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富良野村時代の村医
―駒崎政一先生の足跡―

中村 有秀 昭和十二年十一月二十八日生(六十一歳)

一、はじめに
明治三十二年二月から明治三十五年三月までの三年間、開拓入植して間もない富良野村(現在の上富良野町から南富良野町の地域)の村医として赴任された『駒崎政一医師』について、上富良野志(明治四十二年十二月発行)・上富良野町史(昭和四十二年八月発行)に若干記載されていますが、その人なりについて大きな興味を持っていました。
そんな折、偶然にも駒崎政一氏の孫にあたる駒崎宣之氏と会う機会があり、その宣之氏が祖父、駒崎政一氏関係の貴重な資料を大切に保管されていました。
その資料を基に、関係町村史、旭川医師会史、富良野医師会史等を含めて調査を行い、『富良野村村医駒崎政一氏の足跡』として、出生地の石川県から、明治三十九年十二月二十八日に下富良野村(現富良野市)で逝去された四十八年間の足跡を追ってみました。
二、生いたち
駒崎政一氏の生れた石川県は、本州のほぼ中央にあって、日本海に突き出た能登半島の『能登地区』と、富山・岐阜・福井の三県に接した『加賀地区』からなっている。
その出生地は能登地区でも奥能登で、能登半島には珍らしく海のない村で、かって『能登のチベット』といわれた、石川県鳳至郡當目村六十三字三十二番地(現在の柳田村字当日)にて、父圓次郎氏・母みつさんの長男として、安政六年一月二十三日に生れた。
駒崎家は中世時代『源兵衛』という名主(開発地主)の系譜で、岩井戸村當目に四組あった『名頭』の一組であった。
柳田村史によると、當目では現在も上組・甲組・中組・下組の四組に分かれているという。
万治元年の持高帳に記録されている『各名頭』の持高は次の様になっている。
上組名頭  小左衛門        二十八石三斗二升六合
甲組名頭  長右衝門        四十五石六斗五升四合
中組名頭  千太郎         二十二石一斗四合
下組名頭  源兵衛(駒崎家の祖先) 三十石四斗二升四合
純山村的な柳田村で、山林を所有しないという事は妙にも聞えるが、もともと山林は石高に応じて分配された歴史性をもち、純然たる頭振階級(水呑(ママ)百姓)は山林を持てないのであった。
ただ、地租改正の折、共有林の分配に際し割当てられた場合には、些少なりとも山林の所有者となったのであると記されている。
駒崎政一医師は後述しますが、明治二十九年に石川県より北海道に渡り、政一氏―長男 秀三氏―孫 宣之氏と三代百三年を経ているが、現在も石川県柳田村に共有の保安林を含め、山林を七反歩(二千百坪)を所有している。
『加賀は天下の書府』といわれ、歴代藩主の文治政策はあったが、庶民教育は貧弱であった。
奥能登の辺地である當目村(後の柳田村)では特に後進的状態にあり、僧侶、神職による寺子屋教育のみであったが、駒崎政一氏は四歳の時から寺子屋で勉学に勤しむ。
慶応三年に『集学所』が創設され、八歳を迎えた駒崎政一氏は入学、その集学所が明治三年に『卯辰山小学所』となった。
『集学所』そして『卯辰山小学所』での成績は抜群であったという。
長じて、石川縣金澤醫学校本科(現在の国立金沢大学医学部の前身)に入学、明治十七年三月に卒業される。
金沢は、加賀藩祖前田利家に始まる城下町で、百万石の大藩を率いる前田家の歴史は、以来、十四代まで続いた。
