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此日、余は(その一)
―遠藤藤吉小伝(藤吉の日記から)―

遠藤 博三(藤吉三男)
昭和二年十一月二十八日生(七十三歳)

はじめに

『おじいちゃんてどんな人だったんだろう』という声を聞いたのは、母ミセの通夜の夜(平成五年四月四日)であった。『ああ、みんなには父藤吉は遠い昔の人になったんだ』という思いが頭をよぎった。
父藤吉が死んで二十三年も経っていた。
父藤吉という人を藤吉の孫たちに何と語ったらよいのだろうかと考えたときに、父藤吉が残した日記帳のあったことを思い出した。
この「此日、余は」はこうした一寸した声を動機として生まれた。藤吉その人の思い出がみんなの記憶から薄れていく今、その人の姿を少しでも残せるとしたらそれだけで意味があると考えた。
なにしろ百年前まで遡らなければならない。在るものは藤吉の日記帳四十五冊である。まず読み取らなければならない。旧漢字、旧仮名遣い、藤吉独特のくずし書きなど藤吉の日記が誰にも読まれず塵をかぶっていたわけが判った。
日記帳の全部を読んでそれをワープロに起こすのに二年間、それを基に草稿作りに十ケ月余、そして加除修正に三ケ月余、こうしてこの小冊子「此日、余は」が出来上がった。草稿作成に当たっては次のことに留意した。
・藤吉の日記の記述に忠実に従う。
・藤吉を誉め讃える冊子とはしない。
・藤吉のその年の日記に従ってその一年間を一頁(註 原冊子)にまとめる。
また、標題を「此日、余は」としたことは藤吉の日記を読み始めたときから決めていた。その理由は、
◎ 藤吉の日記の記述は判を押したように「此日」から始まっていた。
◎ 日記の中で藤吉は自分自身を「余」と記していた。この「余」という字に藤吉の誇りの高さと生き方考え方が窺えた。
このことから、この冊子に「此日、余は」という題を付けた。
ここに、「此日、余は」を発行するに至った今、父藤吉の日記から藤吉の気質、人柄といったものはうかがえたが、藤吉の人生観、処世訓といった記述が極めて少なくそれが伝わって来なかったことが残念に思う。従って藤吉ってどんな人だったかということは、読んで戴いた方々にお任せする外ないと考える次第である。
(平成八年六月 藤吉三男 遠藤博三)
北海道渡道まで
遠藤藤吉の日記は、渡道した大正七年から昭和四十年までの四十八年間の中、大正七年・昭和二十八年・二十九年の三か年を除いて四十五冊残されている。藤吉の一生を振り返るとき誠に貴重なものである。
大正十五年の日記の家長経歴≠フ欄に次のことが記されている。
族称  平民
職業  大工
姓名  遠藤藤吉
父母  遠藤惣次郎・タニ(長男)
出生地 栃木県足利町字富町木ノ下
育成地 新潟県三島郡上岩井参千九百七拾八番地
学業地 本籍地
徴兵  補充兵陸軍歩兵
縁組  大正五年十二月二十日
この中で、学業地は本籍地とある本籍地は、戸籍謄本によると「新潟県三島郡脇野町村大字上岩井三四九八番地」である。
遠藤藤吉は、明治二十八年四月十七日、遠藤惣次郎・タニの長男として栃木県足利町で生まれた。出生地が本籍地と異なるのは、大工の棟梁であった父惣次郎が足利町に出稼ぎしていたためと思われる。
藤吉の学歴について三島町教育委員会に問い合わせしたところ教育長山田英一氏より次の回答を戴いた。
「学校につきましては現在の脇野町小学校の前身の上岩井小学校を卒業しております。学籍簿によりますと明治三十四年五月一日に入学され明治三十八年三月二十五日に卒業されております。成績は優秀であると記録されております」とあり、藤吉は小学校を卒業していた。
小学校を終えた後の十年間程の生活の様子を知る手掛かりとなる資料は残されていない。従ってその十年間のことは、藤吉が折にふれて語った事柄や日記から推察するしかない。まず、大工の棟梁として素晴らしい腕の持ち主であった父惣次郎から大工職人として徹底的に鍛え上げられたようである。
