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十勝岳爆発災害と復旧工事の思い出

長井 禧武 明治三十七年七月一日生(九十六歳)

はじめに

私は、明治三十七年生れの今年九十六歳の老人である。
この度、ただ一人の兄弟となった弟賢次郎に今の中にもう一度逢っておきたいと思い、現住の東京から故郷上富良野町を訪れたが、その際、図らずも十勝岳爆発災害記念館(編集注 上富良野町開拓記念館=旧吉田貞次郎邸復元)に立ち寄ることが出来た。この日は、平成十二年十月四日の事である。
当時を思い出す数々の陳列品や建物を見て、大変懐かしかった。
その際、ふと爆発当時の状況を実際に見、その後の復旧の難事業に携わって来た者は、私より他に誰も存在しない事に気がつき、既刊の「十勝岳爆発災害誌」はあるが、私が体験した実状を記述しておく事も、又後々の参考ともなるのではないかと思うに至り、拙文乍ら綴る事にした。
この十勝岳爆発災害とは、大正十五年五月二十四日の時の事である。
最初の災害地調査とその状況について
当時、私は役場の財務主任を勤めていた。この日、午後五時の退庁の時間となり、吉田村長はこれよりひと足先きに帰宅し、村長と同じ方向に帰宅する金子助役が自転車で帰り、私も相次いで役場の直ぐ近くの自宅に戻った。
その時である。自転車で帰宅の金子助役が顔色を変えて戻ってきて、『今、市街地に向かって土煙を上げ乍ら大水が押し寄せて来る。市街地も危い』と言う。私は直ちに役場に引返したが、大水が来るなんて到底思いもつかぬ事であった。顔色を変えている助役を見て、今にも市街地に大異変が起るかと心配しながら様子を窺っていると、大洪水(大泥流)は市街地のはずれ迄で止まったと言う情報が入った。
市街地が助かったと言う事で少しは安心したものの、吉田村長の安否が心配されたが、村長は自分の弟が経営する○三吉田雑貨屋に立寄っていたので危く難を逃れ、間もなく役場に引返して来た。近くに住む役場の職員も次々に駆け付けて来て、大洪水(大泥流)の原因は十勝岳の爆発噴火により、山の積雪が瞬時に解けたために起った大水の結果と判明した。
十勝岳はこの日、厚い雲に覆われ、爆発の煙も、また音も聞こえなかった。これが大惨事の原因であった。
町はずれから見た三重団体(草分)一帯は、泥流の中に埋没してしまったらしい。
役場には、次第に街や村の主だった人達が集って来て、村長を中心に応急の対策が話し合われたが、何分にも災害地の状況が判らないのでは如何とも仕難いので、取りあえず、災害地の様子を調査する事になり、この調査のため役場から金子助役と私が、消防団より菅野豊治氏、青年団より三枝光三郎氏が決死の覚悟で災害状況調査に行く事になった。
幸いな事に、鉄道線路が耕地よりは遥かに高く敷設され、しかも災害地の真中を貫いているので、この線路伝いに行く事にした。いざ行って見ると、線路には深い泥流と流木が滞積し、この流木は大きく且つ又その数も驚く程多く、縦横に重り合っているので、この泥流の中を流木を避けて通る事は容易なことではなかった。泥流の中は生温い感じであった。
これ程の広い耕地と且つ又遠い所から流れて来て、これ程温度が残っているのであるから、噴火による溶岩の凄まじさが察せられる。
私達は、兎にも角にもこの難路を苦労を重ねながら、線路が小高くなっている災害地の中頃まで辿り着いた。
ここはフラノ川に架けた鉄橋のある所で、ここだけが泥流に唯一埋れる事のなかった高地である。
