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昭和三十九年解散の東中専妙寺の歩み

長尾 哲雄(札幌市在住)
昭和五年七月三十日生(六十九歳)


東中地域に開拓の鍬が下ろされ、郷土の歴史が歩み始めた明治三十年代後半、念仏布教の導きの手懸りを作ってくれた人が東中にいました。讃岐出身の高木太市でした。この頃の開教に関わった方々の苦労を偲ぶ時、その一部でも開拓史の片隅に掲載されればとの思いでこの稿を纏めました。
開拓途上にあった東中に念仏の輪が広がり、浄土真宗興正派専妙寺へと環境が整備されるまでに、多くの困難を乗り越えなければなりませんでした。
昭和三十九年、宗教法人専妙寺を解散してからは、その事実が語られる事もなくなり、知る人もいなくなりました。しかし、その頃の門信徒の身内の方々が上富良野町内に住んでおられる限り、その事実を後世に語り伝え、念仏を相承させていく事が私に残された大事な仕事かと思われます。
私の手もとにある長尾の家系を綴った記録を辿り、その中から専妙寺に関係のある部分を抜粋しました。
お名前の敬称はすべて省略させていただきましたのでご了承ください。
上富良野説教所の起こり
[真宗興正派上富良野説教所]
本籍地 北海道空知郡上富良野村字東中富良野東九線北十九号八十四番地
専妙寺の歴史は今を遡ること八十有余年前の、大正の初めにその起源を辿る事ができます。正しくは、明治四十年(一九〇七)秋、高木了玄師(讃岐出身、石狩花畔在住)が布教のため高木太市を訪ね、開座の準備をしたことに始まります。井上庄吉、松尾佐平、両人と相談し、説教所設立の準備に入られた記録が残されています。
明治四十一年春、大熊 貞の紹介により、香川県木田郡北大村出身の藤井勝秀が上富良野村東中東六線北二十号に草庵を造りました。さらに、明治四十五年春、赤松秀城と交代し、大正四年春に四十三坪の平屋柾葺きの堂宇を建立し、専妙寺が解散される昭和三十九年まで約五十年の歴史が刻まれてきました。
大正五年(一九一六)四月、松井教薫と交代し、その年の十二月、上富良野説教所設立の許可を受けました。そして、本山興正寺より御本尊阿弥陀如来絵図(掛け軸)を奉迎し、翌大正六年には御関山聖人(親鸞)、前任上人の御影を奉迎しました。
大正八年春、広瀬七之丞(東中倍本)から東中東九線北十九号に境内地として畑五反歩の寄付を受け、説教所を移転改築し上富良野説教所としての基盤ができました。
大正十年(一九二一)十二月には担任教師・長尾乗教が赴任し、ここから長尾乗教一家の歴史が始まるのです。
乗教が上富良野に至るまで
長尾乗教の出身地は香川県綾歌郡綾南町畑田(旧昭和村字畑田)で、農業を営む長尾吉太郎の次男(明治二十八年二月十一月生)として生まれました。
小学校を終えると興正派の末寺専妙寺(住職 土居 香川県綾歌郡、現在は興正派を離れました)に入り、高等科を終わるまで僧侶としての修業を重ね、大正二年六月に得度(剃髪して仏門に入ること)しています。当初、専妙寺の後継者になる予定でしたが、その後、専妙寺に男の子が生まれましたので、大正七年九月に渡道し興正派札幌別院に勤務するようになりました。
当時、讃岐(香川県)では、一家の中から僧侶が出る事がその家の繁栄に繋がるという言い伝えもあったように聞いています。
大正八年(一九一九)、横井熊太郎(清真布村 現栗沢町)長女横井ときと結婚し、大正九年二月登別温泉説教所の勤務を命じられ、登別温泉で法務に専念しました。現在の熊牧場のあるあたりに説教所は在ったと伺っています。しかし、寺を支える門徒は少なく、収入は僅かであったため、生活はかなり苦しかったようです。母ときは結婚前、某呉服屋の縫い子をしていた経験を生かして、和裁の仕事をしながら家計を助けると共に寺の坊守としての勤めをしていました。当時は温泉の人口も少なく、湯治に来る客が大半を占めていた頃のことでした。