前述の教育長の手紙の中に「遠藤忠作さんのお話によりますと、上岩井の石井(いわい)神社を父惣次郎さんと一緒に建築にあたられたとのことです」とある。そしてその後に、他人の飯を食う出稼ぎ修行の時があったものと思われる。何処へ出掛けたかは不明であるが、出生地が栃木県足利町であること、大正十一年七月二十一日の日記に「内地より手紙来る。前橋の蔵吉死亡の由通知ある」の記述があること、大正十二年二月二十二日の日記に「前橋本間ますより小包送りの手紙来る」の記述があること、昭和七年一月四日の日記に「余は高崎方面に行く。小林一郎さんに御伺す」とあることなどから北関東方面であったろうと考えられる。また、兄慎治の記憶しているように東京でもあったであろう。
満二十才の徴兵検査では、補充兵陸軍歩兵となり、従って軍役の経験が無い。
藤吉が新潟県古志郡上川西村大字横の山二十六番地の河田六蔵・サキの六女「ミセ」(明治二十九年三月二十九日生)と結婚縁組したのは大正五年十二月二十日(婚姻届は大正六年二月二十七日)のことである。そして、大正六年十一月三日長女「トミ」が生まれている。
遠藤藤吉の渡道に至る事情はよく判らない。まず初めに藤吉の渡道の背景は、藤吉の渡道の動機付けとなったものはと考えたがどうも良く判らない。そうしたときに、北海道新聞社発行の北の生活文庫「北海道民のなりたち」という本を手にすることが出来た。その中で道庁時代の北海道移民の項に次のような記述があった。
「明治十九年から許可移民の始まる直前の大正十一年までの三十七年間についてみると、この時期は府県の側の農村構造の解体が進んだこともあって北海道移民が最も増加している……。この三十七年間の総移住者は二、〇一四、六〇三人に達しており、これらの人々が近代の北海道開拓に直接かかわったのである」さらに「北海道移住の波は、大きく分けて三つの山があることである。すなわち、明治三十年前後の第一の山、明治四十年前後の第二の山、大正前期の第三の山がそれに当たる。これらの時期は、いずれも日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦という近代日本が体験した対外戦争の時期と重なり合っている」藤吉の青少年期がこの時期である。相次ぐ三つの戦争を経て、国内の疲弊が顕著となり、農村は困窮を極めていた。脇野町村も例外ではなかった。
「北海道民のなりたち」の一四七頁に、明治二七〜三一年を第一期、明治三八〜四二年を第二期、大正四〜八年を第三期として北海道移住者送出の主要府県の表が示されているが、その中で新潟県(越後)は第一期三位六、七五六人、第二期二位八、四一九人、第三期四位九、二二三人となっている。
このことは、この頃、新潟県(越後)には北海道移住の気運が満ちていたといえるのではないだろうか。藤吉の北海道移住は第三期に当たる。
大正七年(一九一八年)―藤吉二三才―
※この年の日記が見当たらない。
何時のことか判らないが、ひと旗挙げようという藤吉の決意は固まっていったものと思う。この年の渡道以来、昭和六年の年末に父病気の報に接して上岩井に赴くまで、只の一度も帰国しなかったことからも、その決意の固さがうかがえる。
北海道に行こう=Aこうして藤吉は父惣次郎の弟子である渡辺一雄と小林子之八の三人で大正七年の春北海道に渡った。日程や行程など分からないが、既に旭川〜富良野間の鉄道が開通していたので旅そのものの困難は少なかったものと思われる。
大正八年十月二十四日の日記に次の記述がある。
「余は大正七年三月三日、一人にて移住、東中。三月、家内来る。子供有る。内地財産は畑三反歩代価二百円、宅地共六百円。父は内地に居る。払い下げ後は移住する。開くに入用金三百円として現金有る。西谷さん小作す。畑三町歩小作す。小作年数なし」これは、土地払い下げに関する役場の調査に対して答えたものである。
上富良野に着いたのは前述の大正七年三月三日であったであろう。藤吉の話によれば、中富良野東九線十号「玉井松蔵」さんに草鞋を脱いだという。
三月末に妻ミセが長女トミを連れて来道し、藤吉の許で暮らすようになった。
小林子之八はそのまま同居していたが、渡辺一雄は山部村で木工場を建てる話があって山部村に赴き、そのまま山部村に住むことになる。
雪がとけて、西谷農場(西谷元右衛門氏)から畑三町歩を借りて雑穀類を作る。大正八年五月十六日の日記に「子之八は田畑の仕事す」、同年六月七日の日記に「午前中、松田さんに畑ハロー掛けて貰う午後も頼み、西谷さんより七貫目燐酸一俵借りる。豆播きす」の記述がある。畑を耕作するとともに大工として働き、賃金収入を得て厳しい北海道の一カ年を過ごしたようである。北海道はまだ未開の地、大工の仕事はいそがしかった。