と言っても、これも僅かの区間であるが、驚いた事に線路が鉄橋の所で枕木を付けたままで、低地のため泥流に押流された鉄道線路に引張られ、高々とねじ曲げられながら聳え立っていた。この有様は「災害誌」の中にも掲載されていたと思う。
私達はここで図らざるも一人の婦人に出会った。
その人は鉄橋のすぐ近くの家の田村さんの家族と判った。その人の話によると。突然、泥流が襲ってきたので、命からがら水の中をここまで漸く逃げて来たとの事で、腰から下というより全身濡れて震えていた。
ここでは未だ夜も明けず、確(しか)とは判り兼ねたが、線路より上流の方には一軒の家も残って居る様子はなかった。
私達は一息つく間もなく、更に前進を続け、泥流は次第に深まるばかりであった。線路がここでは少し高かったのか、線路のそばの田中勝次郎さん宅は、どうやら被害が少い様に思われた。
更に前進すると吉田村長宅が見えて来たが、泥流は家の窓を埋めていた様で、家族の方々の安否が甚だ心配であった。後から判ったのであるが、母上が泥流に呑まれ、遥か下流の泥流の行止りのところで死体で発見された。
私達は想像を絶するような苦闘の末、漸く泥流の災害地を、しかもその中心を渡り終える事が出来た。
この頃になると、夜も明け金子助役宅に近い高所から見た災害地の全貌は、無惨と言うか、全く表現のしようもない誠に哀れな惨状であった。特に驚いた事は、鉄道より上流に当る地帯には一軒の家も見当らぬ惨状だ。この時点では、新井牧場の谷間に住む人達の惨状は判明していなかったが、その悲惨さは想像が出来た。
私達は、泥流との境目を通って市街地に戻ったのであるが、途中で一休みさせて貰った家で暖をとり、腰から下の濡れを乾かした時、私のゲートルに附着していた泥の乾いたのを火の中に入れたところ、硫黄分が青い炎を上げたのには驚きであった。
後から次第に被害の状況が明らかになるにつれ、その大きさに改めて驚いた。最も悲惨を極めたのは、新井牧場の谷間に住む人達で、低地で助かった人は皆無という惨状であった。もし、この日が晴天で噴火の様子が望見されていたら、この様な人畜の被害は無かったであろうに、不運と言う外はない。国鉄は逸早く線路の復旧に努めたため、この開通と共に親戚知人の見舞や又救援に来る諸団体、救済対策の役所の人々、見物人等が暫くの間毎日の様に続いた。
村では早速村議会が招集された。その議場は吉田村長が駅前の災害対策本部を離れる訳に行かないため、駅近くの倉庫の中で俵に腰かけての会議(註本稿末尾参照)であった。村としての災害救助対策がそのような方法で議せられたのである。
以上は災害直後の体験であるが、今一つ思い出される事は、災害三日目の事だったと思う。十勝岳噴火口を下った所に硫黄の精煉所があった。ここは、火口附近より採取した岩石混りの硫黄を硫黄だけに精煉し、これを麓の中茶屋と言っていた建物の所まで、一直線に設けられた丁度スキー場のリフトの如き鉄さくによって運び、ここから更に馬によって駅まで運ぶ仕事のその最前線の作業所であった。
当日は、折悪しく曇天で、仕事を休んだ人達は皆家の中に居たため、突然の噴火による溶岩と洪水により、一挙に押しつぶされ、建物諸共流されて生存者は居なかった。建物から百メートル位下ったところで、私も知っていたここの炊事担当者の女の人が、恐らく岩石にはさまれて切断されたのであろう、胴体だけの哀れな姿を見た。
復旧工事に就いて
災害とその後の詳細に就いては、既刊の「十勝岳爆発災害誌」に記載されているが、私が携わっていた復旧工事の施工に関しての思い出を記述しておく。
災害で受けた被害のうち、耕地を除く救済の諸般については、役所の支援の下に着々と進められ、この事に就いては私の担当ではなかった。
私は主として耕地の復旧に就いて、吉田村長の命により事務の一切を担当した。
