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―平山硫黄鉱業主平山徳治氏を語る―
硫黄王『なぐれ徳』物語

樋口 義久 昭和三年三月十一日生(七十三歳)
(大分県津久見市在住)

はじめに(編集者)

大分県津久見市の郷土史家樋口義久氏からの照会で、硫黄鉱山主であった津久見出身の平山徳治(トクジ)翁の調査について、十勝岳大爆発で失なった平山硫黄鉱業所関係資料を送付した所、平成十二年三月三十一日に「津久見史談第四号に―硫黄王「なぐれ徳」物語―が掲載発行されました。
上富良野町郷土をさぐる会として、執筆者、樋口義久氏(津久見市郷土史研究者)と、孫の平山徳治(ノリハル)氏(津久見市役所勤務)の御了解をいただき転記する事にしました。
上富良野の歴史の中での「平山徳治翁」と「平山硫黄鉱業所」の存在を知っていただきたいと思います。
尚、当時の平山硫黄鉱業所に勤務していました次の二氏が郷土さぐる誌に思い出を記してありますので、ぜひ参考に一読下さい。
○ 第三号 硫黄採掘事業に従事して       上坂 定一氏
○ 第四号 硫黄の採取と運搬          相良 義男氏
「なぐれ徳」とは
食いつめて明日の生活のあてもなくさまようことを津久見の方言で「なぐれる」と言います。したがってなぐれ徳とは救いようの無い駄目人間につけられた軽蔑のあだ名です。
なぐれ徳こと、徳治は明治六年(一八七三)千怒村久保、平山幸吉の長男に生まれました。下に妹が一人いました。子供の頃の呼び名は「徳やん」でした。「やん」は津久見の方言で「ちゃん」のことです。ちゃんも使われていましたが、どちらかと言えばやんの方に親しみがありました。
生い立ち
徳治の少年時代はよい意味で普通でした。温和で明るく、誰とでも遊べる良い性格でした。当時は津久見全体が人口五〇〇〇人、農業と漁業が主で、みかんもまだ弊定を知らず、農薬散布も無い時代でした。魚肥をやる以外は自然栽培も同然で専業農家はありませんでした。
畑は主食であった麦・藷を確保するのが精一杯で若者は茸山へ出稼ぎ、大工・左官・日役取りが普通でした。千怒では千怒崎が漁業、広浦が帆又は手漕ぎ貨物舟の舟子、在は半農兼日役取りが大まかな職業分類でした。子供は小学校を卒業すると体力のつくまで家業を手伝い、十五、六才頃から自力による生活を強制されました。徳治は家の手伝いをしながら、当時な茸山分限の出現で始まったみかん山の開墾の手助けに行きました。
開墾は石垣築が主な仕事ですが、徳治は気が利く上に真面目なので皆から調法がられました。
調子が狂う
村人の褒められ者であった徳治でしたが、思春期にはいってからだんだん評判を落とすようになりました。すでに同級生は茸山に行ったり、大工・左官の弟子になり独立しようとしているのに、独り徳治だけは一向にその気配がなく、親が訳を聞いても「わしはそんな仕事は嫌いじゃ」と拒否するだけでした。だといっても決して徳治は怠け者ではありません。今では石垣築も一人前の腕前になって自分で請負ってやっていました。ただ困ったことはずる休みの味を覚えたのです。仕事が一段落すると貰った金をそのまま母キヨに渡し、翌日からその金が無くなるまで二階の一室に閉じこもるようになりました。
母キヨの証言では食事・便所・風呂以外には降りて来ず、心配になってそっと覗いて見ると万年布団の上に横になって何か考え事をしている様子でした。
