郷土をさぐる会トップページ     第17号目次

戦艦「長門」での海軍の思い出(下)

故 落合 勇 大正十四年八月十三日生
平成九年一月十二日没(享年七十二歳)


君が代のラッパで軍艦旗掲揚

軍艦旗掲揚は、各艦が一斉に行なうので、君が代のラッパが始まると艦内どこにいても不動の姿勢を取り、停止しなければならない。終ると課業始めであるが、新兵は教育上艦内を全部教えられるが甲板にして十三甲板、区画には二十二区画、分隊も二十一個分隊ある。艦長以下の士官氏名を教えられ、これも全て覚えなければならないのである。私は兵科分隊への戦闘配置で、偶数日は右舷、奇数日は当直であり、さらに右舷が一直三直左舷二直四直になっており、半舷上陸や入湯上陸につかわれ、一等兵になり一年が過ぎると、入湯上陸が許されるのである。
所属分隊の課業の説明が終わると、今度は、各分隊の説明に変わる。一分隊から四分隊までは主砲分隊、五分隊が副砲分隊、六分隊が高角砲分隊、七分隊は機銃分隊、八分隊が主砲幹部、九分隊が副砲幹部、十分隊までが兵科分隊である。
十一分隊通信科、十二分隊航海科、十三分隊運用科、十四分隊工作科、十五分隊電気科、十六分隊補機科、十七分隊飛行科、十八分隊機械科、十九分隊缶科、二十分隊医務科、二十一分隊主計科、以上で終わりである。
乗艦して五日が過ぎると、本艦は近日中に出撃するというので、新兵も一日引率上陸が許された。宮下兵長に引率されているので、兵隊にも下士官にも敬礼しなくてよいので安心して歩くことができた。
その日の午前中に一等兵に昇格したので記念写真を撮り、最後の姿になるかもしれないので故郷に送ってもらうことにした。毎日の訓練がきついのを気づかってか、兵長から午後は時間まで休むように言われ、夕方艦に帰った。
一週間もすると、作業も慣れてきていたが出撃となる出港作業の時は、新兵は足手まといになるものだと説明された。(八月十六日夜、呉出港。伊予灘へ出て八島沖に仮泊、八月十七日午後一時八島沖抜錨)

ソロモン方面に出撃出港

昭和十八年八月七日、ソロモン方面作戦支援のために出港した。新兵はじゃまにならぬよう見学に回り、午前九時に静かに動き出し、やがて艦隊隊列を組む姿は勇壮であった。九州沖を通過するころから波が大きくなり艦がゆれだし慣れない新兵は大変であった。
私は一、二番砲の弾薬供給員なので、露天甲板に配置されていて暑くなく、食事の時だけ居住区に行くだけで船酔いもしなかった。航海中は、作業もなく配置訓練以外は、見張をするだけの日課であった。
航海中の食事も良く、御馳走も多く出されたが、同年兵は船酔いがひどくて、食べるどころか靴下(吐くときの入れ袋)を持って走り回っても、太平洋上では、どうすることも出来なかった。
四日目にトラック島の夏島沖に錨を下ろしたが、途中なにもなく無事に来て一安心であった。トラック島に着くと、新兵教育が続けられた。艦内は暑くて、居住区に入ると蒸し風呂のような熱気がこもっていて新兵は、早くも銭たむしが出来はじめて悩まされた。

同郷上官の特訓

夕食後、短艇甲板に用具を持って行くと、ギヤ当番の橋爪王男上水につかまってしまい、「落合、出身地はどこだ」と質問された。一等水兵でさえ五段階もあるのに、この上の声を掛けられて身が引きしまってしまった。ようやく北海道と答えると「俺も北海道だ。北海道出身は、何名かいるがぼんやりしている者は一人もいない、頑張るように」と激励されたまではよかったのだが、巡検後、短艇甲板に来るように言われてしまった。毎日が新兵教育中なので、体はくたくたである。しかたなく泉一水に話しをすると、何かへまをしなかったか聞かれるが、覚えはない。洗面器や班長の靴の手入れをやめてとにかく行くように勧められて甲板に向った。
「落合一水参りました」と申告すると「これから特訓を行なう」と言うのである。南洋でも夕方になると涼しくて過ごしやすくはなるが何の特訓なのかわからない。おそるおそる付いていくと、カッターを上げるデリック(吊り上げ機)の所で、ストッパー(タールで煮しめたロープ)のかけかたの訓練であった。
カッターを上げるのは六分隊が受持ちで、ロープを引っばるのは両舷当直がするのだが、最後に止めてストッパーをかけるのは、六分隊の若い兵隊の仕事である。大切な仕事であることはわかっていたが、上水の指導では断ることもできない。海兵団では、固定した場所であるから形だけ出来れば良かったが、実際には一トン近くあるカッターを一時止めなければならないのである。橋爪上水の模範を操作に見習って私もはじめたが、「そんなことではだめだ。遅い。力を入れなければだめだ」と言われて何回も繰り返すことになる。そのうちに爪の所から血が出はじめ、それを見てようやく止めるよう声が掛けられた。
「ありがとうございました」と礼を言って居住区に帰ると、泉一水が「どうだった」と聞いてきた。ストッパーの件を話すと「橋爪さんは北海道出身の徴兵だから落合にかたを入れたのだ」と笑うばかりであった。私はなんのことかわからないでいると、次の日、なんとカッター上げの号令がかかったのである。
私達新兵は、一目散に行かなければならず、その時甲板下士官が、ストッパーを新兵に命じた。私は夕べ特訓を受けたこともあり、仕方なく台の上に上がると、一番小さな体の新兵が上がったので、当直将校がだいじょうぶかと声を掛けてきた。相方になった兵隊は私達より一年早く入団した兵隊だったが、ストッパーをかけ終るのが私の方が早く、また確実であったので、甲板に下りてくると甲板下士官に、精神注入棒で軽くコツンと頭を打たれたのである。

スコール浴と洗濯

色々なことがあったのだが一カ月の新兵教育も終る頃、艦内帽子も白に変わり、事業服も防暑服に変って半袖半ズボンで、靴も防暑靴に変わっていたが、南洋の日中は暑くて大変であった。
一日に何回かスコールと言う夕立が降るが、降ってくることがわかると、「スコール浴びかたはじめ」と号令がかかる。その時は、裸になって露天甲板に出ても注意されないし、真水が少ないので入れ物に雨水を汲み入れてから洗濯をするのである。
南洋にいる内は、外地なので給料も高く、戦給品もあたり、艦上生活も楽しみであるが、毎夜巡検後、日課表にない日課で、甲板整列があり、一日を反省させられる時は悩みであった。
水兵長は同年兵が、下士官になっているのに、まだ水兵長なので仕事もないし、暇なので分隊員の「あら探し」をしている。それでひとつひとつ注意をされ、悪ければ軍人精神注入棒で打たれるので、尻には何時も青くあざが残ることになる。これが付いていると、堂々とスコール浴にも行けるのだが、付いていないと陰でこそこそ体を洗わなければならない変った世界なのである。