さて、耕地を如何に復旧するかという事に就いて、土地の関係者で意見がなかなか一致せず、元の水田に戻したいと云う人と、とても元の水田に戻す事は不可能とする反対者との間で論議が行われたが、遂に意見は一致しなかった。
そこで、吉田村長は元の水田に復旧を望む人達の希望に添い、その方向に決意し実施する事にした。
ところが復旧反対者は僅かに二、三人であったけれど、この人達が吉田村長に敵意を抱き、工事の施工に就いて吉田村長の中傷を始め、事毎く邪魔をし出した。このため、吉田村長はどれ程迷惑したか。全く困った人達であった。
復旧工事は、吉田村長の熱意に同情した北海道庁の長官を始めとする、関係部課長の好意により、復旧策が整い、いよいよ工事に着手する事になった。
その工事の方法というのは、先ず耕地上に散在する流木の除去に始まり、その耕地に泥土の深い所には、附近の畑地または丘からトロッコを使用して、良質の土を運んで泥土の上に盛上げる「客土」と言う工法を、また、泥土の比較的浅い所では、泥土の下から元の良質の土を堀上げる「天地返し」と言う方法が行なわれた。
水田の用水路の復旧は「草分土功組合」の事業として、全て道庁の係員が設計と施工の監督もやって貰えた。
水田の復旧工事については、個人では駄目で法人格のある耕地整理組合を設立する様にとの道庁の指示により、復旧工事の賛成者で「上富良野耕地整理組合」を設立し、これが施工の主体となったのである。この組合に対しては、工事費は全額道庁の補助金で行い、会員の農具類の費用等のために、これは道庁の貸付金とし、この耕地整理組合は借入金の返済を以って解散した。この時の借入金の組合員に対する金額の算定は、耕地の面積によって行った。
この両組合の工事施行の設計、監督のための道庁係員の長期出張の事務室として、役場の応接室を利用して貰った。この復旧事業に就いての事務は、吉田村長の指示により両組合共全て私の担当で、私は非常に多忙を極め、寝食を忘れて夜おそくまで働いた。
そのため、私も遂に健康を害し、百日程病床に在った。
病名は肋膜炎で、一時は重体で心配されたが、全快後は極めて健康となり、その後の五十余年、床につくような重病をした事がない。
以上が、今では私だけが知る思い出の概要である。
[長井禧武氏(旧名赫弥(かくや))の紹介]
長井禧武さんは、明治三十年、富良野原野草分地区に入植した三重団体の一員であった長井文次郎の次男として明治三十七年七月一日に同地で出生、同四十四年四月、上富良野尋常小学校に入学、大正八年三月、同校高等科を卒業後、鉄道員を志し札幌鉄道教習所に入所するも健康上から中退、翌大正九年二月、上富良野村役場に奉職、昭和十一年六月、退職(庶務主任兼収入役代理)その後、富良野町役場に移り、後に軍馬生産育成を推進する上川畜産組合(旭川市上川支庁内)に転職、更に北海道を管轄する北海道畜産組合連合会(札幌市)に転職後、当時、戦時立法に基づく特殊法人の日本馬事会(東京都)に移り、軍用馬の飼料増産に努めていたが、終戦とともに進駐軍の命により解散となった。
このことから、軍用馬として徴発され不足した産業馬、特に農耕馬の増殖と食糧増産に寄与する主旨の社団法人日本馬事協会(現存)を設立、一方解散した職員再就職のため株式会社を創立し、飼料販売を主とする日本馬事畜産株式会社の双方を兼務する役員となり、馬事協会では専務理事、会社の方は三代目の社長を最後に八十歳で退任した。
現在は、東京都江戸川区南小岩六-二-一五で、娘さんのご夫妻家族に囲まれ、悠々自適、その上、豊かな趣味(短歌、水墨画、詩吟など)に楽しい日々を送っている。