その傾向は年と共に激しくなるばかりで、はじめは遊びに来ていた友人も寄り付かなくなり、次第に孤立して行きました。でも金がなくなると声のかかった仕事をさっと引き受け、見事な出来栄えで責任を果たしました。しかし、村人は徳治の心情を理解することができず一種の変わり者として見るようになりました。そして何時とも無しに反抗期に入った子供を叱るとき「お前も徳やんに似て来たぞ」という言い方が流行するようになりました。
悪名のエスカレート
明治二十六年、日清戦争の前年に徳治は兵隊検査(二十才)を受け、その後九重の硫黄鉱山へ出稼ぎに行きました。ところが行ったり鉄砲玉、盆も正月にも帰らず翌年は行方不明になりました。「雲仙で後ろ姿を見た」とか「阿蘇山でそれらしい人影に声をかけて見た」と言う村人の証言がありましたが、三年目にはその風の便りさえ届かなくなりました。
村人はあれこれ想像しては噂に尾鰭をつけていましたが、とうとう最後には「なぐれ徳」の汚名を着せてしまいました。だが人の噂も七十五日、そのうち徳治の話題は村人の興味を引かなくなりましたが「なぐれ徳」の醜名だけは一人歩きを続け十年の歳月が経ちました。
徳治の実像
ところで場面は変わってこの間、徳治本人はどうしていたかと言うと、村人の想像とは裏腹に水を得た魚のように生き生きとして将来の野心に取り組んでいました。そもそも硫黄山に来た目的は出稼ぎなどというような単純な動機ではありませんでした。
二階の一室で数年間悩み抜いた結論を、現実のものにするための第一歩だったのです。徳治の本心を母キヨが見抜けなかったほどですから、村人が誤解したのも無理はありません。徳治がどういう経過で硫黄山を選んだのか一切不明ですが、とにかく真っすぐ九重へ行ったことは間違いありません。当時九重に近い湯布院のなげ山という所で茸山をやっていた親戚がありました。そこへ徳治が二回遊びに来たという言い伝えが残っております。
徳治の学んだもの
徳治は働きながら一心に勉強しました。

一、地下鉱脈の採掘
硫黄鉱床は地殻の割れ目に沿って層を成し、坑道を掘って採掘することと、砂岩が混じっており精製する必要があることを知りました。
二、液化採集法
地下から噴き出す亜硫酸ガスを石製パイプの烟道に通し、自然の寒気で冷却する。
途中で液化したのを集めると純度一〇〇パーセントに近い高品質の製品が出来ることも知りました。欠点は寒い期間しか操業出来ないことでした。

どちらの場合も石垣築の技術が不可欠で、徳治には適性があることが判明しました。
一年でだいたいのことがわかりましたが鉱脈の走り方は複雑で、これを知るには地質学の勉強の他に各地の鉱山を実際に見る必要があることを専門家のアドバイスで知りました。
流浪の旅の始まり
研究の旅は隣の阿蘇山から始まりました。続いて雲仙・霧島・桜島、果ては薩摩半島沖の絶海の孤島、硫黄島まで渡りました。徳治はまるで何かに取り付かれたとでもいうような心境で家のことは完全に忘れていました。だが人生は小説より奇なり。思いがけない人生の転機がそこに待っていました。
大阪から定期的にやってくる貨物船の船長と知り合いになれたことでした。船長は北海道から九州まで全国を航海するので各地の産出量を詳しく知っており、北海道・東北が抜群に埋蔵量が多いことを教えてくれました。その上、那須岳(栃木県、一九〇五メートル)の鉱山主に紹介状を書いてくれ、大阪まで帰りの船に便乗しないかと提案してくれました。
一路那須岳へ
明治二十九年、船長の好意で大阪港に着いた徳治は、お礼を言い再会を約束して大阪駅へ向かいました。汽車は当時すでに広島まで開通していました。
