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沼崎農場の思い出

故 打越  正 大正十三年一月十日生
平成十一年三月十四日没(享年七十五歳)

農場誕生まで

沼崎農場は元第二マルハチ牧場と言い、富良野地方の最北端に位置し、東側に上川郡界(富良野地域は空知郡奈江村、滝川村の村域に含まれたため現在も空知郡)、西側には富良野線が走っている。南は草分旧金子農場に接し、北は美馬牛市街に接続する丘陵地帯である。この地に着目したのが兵庫県人の田中亀夫氏(屋号はマルハチ)で、明治三十三年五月に渡道し、明治四十年頃原木調査の為この地を訪れた。
田中亀夫氏は旭川町二条十丁目でマッチ工場を経営しており、その原木調査の為だった。その時、この辺一帯が牧場に適している事に着目し、明治四十二年北海道庁に払下げを申請して五十九町八反歩の払下げを受けた。
其の後、畜舎を建て数頭の馬を飼い、大正二年に附与検査を受けて合格した。此の辺一帯は樹木の密集地帯で、ナラ、イタヤ、エンジュ、タモ、セン、樺等々多くの巨木も点在していた。その為開拓は樹林の伐採に始まり、堆積しては焼いた。樹種によっては炭に焼き、市街に運んで金に変えた。開拓後も伐根が多く、畜力プラオの頃だったので、どの畑も耕作の障害となっていた。附与検査に合格した田中亀夫氏は、農地に転用すべく未墾地の売却を進めた。
最初に購入したのが長谷川理作氏と、打越与三郎で私の父だった。二人は美瑛町上芋莫別で、同じ入江農場の小作として耕作していた。同郷であった為一緒に購入して移住したのだった。当時未墾地五町歩で二百円位だった。この年里仁地区学校附近(杉本萬吉氏の隣)に住んでいた桜木由五郎氏も移住した。(学校は明治四十四年に上富良野第三教育所、大正四年に里仁尋常小学校になっている)
又、翌年には山川久三郎氏が入植(この人は美瑛町三沢藤作氏の小作であった)した。その後、田中亀夫氏は美瑛町の開業医沼崎重平氏に転売し、ここに沼崎農場が誕生したのである。

開拓と生活

沼崎は地味、気候共に決して良くはなかった。南北に走る富良野線にはばまれ、陸の孤島の様に交通の便は至って悪く、当時の開拓地の中でも生活は貧困であった。入植した人々は、沼崎重平氏の小作として開拓に心血をそそいだのである。当時は開拓から三年は、年貢は取らなかった(鍬下制度)。開拓者はこれに大きな夢を抱いて、開拓に明け暮れた。
四月の雪解けと共に、比較的雪の浅い所から開墾が始った。身丈もある熊笹、鬱蒼と茂る巨木の混る密林を、鎌と斧と鍬とを手に拓き行く作工を、一坪でも多くと汗を流した。伐採した巨木や笹はその場で燃やした。一部は木炭として販売しながら、開墾は雪解けに始まり雪が降るまで続けられた。
季節はずれに蒔付する作物は何と言ってもソバである。播種期が長く、収穫までの期間が短いからである。
馬による開墾は既に始っていたが、既墾地に於ては更に効果が多かった。当時からプラオ、ハロー、馬橇、馬車等、あらゆる面で大きな役割を果した。住居は皆茅ぶきで壁はまだ使われなかった。壁が使われるようになったのは、大正八年頃からと推定される。ランプが入ったのもその頃で、それまではカンテラが主だった。
ストーブもなく、炉端で釣りカギで鍋、鉄瓶等で煮たきしたもので、部屋には煙がこもり、屋根ウラに煙ぬきがついていた。風呂は、殆んどが母屋から離れて建てられていた。これは、風呂場から火事が出る事が多かったので離して建てたのである。
当時としては、類焼をのがれる唯一の手段だったのだ。