内火艇員を命ぜられる

新兵教育が終って一カ月が過ぎると、私達に役員と言う分隊の仕事が申し付けられた。私は六分隊受持ちの内火艇員(連絡用の小舟)を命ぜられた。一番気楽な仕事であったが、総員起しよりも早く起き、巡検後まで内火艇に勤務しなければならなかった。
艇員と言うのは、艇長二等兵曹で、機関長は機兵長、「バアメン」長が水兵長で、バアメンは一水二人である。
舟長八メートル、巾は二・五メートルの中を毎日洗っているのできれいになっているが、一等兵は何か働いていないと、何時叱られるかわからないためおろおろしていると、水兵長の粥川さんが休めと言ってくれた。この人は、軍艦陸奥が自爆した時の生き残りであって、静かな人で、兵隊の様な言葉もつかわない人であった。暇があると、大砲訓練のことや学課の復習をするなど、私のめんどうをみてくれた。
後甲板取付が当直将校の命令を伝えに来て、左右舷梯につけろと言われた所へ行くのが仕事であった。
一週間に一度楓島の見張員の所へ、食糧を持って行くことがあるので、これが楽しみなのだ。食糧をおろし終えてから三時間位の休憩時間があり、この時に島民の子供達が南洋のみかん、バナナ、マンゴ、椰子の実などを持って来て、タバコと交換してくれと言って来るのであった。ある時戦給品でもらった「ほまれ」と交換し、内火艇の中で腹一杯食べた残りを外から見えないように持ち帰り、巡検後、全員が寝てから艦に持ち込み、班員にこっそり配ったので、班員からはかわいがってもらえた。
昭和十八年十月十七日、ウエーキ、マーシャル方面に敵機動部隊来撃のおそれがあるため、トラック所在部隊は出港することになった。十九日ブラウン環礁に着き、人員や兵器を陸揚げし、二十三日ブラウン発、ウエーキ南方二五〇カイリまで進出したが、敵を見ずに反転して十月二十六日にトラック島へ再入港したのである。
航海中は、配置訓練が早朝にあるだけで、あとは見張りが主な仕事で、敵の来襲がなければ私達新兵には天国であったが、入港すると朝から晩まで訓練訓練である。トラック島に入港して一週間位過ぎた頃、分隊先任下士官から私に呼び出しがあり、居住区に行くと三番砲の班長がいて、当日付けを持って三番高角砲員を命ずと言われたのである。班長に付いて三番砲に行き、砲員の人達に挨拶をすると「よし落合来たか一生懸命に頑張るように」と言って、兄弟に話をするような雰囲気である。
昼食をしながら、池ケ谷水兵長が「うちの大砲は砲員は仲良く、皆んなで何事も助け合って行うのでそのつもりで」と、注意があった。
長門乗組員の中に落合と言う姓名の者が二人になり、たまたま同じ班になったので、体の小さい私は小さい落合、もう一人を大きい落合と呼ぶようになり、それが自然に分隊でも大、小と呼ばれるようになった。

左四番砲手に戦闘配置

私の戦闘配置は、左四番砲手である。砲員は十二名である。射手首藤力上曹(秋田県出身)、施回手池ケ谷純蔵水兵長(静岡県出身)、照尺手小林武雄一水(東京都出身)、信管手鈴木義之助一水(宮城県出身)、左一番砲手高嶋義雄一水(旭川市出身)、二番渡辺信男一水(東京都出身)、三番加藤友三郎一水(千葉県出身)、四番は私である。右一番砲手山崎直一水(長野県出身)、二番菅敬一一水(秋田県出身)、三番落合博雄一水(栃木県出身)、四番は欠員になっていたので、私が二人分の仕事をしなければならなかった。
弾薬庫から時限信管の付いた三〇キロ弾丸を、いかにして早く取り出すかが当面の訓練であった。班長初め砲員全員が私の指導に当ってくれたが、他の人は四番砲手の経験者ばかりであり、秘訣を教えてくれるので、私の上達も早く間もなく班長から何時出撃しても良いと言われるようになった。

菊川丸の死体処理

昭和十八年十月十七日は、私にとって忘れることのできない一日となり、トラック島でのことであった。
真夜中に、役割の田中水兵長が私のハンモックをたたいて私を起こし、すぐ作業に出るように言うので、急いで作業服を着て後甲板に行くと各兵科分隊から一名が出ていた。上水が半分で私達一水五名だったが、皆んな私より先輩の一水である。舷門に「中火艇に乗艇」と言われると、新兵の私は荷物を運ばなければならないが、不思議なことに弁当にお菓子、酒を積み込むのである。乗艇が終ると艇指揮官は、第二分隊士の大谷兵曹長である。真夜中の為全員寝るようにと言われ、仮眠をとることになった。
三時間位すると起され、艇の外に出て海面を見張るようにと命令された。私はなんのことかわからず朝三時頃のうす暗い海面を見ていると、三メートル位前に兵隊の死体がポコンと音をたてて浮き上がったのである。皆んな声も出ない状態である。先輩の上水に聞くと、昨夜一万トン級の商船「菊川丸」が火災を起し、満載していた弾薬類が爆発して、消火に当っていた四十一警備隊を巻き添えにしたと言うことであった。大谷兵曹長は、陸奥の生残りで、死体処理の老練者であるという。
一水の私は、艇が死体に近づくと細いロープで死体を縛るように命じられた。爪竿で引き寄せると大谷兵曹長から「手でやれ、貴様も死んだら爪竿でやられるぞ」と言われた。南洋なので一夜で腐敗が進み臭いは大変なもので、その臭いが私の手に付いた。
四人位縛って静かに夏島の桟橋まで運ぶのだが、桟橋には各艦の作業班が集まっているので、海岸には五十人位の死体がありひどい臭いを発していた。死体を陸上の兵隊に渡して、又現場に戻るのだが、艇長より現場に着くまでに朝食を取るように言われたが、この臭いでは食欲も失せてしまい、私は素手でつかんだその手で食事を取る気にもなれなかった。
艇内に入り食料の所に行くとゴム手袋があることは知ったが、朝食も取らず夕方まで死体を集める作業が続けられた。臭いが自分の休まで染み着き、腹はすいてくるし、体はもうくたくたに疲れて来て、内火艇の近くで死体が上がらぬことを祈りました。
太陽が沈む頃になると死体が半分位は立っていて、半身が過ぎるとパチパチと波にゆれる姿を見ると淋しくなった。日が暮れてようやく帰艦したが、石けんで何回手を洗っても手の臭いは取れなかった。
夕食には班長がねぎらいの言葉とともに酒をコップ一杯ついでくれて、これを飲んでから食事をするようにと言ってくれたので、一気に飲んで夕食をかき込んだ。落合でも困ることがあるのかと皆んなに笑われたが、私の海軍在籍中に一番困った一日となった。
昭和十八年十一月一日付けで私達新兵以外の一水が全員上等兵に進級したので、一水の数が少なくなり、班内では私一人となってしまった。