東海道本線は、天下の険の箱根の山にトンネルを掘れず、富士山との境にある御殿場を経由していました。急坂のため二連の機関車で引っ張っても、のろのろ運転のため一昼夜かかりました。初めての汽車の旅でしたが、徳治にとっては未知の国への門出にふさわしい希望に満ちたものでした。東京では乗換えのため一泊しましたが、待ち時間を利用して陸軍払い下げの軍服を担げるだけ買いました。硫黄のため木綿の服はすぐボロボロになるので純毛製の軍服は作業着として最適だったのです。
東北本線黒磯駅までは二〇〇キロ、七時間の旅でした。駅に着いたのはすでに太陽が西に傾く頃でしたが、真西眼前十キロの至近距離に二〇〇〇メートル級の連山が高々と聳えていました。その一番高いピークから噴煙が立ち昇っていましたので那須岳があることが一目で確認できました。だが不思議なことに距離が竹田から見る祖母・傾連山(一七〇〇メートル)とそっくりでありながら、高さに関してはいささか期待外れでした。
その夜、近くの宿に泊まりましたが、宿の主人にその事を話すと黒磯がすでに三〇〇メートルの高原であるとのことでなぞが解けました。翌朝は早めに出発して二十キロの山道を急ぎました。まだ日の高いうちに到着し、親方に会うことが出来ました。紹介状を渡したところ、「援軍来る」と喜んでくれ山男全員が集まり歓迎会を開いてくれました。
二重の幸運
徳治の目的は鉱山主になることでしたから、自然他の人たちとは働きぶりが違っていました。それに石垣築の技術、鉱脈に詳しいことは親方を満足させるのに充分でした。親方は末頼もしい若者と見たのでありましょう、特別に可愛がってくれました。それから三年くらい経った時期と考えます。或る日思いがけない方向から幸運がやってきました。鉱山が閉鎖されることになったのです。理由は有望な新鉱山を手に入れたので転進するということでした。しかし、徳治の判断ではまだ深鉱すれば未知の鉱脈が眠っている可能性が高く勿体ない事だと思いました。
親方に意見を言ったところ、意外にも見解は親方も同じであることがわかりました。だが親方としては事業規模の大きさからいずれ寿命の来る老鉱山に資金をつぎ込むよりも新鉱山に重点を置きたいとの説明でした。徳治は納得して閉山準備にかかりました。
そんな或る日、様子を見に来た親方が急に神妙な顔付きになり「ところで徳治、お前ひとりでこの山をやる気はないか、まだ残量がかなりある。食って行くだけなら四、五年は大丈夫と思う。その間に新鉱脈を発見出来れば棚から牡丹餅ではないか。このまま廃鉱にするのは惜しい。支払いは成功払いでよい、俺自身はもうこの山に未練はない」と提案してくれました。親方はよほど徳治に期待するものがあったでしょう。こんないきさつで徳治は鉱山を手に入れたそうです。新鉱脈の発見はそれから二年くらい後のことだと考えます。以後明治の末まで十年間、栃木県ではベスト四人りする生産実績を残しております。
故郷に錦を飾る
明治三十六年、徳治は十年振りに千努に帰ってきました。新鉱脈を掘り当てやっと安堵感が湧いて来たからです。それに今後の事業発展のためには嫁をもらう必要を感じ始めました。念のために成功の証しとして鉱山の写真と貯金通帳を懐にしていました。
生死さえ定かでないと考えていた村人の前に徳治が現れたとき、村はまるでパニックが起こったような大騒ぎでした。徳治が立派な身なりで帰って来たというニュースは狭い村のこと、すぐに隅々まで知れ渡りましたが、みんな半信半疑で徳治の家にやってきました。「洋服姿はまやかしではないのか」とひそひそ声で疑っていました。しかし、精悍な顔付き、眼光鋭い目に射すくめられて思わず息をのみました。村人は今更ながら自分たちの眼が筋穴であったことを恥じ、翌日は村中が天神様に集まって歓迎会をしてくれました。