温泉地区にはお寺が無かったので、布教の点で、寺院として重要な役割を果たすようになっていました。
しかし、将来の事を考慮に入れ、温泉地区を離れることにしたのです。
その後、山部村市街に開教されていた山部説教所の勤務を経て、上富良野村字東中へ移転しました。
その時、現役召集令状を受け、入隊のため単身故郷へ帰り、本籍地の香川県丸亀連隊に入隊しました。
しかし、乙種合格のためか間も無く除隊し、北海道に帰って来たのです。
改築説教所の担任教師
上富良野説教所の担任教師として地域の布教に勤め、相続講や聖徳太子奉議会等を組織し、日々布教に努めました。大正十四年、岩部春治の篤志により、聖徳太子・七高僧の両御影を奉迎することも出来ました。
昭和五年、私財として畑二町歩を購入し、それを耕作しながら徐々に基本財産を増やしていきました。
寺院と農業を兼業することによって、生計を立てていたのです。この頃から門信徒の数も多くなり、約八十戸余りの方(実際には六十戸前後かと思われる)が教法護寺に参加されたとの記録もあります。門徒は上富良野町内だけでなく、近隣町村、遠くは、砂川町(現在は砂川市)等にも散在していました。当時、唯一の交通手段は自転車でしたので、冬期間は徒歩に頼る外はありませんでした。村内の清富地区にあった門徒まで往復すると一日掛りの仕事でした。
それでも一人ひとりの門徒を大切にする父でしたから、法務を怠ることは無かったのです。
説教所創立以来不断の懇念と護持にご協力下さいました次の方々のご苦労を偲び、心から感謝申し上げます。
井上庄吉・伊賀伊八・長尾松太郎・福家登代次・福家市太郎・福家次郎兵衛・福家美代次・福家敏美・田井盛造・岩瀬万吉・三好浪次・三好米次・広瀬七之丞・奥田亀造・長澤達次・多地菊太郎・谷本政・太田トラ・坪田栄作・高木他多くの世話人の方々のご尽力を忘れることは出来ません。(氏名に誤字がありましたらお許し下さい)
広い境内地とは言いましても荒れ地の部分もあったし、大小様々な石が散在していましたので、その整地に両親は可成り苦労していました。物心付いた小学生の頃から、私も手伝いをしていたことが鮮明に脳裏に刻み込まれています。その無理が崇ってか母は健康を害し、何度か旭川の病院に入院しました。
昭和十五年(一九四〇)、中富良野村市街に住んでいた荒木さんの篤志により阿弥陀如来木像を奉迎することが出来ました。当時で百五十円もの浄財と聞いています。荒木さんは本願寺派の末寺中善寺のご門徒でした。永年大工の仕事に専念して来ましたが、高齢のため引退したのを機会に、ご本尊阿弥陀如来木像を寄贈したいとのお話でした。田植えも終わった六月、入仏法要が厳修されました。参詣人も多く狭い本堂をうめつくすほどでした。
説教所充実と寺族の生活
当時、東中には真言宗源照庵が有りましたが、昭和十五年には上富良野墓地に移転していました。お寺が一ケ寺しかないという地の利もあり、多くの門信徒の方々に支えられ、寺院としての環境は着々と整備されてきたのです。
父乗教は少しでも収入があれば仏具や打敷・水引等の購入に当てていたので、寺族の生活は楽ではありませんでした。とにかく一銭でも出納簿に記帳する程の性格であったので、父は寺院の勤めに専念出来たのだと思います。畑で収穫された僅かな農作物を産業組合に納め、その収入と門徒から戴いたお礼が年間の生活費に回されていました。当時の貯金通帳を見ると、残金が十円以上の事は殆どありません。
