
小口かがり縄は、俵こもの継目の二房目の位置から俵に向って右から左へ、三房づつ掬(すく)い九箇所通す。
さん俵のあて方
俵こもの端(ひげの部分)を充分内側へ折り曲げる。この場合、一握りづつ一度強く外側へまげて、更に内側にまげると編縄の所から完全に折れ、さん俵が密着できるようになる。
さん俵を当てたら芯縄で十文字に結びさん俵を強くおさえる。小口かがり縄で順次右へ一廻りめは皆すくい、二廻り目から三つ飛にかがり、中央で交又した縄を皆すくって引締め、縄端は起点へ返して、蛙股結びとし菊花形にかがる。
横縄・縦縄のかけ方
横縄は九―十一ミリ縄で五箇所と二廻りして蛙股結びとする。縦縄に使用する縄は横線と同様で、二筋をもって四方掛けとし、両端横縄には戻掛けにし、中央三箇所の横縞には皆引掛け(下くぐりにして引掛ける)、両小口の縦縄は戻掛けとし男結びとする。
以 上
この原稿を書くにあたり、札幌食糧事務所・上野健市さん、同所富良野支所・斉藤光義さんから資料の提供を受けたものと筆者の記憶によるものである。

機関誌 郷土をさぐる(第17号)
2000年3月31日印刷  2000年4月15日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