入浴は三リットルのお湯

海軍では艦に乗るのが全員の希望であり、私達が入隊した頃は大分船が少なくなっており、一緒に入った同僚は三分の一も乗艦することが出来なかったので、私は幸せな方であった。長門に乗艦してからも陸上へと変った者が多くあった。
朝、顔を洗うのに使える真水は一リットルで、これで歯も磨かなくてはならなかった。入浴と言っても湯に入るのではなく、一リットルのお湯三杯で洗うのである。初めの頃は、石けんの泡を流すことも出来ない始末であった。又新兵は尻に青いあざ(精神注入棒のあと)がないと、はずかしくて入浴に行くことが出来ないのである。
トイレは厠(かわや)と言って大便の時には、戸を開けたままで行うことになっている。階段はラッタルと言って絶対跣で上らなければならない。艦首を中心に右側を右舷、左側を左舷と呼び、戦闘配置の番号があって偶数の人を右舷置、奇数の人を左舷置と言った。
色々な作業をするにも、全て号令がかかり、偶数日は右舷置が当番で奇数日は左舷置が当番になった。
上陸する時もこれが使用されるのであるが、新兵時には当番などとは無縁の生活である。何時も当番と同じで、胸に等級と血液型を書き、下の氏名の間に左舷の人は赤い線が書いてあって、一目でわかることになっているのであるが、古い兵隊は作業には行かないので、新兵は両舷置なのである。

楽しみだった慰問袋・銀めし

又、楽しいこともあった。日曜日の夕食後は酒保開けで、戦給品の酒やビールお菓子が貰えるので酒の好きな人は酒を飲み、お菓子の人はお菓子を食べ、故郷に便りを書くひと時である。手紙は書くことが限定されているし、検閲があるので元気だと書く位のもので、途中で海に沈むこともあり、南洋から出しても日本に着くのはほんの一部であった。
慰問袋も色々な所から送られてきた。新兵時代は、古兵に良い物は取り上げられてしまうこともあったが、開けるまでが楽しみであった。
国の四大節は休業日で訓練はなく、朝食は銀飯と言って、麦の入っていない白米の食事である。配膳がすむと全員で万歳三唱をして食べる習わしになっており、復員するまで不思議に思い続けたことの一つであった。
十一月から私は、後甲板取次と言う役員になった。艦内で九名、一日三直で一直員三名である。取次の仕事は、当直将校の命令を如何に早く分隊長、分隊士に連絡をするかと言うものであった。また両舷間の清掃も守備範囲、軍艦長門の顔と言われる部署であった。一直には、上水で三カ月以上の経験者が先任取次として私を指導してくれた。この先任は、ここでも五分隊の工藤上水がなり難問は自分で処理し、私を舷梯の掃除に回すなど親切に指導してもらった。
後甲板の当直員は、当直将校、副直将校、衛兵伍長、兵長取次、信号兵、伝令で、当直将校は何時も私室にいるので、副直将校が忙しく働いていた。後甲板取次は、両舷の内火艇の発着に気を配らなければならないが、左舷梯は兵下士官用で気が楽だったが、右舷梯は士官以上時には艦隊司令長官まで通るので緊張感は大変なものであった。
艦長以下の時は後甲板当直で対応できたが、司令長官となると、艦長副長まで案内に当たらなければならなかったのである。内火艇のバアメン長の上げる旗の色で来艦者を区別するので、油断することが出来ない。私はバアメンの役をやったことがあったので、どの辺に来ると旗を上げるかがわかっているので大変助かった。私は退艦するまで取次をやっていたので、新しく取次になって来る何人もの人に、先輩として指導して喜ばれた。

三メートルのフカ釣り

取次の当直が終り、左舷を通り分隊作業に行こうとすると、三分隊長の渡辺大尉が私を呼び止めて、工作科でフカ用の釣針を造って来るように命令された。渡辺大尉は、本艦の中で一番古い大尉である。
工作科の金工の部へ行って三分隊長の命令を伝えるとすぐに造り始め、一時間もしないうちに仕上げて、マニラロープを付けて渡してくれた。釣針を持っていくとすでに主計科からエサが来ていて、飛行機を揚げるデリックにマニラロープを縛りつけて海におろすと、十五分もしないうちにフカがかかった。しかし、引き揚げる途中、尾先が水面を離れる間際に、少し動いたと思ったらロープが切れて、フカは悠々と泳ぎ去ってしまった。渡辺三分隊長に大声で叱かられた私を見て、工作科の下士官が「すぐ造ってやるから」と言ってくれ、ひとまずはほっとした。取りに行くと、今度は、針にワイヤーが付けてある。
おこっていた三分隊長の顔もニコニコして再びフカ釣りに挑戦である。今度は無事に釣り上げ、体長三メートルのフカは夕食のおかずへと変ったのである。
兵隊は一人分は、ひと口で終わるほどだったが、「三分隊長の釣ったフカだ」と、艦内の笑い話の一つになったのである。この件が、昭和二十年の五月に私が進級する時に関係するとは夢にも思わなかった。

戦況悪化と赤道祭り

昭和十八年十二月十五日、今までの艦長の早川幹夫大佐が転任し、新任の兄部勇次大佐が着任した。
兄部艦長は、着任前は第三水雷戦隊の司令官で、海軍大学の優等生だという話であった。
訓練は毎日で、戦地でもあったが、五カ月も過ぎると気候にも慣れて楽しいと思えてきた。しかし、戦況は悪化し、本国からの便りも少なくなっていた。
一カ月に一度は島に上陸し、一日土の上での辛い行軍もあったが、時には後甲板で映画会があり、「愛染かつら」などを見たのは南海の夕べであった。
お正月ともなれば三日間は休みになり、昭和十九年一月十日には長門で赤道祭りが行われた。長門が赤道を初めて通ったお祭りで、乗組員全員が初めてなので、軍紀御免のドンチャン騒ぎになった。
二月近くなると戦況が悪くなり、暗号で知らせが入るようになって来ていた。私は取次として分隊長の所へ書類を持って行くのが仕事だったので横目で見て少しは知ることが出来る立場にあった。
昭和十九年二月一日、トラック島が攻撃をうけるおそれがあるとのことで、連合艦隊が出撃することになった。朝出発してから出航任務が私達兵隊に知らされたのだが、三日間の航海となった。出港してしまうと兵科の兵隊は配置訓練をするだけで、他は何人かで見張りをしているだけなのである。
電探(レーダー)が常に動いて索敵が続く。敵潜水艦の潜望鏡発見で配置号令がかかり、その後ビール瓶の見誤りとわかって笑うこともあったが、緊張の航海であった。
二月三日の夜にも配置号令があった。その夜の太平洋の荒波は、上甲板から三メートル高い所にある大砲にもかかる程の高さに達していた。
その夜中に、艦内放送で露天甲板には出ないよう通知されていたが、この時に同郷の石川実主計兵が甲板で大ケガをしたとは知らなかった。
二月四日、朝食が済み入港用意が始まると私達兵科の兵隊は一人として休むことが出来ない忙しさになった。