現金なもので村人は一八〇度見方を変えただけでなく、若者を持つ親は口々に「なぐれ徳に見習え」と発破をかける有様で、若い徳治を生きたまま伝説の人物に祭り上げてしまいました。
徳治の戸籍簿を見ますと三十歳で結婚しております。嫁は千怒の名門、古田品吉の四女ワキをもらいました。なぐれ徳のままでは到底できない相談ですので、これより以前に汚名を晴らしていたことは間違いないと考えます。
那須へ帰る徳治には新妻ワキの他に村の若者が三人従いました。その後千怒では茸山の他に各地の硫黄鉱山へ出稼ぎに行く習慣が生まれました。
ちなみに、このなぐれ徳物語の生き証人となりました鶴崎康人氏(久保)の父小一郎(徳治の従弟)は、これより十四年後、十四才で高等小学校(現中学校)を中退して徳治の所へ行きました。藁づと包みの納豆を送って来て「千怒では最初に実物を食べた」という祖父の昔話を康人氏は紹介してくれました。
事業拡大
結婚の翌年、明治三十七年に日露戦争が始まり、戦争景気で事業は順調に拡大して行きました。徳治の叔父になる松吉(小一郎の父)が「勝って兜の緒を締めよ」と諭したところ「おいさん、事業はまだ序の口、本番はこれからだ」と笑いながら答えたということです。
戦争が終って間もなく不景気が来ました。だが徳治は同業者が次々に倒産に追い込まれるのを横目で見ながら、逆に今がチャンスとばかりに北海道の十勝岳(二〇七七メートル)進出計画を練りました。戦争景気で儲けた金を貯め、不景気のときに投資するという心憎いほど効果的な資金運営を見ると、徳治は金融の面でも非凡な才能を持っていたと考えます。
十勝岳進出
北海道上富良野郷土館に問い合わせたところ、平山鉱業所についてはたくさんの資料がある、とのことで記録の写しを送ってくれました。それを紹介しながら事業の概況を説明します。
一、進出時期については、平山鉱業所の発足は大正七年(一九一八)とありますが、私の推察ではこれは法人化の日付と見ております。実際の事業開始はそれより数年以上早く、明治末か遅くても大正元年と考えます。理由は次のとおりです。大正二年に第一次世界大戦が始まり五年間続きました。その間、日本は未曾有の他国の戦争景気に潤いました。したがって前鉱山主が鉱区権を手離す筈がありません。
二、記録では大正に入ると全鉱山が閉じられたので、硫黄といえば新噴火口の平山鉱業所のみが知られるとあります。大正七年の事業規模から逆算すると準備に最低で五年はかかると考えます。
進出時期について(編集者註)
平山鉱業所の発足は「明治末か遅くても大正元年と考えます」と本文にありますが、各種の資料には次の様に記述されています。
(1) 大正六年初夏(中央高地登山詳述年表稿―地学より)東京中川三郎平山硫黄鉱業所十勝岳硫黄採掘許可・事務所建築木材に上川営林区署に払い下げ出願

(2)
大正六年六月(北海道市町村総覧より)中川三郎平山徳治に十勝岳硫黄採掘の技術指導を得る為、顧問を依頼し、技術員一名、鉱夫四名の支援を受け、七月美瑛口から登山し噴煙孔に煙道を設置し、将来の搬入路を踏査した。
(3) 大正七年(歴史年表より)十勝岳で平山硫黄鉱業所採鉱開始
(4) 大正七年(北海道市町村総覧より)十勝岳・硫黄山で平山硫黄鉱業所(中川三郎)鉱夫数十名を九州より雇い採鉱開始、三箇所に煙道六十余本、道路開削、家屋建築
(5) 大正八年(北海道市町村要覧・中央高地登山詳述年表稿より)十勝岳・硫黄山で平山硫黄鉱業所建物十六棟、索道二七八一間(約五〇〇〇m)設置
(6) 大正九年末(北海道市町村総覧より)中川三郎、十勝岳硫黄採掘事業のすべてを平山硫黄鉱業所に譲渡
事業の詳細
一、採集方法
