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―かみふらの事始め物語―
上富良野町での家畜人工授精

芳賀 正明 昭和五年七月十四日生(六十九歳)

はじめに

いまから丁度五十年前の昭和二十四年に、上富良野村(二年後町制施行)で家畜の人工授精事業が開始されております。想えば、既にもう半世紀も前のこと、時の流れを感じます。
当時の事については資料もなく、記憶も薄れがちですが、敢えて振り返ってみる事にしました。家畜の人工授精の将来性、その事に着目をして、これを実現に結びつける様になったのは、当時の農協組合長であった石川清一さん、そして畜産係を担当の小玉信勝さん達が企画され、それから、酪農家の先頭になって活躍しておりました日の出の浦島捨三さんや、東中の中西覚蔵さん他の方々からも賛同、協力があって実現の運びになったと伺っております。
上川管内の人工授精のはじまり
北海道において家畜の人工授精が普及したのは、戦後間もない確か昭和二十二年頃からと言う事で、従って極く僅かな地域で実施しているに過ぎませんでした。
上川管内では、永山町(現旭川市永山)が唯一カ所、二十三年からの状況でした。道内の一部の地域で漸く着手するといったそんな実状でしたから、上富良野のこの町で人工授精業務を行うという当時にしては先駆的な発想であったのではと考えます。人工授精を採り入れる事によって家畜の改良を進める事や、受胎率を高める等と言われました。また、併せて家畜の飼養農家が増える事を期待しながら、幾つかの利点を踏まえての結果だったのかと思われます。
上富良野村の人工授精所開設
そして二十三年、授精所を開設するため、現在フラヌイ温泉の道路向かい側の敷地(杉本高三郎さん所有土地の寄贈)に畜舎三棟と住宅の建築に取り掛って同年完成を見ておりました。また、翌年の二十四年から人工授精所としての業務開始に当たって、訓子府町から太田左夫郎さんが着任されました。
導入していた家畜は、日の出の長沼善治さんが管理していたホルスタイン種牡牛と、同じ日の出の藤崎政吉さん育成の種牡馬、そして種豚と、斯うした家畜を繋養していました。
当時、周辺一帯は、農地や砂利原になっていて授精所に接する北二十六号道路の環境は、馬車が時折り通るそんなのどかな道でしたから、何の気兼ねもなく馬や牛の運動に利用したものでした。(授精所の跡地は何処か、面影どころか予想もつかない住宅街に今は変わっています)
当初は、牛ばかりでなく、馬と豚についても人工授精を試みる予定でしたが、技術的な問題もあり、又異論もあって、結局取り止めになったようです。
乳牛は、始めに導入した牡牛が高年齢であったことも関係してか、思う程の成績も上げる事が出来ず、急ぎ十勝の池田町と胆振の早来町から若い種牡牛を導入して、これで漸く本格的な授精業務に入ったものでした。
それでも、時にはスムースに事は運ばず、いろいろなことが生じたりしたもので、冬の寒さが厳しい時は特に精液採取に応じようとしなかったり、また採取しても性状不良で採取を再度行うとか、徒らに時間を要したりして、悩まされたものです。
当時は、まだまだ牛を飼っている戸数が少なく、二十戸足らずのように記憶しております。
やがて、頭数を増やして行く施策として、町が奨める乳牛の貸付制度と、それに呼応しての飼育熱も高まり、飼育する戸数も頭数も急速に増加し、一時は百二十戸程に達しました。酪農家の管理技術も進む中で、人工授精への認識も深まり、漸く業務も軌道に乗るようになって来ました。
夏は自転車、冬はスキー
富良野や中富良野、遠くは千代ヶ岡からも、授精の依頼を受けて出向いた事もありました。暫くの間は、各戸を訪れるにしても、車のない時代でしたから、徒歩や自転車で出掛け、冬はスキーを用いたり遠くへもトコトコ歩いていったりで、今は懐かしい思い出となる語り草でもあります。数年後にはオートバイ、そして又数年後には乗用車になり、歩いていた当時には、全く考えられないことでした。
人工授精業務の所管の変遷
年を追い人工授精の技術も進む中、運営面での移り変りもありました。
昭和三十年代に入ると、上川生産連が種牡牛を一括繋養して、そこから管内各市町村へ精液を供給する案があり、やがてその意見が纏まって、授精所にいた種牡牛も牛舎を離れ、此の町より去って行きました。淋しく別れた印象が今も残ります。
