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シベリヤ抑留 心に残る悲しい憶い出

故 打越  正 大正十三年一月十日生
平成十一年三月十四日没(享年七十五歳)

北緯五十度を更に北へ数百キロ離れた、此処はシベリヤの奥地。敗戦後満州に駐屯していた日本軍はおよそ六十万人、その殆んどはシベリヤの地に送り込まれた。そして六万五千人がこの地で死んで行った。シベリヤの冬は零下四十度を超える極寒地帯で、寒さは肌を刺す様だ。この年の十二月、一人の兵士が栄養失調で眠る様に死んだ、歳は四十二歳だった。
敗戦の(昭和二十年)六月、満州で召集を受け、教育半ばで敗戦を迎え、この地に送られて来た人だった。小柄でやせていた。
その頃は食糧が不足し、高梁(コーリャン)のお粥が湯呑み一杯と少々の塩のみだった。集まると腹一杯たべて見たい話ばかりだ。朝、顔を洗う者など一人も居ない、髭はのび放題、肌着も軍服も数ヶ月着の身着のままだった。「シラミ」は帽子から靴にまでいる、寝る時は身体を寄せ合って寒さを凌いだ。
捕われの身となった境遇の中で、ただ空しさだけを噛みしめる。夢も望みも消えて厳しい寒さの中で思うのは、ただ在りし日のなつかしい故郷の思い出の数々で、次から次へと浮かんでは消えて行く。
そんなある朝、一人の兵士が死の数分前、静かな口調で頼むでもなく力なく言葉を口にした。……俺は六月に「ハルビン」で召集を受けた。妻は初江という。若し引揚げていれば山梨へ帰っているだろう…ただこれだけを口にした。そして、その後間もなく息を引き取った。私はこの兵士が今どこに埋められているのか分からない。ただこの兵士の名は早川清丸といい、亡くなった日は十二月六日、そして妻の名と引揚先を心に刻んだ。若し帰る事があったら伝えたいと思ったからだ。その頃は紙もなければ鉛筆もない。そして帰れる見込すらない。はかない望みと知りながら、忘れない様にと心にとどめておいた。
この冬は多くの戦友が、栄養失調と発疹チブスで死んで行った。六万五千人の大半はこの年の冬に死んだ。多くの犠牲者を出したシベリヤの抑留生活。
遥か故郷にいる妻子や親兄弟を思い浮かべながら、切なく異国の土と化し、未だ帰らぬ多くの同胞らの事が、今も脳裏から消える事はない。結核にかかっていた人は殆んど死んで行った。作業中に事故で死んだ者、あるいは脱走を企て射たれて死んだ者、捕えられて奥地に送られた者、思い出すとあまりにも多い。
老人大学書道部の安井敏雄さんの作品の中に、抑留体験として『鳴呼腹へったナァー、日本へ帰りたいナァー』と書いたこの言葉程抑留者の心をとらえた言葉は他に見当らない。
私は四年の抑留生活を終え、故国日本に帰る事が出来た。勿論心に留めていた早川清丸さんの死を、引揚援護局へ報告して帰った。その数日後、奥さんから一通の手紙が届いた。内容は『満州から何一つ持たず引揚げて来ました。そして夫の帰りを千秋の思いで、ただそれだけを生甲斐に待っておりました。過日、お役所の方からの連絡で、貴方からのお知らせで夫が亡くなっている事を知りました。どうかもっと詳しく教えて下さい』との事だった。私は当時の状況を含め、詳しく書いて送った。
そして、早や五十数年の歳月が過ぎ去ってしまった。遥か祖国に思いを馳せ、故郷の土を踏む事も出来ず、肉親と逢う事もかなわず、今も切なく淋しく眠る多くの戦友を思う時、何んともやりきれない悔しさを感じながら、私は生涯の中で最も悲しい思い出として、この文章を書く事とした。
(老人大学作文集より)

機関誌 郷土をさぐる(第17号)
2000年3月31日印刷  2000年4月15日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