パラオ島入港と同郷兵の入院

入港用意が終り、所定の位置に整列すると、パラオ島であることが知らされた。海水はきれいで海中のサンゴ礁が手に取るように見えて、戦地に来た気持になれず、ただ見とれてしまった。
午前中に錨をおろし全ての作業が終り、昼食になった時、私の同町出身の石川実主計兵がケガをしたことを初めて知らされてすぐに病室を見舞った。入港と同時にパラオの病院に送られた時の様子を尋ねると、昨夜飛行甲板から短艦甲板の所で、波にのまれてハンドレールのフックにつかまって助かったのだと言う。肋骨が何本か折れている重傷のため会うことが出来ずに部署に帰った。「あの波の中で助かったとは、命根性の強いやつだ」と笑話になったほど、幸運だったのである。
一分隊の荒さんに石川さんの入院を知らせに行くと、なんと荒さんもトラック島で入院したという。
同町出身の三人が私一人になったので少し淋しさを感じたが、そんなことを言っている暇はなかった。
次の日、恒例の通りパラオ島に半舷上陸(乗員の半数)で、パラオ神社まで行軍が行なわれた。午後は自由時間があたえられたが、初めての島の為、ぼんやりするうちに時間が過ぎ、夕方艦に帰った。他の人達は、生ゴムで出来たゴム靴を何足も買って、内地へ帰ったら御土産にすると持ち帰っていたが、何時帰国できるのかわかるものではなかった。
又、次の日は残る半舷の上陸で、長門の兵隊が全員上陸したことになるのであるが、帰って来る兵隊のほとんどはゴム靴を買って戻った。このゴム靴は、内地に帰った時の笑い話の一つになるのである。
昭和十九年二月十六日、パラオも攻撃をうけるおそれがあるため、燃料の関係でリンガ泊地への移動が決まり、主力艦隊はパラオを出港して五日間の航海に就いた。
入港までは毎日の訓練も少なく、敵の攻撃で何時戦死をするのかと覚悟するため、砲員は益々仲良くなり、上下の差が少なくなって来ていた。
二月二十一日、リンガ泊地に着き、重油を満載してから訓練をし、半日は艦内のペンキ落としをはじめた。爆弾を受けてペンキが燃えるとガスが発生するため、落とすのだと言うことである。居住区はみすぼらしい姿である。

シンガポールに回航

何日か同じ日課であったが、昭和十九年二月二十五日に第一戦隊旗艦となり、司令官宇垣中将が着任して来たので、旗艦となると、艦内軍紀も少しは厳しくなって来た。
三月三十日まで毎日訓練を受けていたが、三十日からシンガポールに回航して、修理や整備を行うことになった。私達新兵には、初めての経験で、ドックに入ったら艦上を走ってはいけないのである。
今まで走っていた者が走れない。つい走り出しては叱られたのである。毎日外舷の手入れや汚水タンクの手入れと、兵科の兵隊が忙しいのであった。この時航空母艦から十名位の補充があり、六分隊には五人が来た。同年兵が三人、十七年九月と十八年九月の補充兵が各一人であった。私の部所では、同年兵の高久武雄が四番砲手になり、補充兵の平野政雄が三番砲の給薬室の供給員となった。
平野さんの出身地を聞くと、北海道滝川の人であり、昭和二十年七月まで、一緒に生活をすることになるのである。
昭和十九年四月十五日、修理が終り、同日リンガ泊地に戻った。同年兵が来たので、少しは楽が出来ると思ったのであるが、食卓番をした高久一水が両手にバックを持つとなんとしてもモンキーラッタルを昇ることが出来ないと言うのである。初めての艦船勤務であるから仕方の無いことである。私は巡検後、手を使わずにモンキーラッタルの昇降を高久に教えなければならなかった。初めに私が模範演技をして見せると、軽業師みたいだなと言っていたが、練習するうちにようやく出来る様になった。物を持つと動作が悪くなるが、次の日からはバックを持って昇って来ることが出来るようになり、砲員が笑って食事をした。彼等は新兵教育を受けないので、艦内のことはわからず、毎日暇があると案内をしてやり、平野や高久は喜んでくれた。
五月四日、第一戦隊旗艦が大和に変更となり、司令官宇垣中将が退艦した、長門の中将旗がおろされ、二度と中将旗は掲揚されなかった。

タウイタウイ島

十九年五月十一日、米軍がマリアナに来攻する迎撃のため「あ」号作戦に参加し、リンガ泊地を出撃してタウイタウイに向かったのであるが、敵に会うこともなく五月十四日無事帰着した。
夜は内火艇乗務で、太平洋の真中で見張り用員を命令された。艦が錨をおろすとすぐ内火艇は出発であるが、太平洋の波は大きく、信号兵、通信兵をはじめ見張り員全員が船酔いして働くことも出来ない。
朝方島へ行くと、島の見張り兵から長門が出港するのですぐ長門に帰るように知らされた。
連合艦隊は、戦列を組み静かに進んでいた。
長門は私達を見て停止し、手旗信号でランチ(ボート)を揚げる用意をするように指示された。六分隊の兵隊は私一人だけで、他の分隊の者は、ワイヤの格納場所もわからずまごつくぼかりであった。私も分隊で作業する時は、分隊の古い人達が全部行なって、新兵の私達は作業を見ている位のものだったので、自分で責任を持って作業するのははじめてであった。しかし、揚げる用意をしなければならず、仕方なく先頭で作業に当ったが自信がなく心配であった。
太平洋の波は大きく、何度も転んだり、尻もちをついたりしながらも作業は終りに近づいた。失敗したらどうしようかと、生きた気がしなかった。ワイヤが一回でかかり、甲板に揚げてもらうことが出来た時ほど嬉しかったことはなかった。私は海軍軍人になってこの時ほど責任を持ち、真剣に作業したのは、最初で最後であった。
五月十七日、リンガ泊地に錨をおろしたが、毎日配置訓練と可燃物処理に追われた。パラオで買った生ゴムの靴も、四十度の艦底倉庫の中で眠らされていた。

ギマラス・マリアナ沖海戦参加

六月十二日、ギマラス(比島中部)に回航して補給を受け、十三日、ギマラスを発ってマリアナ沖海戦に参加した。航空母艦に敵の攻撃が集中した為、援護射撃で終わり、長門に被害はなかった。
六月二十二日、沖縄中城湾に入港して錨をおろしたが、南洋の気候に慣れてしまったせいか寒くて冬用の下着に替えた。
夕方長門の舷梯に、軍艦麻耶の内火艇が着いた。
私は取付であるから舷門の所へ行くと、大声で私を呼ぶので見ると、一分隊にいた荒清人であった。上水でやはりバアメンをしていたのである。
私は懐しく、近況を話し合った。その中で長門は走るのが遅いから敵の的になるが、麻耶は走るのが速いから安心であると言っていた。内火艇の用事が終り、お互に頑張ろうと別れたのだが、それが彼との最後となった。
六月二十三日、中城湾を出港して、内地に向うことになった。日本に帰れることを知り一年ぶりなので、どこの港に入るのか楽しみであるが、寒いのが不思議であった。
六月二十四日、瀬戸内海西部に錨をおろして、軍港には入らなかった。
次の日から職工さんが来て艤装が始まった。高角砲が四門と機銃が三十門増設され、二十二号電探(対水上兼射撃用)二基が測距所の両側に、十三号電探(対空用)二基が後艦橋に装置されたのである。
私達は、上陸が何時あるのかそればかりが気懸りだったが、上陸外出どころか、上甲板以下の舷窓がすべてふさがれてた。私達兵隊には、何も知らされず不思議に思う毎日だった。