記録によると岩の裂け目を露天掘りしていたとあります。人夫・道具を集めれば翌日からでも始められるので、まず露天掘りから取り掛かったと考えます。道は幅一メートルの獣道(けものみち)しかありませんでしたから、運搬は馬の背に頼るしか方法が無かった筈です。村道が駅から麓まで来ておりましたが、高度差一六〇〇メートル、坂道十キロは大変な苦労であったと考えます。常時二十頭くらいの馬が動員されたことでしょう。

二、ガス液化採集法の実施
前記しました九重式烟道十基を目標に建設に取り掛かりました。記録によると大正十五年には烟道六十数本、生産能力十五トン/日、三〇〇〇トン/年、大正十四年実績十トン/日、二〇〇〇トン/年とあります。

三、運搬の合理化
大正二年に世界大戦が始まり需要は急増しました。
しかし、生産の隘路は輸送にありました。徳治は早急に対策を練り機械化することを決定しました。最大の難所は外輪山南側の絶壁でした。
(1) 鉱山から外輪山縁は、幅三メートル、離合二か所、水平距離一四〇メートルの馬車道新設。
(2) 縁から崖下は、空中ケーブル四〇〇メートル、高度差三〇〇メートル。
(3) 崖下から元山集積所へは、幅三メートル道路を新設し、複数のエンドレストロッコ軌道を敷く。距離四〇〇メートル、高度差一〇〇メートル。
建設資金は、大戦景気で政府が産業の開発を奨励しておりましたのでいくらでも貸してもらえました。
人海戦術で突貫工事を行い二年以内に完成したと想像します。
四、第二次計画
元山から山加まで、直線距離五キロ、高度差一二〇〇メートルでした。エンドレストロッコの計画でしたが調査の結果、谷が多く鉄橋に金がかかり過ぎることがわかり、空中ケーブルに変更しました。工事の大きさから見て時間はかかったと思われますが、戦争が終わった後復興景気が続きましたので投資効率の良い合理化であったことは間違いないと思います。二四〇坪の倉庫三十数棟・事務所・社宅の建設、この間千怒の母屋、別府に別荘の新築もしています。
おそらく現在の金で一〇〇億円規模のものであったと思います。初代社長による戸高鉱業社創設期に匹敵するほどの大規模なものであったと考えます。しかも数年後の大正十五年には借金が零であった証拠があります。投資もしたが儲けもそれを上回ったことが証明されます。
十勝岳大爆発による挫折
好事魔多し、個人の企業としては限界まで成長した徳治の事業が僅か一夜にして全滅するという信じられない大惨事が発生しました。
大正十五年五月二十三日、四日の二回にわたる十勝岳の大爆発です。二十三日の正午、第一回の水蒸気爆発があり、大量の土砂が中央火口外輪山から流れ出る谷を埋め、流れをせき止めました。その夜から降り始めた豪雨と熱灰が積雪を融かし一夜にして火口湖が出現しました。火口内にはたくさんの蒸気の噴出口がありましたので水は熱せられました。
明けて二十四日午後四時半、第二回目の爆発がありました。再び大量の土砂が火口湖へ落下しました。その衝撃で前日の土砂のダムが耐え切れず、あっという間に崩壊しました。土石流は谷を削り、野を埋め尽くしながら十六キロ下流の富良野盆地をめがけて一気に突進しました。時速四十キロ、所によっては熱湯であったと記録されております。平山鉱業所の鉱山は被爆、両基地は土石流の底になり全滅、社員や家族にも犠牲者の出る惨憺たる有様となりました。
後始末
当時は労災死でさえも金一封で片付けられる時代でしたが、徳治は潔しとせず家族を含めて救済しました。被災者の中には千怒の出身者もいました。徳治自身が考えてもこれで充分ではないかと思えるほど金を惜しまず出しました。それでもなお半分の貯金が残ったといいます。残務整理の後、徳治は家族連れで別府に引揚げました。年齢はまだ男盛りの五十三才、事業はようやく安定期に入ったと考えていた矢先の悲劇でした。
