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戦時下の「臨時ニュース」

上村 重雄 昭和三年四月三日生(七十歳)

少年の頃の思い出の中で今も忘れられないことは、ラジオ放送のときの「臨時ニュース」という言葉です。この言葉がいつの頃から使われたか、太平洋戦争の終戦から五十余年を経た今日、このことを調べてみようと思い立ち、先輩の方々をお訪ねして聞き取り調査を行ったところ、この「臨時ニュース」という言葉が初めて使われたのは、昭和六年の満州事変の時からであるとのことです。
昭和十二年七月七日、蘆溝橋で日中両軍の衝突で始まった支那事変。昭和十六年十二月八日、太平洋戦争の開戦から昭和二十年八月十五日の終戦までの間「臨時ニュース」の明け暮れでした。「臨時ニュースを申し上げます」「臨時ニュースを申し上げます」と二回線り返し、続いて勇壮な軍艦マーチ、「大本営発表……」の順序で放送された。聞くところによると太平洋戦争の五年間に八四六回以上報道されたとのことで、その大部分の内容は「勝った、勝った」の一本槍の放送でした。
戦時中、青少年の血を沸かせた軍歌、♪七つボタンは桜に錨……♪の歌は、昭和十八年四月に公開された映画「空の少年兵」の普及用主題歌であった。
当時のラジオニュースなどでこの軍歌が放送され、報国の至情に燃える青少年達が大空にあこがれをもって徴募に殺到したといわれる。続いて、「決戦の大空へ」、「桃太郎の海鷲」(昭和十八年)、「ひな鷲の母」、「君こそ次の荒鷲だ」(昭和十九年)などの映画が作られ、当時の青少年の心を沸き立たせたものでした。
昭和二十年八月十五日の終戦以来、日本は五十余年間、戦争のない平和な世の中で、有り難くてこの上ない喜びはありません。過ぎし日々、生死を賭し己(おのれ)の信念に殉じた、往年の将兵の誰彼。そして、陸海空それぞれの戦場は、いま追憶とロマンの中ですが、たとえそれがロマンと追憶のベールを通して措かれているとしても、人々は彼らの奥底にあった人間の至心と至情を洞察する勇気を失ってはならない。
この他に、青年学校の思い出、晩秋の山野に繰り広げられた夜間演習、冬季間の雪中行軍訓練、手旗信号訓練など、戦時下における青少年指導に全智全能を捧げた幾歳月、悔いのない一日一日の活動であったことは忘れがたい思い出のひとコマです。
あれから五十余年の歳月が過ぎ、年号は昭和から平成と改元されました。この平安の日々、永遠に平和な国土であってほしいものと願ってやみません。
過ぎし往時を省みるとき、万感胸に迫るものがあります。

機関誌 郷土をさぐる(第17号)
2000年3月31日印刷  2000年4月15日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