呉軍港から再び沖縄へ

六月二十九日に錨を上げて、呉軍港に向かうことになった。夕方呉軍港に錨を下ろし、明日から半舷上陸である。前夜から、軍服や靴の手入れをして上陸用意をした。パラオで買ってきたゴム靴を、出して来たが、四十度の暑さで一足として現形の物は無く、ゴムの塊になっている。皆んながっかりして、捨てるより仕方がなかった。
半舷が上陸して、半舷が軍需品や輸送品の積込みである。その中に青竹の五メートル位の物があり大量に積み込んだ。
七月二日、早朝より新設の機銃と高角砲の要員が乗艦し、さらに陸軍から三千人位長門に乗り込んで来て、午後呉を出港した。
夕方には、日本の山々も見えなくなり、これが日本を見る最後になるとは、三千名の兵隊は夢にも思わなかった。
七月四日、沖縄の中城湾に入り錨をおろし軍需品や物資をおろし、最後に青竹をおろしたのだが、青竹はもし艦が被害にあった時、陸軍兵の浮き輪の代用に使用すると知らされて、笑話となった。
呉軍港で乗艦して来た兵隊は七分隊に配属され三十歳過ぎの招集兵ばかりであった。七分隊の甲板洗いの姿を見ると、これが日本海軍かと考えさせられた。六分隊の新設砲には、若い兵隊二十四名が増員になったが、私の所には補充はなく、相変わらず一水は私と高久の二人であった。

リンガ泊地の訓練生活

十九年七月十日、中城湾を出港してマニラに向って隊列を組みジグザグ航法を行ないながら進んでいた。今までに倍して訓練に熱が入り、新設砲には負けるなとの目標が出来たからである。大砲の訓練が済むと、手旗信号や手先信号にもうるさく訓練が始まった。今度の航海はとにかく忙しい毎日であった。
七月十四日にマニラに着き沖の方に錨をおろして、軍需品を陸揚げすると、マニラに半舷上陸が許された。しかし食べる物もなく、半日歩いて艦に帰るはめになり、お土産を買って来た兵隊はいなかったようであった。午前中に錨を上げて、最前戦のリンガ泊地へと向ったが、艦隊には航空母艦の姿はなく静かな出撃であった。
七月二十日、リンガ泊地に着いた。又何日間かを振り返り、生きていたと思う日が多くなった。覚悟しているとは言っても夜になると、当直外の兵隊は言葉が少なくなり早く寝るようになっていた。
リンガ泊地に着いた頃から、戦況は悪くなったが、兵隊は相変わらず毎日、早朝から夜間まで、射撃訓練であった。どんな兵隊でも一年以上同じ訓練をするのだから、上達するのがあたりまえのことであった。
夕食後の夜間訓練が終ると、南洋でも涼しくなる。
砲員は全員キャンパスを敷き、夜空をながめながら故郷の話をするのが楽しみの一つになっていた。南十字星がはっきり見ることが出来て、静かな夜には、本当に戦地に来ているのであろうかと、うたがう気になったものである。
戦艦は夜間訓練には出勤しないのだが、巡洋艦や駆逐艦等は夜間攻撃の訓練で大変なようであった。
ある時、駆遂艦がサンゴ礁に乗り上げたのを、長門の兵科兵隊約半数が内火艇に乗り組み救難作業を行ったことがあった。全速力で走っていたのか、艦の中央まで上っているため、まず、内部の荷物を全部陸揚げしなければならないのである。満潮までに作業を終らなければならないので休憩なしである。
満潮になってから巡洋艦がワイヤロープをつけて後進をさせて沖に引き出すのである。私達は体が痛くなるほど働かなければならなかった。なんとか引き出すことに成功すると、もとどおりに、陸揚げした品物を船に積みなおさなければ作業は終らないのである。二日間の休憩なしの作業をこれも実戦の時の訓練だと上官は言う。私は与えられた戦闘配置だけで充分と思うので複雑な気持ちであった。
作業が全部終り、長門に帰ってくると、半日の休みが与えられた。私は農家出身なので故郷では仕事は毎日であった。休みは、お祭りかお盆位であり、軍隊という所は仕事が終ると休みがあり、なんと良い所であろうかと思う様になっていた。
こんなことで、一カ月が過ぎていたが、十月十八日になって、米軍がレイテ島に上陸したという情報を受けて、レイテ島突入を目的に、リンガ泊地を出港した。

捷一号作戦発動

十月二十日ボルネオ島のブルネイに入港し、燃料積載が終ると、十月二十一日十七時に全員後甲板に集合と号令がかかった。後甲板台上に、兄部艦長が真っ白な手袋をはいて立ち「明日〇八〇〇出撃を行なう。今度は雨の中を傘をささずに行くのと同じ。全員生命をお国の為に捧げてほしい」と訓示された。
夕食前に、班長はじめ全員で盃をかわしたのであったが、さすが酒を腹一杯飲む兵隊はいなかった。
昭和十九年十月二十二日、〇八〇〇ブルネイ出撃、天候は晴れ、波静かで、レイテ湾突入予定は、十月二十五日十八時、行程一二〇〇浬。飛行機一機も持たぬ素裸の殴込みの、全軍必死の特攻作戦である。
「〇九三〇シヨウトウニタカトマリケリカチイクサ」艦内拡声機が、あ号作戦の吉兆を伝えた。「十月二十三日〇六三〇全員配置つけ〇五三〇(日の出四十五分前)旗艦愛宕に魚雷命中」、沈み行く愛宕の悲惨である。高雄被雷、続いて摩耶も轟沈した。
何日か前に会った荒さんの乗っていた摩耶が、目の前で沈んでしまった。せめてものなぐさめではあるが、轟沈であるから一気に戦死されたのではなかろうか。
栗田長官旗は愛宕から駆逐艦岸波に移り、一〇二四に岸波が大和に横付けされ栗田長官以下は、大和に移乗した。一〇二五に編隊機群の来襲を補捉し、一〇三五に攻撃を開始した。敵攻撃第一波には主砲三式弾を発砲、高角砲、副砲、機銃も火を噴いて勇戦敢斗、艦隊は全砲火を集中したのであったが、戦艦武蔵、妙高に魚雷命中して黒煙を上げている。
一二〇七の敵攻撃第二波では、長門第一砲塔に爆弾が命中し、艦隊全砲火をしたのだが、本艦四群機銃指揮官(相原中尉)が、壮烈戦死した。一三三〇の攻撃第三波では、主として武蔵が攻撃目標になった。武蔵は前甲板下に魚雷を受けているので前部が海面近くまで浸水して速力も半分位になっていた。
敵の編隊は、七十機が波状に攻撃を加えてきた。私たちは、主に友軍の援護射撃をしていたのだが、とうとう一四二六の攻撃第四波で、長門を標的にした攻撃を受けたのである。全砲が火を噴き応戦をしたが、ついに爆弾二発が命中し、通信装置と暗号員全滅、四・六番副砲被弾で、戦死五十二名、負傷者一一〇名を出した。
一五四〇の攻撃第五波は一五〇機近く来て、武蔵は遂に絶望となり、同年兵で本町出身の村上政治さん、藤崎さんの二人が艦と共に亡くなってしまった。
十九時三十五分、月あかりの中で武蔵は沈没して姿を消した。沈没場所は北緯十三度七分東経百二十二度三十二分の水深約八〇〇米に、今でも眠っている。
一七一五反転して東航に移った。「天佑ヲ確信シ全軍突撃セヨ」との連合艦隊長官からの栗田中将宛に最後の命令であった。夜陰を利用して、サンベルナルディノ海峡を突破するため、艦列は夜風を切って驀進したのである。
全軍悲壮な決意を抱いてレイテ湾に突入、全員玉砕覚悟の帝国海軍最期の激戦であった。
十月二十五日〇七四五レイテ沖で、米軍空母部隊を砲撃した。乗艦以来初めて空母への発砲で、三万三千米の先の弾着点は見ることは出来なかったが、指揮所では命中したと大さわぎをしていた。
敵の飛行場が遠くなったのか、次第に敵機の来襲も少なくなってきた。弾薬庫の弾も残り少なくなってきていて、つっこんで来るものには発射をするが、去って行く飛行機には、打つのを止めるようにと言う命令が出された。大砲の配置には付いているのだが、攻撃できない虚しさが漂っていた。
夕方になると敵機も姿を見せず、静かな航海となったので、戦死者の水葬をすることになった。全員が、後甲板に集り、艦長は白い手袋をはき、衛兵隊が戦闘服装で整列して行なわれた。
士官は一人で、下士官は二人、兵隊は三人づつ、毛布で包んだ死体を海に沈めるのである。艦長が敬礼をし、衛兵隊が一発を上空に発射し、信号兵が栄譽礼を吹くだけのことであった。十分位で、五十名の水葬は、終りであった。
十月二十八日、ブルネイに着いたのであるが、戦艦は大和、長門だけで、七十隻位で出撃した艦隊が帰って見ると、十隻余りになってしまっていた。
燃料を満載にして、外舷の損傷個所の修理を始めた。特に炊事場が大きく被爆したので、この復旧に全力が尽された。
十一月一日は、私達一水の進級日で、十一月一日付けで上等水兵に進級しても、新兵の補充がないから相変わらず一番若い兵隊で、班員に一等水兵は一人もいなくなったのである。
十月二十二日の戦闘で戦死した人も一階級進級で、私達と同じ上等水兵になったことになる。たった八日間で、戦死した人はかわいそうであった。