どんな処で、どんな家に住んだのか。大正八年二月十四日の欄に「家内、山を下る」とあることから、恐らく、山奥の開拓地、草葺きの隙間風の吹き込む板張りの粗末な仮屋であったであろう。勿論電気は無く、夜はランプの明かりの生活であった。八十年前の話である。想像するしかない。
大正八年(一九一九年)―藤吉二四才―
寒気が肌を刺す極寒の地で初めて迎えた正月は、何とか明けたようである。正月二日に馬橇で上富良野市街に行き買物(五円四十九銭)をし、六日には二円三十銭の角巻をミセに買い与えている。正月三日には十号の玉井さんを訪れて泊まっているが、これ以後も正月とお盆には玉井さんを訪れ、渡道一夜の宿を借りた恩義を忘れることはなかった。
大工仕事の方は順調に緒に就いた様である。質と量はともかくとして、その仕事を順に列記すると、
・青年倶楽部の仕事    ・見附さんの仕事
・市街飲用木管の仕事   ・興正寺増築の仕事
・倍本神社の仕事     ・東中校の仕事
・西谷さん馬屋の仕事   ・堀田さん倉庫の仕事
・湯浅さんの仕事     ・西谷さん住宅の仕事
・尾矢さん納屋の仕事   ・中谷さんの仕事
と続いた。大正八年の月別収支一覧がある。集計してみると総収入三、一四四円七八銭、総支出三、〇四八円七十六銭、差引残九六円二銭の黒字である。
藤吉が北海道に渡って来てからの願いの一つに土地の取得がある。土地払下げのため上川支庁で売払地図を調べ、十号玉井さんに上土別の売払地の話を聞いている。十月四日には、西谷さんに売払地願と戸籍謄本を出している。十月二十四日に役場に出頭したのも、土地払下げについての事情を聴取されたもので、このことは、次の年も続くが結局実っていない。
平地に自分の家を建てることも大きな願いの一つであった。三月には西谷木工場の踊り場と思われる処を自分で改造し、三月三日に転居している。
更に、十二月に入って上富良野村東十線北十九号の地に自分の家を建て(十二月十四日建前)、年の瀬の十二月三十日に移り住んでいる。宅地は片山さんから借りたようで、大正九年十二月十八日の日記に「此日、片山さんに地代十円支払す」の記述がある。
この家には、大正十二年七月三十一日上富良野市街に転居するまで住むことになる。
厳しい自然条件は身体にこたえる。藤吉は感冒で三月十五日から十日間、上富良野市街の山藤病院に入院している。健康保険制度の無い時代、二十三円五十銭の支払は痛かったであろう。六月二十七日にミセが病気になったとき、「余は朝食支度す。倍本の塚田さんより玉子六ケ買取る」と記されているが微笑しい夫婦愛を感じる。このとき、次の日購入した分と合わせて玉子十二ケの代金として一円五十銭支払っているのは驚きである。
弟弟子渡辺一雄の結婚に口添えして縁組みをまとめている。
大正九年(一九二〇年)―藤吉二五才―
この年も仕事は順調に続いた様である。列記すると、
・三浦さんの仕事   ・正瑞さんの仕事
・加賀美さんの仕事  ・青地さんの仕事
・山藤さんの仕事   ・学校の仕事(校舎増築外)
・西谷さん住宅の仕事 ・田井さんの仕事
・西谷さん長屋の仕事
などである。年間の収入を計算すると、総収入七、九九二円二銭、総支出七、二九四円九〇銭と大幅に金額を伸ばしている。
土地の問題については進展がないが、四月五日に宅地の話を人に聞いている。また、六月五日の日記に「泉川さんに下富良野宅地を願う」という記述があり、六月十一日には役場で売払いについて身元調査を受けている。
渡道して以来、同郷の人々に対する思いやりは強かった。正月六日に藤吉は山部の渡辺宅を訪れて泊まり、十五日には渡辺夫婦が藤吉宅を訪れて泊まっているが、この行き来は身体が不自由になる晩年まで続いている。また、元井庭吉の妻女の死亡に当たっては四日間にわたり親身の世話を尽くしている。
藤吉の日記の随所に「西谷さん」「親方さん」という人の名が出て居る。「西谷元右衛門さん」のことである。遠藤藤吉が渡道以来、そしてその生涯にわたって、その生き方や事業の発展の上で最も影響を与えられた人である。藤吉が移住して初めて居を構えた処が西谷農場内である。そして、大正八年一月二十四日の日記に「此日、親方の処に行く。仕事の話す」の記述がある。仕事のことを含めあらゆる面で相談したのであろう。藤吉が事業を進める上で大雄寺の建立、東中地区での各種事業、村の公共事業の請負等で常に西谷さんの支えがあった。