当時、月忌参りのお礼は、秋に纏めて持って来てくれる人が大半でした。収穫が終わると、初穂と共に農作物で納めてくれました。多い人で米一俵程度、二〜三斗がほとんどでした。納められた品物を換金し、その内お礼の分だけが生活費に当てられていたのです。初穂として戴いた分は、次の年の年間の法要の費用や寺院維持の諸経費に当てられました。従ってお正月の小遣も、小学校の低学年の頃は五銭〜十銭程度しか貰った記憶はありません。貧しさに堪えなければならない日々は、戦後までも続きました。
貴しさの中にも、お寺の内陣の体裁は着々と整ってきました。
しかし、戦争が日増しに激しくなってきた昭和十九年には、真鍮の仏具・喚鐘等金属の類が供出され、その代わりに瀬戸物のローソク立て・香炉等が仏前に置かれるようになりました。
食料・衣料はもとより、多くの物資も不足していました。家には電気が引かれていなかったし、灯油もほとんどなかったので、門徒の月忌参りに行った時、父はローソクの屑を戴いてきて、それを夜の照明に使いました。カーバイトのガスも使用しました。
昭和二十年八月の終戦日の少し前の事、寺の本堂や境内は軍の宿舎やキャンプ地として使用される準備に入っていました。その準備に兵隊が来た事情に就いては住職以外には知らされてはいなかったのです。
私が学徒動員先の山部鉱山から休暇で帰宅した時、住職が話してくれました。どうやら家の前の道路を整地し、十勝方面へ軍用道路を延長する工事に取り掛かるためだそうでした。
しかし、十四日夕方、旭川師団から指令が入り、その必要がなくなったので急遽引き上げることになったといいます。間も無くポツダム宣言が受諾され終戦になるかも知れないとの囁きを耳にすることもできました。慌しく軍が引上げていきましたので、その夜、これからの世の中はどのように変わっていくのだろうと両親と語り合いました。
予想通り八月十五日に終戦を迎えることになり、私は急いで学徒動員先の山部石綿鉱山へ戻りました。
翌日、私たちは鉱山を引き上げ学校へ帰る事になりました。しかし、数日間、自宅待機をしたあと、住み込みで中富良野村の農家へ援農にでることになりました。学校へもどって勉強することが出来たのは十一月初めと記憶しています。
終戦と同時に社会情勢も一変しました。布教の基盤を立て直し、寺の環境整備に専念する時代を迎える事が出来るようになりました。兄義教は戦死していたし、三男は鉄道に勤めていたので、私は進路変更をして寺の後継者になることに決め、龍谷大学へ進学を希望しました。しかし、経済的余裕もない中での相談は容易に纏まる筈はありませんが、父は寺の将来を考え、門徒の皆さんに頼らず学業を続けさせる事を決め進学を認めてくれました。
説教所から真宗興正派専妙寺に
昭和二十一年六月三十日付で寺号公称が認可されて、上富良野説教所から専妙寺と改められ、協賛法要が勤修され、父乗教が専妙寺の開基住職となりました。
昭和二十二年(一九四七)三月、中学四年を修了すると、受験のため私は父と上京しました。試験が終わると、父は先祖の墓参に私を連れて香川県へ足を伸ばしました。当時北海道から京都まで約四十数時間かかりましたので、旅費もさることながら大変な旅行でした。
父が讃岐に帰るのは祖母(父の母)が亡くなって以来のことでした。本州の人から見れば北海道はどこか遠い国のように思われていたのです。
龍谷大学に進学するために初年度約五千数百円、卒業の年(昭和二十七年十二月)には約十万円強の学費が家から支出されました(上富良野〜京都間東京経由で汽車賃が学割で約百二十円程)。当時としては大変な出費でした(昭和二十八年教員の初任給旧大卒は八千六百五十円・校長で二万四千〜二万五千円位・上砂川砿山の坑内夫先山の月収約五万円位の時代)。
卒業してからしばらく上砂川第一中学校に勤務しました。その間、上砂川高校定時制課程を兼務したり、英語の家庭教師をするなど、地域の教育に専念することができました。英語、数学などの教師が不足していた時代であったので仕事には恵まれていました。