三十七年には、町が掲げる畜産振興を、より昂めて行く、そうした事から農業共済事業と人工授精業務を一括して、職員共々町に所管を移す事になったのです。
町に移って十二年後、富良野沿線の共済事業の統合問題が持ち上がり、昭和四十九年にそれに伴って授精業務も引き継がれました。
以上、上富良野町で家畜人工授精所を開設以来、業務に携わった二十五年間の過程を振り返って、その変遷を追って見ましたが、五十年前からの多くの歴史の流れの中で、思い起こすとその記憶の多くが筋道が立たず、入り混じってしまいます。それだけにまとまりのない内容になりました。
牛を飼われていた方々の暖かい言葉が思い出されると共に、当時、人工授精への道を辿って精励し、明日の牛のよりよい改良を夢見て歩んだことが蘇って、懐かしく思い出している処です。
 資 料 
◇上富良野町家畜人工授精所の沿革◇
(上川人工授精師協会四十周年記念誌より)
〇 昭和二十四年八月、上川管内では、永山・士別に次いで三番目の家畜人工授精所(種雄牛・馬・豚を繋養)として開設。二名の専任技術員(太田左夫郎・芳賀正明)が、種畜管理から授精まで一連の業務を担当し、開設当初の対象地域は西神楽から富良野まで五町村に及んだ。
〇 昭和二十七年、町の指導、貸付牛制度の導入により、飼育戸数・頭数共に増加し、オートバイを導入、業務の密的拡大を図る。
〇 昭和三十七年四月一日、事業主体を酪農組合から町へ全面移管する。
〇 昭和四十九年三月一日、富良野地区広域共済組合発足に伴い、授精所を共済組合へ移管し現在に至る。
〇 昭和六十三年七月、「家畜改良事業所」と改称する。
現在、乳牛一千二百頭・黒毛和種四百頭が飼育されている。
◇上川管内の畜産の変遷◇
(北海道獣医医師会上川支部五〇年記念誌より)
上川管内に乳用牛が導入されたのは明治二十八年、小林直三郎氏が旭農場(現旭川市西神楽字千代ヶ岡)にその足跡が見られる。この時はホルスタイン種と、ガンジー種であったとのこと。以来旭川近郊や美瑛等に放牧場を得て逐次増頭し、バター製造、飲用乳業務を開始し、札幌の宇都宮仙太郎氏と共に本道の二大酪農功労者として、我が国酪農界発展に多大な影響を与えた。
これらの基礎の上にたって発展することになるが、当時はまだ乳製品の需要は特殊な人に限られ、これらの製品は主に小樽方面に販売されたと記憶されている。以来次第に一般にも普及され、大正後半、昭和初期には次第に飼養戸数や頭数は共に増加してきた。特にこの年代には需要物資としてゼラチン(飛行機製造の接着剤)の原料としての必要から、牛乳増産が政策として取り組まれた関係で増頭がなされた。
この時点までの繁殖体制は本交尾であったため、しばしばトリコモナス病等の疾病が多発し多大な被害をもたらし、酪農発展の大きな阻害要因となった。
これらと相候って人工授精技術実用化の研究もなされ、本道においては北見市において昭和十七年、牛の人工授精所が開設され、管内においても昭和十九年下川村(現下川町)において米森富蔵氏によって開設されている。以後、戦後は二十二〜二十五年に美深町を始め六町村で相次いで開設(上富良野では二十四年に開設)され、やがて昭和二十七年には人工授精所の整備統合なされ、当管内は上川生産連が上川中央人工授精所を集約した。以後技術の発展と食生活の欧米化に伴い急速な酪農業の発展を見ることとなった。
昭和四十年には、上川生産連が我が国初の液体窒素による凍結精液の実用化がなされ、精液の長期保存と輸送方法の改善により改良増殖が急速な発展を遂げることとなった。
凍結精液による有料精液の容易な入手と、昭和四十九年北海道乳牛検定協会が設立されたことによる改良速度はめざましいものがあり、年々加速度的に能力の向上が図られ、十五年後には個体の乳量は遂に二倍に達したことは驚くべき成果であった。
当管内の乳牛の頭数、戸数、生産量ともに全道の五%のシェアーしかないが、長い歴史の基礎に立ち、生産者を始め関係者一丸となった取り組みにより個体能力や飼育管理技術、更には改良手法の考え方等について全道をリードする立場にあり、注目されているところである。

機関誌 郷土をさぐる(第17号)
2000年3月31日印刷  2000年4月15日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