内地回航

昭和十九年十一月十五日に、長門は第三戦隊に編入されて、十七日に内地へ向って出港することになったが、少ない艦隊なので、敵潜水艦の攻撃を避けるため、東支部海を通っての航海である。昔から、東支那海は、度胸で渡れと言う位荒れる海であったが、なんとか無事に航行できた。太平洋を通ることが出来ずに、瀬戸内海を通って十一月二十五日に横須賀軍港に入港した。
艦の修理をするためにドック入りを考えていたのだが、空襲が多くなったので入ることが出来ず、岸壁に繋留されたままになった。長門の兵隊が他の部隊に行くと、戦局が漏れるおそれがあるので、長門からの退艦は少なかったのである。
十二月一日から、長門の兵隊に五日間の休暇が出ることになったが、北海道の出身者は帰ることも出来ず、残念ながら艦にいるか、友達の所へ行くかしかなかった。
私は、長野県の山崎水兵長の所へ行くことになり十二月四日の夜行列車で出発した。山崎水兵長さんとそのいとこの山崎昇さんの、三人の旅行であった。
十二月五日の朝、長野県北佐久郡岩村田駅に無事に着いた。迎えの弟さんと歩いて三十分位の山崎さんの家に向った。皆さんの大歓迎の中、お世話になることになった。
お父さんは山崎市助さんと言い、心よく受け入れてくれた。白米を山もりにしてくれて、うまいこと、うまいこと、腹一杯御馳走になってしまった。
山崎さんは、忙しく親類回りをしていたが、私は、のんびりと過させてもらった。山崎さんには、きく江さん、まち子さん、康子さん、三人の妹さんがおられて、夜になって映画を見に行くことになった。
途中で警報が出たので、残念ながら帰ることになってしまったが、山崎水兵長が心配して迎えに来てくれた。
この夜は、山崎さんと枕を並べて何年ぶりかで畳の上で寝ることが出来た。翌朝は、総員起こしがないので、安心して、ゆっくり寝ることが出来た。
二日目は、弟さんに連れられて近くの温泉に行ったが温泉に入るのは、初めてであり、ゆっくりさせてもらった。明日は艦に帰るので、そこそこに家に帰り床につかせてもらった。
翌朝は、家をあげて早くから、お土産の大福餅を作り、私の分まで持たせてくれた。久方ぶりの人情に触れ、心からお礼を言ってお別れをしたのである。
妹さん、弟さんに駅まで送ってもらい、列車に乗り、三人で夕方、艦に帰り着いた。
山崎直さんの御両親には大変なお世話になり、今でも感謝を尽くせない。
終戦後、第二回戦友会の帰りに、山崎さんの御両親が健在なことを聞き、長野県の実家に、お礼に行くことにした。お元気の内に、お会することが出来てきて、本当に良かったと思う。私の人生の中で、一番心に残ることであった。

見習少尉に教育

休暇後も毎日訓練が続き、変ったこともなかったのだが、長門に艦務実習で予備学生が来るようになった。私は取次でも先輩になり、九名の指導をしなければならなくなっていた。私は初めて取次になった時を思い出し、新任取次の面倒を見ながら、懸命の日々を過していた。
ある時、副直将校の実習に来ていた予備少尉が勤務についていたが、この少尉が張切っていて、前直の取次を叱りつけていた。私が交替を報告すると「真面目にするように」と注意された。私は腹が立ったが、気持ちを押えて勤務についていると、信号が入った。書類を整理して、副直将校にわたすと、「オウ」と言って受け取り、いきなり、艦長の所に持っていってしまった。
私は、これは面白くなったぞと腹の中で笑っていた。書類は、下の等級者から見てもらい、伝達していくものであるからである。案の定艦長は、「私の所へ持って来る書類でない」と返してしまった。少尉は、初めてなのでわからなくなってしまい、交替する時間が迫る一方で書類整理が出来ないため、困惑しているのが、私には良くわかっていた。忙しく働いている振りをしてると、私を呼び「お前なら、この書類を整理出きるだろう、頼むからやってくれ」と言ってきた。
私は、それみたか、あんまり張切りすぎるからだよと思ったが、さりげなく引き受けた。書類内容を見て関係士官を回り五分間位で手続きを片付けた。
少尉に渡すと、「ありがとう」と言ってくれ、なんとか書類の整理が終り、無事に交替することが出来たようであった。
この日、巡検後、少尉の従兵から私に、少尉の部屋に来るようにと伝令があった。私は今日のことで叱られるのだと思って部屋に行くと、実習少尉が四人いて、あの少尉が「このやろう今日の態度は、なんだ」と言って笑っている。上官にはなんとも返事が出来ず困っていると、一人の少尉が「貴様には負けた、こっちに座れ」といって、お菓子を出してくれた。「俺達は、各部隊に行ったら、いばっていれば、全部、兵隊が動いてくれるが、今日ばかりは、まいった。俺達四人当直の時はよろしく頼む」と言って笑顔を向けて来た。他の取次にもお前から言ってくれと、帰りにお菓子を包んでくれたのだった。
その菓子を全員で食べ、見習少尉の便宜を頼んでおいた。その後副直将校が見なくても書類整理を仕上げるようになり、見習少尉は、取次を大切にするようになったのである。
昭和二十年四月二十七日、澁谷清見艦長が、退艦し午後には、大塚幹大佐が乗艦し、長門艦長として、着任した。私が乗艦して艦長が変るのは四人目であったが、初めの三人は、少将一歩前の人であったが、こんどは、年寄りの大佐である。一番元気が無い艦長であった。