晩 年
徳治は落ち着いたら再起しようと考えていたのですが、直後から始まった昭和恐慌で世の中は新しい事業どころの情勢ではありませんでした。雌伏十年、満州問題がこじれて戦争の気配がし始めました。国が産業開発を後押しし始めましたので、機会到来と考えましたが如何せんもはや六十三才、齢が残っていませんでした。北海道には毎年夫婦で慰霊祭に出席していました。被災者に対する弔いのみでなく、水泡に帰した大事業、自らの半生に対する追憶の旅でもあったと推察します。
長男の正が坊ちゃん育ちであったため事業に向かないと判断した徳治は、千怒に大々的なみかん園の開墾を始めました。しかし、昭和十六年、正が招集されて腰を折られました。戦争が激しくなると津久見に度々帰っていましたが家の中にとじこもる日が多くなり、遂に昭和十九年に永眠、享年七十一才でした。不幸は重なるもので、その頃比島戦線は急を告げ正の消息は不明となっていました。正の部隊が全滅したという噂が流れて来たのは戦争が終わった翌二十一年、翌年二十二年、噂が事実でないことを祈る家族の願いも空しくやっと戦死の公報が届きました。かえすがえすも残念なことでした。跡は妹ユキオが継ぎ、その長男が徳治です。孫ですが襲名としては二代目、但し「のりはる」と読ませます。津久見市役所に勤めています。
明治の中頃、単身で東北・北海道まで渡って活躍した勇気・先見の明・努力には頭が下がります。大実業家徳治翁の偉業をたたえて事業面の説明を終わります。
エピソード
一、徳治の心意気
赤八幡の桜門は大正六年の新築です。第一次世界大戦の最中です。記念碑を読みますと徳治が筆頭でただ一人二〇〇円、次は建設委員長黒岩岩太郎(初代津久見市市長)他三十名が一〇〇円と続いています。千怒の世話人から徳治が北海道で儲け出していることを聞いた豪放磊落な黒岩は、一面識も無いのに「倍に吹きかけてみるか」と放り言を言いながら心配する他の世話人を尻目に手紙を出しました。折り返し現金が届いたので「先見の明あり」と言って黒岩は鼻高々でした。ところが後になって子一郎から次のような裏話があったことが判明しました。黒岩の手紙を読み終えた徳治は突然怒り始め「津久見の衆は俺の成功をたった百姓分限の倍にしか評価しないのか残念じゃのう」と嘆息しました。「大体黒岩という男も肝っ玉の小さい奴じゃ、同じ吹っかけるのなら何故一桁上を言わんのか一〇〇〇円はおろか二〇〇〇円でも出すものを」と憤懣やる方無き有様であったと言います。
私はこの話を聞いたとき、徳治が異郷の地で津久見の衆からたった十分の一にしか評価してもらえなかった口惜しさがじかに伝わる感じがしました。
、寄付は絶対ことわらなかった
徳治はたくさんの人に助けられた自分の経験から「事業は利益そのものを追及してはいけない。努力の外に運が必要だから、利益だけを求めるとその運が逃げてしまう」と常々若い者に言い聞かせていました。晩年を別府で過ごしましたが地元千怒のことは忘れず、母キヨに任せて「寄付ごとは絶対ことわるな」と指示していました。またこのキヨが男勝りで物事の道理をよく弁えていましたので、誰が代表で頼みに行こうと、鶴の一声で現金を出してくれました。地元千怒の古い公の建造物には必ず徳治の名前があり、金額から見ても伝説通りであることがわかります。
