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静修第一農事実行組合(宮城団体)の変遷

佐藤  公 大正十四年三月三十一日生(七十五歳)

昭和四十二年版上富良野町史及び父母の語り伝えを基に、地域の移り変りを人名敬称の一部を省き記述いたします。
静修第一農事実行組合の区域は西九線より西十二線、北三十号より北三十三号の地点で、昭和五年頃農事実行組合が設立される迄は、「宮城団体」と呼ばれていたのです。

宮城団体の入地と熊野神社

宮城団体は明治四十年、宮城県の遠田郡・志田郡・栗原郡の三郡の人々が、佐々木利左エ門氏を団長とし千葉佐五郎氏を副団長として十八戸が、北は福島団体、東は阿波団体、南は滋賀団体、西は衣川団体に接する地に入地した。
豊かな森林地帯でしたが三井系列の造材がなされた後で、伐根や枝木の片付け等大変な苦労があり、それに熊の被害も多く、入地者の不安が積もるのを除く為、入地二年後の明治四十二年に団体長佐々木利左エ門氏が、菅原米造氏に頼んで故郷の熊野神社より御神体を受け、三角点の標識のある所より西十一線道路の東側の西十一線北百九十五番地、標高約三百三十米地点で見晴しの良い所に熊野神社として祀ったのである。
後に静修地区の神社二社を併せて三社を一社に合祀し、西十二線北三十二号の地点に静修熊野神社として祀られている。
入地者及び組合員の増減
殖民区画された一戸分五町歩づつ貸下げを受け、各戸毎に入地したが、起伏の多い地帯で個々の条件がそれぞれ違い、特に飲料水の無い土地には永住する事が出来ず他の地へ移り、大正八年の不況後は借金の支払いが出来ず、土地を手放し他の地へ移り、その跡地を買受けた金貸しと雑貨商の名儀で、落葉松を植林した土地が数戸分ありました。其の他種々の事情で他の地へ移り住んだ人も多く、農事実行組合が設立された昭和五年頃には、宮城団体として明治四十年に入地した方及び二代目では次の五氏になりました。
千葉佐五郎(死亡)二代目興之助、佐藤母里治(死亡)二代目太右エ門、佐々木亀吉(死亡)二代目喜一、菅原長治郎(死亡)二代目寅吉、菅原米蔵、当初入地した人は減りましたが後に単独で入地した人、他の地から移って来た人、又当初入地した二代目で分家した人等で昭和十二年頃は静修第一農事実行組合の組合員数は二十戸でした。其の後組合員数の一番多かったのは昭和二十六年頃で二十二戸ありました。昭和四十二年には二十戸で、平成九年は十戸に減りました。組合員数は十戸ですが、通い作をされてる方がいるので、地域内に住んでいるのは静修六の方一戸を入れて七戸になりました。
共同請負作業
昭和十六年地域内に植林してあった落葉松材を買い入れた木材業者に、伐採と搬出を依頼され、相談の結果冬期間に近い所で収入を得ることが出来るならと農事実行組合で引受けた。戦時中なので戦地へ行っている方、又冬期間の出稼に行ってる方等で、若い働き手の少ない中で家族総動員で働きに出る事に決定したのです。
沢の多い土地なので作業能率があがらず苦労したわりに、あまり良い賃金の配分にならない請負でしたが、無事終り切上げを佐々木喜一家で行いました。
集会所の建設
農事実行組合の集会は、当番制で各家庭で行うのが通例で、新年会の当番になった家庭では子供達を隣近所に預けて準備をしたものでした。又、物資の配給や農産物の供出割当など集会の回数が多く、どうしても集会所が必要だと組合員一同常に考えていました。
昭和二十三年頃、落葉松材の払下げがありましたので、各戸から数本づつ持ち寄り、自分達で集会所を建てることに相談がまとまって、農作業の合間を見て作業にとりかかる事にしました。北二十八号道路と西十一線道路の交わる地点の中沢勝雄氏の土地に了解を得て材料を集め、菅原熊吉氏の墨付けした材を、各人の能力に応じて作業を分担しました。
落葉松材の土台付きの骨組、屋根は草葺き、壁は土壁、内部の雑作迄全部自分達で行い、集会所が出来上って完成を皆んなで喜びあいました。その後、二十五・六年経過して、屋根の損傷が激しく土台も腐食したので、本田重吉氏の指導で土台替えをし、屋根は勾配を替えトタン葺きにし、壁もトタン張りにし組合員一同の協力で改修を完了しました。
その後、昭和五十七年に西十一線道路を道営農免道路としての工事をおこなう測量で、集会所が工事の障害になる事が判明し、組合員の相談の結果、移動して建替えるより移動補償金を建築資金の一部にし、組合員が資金を出し合い建設業者にお願いして新築することに決定しました。佐川建設に依頼し、昭和五十七年十一月十七日中沢勝雄氏の土地に建てることが出来ました。
あとがき
宮城団体入地依頼、九十年をふりかえりみますと、農家の移動はなぜか前期二十年に多く、中期は少く、後期二十年に多いのが判りました。それは社会情勢に依るものか、農家の経営形態に依るものか、今後種々研究されるべきでしょう。
―静修第一農事実行組合員の変遷―
昭和十二年  二十戸
 菅原 寅吉  小西 新吉  伊藤 長八  西山留之助  中 沢直人
 菅原  勇  宮島与四郎  多湖善之助  山下 丹造  佐々木喜一
 佐藤 良翁  佐藤喜多治  千葉興之助  菅原長三郎  中川  博
 大友 貞代  宮島吉次郎  加藤 七治  佐藤太右エ門 伊藤 栄作
昭和二十六年 二十二戸
 菅原 熊吉  千葉興之助  伊藤 長一  中川  博  菅原 寅吉
 小西 新吉  宮島与四郎  伊藤 朝子  中沢 直人  菅原  勇
 佐藤 良翁  山中 利夫  山下 丹造  佐々木喜一  本田 重吉
 山中 敏郎  宮島 正雄  菅原長三郎  渡辺 熊雄  宮島吉次郎
 加藤 七治  多湖  章
昭和四十二年  二十戸
 伊藤アサ子  菅原  勇  菅原 与助  菅原 繁代  加藤 七治
 本田 重吉  千葉 静雄  小西スエヨ  中沢 勝雄  多湖  章
 中川  保  佐藤  公  佐々木喜一  山中 利夫  宮島 正雄
 宮島 庄一  佐藤 允之  菅原長三郎  菅原 寅吉  宮島与四郎
平成九年     十戸
 菅原  進  佐々木進一  菅原 富夫  佐藤  公  中沢  茂
 本田 陽一  宮島 一郎  多湖 秀次  菅原 義己  小中 信行

機関誌 郷土をさぐる(第17号)
2000年3月31日印刷  2000年4月15日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