陸軍演習地

沼崎農場誕生と共に切り離せないのが陸軍演習地(俗に師団山)である。明治四十年陸軍演習規則に基き、六八〇〇ヘクタールの広大な土地が国有地として陸軍の利用する事となり、敗戦になるまで存在していた。この時既に入植していた人は、土地が買収になり退去した。大正、昭和の世代、この地の人達は大砲の音を聞き乍ら農作業を続けたものだった。
又開拓が進められるに従い薪が不足する様になり、陸軍省の許可を得て古木の伐採が認められ、附近住民にとって薪炭用として利用出来た。敗戦解放になるまでその恩恵を受けた。終戦と共に演習場は、食糧難の時代でもあり、又海外引揚者の援護対策として、農地として拂下げられ現在に至っている。

地域の盛衰

沼崎農場は其の後急速に入植者が増え続けて、大正十年頃は十二戸までになった。又第一次世界大戦の好景気により農産物は値上りし、特に青腕豆は急騰したが好景気にささえられた住民達の心の寄り所として、神社の建立が持ち上った。大正六年沼崎八幡神社が誕生、余興等も行なわれたと言う。その後大戦の終結と共に景気は次第に下降し始め、神社の維持はだんだん負担となり、豊里八幡神社に大正十年頃合祀することとなった。
北海道開拓史の中で見逃せないのは米作りだった。道内でも富良野地方は比較的条件は整っている方だったので、沼崎農場も例外ではなかった。大正七年頃より造田は急速に進められて、昭和初期には六町歩にも及んでいた。この頃の造田は畜力によるもので、「ズリ」と言う器具で土を移動させた。
当時は直播で、苗植えが始まったのは昭和十二年頃であったろう。沼崎農場の中ほどを旧国道が上川郡界に向って走っている。この国道は美瑛町に結ぶ最短距離として開拓当初に利用されていた。当初はアイヌの道として利用され、松浦武四郎もこの道に沿う様に踏破されたものと思われる。この旧国道は、今も踏切の上を左折して行くと鉄道防雪林の中にその名残りを留めている。

開拓功労者

大正の初期からのこの地のかくれた開拓功労者は、堀川熊五郎氏と後藤誠氏だろう。堀川熊五郎氏は石材を刻む技術を持ち、開拓の初期より昭和初めまで、家屋の土台石をこの人の世話になっていない人は居ないだろう。又後藤誠氏は宮城県出身で、芽ぶき屋根の職人だった。昭和の中頃まで、当町だけに留まらず、他町村にまで頼まれ、引張りダコの貴重な存在だった。六十四才で此の世を去るまで屋根葺きは続けられた。
沼崎農場の歴史の中で最も功績があり、尊敬もされ、親しまれた人、それは農場主の沼崎重平氏である。田中亀夫氏からゆずり受けた第二マルハチ牧場は、急速に開拓されて行った。美瑛村の村医としての功績も大きく、美瑛開拓史の中にその功労はたたえられている。
小作人に対する温情は特に深く、医者代の払えない者、入院の出来ない者には、当時は馬に乗っての往診をした。そして年貢を払えない者等貧困に対する慈愛の心に胸が打たれる。キリスト教を信じ、人道的社会主義に根ざす心の現れであろう。このヒューマニズムは、後に自分の経営する病院を上川生産連に譲渡し、今の厚生病院の前身に貢献するなど随所に発揮された。
昭和初期に日本は大きな恐慌に見舞われた。開拓未だ日浅い小作の人達は、貧困な生活が続いていた。

農場開放

その頃農業の方向として、国は自作農創設資金を貸し出した。一括地主に支払い、小作人は年貢代に相当する金額を数年払うだけで、自作農民になれると言う画期的なものだった。常に小作人に対する同情と深い理解を持つ沼崎重平氏は直ちにこれを取り入れ、自作農経営の先端を切って小作農民に解放した。
又大正十四年十月に美馬牛駅が出来たのも、氏の力によるものだった。常に時代の先駆者として美馬牛市街も総べて解放し、今日の市街形成の功労も大きい。これらの功績を永遠に後世に残す為、美馬牛駅前に昭和三十一年、当時の小作の人達の奉仕によって沼崎重平翁彰徳碑が建立され現在に至っている。

〇編集委員註
小作人制度:土地を持たない農民は地主から農地を借りてその借りた代として農作物で地主に収めた。北海道の開拓は未開拓のため三年は無年貢(鍬下制度)とし、四年目より年貢を収めた。

機関誌 郷土をさぐる(第17号)
2000年3月31日印刷  2000年4月15日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