華麗な加賀文化は、五代藩主綱紀の頃から急速に花開いた。全国から貴重な書物を集め、江戸の学者新井白石に『加賀は天下の書府なり』といわしめた。また、美術工芸では蒔絵、色漆、染色、和紙、飾金具等を集め、標本を作って技法を整理して、加賀藩細工所などに役立て、今日の金沢の町文化や美術工芸の基礎を築いた。
その様な、北陸の中心地である金沢で医学生として勉強されると共に、加賀文化を満喫していた。
明治十七年四月二十八日、念願の『醫術開業免状』を授與され、石川縣醫会に入会し、会員証第二十四号を受け会員となり、いよいよ醫師として出発する事になった。
三、医師となり奥能登で診療に携わる
◇公立輪島病院の医師となる
石川縣立金澤醫学校本科を明治十七年三月に卒業した駒崎政一氏は、同年四月二十八日に『醫術開業免状』を授与され、いよいよ念願の医者となり、父母、弟、親戚そして岩井戸村の人々は心から喜んでくれた。
金澤醫学校卒業後、五ケ月間の研修を経て、明治十七年九月より能登国立鳳至郡輪島町(現在の輪島市)の公立輪島病院医員として月給二十五円で聘傭された。辞令書の発令者は『石川縣鳳至郡役所』となっている。
奥能登の玄関口として、陸上、海上交通の中心である輪島市は、明治四年に鳳至郡の三町一村が合併して輪島町として町制施行し、昭和二十九年に近隣六ケ村を併合して輪島市が生れた。
輪島は六百年近い伝統を誇る『輸島塗漆器』と、奈良時代に始まり一千年以上の歴史を持つ『輪島朝市』は有名です。朝市は時代と共に地元の生活に密着し、大方の店は開く場所が決まっていて、その権利も、母から娘または嫁へと受け継がれているという。
医師となった政一氏に、父駒崎圓次郎氏は明治十七年十二月二十一日に家督を相続させ隠居した。
圓次郎氏は四十七歳で隠居し、政一氏は二十五歳の若さで岩井戸村当日の『頭目』としての駒崎家を相続し戸主となった。
公立輸島病院で青年医師として診療に携わっていた政一氏は、縁あって鳳至郡五十里(イカリ)村 原田彦作氏の三女『かつ』さんと、明治十八年二月四日結婚入籍する。政一氏は二十六歳、かつさん二十四歳の時でした。
◇故郷岩井戸村にて医院開業
輪島町の輪島公立病院にて、二年余の医師として勤務し経験を積んだ政一氏は、故郷岩井戸村村民の要望もあって、明治十九年十二月に『駒崎医院』を開業した。
漢方医や富山の売薬に類っていた村民に、欧米医学による診療で信頼を得て、多くの村民に慕われた。明治二十年五月十六日、政一氏、かつさんに待望の長男秀三氏が誕生した。(長男秀三氏は今回の駒崎政一氏関係の資料を保存していた、駒崎宣之氏の父である)
明治二十二年四月一日付にて、従来の鳳至郡内の岩井戸村・十郎原村・大箱村、五十里村・北河内村・当目村の六ケ村が合併して、新たな『岩井戸村』、戸数三百三十八戸、人口二千二百七十六人となった。
新たに生れた『岩井戸村』の第一回村議会議事録(明治二十二年五月六日開催)が柳田村史に掲載され、その中に意外な事が書かれていた。
それは、岩井戸村の村長選出の件で、当時は村議十二名による選挙で村長を選出した。(二名欠席)その第一回村議会議事録を原文のまま再録すると
午后五時十分閣議
(議長)曰ク
今ヨリ名誉職ニ係ル村長撰挙ヲナサン
就テハ村長ヲ一着手トス
是ニ於テ書記用紙ヲ配分ス而シテ其点数並ニ得点者人名左ノ如シ
七点  臼渕三右右衝門
一点  駒崎 政一
一点  原田 彦作
一点  直井勝太郎
六ヶ村合併後の初の村長選挙であった為、旧村の思惑があった事と思います。駒崎氏は旧当目村、原田氏は駒崎政一氏の妻かつさんの父親で旧五十里村です。若し、駒崎政一氏が岩井戸村村長になっていたら、その人生はどう展開していたでしょうか……。その後、義父原田彦作氏は岩井戸村の第五代と第八代村長に就任されている。
