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私の小学校生活

水谷 甚四郎 大正二年十一月四日生(八十六歳)

今から十年程も前の頃、わが郷土をさぐる会員五、六名が上富小学校の三年生を対象に懇談会を催すこととなって、当時の加藤幹事長以下菅野稔氏、佐川氏と私とが学校を訪れた事があった。
質疑応答は給食をはさんで行われたが、兎に角先生、先生と敬語が矢継ぎ早に出てくるので戸惑いもあったが、どうやら七十年近い前の実体験が想い出されて楽しい一日を過ごさせてもらった。
私が入学したのは大正十年四月一日、一人息子の私だったにもかかわらず付添は四年生の姉が一人、ピカピカとはおよそ縁遠い風呂敷に包んだ授業用具を肩にかけ、名前を呼ばれたら大きな声で返事をする事だけを念入りに仕込まれての入学だったので、受持の先生や校長の名前などは我関せずだった。
兎に角女ばかりの中で育ってきた内弁慶の私は、只返事をするだけがやっとで、これといった友達ができるわけでもなく、オドオドしながら、可もなく不可もなく、何の取り柄もないままの一年生だった。
漸く二年生になった時は、奈良キクエという優しそうな女先生だったので何となくホッとしたが、学校側の事情で近在郡部組の私たちが午前中、市街地組が午後の授業と変則な形での通学となった。
そんな事なので、たまたま先生も本間先生という母親先生で、この先生には奇しくも私の息子の喬も担任され、親子で授業を受けた次第であるが、乳呑子のいる先生だけに、昼食の時には教壇で、堂々と大きなオッパイで乳を呑ませながら弁当を食べておられた。今の時代では誰もが本当にしてもらえない姿であろうが、当時の母親としては誰はばからぬ所業で、私達も親しみ深く見上げていたものである。
斯しくて三年になった時始めて、小島悟郎という男の先生となった。本来なればそろそろ勉学意欲の湧いてくる年頃にもかかわらず、事もあろうに弁当持ちでノウノウとズル休みをきめこんで、同郷の親戚に丁度良い従兄弟が隣村にいるのを幸いに遊び呆けていたのを通報され大目玉を喰い、さすが甘えん坊の私も浪花節の文句ではないが、それからというものは心を入れかえて、校訓通り良く遊びよく学ぶ三年坊主となった。二学期の終り頃から成績も上向きとなり、三年生の通信箋は何とオール甲となり、おまけに優等賞迄もらってしまった。
当時の通信箋なるものを見ると、担任の先生が同じ小島性で前半が伍郎、後半が清となっているので清先生の方が私の実力を見る目があったのかも知れない。
こんな経過があって四年生となったのであるが、当時としては珍らしく男子と女子が半分ずつのクラスとなった。私達の担任は、坊主頭の詰襟姿高等科の生徒と間違う様な、教員検定試験に合格したばかりのホヤホヤ先生であったが、教育にはすごく熱心でした。オッチョコチョイでふざける事を覚えてしまった私に変なアダ名をつけて叱ったり、居残りさせられたり、廊下に立たされたりして、女生徒に笑われてはいたが、又勉強には特に意をそそいでもらった様であった。
私は生来字を書く事と絵を画く事が不得意で、甲をもらうことは出来なかったが、外の科目が良かったせいか優等賞と皆勤賞だけはいただくことができた。
この坊ちゃん先生には運よく五年生にも持上がりの担任となってもらいやれやれと思っていたのだが、少し経ってクラスの大編成替があり女生徒が出て行って男子組ばかりになった途端、今迄女性組が担当していた副級長の座が、何の前触れもなく変り者の私に廻って来てしまった。
聞くところによると今は立候補制で学級で投票するそうであるが世の中も変ったなあと驚いている次第で、あの頃は校長からの辞令伝達方式であった。
二年連続の担任だったので役付になったからといって特別に気を張る事もなく、今迄通りの直情径行型から抜けきらず、級長の中尾君には随分ハラハラ気を持たせたものだ。
六年生になって、始めて先生らしい洋服姿の担任を迎えたわけだが、服装の割には至って鷹揚な先生で口数も少なく、厳しさも感じられなかったので、気易い学校生活を過ごさせてもらう事が出来たが、子供心にも何か物足りない気持もあった。
兎に角自習時間が多かったが、強いて言えば絵を書く趣味がそうさせたのかも知れない。私は図画と書方が不得意なので恥かしいと思っていたが、そんな事にはおかまいもなく、一学期から三学期迄見事な全甲の通信箋をもらったので申し訳ない様な気がした。
私には三男三女の子供がいて、二男が大学二女三女が公立商業高校の受験をする時、件(くだん)の通信箋が何らか心理的に役立たないものかと勉強部屋の目に付く所に貼って置いた事を覚えているが、そんな事は彼等はもう身体のどこにも残っていないであろう。
尋常科の義務教育修了という事で、六年間の各科目の試験答案を手許にあるだけ展示する様指名されたので、部厚い成績綴りを並べて通信箋と比較して見たがまあまあだったので胸をなぜ下ろした。
高等科を卒業する迄、運動会当日競技の始まる前に全校生徒がグランドを一周する時に歌った行進曲を記憶を辿って書いてみる事にした。
運動会行進曲   大正十三・四年頃

一、十一洲の鎮めなる  旭ケ岳は峯高く
  我等が心を現して  國の眞中に聳え立つ

二、その山陰を流れくる  石狩川は水清く
  五穀を民に恵みつつ  大野が原を流れたり

三、瞰(のぞ)み果なき海原は  占守島の奥迄も
  人住み馴れて皇(すめら)ぎの  御稜威普(みいつあまね)く国ぞかし

四、汽船の煙立なびき  汽車の響(ひびき)も絶間なく
  昔は遠き蝦夷ケ島  今は輝く新天地
我が上富校には、この外にも独自の伝統行事があり、どちらも軍事的だとは思われるが、その一つは運動会当日、午後のプログラムの最初に四年以上の男子全員で行われる海軍遊戯である。明治三十七、八年日露戦争の日本海大勝利をもじった紅白騎馬合戦なのだが、一回目は各種戦闘艦の標識をつけた下級生同志が戦い、勝ち残った組が引上げ上級組の旗艦部隊と合流し勝利の歌とともに勝鬨(かちどき)の声を上げながらの大激突となり、それぞれグルグル巻にした主将の鉢巻きを取り上げて勝負となるグランド一ぱいに暴れ回る競技で、泣きだす生徒もいた程の格闘技であった。
もう一つは毎年三月に入るとグランドの雪を踏み固めて五メートル近い城壁を作り日章旗を揚げて奪い合う雪合戦で、これも日露戦争の陸軍が奉天で大勝利をした記念日に因んだもので、今思えば、戦えば必ず勝つという大和魂を植え付ける教育だったかと思う。
こんな事で八年間を通して来たが卒業後はどんな事が行われて、どのようになったか知ろうとも思わないが、八十六才の現在を満足に暮している。

機関誌 郷土をさぐる(第17号)
2000年3月31日印刷  2000年4月15日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