この略歴と近況は、禧武さんの甥に当る町内新町四丁目、長井良光さん(前上川南部消防事務組合消防長)のご協力を頂き記すことができました。
長井禧武さんが村役場時代の上司であり、以来、親交のある町内中町一丁日千葉誠(元町議会議員)さんから、戦中、戦後の馬の育成、畜産飼料の国内でも屈指の主産地となった影の先駆者であったことを伺うことができた。
戦中は、北海道畜産組合連合会を通じ、軍用馬の育成で本村が優秀な育成地として軍馬購買指定地となり、また、日本馬事会では飼料課長で度々本村の産業組合(正しくは信用購買販売利用組合)を訪ね軍用燕麦の品質改良、増産の指導に尽くされ、戦後においても日本馬事協会の役員となり、競争馬用の燕麦は上富良野産と指定されたのも偏に、長井さんの強い郷土を愛する思いの現れであったものと思いますと話をお聞きすることができました。
ご協力を賜りました、長井良光、千葉誠さんに紙面をお借りし厚くお礼を申し上げます。
(編集委員久保栄司記)
 会議とは……
    (十勝岳爆発災害誌第三章救護組織と計画第四節諸会議より)
公職者協議会上富良野村に於ては、被害状況も略々明瞭し、応急処置もまた一段落を告げた六月一日午後三時より、停車場構内山本運送店吹抜き倉庫に於て、村内公職者を招集し、第一回の復興協議会を開催した。当日の出席者は、道庁社会課西田嘱託、上川支庁上野事務官、津田二課長、佐藤属、池田雇、鈴木富良野警察署長、河村上富良野郵便局長、山本北海タイムス旭川支局長、同記者、小樽新聞社小田島記者、同社写真班、村内よりは吉田村長、金子助役、朝倉収入役を始め、村会議員十三名、行政部長十一名、同組長十七名、小学校長七名の多数で、各公職者は何れも連日の奮闘に衣服は泥に濡れた儘(まま)で倉庫内の米俵を椅子に代え、悲壮なる雰囲気の裡(うち)に開会した。(同村では俵会議と称している)劈頭、吉田村長は起って一同連日の労を謝し、更に災害に対し特に御内帑金(ごないどきん)の御下賜があったばかりでなく、本日迄に各方面の同情、翕然(きょうぜん)として集まりつつあること、並に当日迄の救助方法の経路につき述べ、再び三十年前移住当初の大決心に還り、惨憺たるこの光景の挽回に努力すべく、声涙共に下る挨拶をなした。次いで、上野事務官、山本北海タイムス旭川支局長の激励の辞あり、それより左記の事項を協議した。一、復興委員の選任二、災害基礎調査三、流木の処分四、見舞金品の分配五、寝具六、罹災者外村民の義損方法七、その他以上の如く協議を了し、次いで村長より、村予算及財政計画は追って更正しなければならぬが、当分は現在のまま経理すること。並に罹災地外の村民は連日出動のため、自己の作付に影響することあれば益々村の疲弊を来すにより、極力成績を挙ぐる様努められたき旨を述べ、上野事務官は準地方費道は単に歩道に過ぎないが、両三日中に竣功の見込であるし、なお工兵隊は新井牧場と西二線道路との連絡を通ずるため、来る六月三日五十四名出動して富良野川に架橋のことに決定し、旭川土木事務所にては外周道路を開鑿することに決定の旨を告げた。更に参集の公職者よりは、地元救護班出動の範囲を狭め、毎日百名となし余力は農業さらに従事せしめて自活の途を講ぜしめること、川浚い、河川の切替、外周道路は人馬の通行に止め、準地方費道の復旧を急ぎ車馬道としてなるべく速やかに竣功せしむる様肴望あり、記念すべき此の会議も午後五時半を以て閉会した。

機関誌 郷土をさぐる(第17号)
2000年3月31日印刷  2000年4月15日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