昭和二十六年八月十五日に西谷元右衛門さんが亡くなられて葬儀を終えて帰ってきたきた藤吉が『三番目に焼香させて戴いた』と感慨深く語った。東中地区開拓の偉大な功労者の葬儀の場で、親族に続いて三番目の焼香順序に感激以上の思いがあったのであろう。
前の年の十月三日の日記に、「此日、箪笥送る手紙来る」の記述がある。藤吉の渡道は、それこそその日その日を暮らす身の廻りだけの荷物と大工道具を持っての渡道であったと推察される。
興味あることとして六月十五日の日記に「夜、活動見に行く」の記述がある。無声映画を見に行ったということで時代を感じる。
次女「ヨシノ」が二月十五日に生まれている。
大正十年(一九二一年)―藤吉二六才―
この年の四月まで内仕事の日が多い。顔が広くなったと言うか、腕が認められたと言うか、色々な処から色々な品物の注文があった。並べてみると、学校の額縁・戸棚・塵箱・ストーブ台・人体模型箱・ピンポン台・生徒の机・腰掛・本箱。その他個人の依頼をあげると、竹篭・本立・仏壇・卓机・張板・炬燵櫓・風呂桶・仏様・鳥篭・飯台・下駄箱・神棚・建具作製など千差万別で驚きである。
この頃の食生活の一端を示すこととして、十一月二十二日の日記に「イナキビ一斗三円にて買う。高野さんより米五俵頼み届け下さる。一俵十五円とす」一月十三日の日記に「石田さんよりストーブ買う。
代価七円五十銭支払う」という記述がある。
当時の生活を垣間見る思いがする。
この年も仕事は順調であった。色々な人からの仕事の依頼があった。また、公的な施設の仕事に参加するようになった。まとまった仕事として
・松原さんの馬屋の仕事 ・学校の土台替の仕事
・馬市場の仕事     ・部長派出所の仕事
などがある。
この年は慶弔相半ばした年であった。十一月六日、次女「ヨシノ」が急死している。極端に悪い医療事情の地に在って、一才七ケ月余の幼い生命は耐えることが出来なかった。藤吉・ミセ夫婦にとっては初めての肉親の死、残酷な悲しみであった。
次女ヨシノの戒名「玉妙童女」
次女の死から一ケ月が経った十二月十一日、長男「憲一」が生まれた。遠藤家に初めて恵まれた男子。慶弔相半ばしたこの一ケ月、複雑な思いの中でこの年は暮れた。
長男としての藤吉には、内地(上岩井)に住む両親の生活を扶助する責任があった。藤吉の内地への送金は、日記によれば大正八年七月五日の「内地に五円送金す」を始めに毎年の日記に見られる。この年も、一月十三日に五十円、九月二十六日に五十円、十月八日に十円と記されている。日記に記されていない送金がもっと別にあったと思われる。また、職人達が内地帰国に当たっては、必ずお金を持たせて両親に届けることを依頼している。大正八年十一月十四日の日記に「此日、周市君出発す。金三十円依頼す」の記述がある。
大正十一年(一九二二年)―藤吉二七才―
人にはその人の人生を画する時がある。遠藤藤吉にとっては、この年が画期的な時となった。それは大雄寺の建立≠ナある。若干二十七才の棟梁藤吉が社会的にその人柄と力が認められた。大雄寺建立を請負いするに至った経過は詳しくはわからないが、前年の十一月十五日の日記に「此日、一番列車にて西谷さんと坊さんと三人にて旭川に行く。大休寺を見物し、十一時の列車にて深川に行き大寺を見る」の記述があり、西谷さんとお坊さん三人で旭川の大休寺と深川の寺を視察している。西谷さんの支えがあったと思うが、ともかくその人物と腕が認められたという事実には間違いない。
寺の仕事を始めたのは四月二十三日、その日の日記に「此日、寺を始める。夕方帰宅す。仕事始め酒肴代五円貰う」の記述がある。寺が落成したのは次の年の四月二十二日、満一ヵ年の期間を要した工事であった。
父惣次郎が、息子の生涯をかけることになる建立に、助っ人として渡道して来た。藤吉の妻ミセが平成五年四月三日、九四才の天寿を全うしたとき、宗派の違いを越えて寺の使用を認めたのも古いいにしえの放かと思う。今の大雄寺住職が「この寺を建てるとき、藤吉さんのお父さんが手伝いに来てくれていました」とその昔を語っていた。