水兵長に進級

こんな毎日をしている内に、二十年五月一日になった。私達同年兵は、水兵長に進級する日であった。
班長初め、誰も知らぬ顔をしているので、変だなと思っていると、側の所に進級者の名簿がでていると聞いたので行ってみる。同年兵が、百五十名位いるのに、七十名位しか、進級が出ていない。おそる、おそる、下の方から見ていくと、五番目、私の名前が見つかった。班へ帰って班長に報告をすると、班長は「うそだろう六分隊の班長会議では、お前は次回に進級することになっているはずだ」と言う。班長が分隊長の所へ尋ねていくと、分隊長会議で三分隊長の推薦で進級させることになったという由であった。
振り返れば、これは、フカ釣りを手伝ったお返しであったのである。さっそく、三分隊長の所に、お礼に行くと、やさしい笑顔を返された。
これで水兵長になったのだが、新兵の私を特訓してくれた橋爪さんも、同じ水兵長なのである。水兵長にも六段階あり、それに、水兵長に進級することが出きなかった者もいたので、人間関係の面からも進級してからが大変であった。気まずい出来事も何度かあり、こんなことになるなら進級しなければ良かったと思った。一ケ月位は、無中であった。同年兵や、水兵長になって二年も過ぎた者が、ときどきいやがらせをするのであった。私は身心共に、上水の時の二倍も働いた気がする。長門は、二十年六月一日から本土決戦に備えて、特殊警備艦となった。
六月に入ると夏服に変わり、三種軍装で上陸した時であった。兵隊は食券がなければ食事ができなかった。食券を手に集会所で食事を終らせ、風呂に入ってから艦に帰ろうとしたとき、呼びかける兵隊がいる。振り返ると、本町出身の立崎定次さんである。
壊しく思い、話しに花が咲いた。聞けば、長門の桟橋の反対の所に、繋留しているとのことで思いがけない出逢いであった。
次の日、私は取次任務が終ってから、副直将校に事情を話して、立崎さんの船までの上陸を許してもらった。
取次の腕章を付けたままで行くと、誰も遊びに来ているとは見ていなかった。立崎さんも、長門の取次が何の用事で来たのかと、不思議に思っているようであった。その船の士官に、面会に来たことを報告して、三十分位も話をして帰ってきた。
七月になると転属があり、首藤班長も転属して行った。海軍では、一度別れたら二度会うことがないと言われていて、戦友としての別れの風景があちこちで見られた。
午後、私が取次の当直の時、石川実さんが長門に来た。二十一分隊への用事で来たので、私と話をする暇はなかったのだが、帰る時に必要な外出証明書を作り、石川さんに渡してあげたことがあった。

横須賀での最後の戦闘

二十年七月十八日、忘れることが出来ない日である。
私は、取次の当直であったが、空襲で「配置に付け」の号令が出たのである。砲員は半数位で、前は山である。射撃をするにも、視界がせまく大変である。何十機の艦載機が横須賀鎮守府方向から飛来し、攻撃して来た。
射撃を始めると、今までレイテ島などで色々戦闘をして来た兵隊ばかりなので、臨機の応戦を続けたが、十時過ぎに爆弾三発を被弾した。
一発は艦橋に命中して、艦長、副長、砲術長が戦死した。艦長(大塚幹少将)が戦死したのは、長門では初めてのことであった。
後部に、命中した爆弾では、三十五名の兵隊が戦死した。負傷者は、百五十名にのぼった。
この中に、当分隊では、平野政雄水兵長と、橋本水兵長の二人が負傷者となった。(平野さんは滝川出身で、当分隊の唯一の召集兵であった)二人とも、爆発で顔が真っ黒に焼けていて、平野さんは、背中に破片があたり、血だらけであった。
戦闘が終り海軍病院へ行ったが、二人ともだめだと私は思った。平野さんには、妻も子供もいるのにかわいそうである。軍人である以上、仕方の無いことであった。
又、何日間か艦の修理をしなければならなかった。

終 戦

二十年七月二十四日、杉野修一大佐が、艦長として着任して来た。(この人は、日露戦争の時の、杉野兵曹長の息子であると言う話であった)その頃から、長門をあきらめて、七割位の兵隊が退艦して、陸上砲台へ行くことになった。
吾妻山砲台と厚木砲台、久里浜陸戦隊へと分れることになり、私は、二十年八月一日付けで、厚木砲台(横警四十二隊)に転属になった。
藤沢と厚木の中間で高座渋谷と言う所で、砲台が完全に出来上っていないので、砲台作りから始まった。長門では一番若い兵隊であったが、ここに来ると、兵長でも先任で、食卓番もしなくても良かったが、仕事をしようにも召集兵や若い兵隊がなにをしているかわからない。長門時代の同年兵同志で顔を見合わせているより仕方がなかった。
班長は、陸奥の生き残りの平山上等兵曹であった。
私達長門の同年兵に「陸戦とはこんなものだ」との注意があった。
毎日が、土方仕事である。船にいる時とは、一変したので体の方はくたくたで、全身の筋肉痛に悩まされた。前からいる者には、平気な日常であったのである。
二十年八月十五日、体が少しなれてきた頃、終戦を迎えた。
ラジオの前に、整列して聞いていたが、良くわからなかった。
終戦になったということになると、俄然召集兵が威張り出した。班長に文句を言い出す者も出たが、さすが、陸奥の生き残りの平山上等兵曹は、落ちついたもので、全員を集めて訓辞をした。
「終戦になっても、復員命令が出るまでは、海軍軍人である。一般の市民とは、違わなければならないのであるから今まで通り、軍紀を守ってもらうからそのつもりでいるように」全員、その言葉で静かになった。
八月二十五日、復員命令が出て、同日付で海軍二等兵曹に任ぜられ復員することになった。
北海道へ帰るのは、橋爪さんと私、石丸さんであった。
下士官の帽子をかぶり、等級マークをはずした。
札幌で、橋爪さん、石丸さんと別れ、私は一人で、旭川回りで復員し、昭和二十年八月三十日、朝九時、上富良野駅に降り立った。
八人で出発してから、二年三ケ月間の、長いようで短い日数であったが、一大変化の歳月であった。
後に知ったのだが、無事に復員して来たのは、私と、鈴木政敏・石川実・佐々木久次郎の四人である。
半分は、戦死したのであった。
戦死した人達や、家族の人達にも、申し訳ない気持が込み上げてきた。
私は日本海軍の最大の名誉である、戦艦長門の乗員となり二年三ケ月の軍隊生活を送り復員できた。
長門は、大正九年に進水し、山本元師の連合艦隊旗艦であり建艦して初めて、主砲四十糎砲で敵艦隊の空母を、砲撃した時に元師が乗艦していたことを思うと敗戦で終戦になったとは言え、海軍に入籍した以上、一度は乗艦したいと誰もが思う艦で訓練することが出来たことは、私の一生の中で一番名誉なことであると思っている。
しかし、復員してから静かに考えてみると、厳しい訓練のお陰で、実戦は容易であったが、いかに訓練をしていても、敵は日本の武器よりも優れていた。
潜望鏡を海上に出さずに魚雷を発射し、大砲を撃っても、弾の届かない所を飛んで来るのでは、どうすることも出来なかった。
過去を振り返れば、振り返るほど戦争は、如何なることがあっても、してはならないことだとの思いが深まってくるのである。