かなりの副収入のお蔭で、給料は手付かず貯える事ができました。さらに父は畑地を整理する等して、借金もなくなったように記憶しています。漸く寺院の再建に取り掛かった頃、新たな問題が持ち上がりました。
それは本堂の傷みがひどく聞法(教義を聞くこと)の場としては相応しくないという事でした。寺や地域の将来を考え、改築するかどうかの瀬戸際にたたされたのです。何度も総代会を開き検討を重ねましたが、結論は纏まりませんでした。仮に、改築するにしても、当時の農家の経営状態を考えれば、門徒だけでは余りにも負担が多すぎたのでした。
念願の本堂の改築
昭和三十年春、私は上富良野町立東中中学校へ転勤し、さらに上富良野高等学校定時制課程を兼務するようになったのを機に、本堂の改築を真剣に考えるようになりました。
その頃は地域の皆さんの支持も多くなり、例えばお盆にお参りを頼まれた家庭は、門信徒を含めると約百七十軒(正月が約百五十軒)もありましたし、報恩講には参詣人が二十五坪の本堂に隙間無く入る程でした。父は本堂の改築に余り乗り気ではなかったようですが、地域の人々の期待にも応えるべく、私は総代の方々のご理解や父の説得に努め、改築に向けて話しを進める事にしました。妻典子の同意も得ることができました。
家の畑仕事の合間をみて、春は田植えに、秋は稲刈りにと働き、本堂の改築の経費捻出の一助にと寺族あげて頑張りました。門信徒からの浄財の協力の見通しも出来ました。皆さんの協力により充分とは言えないまでも、昭和三十二年(一九五七)春、改築に着工し、秋に竣工の運びとなりました。そして、例年の報恩講に合わせて円成法要を勤修することも出来ました。
将来の事を考えれば、寺の改築後は自分達の住まいの新築を念頭に、私は勤めを続けなければなりませんでした。自分達に出来ることは自分で、寺院の運営は門信徒に協力して戴くというのが私の信念でした。
風連中学校へ転勤
計画も軌道に乗りかけた頃の昭和三十六年、私の転勤の話がでました。勤めを止めることなど考えられ無かったので寺院の勤めを父に任せ、私は風連中学校へ転勤しました。しかし、父の高齢(六十六歳でしたが当時としては高齢者と思われる)と健康上の理由から父は法務に堪えられない日々が続きました。私達は少ない収入の中から両親へ生活費の仕送りをしたり、休みの時は寺へ帰り法務の手伝いをし、妻典子は畑仕事に行くなどして、寺院の維持に努めました。
昭和三十八年、私は室蘭啓明高等学校へ転勤になりました。その頃から父の体力も徐々に弱って来ました。室蘭の病院で診察を受けたとき、院長から父の病気が「肺ガン」であることの告知をうけました。
進行が遅いようですが後四〜五年かと思われる、とも聞かされました。東中地域の将来・子どもの緩やかな減少傾向・加えて離農する農家も見られるようになりました(自衛隊の演習場への道路の拡張などのことも影響してか)。総代会の意見や父の意志を思う時、これ以上寺を維持し続ける事の難しさを痛感するようになりました。本願寺派の末寺(聞信寺)のご住職が私に次のような助言をして下さいました。
「学校教育も宗教教育も教育には変わりがないのだから、この際寺を解散し、学校教育に専念する道を選ぶ事も一つの視野にいれて考えてはどうですか。学校教育で最高の授業者になることも一つの方法かと思います」と。
私の考えも纏まり、専妙寺解散の準備に取り掛かりました。昭和三十九年度の報恩講勤修に合わせて専妙寺解散法要を勤め五十有余年に亙る専妙寺の歴史は閉じられることになったのです。昭和三十九年九月の事でした。
多くの門信徒の方々に支えられ親しまれれてきた寺院運営に専念出来なかった事に、一抹の寂しさを覚えると共に、郷土上富良野町内の皆様にたいする感謝の念を痛感するこの頃です。
専妙寺を解散して