脇道にそれますが、母キヨは情にもろい人でもあり、乞食の身の上話に同情して十円(男の日当一円の時代)を恵んだ逸話があります。又キヨの性格を示す面目躍如たる物語があります。まだ徳治が事業をしていた大正の頃です。高額の貨物運賃を国鉄に支払うことから二等車(今のグリーン車)に無料で乗れる家族優待券を与えられていました。当時は二等と三等(自由席)の格差がひどく、よほどの金持ちか体面を保つ必要のある特権階級以外は馬鹿らしくて利用できませんでした。現在なら会社のオーナー程度です。同じ社長でもサラリーマンに過ぎない雇われの三等重役では及びもつかないことでした。
事件は大阪行の汽車の中で起きました。例によって二等車はガラ空きでした。車掌が入ってきて切符の提示を求めました。しかし、素直に応じることはキヨのプライドが許しませんでした。二等車は言わば特権階級の専用車です、習慣として検札などあり得ないのです。身なりには自信がありましたが田舎者と見て侮っていることは明白でした。キヨはわざと切符が見つからない振りをして車掌の声が荒々しくなるのを意地悪く待っていました。「無いのですか」居丈高になった瞬間に、やおら優待券を取り出しました。車掌は息が止まるほど驚き、平謝りに謝りました。顔が真っ青で冷や汗を流していました。それもその筈です。本社の招待客に無礼を働いたのですから、これ以上の大失態はありません。もしもこのことを本社に通報されれば責任を取らされることは必定でした。キヨは作戦勝ちに大満足でした。
三、政治家のパトロン
前記黒岩は二十代で町長・都会議員を歴任し、三十代では県会議員に野心を持ちました。しかし、黒岩はたった十年間で津久見一の財産を政治のために使い果たし、家屋敷も人手に渡っていました。だが黒岩は政治家のために生まれてきたような男で、裸になっても政治さえ続けられれば何の屈託も無い稀な性格でした。万策尽きた黒岩は、桜門建設の縁が取り持つ徳治を頼ろうと決心しました。また徳治も黒岩を知るにつれてその清廉潔白な人柄の魅力に心を引かれていましたので快く援助を約束しました。
黒岩はその後三十代半ばから五期連続当選し、昭和十七年には県会議員になり二十一年まで重責を果たして徳治の期待に応え、昭和二十六年には市長になりました。徳治を頼った政治家は他にもたくさんいたと言います。
むすび
なぐれ徳の逸話を初めて聞いたのは昭和四十三年頃、千怒久保の小手川忠義氏(八十一才)からでした。
素晴らしい話ですが口伝ではやがて消えてしまうことを恐れました。『津久見史談』に掲載してもらえば永久に残せると思い纏めてみました。たった一人の生き証人康人氏、上富良野町郷土館のご協力に感謝します。
≪編集者注≫
大正十五年五月二十四日の十勝岳大爆発により、平山硫黄鉱業所関係で次の二十五名の方が亡くなられました。
平山鉱業所鉱長の藤倉長雄氏は早稲田大学理工科出身で氏の腕時計は四時三十九分二十秒を示していた。
氏名 年齢 職業 本籍地
藤倉 永雄 三一 平山鉱業所砿長 栃木縣
古瀬 榮一 二八 同事務員 小樽市
平山 爲市 三〇 大分縣
平山 スギ 二二
岩本  悟 一九 平山競業所坑夫
小澤 勇四 二六 山口縣
山田 彌一 四〇 大分縣
榎谷源次郎 二一
高橋作太郎 二四 福島縣
高橋 福衛 二二
阿部  勤 二六
阿部 式次 二四
阿部平四郎 二二
佐藤 儀市 三五
佐藤 頼衛 三〇
佐藤 喜七 二七
佐藤丑之助 二四
佐藤 亀重 二二
菊田 盆次 二七
鈴木 三郎 三〇
宍戸傳太郎 三〇
西澤 信吉 二一
尾形 福市 二五
木許彦太郎 二四 大分縣
岩木ナミ子 二四 平山錬業所炊事婦 上富良野村

機関誌 郷土をさぐる(第17号)
2000年3月31日印刷  2000年4月15日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