≪軍艦「長門」要目≫

艦種 戦艦・建造所 呉海軍工廠

大正六年八月二十六日  起工
大正八年十一月九日   進水命名「長門」
大正九年十一月十五日  横須賀鎮守府に入籍
大正十二年一月     連合艦隊旗艦となる
排水量  四三五八〇屯
速 力  二十五節(ノット)
乗 員  一三六八名
航続距離 十六節(ノット)八六五〇q
主要兵器 主 砲   四十糎  八門
     副 砲   十四糎 十八門
     高角砲  二十七糎  八門
     高角機銃 二十五糎 二十門
カタパルト  一
水上偵察機 三機
除 籍 昭和二十年九月十五日
沈 没 除籍後、米海軍に接収せられ第一回昭和二十一年七月一日、
    第二回七月二十五日、施行のビキニ環礁に於ける原爆実験の
    標的となり、二十九日夜半沈没
    就役後二十五年八ケ月の生涯

大正 6・ 8・28

呉海軍工廠において起工

8・11・ 9

進水

9・11・15

竣工、横須賀鎮守府籍に入られる

9・12・ 1

連合艦隊第1艦隊第1戦隊に編入される

13・12・ 1

1艦隊第1戦隊よりのぞかれ予備艦となる

14・12・ 1

連合艦隊第1艦隊第1戦隊に編入される

昭和3・12・10

1艦隊第1戦隊よりのぞかれ練習艦となる

4・ 5・29

天皇陛下関西方面行幸のさいお召艦となる

5・12・ 1

1艦隊第1戦隊に編入される

6・12・ 1

1艦隊第1戦隊よりのぞかれ予備艦となる

10・11・ 5

1艦隊第1戦隊に編入される

11・ 1・31

大改装工事終了

12・ 8・20

陸軍第11師団の一部約2,000名を小松島より上海まで輸送に従事、25日、佐世保に帰港

12・12・ 1

練習艦となる

13・12・15

1艦隊第1戦隊に編入され、連合艦隊旗艦となる(陸奥と短期間交代することあり)

14・ 9・ 1

山本連合艦隊司令長官和歌浦にて着任

16・ 8・11

艦長矢野英雄大佐着任

16・10・ 9

太平洋戦争開戦を想定して図演を行なう

16・12・ 8

太平洋戦争開戦、連合艦隊旗艦としてハワイ攻撃機動部隊援護のため柱島を出撃

16・12・13

機動部隊が敵の反撃をうけなかったので帰投

17・ 2・12

連合艦隊旗艦を大和に変更す

17・ 3・15

九一式風信儀を改2と換装のため呉工廠に入渠

17・ 4・ 9

呉工願出渠

17・ 5・29

ミッドウェー作戦主力部隊として柱島を出撃

17・ 6・ 6

ミッドウェー作戦中心により、加賀の生存者を駆逐艦より収容す

17・ 6・14

柱島に帰投す

17・ 7・14

1艦隊第2戦隊に編入される

17・ 7・18

呉工廠に入渠

17・ 7・22

呉工廠に出渠

17・11・10

艦長久宗米次郎大佐着任

18・ 1・25

呉工廠に入渠、主給水タンク修理

18・ 2・ 2

呉工廠に出渠

18・ 5・31

呉工廠に入渠

18・ 6・ 6

呉工廠に出渠

18・ 8・ 2

艦長早川幹夫大佐着任

18・ 8・ 7

ソロモン方面作戦支援のため柱島を出撃

18・ 8・23

トラック着、同地において全作戦支援を行ないながら訓練に従事す

18・10・17

ウエーキ、マーシャル方面に無線謀掛こて敵機動部隊来襲のおそれがありと、トラック所在部隊をブラウンに輸送のためトラック出港

18・10・19

ブラウン着、人員を揚陸

18・10・23

ブラウン発、ウエーキ南方250カイリまで進出せるも敵を見ず反転す

18・10・26

トラック着

18・12・15

艦長兄部勇次大佐着任

19・ 2・ 1

トラックが敵機動部隊の攻撃をうけるおそれがあるので、連合艦隊主力はパラオに向け、トラック発

19・ 2・ 4

パラオ着

19・ 2・16

パラオも攻撃をうけるおそれと、燃料の関係でリンガ泊地に向け主力部隊はパラオ発

19・ 2・21

リンガ泊地着、訓練に従事

19・ 2・25

1戦隊旗艦となる。司令官宇垣纏中将着任

19・ 3・30

リンガ泊地発

19・ 3・30

シンガポールに回航、修理および整備

19・ 4・15

修理完了、シンガポール出港、同日リンガ着

19・ 5・ 4

1戦隊の旗艦を大和に変更す

19・ 5・11

リンガ泊地発、タウイタウイに向かう

19・ 5・14

タウイタウイ着

19・ 6・13

米軍マリアナ来攻により「あ号作戦決戦用意」によりタウイタウイ発

19・ 6・12

ギマラス(比島中部)に回航、補給をうける

19・ 6・13

ギマラス発、マリアナ沖海戦に参加

19・ 6・22

同海戦では被害なく沖縄中城湾着

19・ 6・23

中城湾発、内地に向かう

19・ 6・24

内海西部着

19・ 7・ 2

人員、軍需品輸送のため呉を出港

19・ 7・10

中城湾着

19・ 7・12

中城湾発

19・ 7・20

マニラをへてリンガ泊地着、訓練に従事

19・10・18

米軍レイテ上陸により、レイテ突入の目的をもってリンガ泊地発

19・10・20

ボルネオのブルネイ入港

19・10・22

ブルネイ出撃、栗田艦隊に属してレイテに向かう

19・10・24

シブヤン海で敵艦隊機の攻撃をうけ爆弾2発命中、戦死52名の損害をうけたがなお進撃す

19・10・25

レイテ沖で米特空母部隊を砲撃、駆逐艦1隻を大破す、建艦いらいはじめて敵艦に発砲

19・10・28

ブルネイ着

19・11・15

3戦隊に編入される

19・11・17

ブルネイ発、内地に向かう

19・11・25

横須賀入港、入渠して損傷箇所修理および副砲撤去す

19・12・15

艦長渋谷清見大佐着任

20・ 1・ 1

1戦隊に編入される

20・ 2・10

横須賀鎮守府警備艦となる

20・ 4・20

予備艦となる

20・ 4・27

艦長大塚幹大佐着任

20・ 6・ 1

本土決戦にそなえて特殊警備艦となる

20・ 7・18

横須賀で艦載機の空撃をうけ、爆弾3発命中し、1発は艦橋に命中。艦長、副長、砲術長戦死す。

20・ 7・24

艦長杉野修一大佐着任

20・ 8・15

横須賀で終戦を迎える

20・ 9・15

除籍

21・ 7・ 1

ビキニ環礁で第一回の原爆実験に使用されることになり、米軍によって回航される。空中爆発実験では大した損害もなかった

21・ 7・25

第二回の原爆水中爆発の実験で至近距離の爆発をうけ、爆発数時間後に約5度の横傾斜を生じた程度だった。

21・ 7・29

夜間に長門は沈没

機関誌 郷土をさぐる(第17号)
2000年3月31日印刷  2000年4月15日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