宗教法人専妙寺の解散手続き全てが終了したあと、ご本尊(阿弥陀如来掛け軸)は、父亡き後、しばらくは母がお守りしてきました。平成八年七月に母が亡くなってから、元専妙寺の後継者である私がご本尊を引き継ぐことになり、札幌市西区宮の沢の自宅でお祀りしています。専妙寺の歴史を大切にし、長尾の家系のページのなかにそのルーツを記してあります。
祖師聖人掛け軸等及び仏具に就いては、次の各寺院にお願いしました。
◎親鸞聖人・前任上人(両掛け軸)
  照念寺(札幌市)
◎聖徳太子・七高僧掛け図
  (父が他の寺院依頼〜詳細不詳)
◎仏具など
  善性寺(秩父別町)・光正寺(富良野市)
  高田派の専誠寺(上富良野町)
  外二〜三ヵ寺(詳細不詳)
◎お骨
  ご遺族の方々に引き取ってもらいました。
  一部ご遺族の住所不明の方については他のお寺にお願いしました。
◎本堂(建物)
  ふたば幼稚園の校舎に再利用(聞信寺)
◎御本尊阿弥陀如来(木像)
  昭和四十二年栗沢町の興宗寺納骨堂に安置しました。
両親及び兄のお骨は岩見沢の公営墓地に埋葬し、現在、私がお守りしています。なお、両親及び兄の分骨は京都市東山区清水三丁目三年坂下に在る興正派興正寺霊山(別院)本廟に納骨しました。僧籍を持つ私が今後も丁重にお祭りしていくことになります。
宗教法人専妙寺解散の措置について、その後様々なご意見を戴いています。皆様のお声を大切にし、寺院で生活させて戴いたご恩に感謝しながら私の余生を過ごしていきたいと思うこの頃です。
興正派本山興正寺について
親鸞聖人をご開山とし、その法脈を相承する真宗興正派本山興正寺は、本願寺派本山西本願寺(京都市下京区七条)の隣に位置するこじんまりとした伽藍配置で、余り目立たない存在です。
しかし、その歴史は他派と同じように長い道程を歩み続けてきました。東西両本願寺に比べると小さな教団にすぎません。たとえ教団の規模は小さくとも、多くの高僧に守り続けられてきた法脈の絆は、宗門に育てられた私達を益々強く勇気付け、念仏の道に導いてくれるものと信じています。
浄土真宗十派
 本願寺派(本山京都市)………聞信寺(本町)
 大谷派(本山京都市)…………明憲寺(西町)
 高田派(本山三重県津市)……専誠寺(栄町)
 興正派(本山京都市)…………専妙寺(東中)
 出雲路派(本山福井県武生市)
 佛光寺派(本山京都市)
 木辺派(本山滋賀県中主町)
 山元派(本山福井県鯖江市)
 誠照寺派(本山福井県鯖江市)
 三門徒派(本山福井県福井市)
=長尾哲雄の略歴=札幌市西区宮の沢四条五丁目在住
昭和5年7月30日 父乗教、母ときの四男として上富良野村で出生
昭和18年3月 東中国民学校卒業
昭和18年 興正派専妙寺後継者として布教活動に加わる
昭和22年3月 富良野中学校卒業
昭和22年4月 龍谷大学予科入学
昭和25年4月 龍谷大学(旧制)文学部入学
昭和27年12月 同大学卒業
昭和28年1月 上砂川第一中学校勤務中学校教諭(数学・英語)
昭和30年4月
   〜36年3月
上富良野町立東中中学校勤務、上富良野町立上富良野高等学校兼務
昭和36年4月
   〜38年3月
風連中学校勤務、風連高等学校兼務
昭和39年9月 専妙寺解散する
昭38年4月
   〜平3年3月
高等学校教諭(英語・国語)《教諭歴任高等学校》室蘭啓明高等学校・室蘭大谷高等学校・室蘭商業高等学校・室蘭兼高等学校・室蘭工業高等学校・壮瞥高等学校・夕張北高等学校・石狩高等学校(退職)
平成3年4月
   〜7年7月
《講師等歴任高等学校》石狩高等学校・稲西高等学校

機関誌 郷土をさぐる(第17号)
2000年3月31日印刷  2000年4月15日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