この年、その外に個人の家屋の仕事として
・伊藤さんの仕事   ・向山さんの仕事
・松岡さんの仕事   ・藤井さんの仕事
・西谷さん工場の仕事
などと共に、市街学校の増築工事を請負って、順調に業績を伸ばしている。
土地(宅地)を求める動きを続けて居る。十一月十日「泉川に行き土地の話す」と記されている。
一月三十一日の欄に「林茂治さん死亡に付行く。葬式道具を造る」との記述があるが、この当時の葬式事情を知る上で興味のあることである。
この年の日記に「ミセに○円渡す」の記述が十五回ある。家計費を妻に渡していたということであろう。必要に応じた家計費の支給ということで、事業費を含め経理の一切を藤吉が管理していたようだ。
弟惣吉が三月十五日に来道し兄藤吉の仕事を助けていく。
大正十二年(一九二三年)―藤吉二八才―
この年、これから永住することになる本格的な家屋を建てている。宅地は河村郵便局長から借りたようである。二月八日の日記に「此日、郵便局に行き主人に話をし、土地を借りる事にす」の記述がある。
三月十六日に十九号の家を取壊し、二十日に市街の仮屋に近所の馬車六台の手伝いを受けて引っ越している。新居移住記念の意味であろうか、五月二十一日に現存する水松を運搬し移植している。
家造りは六月に入って始めたようで、六月二十七日に現在地に建前をし、引越したのは七月三十一日であった。(上富良野村字市街地三五一番地)なお、現在の宅地を取得したのは昭和二十六年のようで昭和二十六年三月四日の日記に「此日、局に行く。土地の代価を三回位に支払をする事に話をす」とありこれから後七十年余、遠藤藤吉の一族はこの地に住み現在に至っている。
前の年に始めた大雄寺の工事は、この年になって仕上げ工事に入り、四月二十二日に盛大に落成となった。餅撒きをし、見物人三千人位と記述されている。上富良野町史には、この日は入仏式と記されている。
これまで四年間、建築一筋に進んできた仕事も、この年に入って土木工事にも手を広げるようになった。その一つ、東中土功組合の仕事は箱樋取付けという記述から、潅漑用水路工事と考えられる。また、新井牧場の一号橋から七号橋の工事を約一ヵ月している。
この年の最も大きな仕事として東中小学校の新築がある。小学校は三月十六日に全焼し、その後、仮校舎の建設から本校舎の建設そのものは西谷さんが請負ったようであるが、その工事全てを手掛けている。
このほか、東中青年倶楽部の増改築、東中土功組合の仕事など、全てにわたって西谷さんの世話があった。
個人の家屋としては山口商店の新築工事(約二ヵ月間)がある。
この春、弟弟子小林子之八を一月十五日に結婚させ、新居を三月一日に建ててやっている。
長男「憲一」は生まれ付き虚弱であったようである。またそれだけに、父藤吉の憲一に寄せる思いの強かったことが日記を通して窺える。憲一が一月二十四日に発病入院したとき、三夜にわたって病院に泊まり込み、体温の変化を日記帳に記して容態の変化に気を配っている。
筆者、遠藤博三氏から、冊子「此日、余は―遠藤藤吉小伝―」を戴いたのは、平成十一年の春でした。遠藤藤吉さんは大正・昭和と二十世紀において、大工棟梁として活躍されると共に、また上富良野町土木建設業界の重鎮として、多くの業績を残されておられることは広く知られているところです。この度、そのご子息(現在旭川市在住)の筆者が、冒頭に書かれているように、ご尊父の遺された四十五冊にわたる日記を基にして、これを六十頁の冊子にまとめられられました。それは、お孫さんや親族など御子孫に、ご尊父の足跡を残しておきたいと言うことで書かれたもので、発行部数も五十部とのことです。拝見させて戴きますと、ご尊父やご家族・ご家庭、そしてお仕事のことばかりでなく、当時の社会や経済、生活の様子や、その変遷が記されており、郷土上富良野発展の歴史を示す貴重な記録のひとつであると思い、この度、筆者のご理解を得て御寄稿戴きました。次号へと連載する予定です。
                            (編集委員 中尾之弘記)

機関誌 郷土をさぐる(第17号)
2000年3月31日印刷  2000年4月15日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