柳田村史(昭和五十年三月発行)の巻末には
柳田村史編集委員会
  委員長 原田 正彰
柳田村史編纂委員会
  委 員 村議会議長  駒寄 孝造
  委 員 村教育委員長 駒寄 徳造
と記されている。駒崎家、原田家の両家の家系の人々が、当目村、五十里村―岩井戸村―柳田村と永々と息継いでいます。
政一氏は明治二十三年十二月二十五日に、永年の『検疫事務功労』により、慰労金二十五円を石川県より賜る。
岩井戸村当目の『名頭』的立場を持ちながら、政一氏は医師として奥能登の山村で医療活動を献身的に行っていたが、明治二十七年の風水害、明治二十八年にはイモチの被害が甚大、明治二十九年は凶作で各地で農民騒動が続発した。
その様な状況の中で、『名頭』的な立場で貢粗、公事等の役目を十分に果す事が困難になりつつあり、又、これ以上小作人を苦しめることは出来ないと判断し、医師として新天地を北海道に求めたのでした。
時に、明治二十九年の秋であった。
四、北海道移住と樺戸集治監のある月形村へ
岩井戸村で開院して十年を経た『駒崎医院』を閉じた駒崎政一氏は、家族を残し単身で北海道に渡る事になった。
石狩国樺戸郡月形村にある『公立月形病院』の医員として聘傭を受けて、その赴任の旅でした。
明治二十九年十月下旬、家族や岩井戸村民の見送りを受けて、奥能登の入口である輪島港―山形県酒田港―青森県深津港―北海道江差港―と水や食糧を補給をするための寄港をしながら、初冬の訪れの日本海の荒波の中を、四日間の苦しい船旅で小樽港に着いた。
それは多くの移住民にとって、最初の経験であり、決して楽なものではなかったことでしょう。
小樽港に着いた人々は、山々に囲まれた小樽の地を見ながら歩く人、不安にかられている様な顔の人、雄大な北海道の開拓に夢見る人、初めての北海道の地を踏む人々の心境は複雑そのものであったろう。
小樽で北海道の地の第一歩を踏んだ政一氏は、長い船旅の疲れを癒すため小樽に一泊する。
翌日、汽車で小樽手宮―札幌―江別停車場に着き、樺戸集治監職員の出迎えを受け、江別太に一泊す。
翌朝八時、江別―月形間を運行している、石狩川汽船株式会社の上り便の汽船に江別舟付場より乗船、石狩川を溯上し十一ヶ所の舟付場を経て午後六時頃に月形村に着いた。
(下り便は、朝七時に月形を出航し、江別には午前十一時に着いた。石狩川を下るので、上り便と下り便とでは時間的な格差があった。また、運賃も江別―月形間で上り便は、乗客一人上等六十銭、普通四十銭で、下り便の運賃は全べて上り便の二割方低廉となっていた)
当時の月形村の戸数と人口
明治二十七年=  五八七戸  一、九八〇人
明治二十八年=  七三二戸  二、四九三人
明治二十九年=一、一四二戸  三、一五五人
明治三十 年=一、三八七戸  三、六三〇人
月形村に着いた駒崎医師は、樺戸集治監の監獄医員用の官舎に入居した。
公立月形病院の医員として聘傭を受けたが、監獄医としての任務もある事が判った。
当時の樺戸集治監の在監囚数
明治二十七年 一、四四九人
明治二十八年 一、三九三人
明治二十九年 一、五六一人
明治三十 年 一、〇二八人
※最多の在監囚数は、
明治二十二年末 二、三六五人
駒崎医師が、月形村に来た当時の戸数・人口・在監囚数は表の通りですが、上富良野が富良野村として開拓の斧が入れられる数年前の事です。
北海道の開拓は、移住民開拓・屯田兵開拓・監獄開拓の三大方式で行われたと言われ、千古未踏の地に踏み込んで道なき道を切り拓き、家を作り、農地を開墾する苦労は冬期もあり大変な事であった。
  公立月形病院
(昭和17年発刊「月形村史一より)
樺戸監獄の置監と共に医師を任用し、監獄職員の外、在監囚人は勿論、一般民衆の為め診療に当たらしめたが、後幾何もなくして公衆衛生上の見地により「公立病院設立」の急を叫ばれ、遂に公立病院の設立を見るに至る。而して病院長には監獄医務所長を、その他の医員は何れも監獄医員がなる。
政一氏が、聘傭された月形村には、北海道の監獄開拓の根拠となった『樺戸集治監』(明治十四年九月開庁)―通称『樺戸監獄』があり、樺戸集治監の設置により発展した村である。
樺戸集治監は、特別受刑者を拘禁する監獄として開庁され、収監される罪囚の種類は、刑期十二年以上の徒刑・流刑・重懲役・終身刑に処せられた者と指定されていた。
監獄開拓は、囚人外役として石狩川の水路開拓や、当別・峰延・上川・網走・釧路・留萌・増毛等の諸道路の開削を行い、その後に渡道して来た移住民や屯田兵に対し、入殖道路となり、産業道路として、大きな役目を果し、現在の国道の根幹となった。
月形村に来て四ヵ月が過ぎ、北国の冬に馴れて来た明治三十年二月、駒崎医師は滝川村にて開業を決意した。
 滝川村の戸数・人口
 明治二十九年=一、八二〇戸
  男 五、八六七人
  女 四、九七三人  一〇、八四〇人
 明治三十 年=一、七九〇戸
  男 四、一七〇人
  女 三、四六四人   七、六三四人
 明治三十一年=一、六四八戸
  男 四、四八三人
  女 三、八一七人   八、三〇〇人
五、滝川村にて開業
政一氏は、樺戸集治監の監獄医と共に、月形村公立病院医員として、明治二十九年十一月から勤務をはじめたが、患者の大半が囚人という特殊の環境下での診療に大きな困惑があって、その職を四ヵ月で辞す事になった。
故郷石川県岩井戸村にて開業医としての十年の経験もあって、開拓発展中の滝川村にて開業し、家族を呼び寄せる事にした。
滝川(当時の空知太)に和人が初めて居住したのは明治十九年(一八八六年)で、明治二十三年(一八九〇年)に四四〇戸、一、九三一人の屯田兵とその家族の人々が移住して、滝川の開拓が始められた。
空知・上川の内陸部では最初の屯田兵村であったが、その道路・兵屋用地・兵屋建築は樺戸監獄の囚人によって行われた。
北海道庁は、滝川のこの地を地域開発の拠点とすると共に、より内陸部である上川地方開発の中継的な役割を持たせる目的を持っていたのである。
政一氏が滝川村で開業前後の戸数・人口は次表の通りですが、明治31年の人口は現在の当麻町に匹敵する。
明治三十年三月に滝川村市街地に開業し、家族を故郷の石川県より呼び寄せたのです。
政一氏の長男駒崎秀三氏が残した年表に次の様に記してある。(以下駒崎秀三氏の年表からとす)
瀧川警察分署は
明治29年6月18日に空知郡ほか四郡役所が岩見沢に設けられて岩見沢分署が警察署に昇格した事により、岩見沢警察署滝川分署となった。
滝川村市街地で駒崎医院を開業した政一氏に、「空知太検黴医」の嘱托辞令書が瀧川警察分署より交付された。
しかし、この様に記録にありながら、滝川市史の開業医の項は次の様になっています。
滝川市史による「大竹康道民」の開業年月と、駒崎政一氏の開業年月が全く同じです。
瀧川警察分署の検黴医辞令年月日は、駒崎政一氏が開業した明治三十年三月の翌月「四月一日」付になっていますので、駒崎政一氏は瀧川警察分署管内にて開業していたのは事実。
滝川村市街地で開業した政一氏は、久し振りの家族の再会により、開拓移民の医療と健康管理に意を注いだが、屯田兵村は大隊本部に診断所、中隊には派出診断所を設けて屯田兵並びにその家族の診療に当っていた。医療費は扶助年限中は無料とされ、その後は医薬の実費を負担していたので、屯田兵及び家族は一般開業医に診察を仰ぐ事はなかった。
又、開拓移民は生活が大変で、少々の病気や怪我は売薬か加持祈?に頼るという状況で、病院に直ぐ行く事はなかったのである。
・滝川市史
開業医院 滝川市街では屯田一等軍医正 大竹康造が退官後、明治三十年三月に広小路五丁目に医院を開業、江部乙市街では山崎司城が村医を辞職後の大正四年十二月に開業したのが始まりである。
そして、明治二十三年より屯田兵第五大隊が滝川屯田兵村に置かれた時から、滝川村民から親しまれ人望のあった軍医大竹康造氏(明治四十二年七月から三代目滝川村村長になる)の退官開業等もあって、北海道庁や滝川村から補助のない一般開業医の駒崎医院の経営は十分でなかった。
明治三十年三月、滝川村で開業し家族を呼び寄せ子供達も学校に入れ、生活基盤も確立しっつあったが、無医村の富良野村村医としてどうかと、当時の富良野村を管轄に持つ第二代空知支庁長久保誠之氏の斡旋により「富良野村村医」として辞令を受ける事となった。
《駒崎秀三氏の年表から》
○明治三十年三月
尋常科第二学年修了後、渡道ノタメ四月退校
○明治三十年四月
母ニ伴ワレ、父ノ開業地北海道滝川村ニ向ケ生家當目村ヲ出発
○明治三十二年三月
滝川村空知尋常高等小学校高等科一年修業
著者注・明治31年2月空知小学校に高等科(二年)併置認可
・この年の二月、父政一氏が富良野村村医発令により一年修業となる
六、富良野村村医の辞令を受ける
滝川村にて医院を開業し、家族を呼び寄せて二年を経たが、空知支庁長より『富良野村村医』としての辞令を明治三十二年二月十六日付で受ける。
上富良野百年史の年表によって、当時の富良野村の動きを見ると
明治三十年七月一日 歌志内村・富良野村を創立。歌志内村外一箇村(富良野村)戸長役場を歌志内に置く。(空知支庁管内)
明治三十二年五月十日 上川支庁管内所轄、富良野村戸長役場を設置する。
明治三十二年六月二十日 上川支庁管内編入後の初代富良野村戸長松下高道就任。
明治三十二年六月二十五日 富良野村戸長役場を上富良野に開庁。(現在の本町一丁目一番地付近)
※ 当時の富良野村は、現在の上富良野町・中富良野町富良野市・南富良野町を含めていた。
富良野村の人口北海道戸口表による[上富良野百年史より]
明治三十年=     七〇戸                             三〇〇人
明治三十一年=   三三戸  男    九六人  女    五九人     一五五人
明治三十二年=  三一九戸  男   六一八人  女  四六六人   一、〇八四人
明治三十三年=  五〇〇戸  男   九八五人  女  八二二人   一、八〇七人
明治三十四年=  七一〇戸  男 一、五〇八人 女 一、三六六人  二、八四七人
明治三十五年=  九一三戸  男 二、一二三人 女 一、八八二人  四、〇〇五人
明治三十六年=  五二〇戸  男 一、七一五人 女 一、四五五人  三、一六〇人
※明治二十六年九月二日に富良野村が上富良野村・下富良野村に分村
辞令を受けた駒崎医師は、取敢ず単身にて富良野村村医として着任し、同年四月に家族が滝川村より来る。
駒崎医師の着任、離任前後の富良野村の戸数・人口は次の通りであった。
戸数、人口の動きを見ると、明治三十二年から飛躍的に増えており、その大きな要因は鉄道の開通であった。
明治三十二年九月一日    旭川〜美瑛間開通
明治三十二年十一月十五日  美瑛〜上富良野間開通
明治三十三年八月一日    上富良野〜下富良野間開通
駒崎医師の富良野村村医としての、上富良野町に住んだ三年間は、北海道へ来て一番長く住んだところであり、四男秀雄氏・五男五郎氏の出生の地でもあった。
本籍地を明治三十二年八月一日付にて、石川県より『北海道石狩国空知郡富良野村字上富良野市街地弐百参拾八番地』に転籍届を行った。
戸籍謄本の認證年月日が『明治三十五年三月四日』となっているが、この月に富良野村村医を辞している。
戸籍謄本の末尾に『北海道空知郡富良野村戸籍吏三浦忻郎』とあるが、三浦忻郎氏は富良野村二代戸長(明治三十四年十二月一日〜明治三十八年一月二十七日)を勤めた後、上名寄村二ヵ村戸長役場に転任。その後、明治四十二年七月二十八日〜大正二年七月二十七日まで旭川町(現在の旭川市)助役の重責を担った人物であった。
上富良野百年史を編纂中に、明治三十一年七月十三日付の『北海道毎日新聞』の記事『富良野村村医亀田政五郎氏……』が見つかりました。(後述)その記事により、富良野村村医の始まりは従来の『駒崎政一医師』から、『亀田政五郎医師』となり年表に記されています。
上富良野百年史が発刊される以前の、村医の各記録は上富良野志(明治四十二年十二月二十二日発行)及び上富良野町史(昭和四十二年八月一日発行)に次の様に記述されている。
本村移住民來住せしは三十年五月なりしも當時は往來の道さへ通ぜざる有様なりしかば勿論村醫を得るに由なかりしが超へて翌三十一年より初めて村醫を得て開業せしむるに至る今其沿革の概略を擧ぐれば左の如し明治三十一年駒崎政一氏を村醫に命ぜられ其手當金として國庫補助月額二十圓を支給し村費より十圓を支給せり其後任免の手續改正となり村醫は戸長に於て司どることとなり爾來國庫補助金を得ず単に村費より支給するに至れり然れとも移住民漸く増加し普通開業も來住するものあるに至りしかば其補助の要を見ず依つて明治四十二年三月を以て之れを廢す則ち村醫を置くこと約十年人を更ゆること五人なり
年度 月給 村醫 年度 月給 村醫
明治三十一年 三十圓 駒崎 政一 同 三十九年 二十五圓 槙  諭輔
同 三十五年 三十圓 横田  信 同 四十年 三十圓 成瀬 孝三
同 三十六年 二十五圓 平野 慶頼
上富良野志は、明治四十二年発行で、その十年前に村医をされた『亀田政五郎氏』の記事が、一つもないのはどういう意味があるでしょうか……。
しかし、今度は亀田政五郎医師とは、どんな経歴を持った人物なのか気になりました。
上富良野百年史、旭川市医師会史・根室市史・鷹栖町史・比布町史と、亀田政五郎氏の足跡を追って見ました。その中で、亀田政五郎氏に関する記述は次のとおりです。
亀田政五郎医師の記述について
◇上富良野百年史(平成十年八月発行)
明治三十一年の『北海道毎日』「フラヌ通信」には「昨年末より上川郡神居村開業医亀田政五郎氏を聘して村医を嘱託せしが、いかなる間違にや。氏は公然村医の待遇を受けさりしとて、再び神居村に帰り其の弟をして出張せしめ置くを以て、村民大に之れを憂い二三有志者其筋に向かって請願の結果、本月に至り漸く村医補助費を下付せらるる事となりしより愈々亀田氏を村医として待遇する由となり」(明31・7・13)のごとく、村医亀田政五郎の存在が報じられている。しかし『旭川医師会史』(昭和35)によれば亀田医師の略歴には富良野との関わりは出てこない。結局、村医として任についたのは、『上富良野志』によると、村医は駒崎政一(三十一年度)、横田信(三十五年度)、平野頼(三十六年度)、槙諭輔(三十九年度)、成瀬孝三(四十年度)の五名となっている。又、年表には次様に記述された。明治三十一年(一八九八年)七月  亀田政五郎村医として嘱託する。
◇旭川市医師会史(昭和三十五年十一月二十三日発行)
―旧旭川市医師会員略歴紹介には―
○亀田政五郎 安政元年五月生石川県能美郡本折村出身、慶応元年三月〜明治四年二月まで能美郡医師 清水立昌につき欧米内外科を修業。明治四年三月より同九年十二月まで京都豊田修達に従い医学を攻究、明治十年開業免許、石川県下に開業。明治十年〜明治十六年まで五年間 開拓使根室病院に招聘せられ後、後志、北見、石狩を歴遨し旭川に開業す。
―会員名簿の動きには―
・明治三十年まで 駒崎政一は記載なし
亀田政五郎
・明治三十五年まで 32年駒崎政一(上富良野村)
35年亀田政五郎(鷹栖村)
・明治三十六年 亀田政五郎(旭川町5の7右8)
駒崎政一(上富良野村)
横田 信(上富良野村)
・明治三十八年 亀田政五郎(鷹栖村大字比布)
駒崎政一(東川村)
横田 信(旭川町上川病院)
※「会員名簿の動き」は当時の上川郡医師会への届出の有無や、年度が両年度にわたっている事も考えられる。
◇比布町史第三巻(平成九年九月三十日発行)
最初は、旭川・神居・鷹栖の三村が共同の村費で医師を招いて村医とした。明治三十年の暮れには、鷹栖村で単独の村医を置く事になり、吉田直之助医師が任命されているが、比布原野では鉄道開通によって急速な発展を歩み出したので、明治三十二年七月に比布地区担当の村医として高林紋平を迎えている。又、明治三十三年八月には、高林秀貞が初めて学校医に委嘱された。この両医師は翌年三月末に解任され、明治三十五年九月になって、ようやく亀田政五郎が比布地区担当の村医として配置され、この医療体制は分村独立まで続いた。さらに、分村と同時に村医に関する規則が定められて、引き続き亀田政五郎は村医として任命されている。
※編集委員註
比布村は、明治39年4月に当時の鷹栖村から2級町村として分村して設置された。
従って、亀田政五郎氏の旭川市医師会史による『会員名簿の動き』にある、鷹栖村とあるのは、分村独立前の『鷹栖村大字比布』地区の事である。
亀田政五郎医師の動きについては、上富良野は百年史本文の中で『旭川医師会史』にその記述が無い事を指摘されていますが、筆者の調査でも同じであった。
又、当時の上川郡神居村にて開業のまま、鉄道が開通していない明治三十一年に、村医嘱託の命を受けたが、弟を出張させたり、待遇の問題もあって、当時の村民は村医としての認識が薄かったのでしょう。上富良野志にその記載が無いのは、それらの理由によると推察されます。
――富良野村医治療所はどこに在ったのか――
駒崎政一医師の富良野村での本籍地は『北海道石狩国空知郡富良野村字上富良野市街地弐百参拾八番地』です。村医治療所の所在地と推察される『二百三十八番地』はどこかと、町史編纂室を通じ役場の関係部門に照会したが不明であった。しかし、明治四十二年十二月発行の『上富良野志』の第三章―村有財産―の項に次の様な記載がある。上富良野市街地村医治療所跡の家屋一棟泉川義雄に対し五カ年間貸付す、貸家料を徴収す。これは、明治四十二年三月末で村医制度を廃止したからであり、この村有財産は明治四十二年度の役場基本財産台帳に記入と書かれている。ここに登場した『泉川義雄氏』は、上富良野志によると、明治三十三年六月に富良野村戸長役場の吏員として任命された。明治三十九年六月日に二級町村制施行に伴う村会議員選挙で第一期村会議員になる。大正十年六月二十日、上富良野村に旭川区裁判所上富良野出張所(登記所)が設置されたが、泉川義雄氏は、大正十年六月十八日付にて、司法書士としての認可を受け、村民の登記書類等の手続きを代行する、いわゆる代書人となった。泉川義雄氏の長男泉川丈雄氏も、大正十二年三月二十日に司法書士の資格認可を受けた。従って、村医治療所跡を貸付けを受けた、泉川義雄氏が住んでいた所が、駒崎政一医師の本籍地と考えられます。泉川義雄氏を祖父とし、泉川丈雄氏を父とする泉川照雄氏(元上富良野小学校教諭、現在名寄市立名寄小学校長)と母トシ子さん(札幌市在住)に、昔住んでいた場所を確認した所、その場所は現在の大町一丁目二番の『美容室さちこ』とその右隣の空地(蝶野氏所有)を含めた所ですと話してくれました。
―駒崎先生上富良野尋常高等小学校の創立に―

上富良野志によると、上富良野尋常高等小学校の創立についての項に
『明治三十五年二月四日 当村長三浦忻郎氏学校設立の申請を為し島津農場事務所外八十五名にて五百二十七円六十五銭を寄附し、駒崎政一、川村善次郎・海江田信哉の三氏を建築委員に挙げ、校舎を本村上富良野市街地東一線二十五号に建設し、上富良野尋常小学校と稱し同年七月より開校』
とある。
駒崎先生は、当時の最高学府ともいうべき、石川県立金沢医学校本科を卒業していたので、開村間もない上富良野村の教育にも貢献されていたのです。
明治三十二年二月に着任以来、三年間にわたり村医診療所で村民の診療と予防に懸命に努力されましたが、明治三十五年三月末に村医を辞す事となった。
上富良野に本籍地を移し、秀雄・五郎の二児が出生した思い出の地である上富良野を離れた。
七、幌泉郡小越(オゴシ)村(現在のえりも町)の漁師村医師として
富良野村の村医としての任期を明治三十五年三月末に終えた駒崎医師は、明治三十四年十一月二十日に竣工開院し間もない旭川博愛堂 竹村医院に、明治三十五年四月より上川郡内の中核病院の医師として診療に携っていた。
北海道の開拓は着々と進んで行くが、医師不足は深刻であった。竹村医院勤務の折、北海道の中央で日高山脈南端の太平洋に突き出た襟裳岬の東側にある小越村(日高国幌泉郡―現在のえりも町)の有志からぜひ村の医者にとの懇請を受けた。
小越村には青森県出身者が一番多いが、石川県出身も多く、漁師として成功している有力者からの関係で、駒崎医師に話しが来たのである。
駒崎医師は、竹村医院竹村鍵次郎院長と相談した結果、小越村に行く事になる。
明治三十六年三月十四日 小越村の『襟裳醫舘』と称した診療所に着く。
海のある小越村での駒崎医師は、岬の突端の断崖、岩礁が沖合に点々と続き、その岩礁に砕ける太平洋の荒波、夏の濃霧と強い風を肌で感じて、故郷石川県能戸半島に思いを馳せた。
岩井戸村から一番近い、能都町の宇出津(ウシツ)港で見た漁船の出入りと、大漁旗がはためく光景、奥能登の九十九(ツクモ)湾、飯田湾の四季折々の風景、又青年医師時代の金沢、輪島での様々の思い出を……。
当時の幌泉郡は、近呼(チカヨブ)村・笛舞(フエマイ)村・幌泉(ホロイズミ)村・歌別(ウタベツ)村・歌露(ウタロ)村・油駒(アブラコマ)村・小越(オゴシ)村・庶野(ショヤ)村・猿留(サルル)村の九ヶ村からなっている。
えりも町史から、明治時代の小越村の関係分を抜粋すると
明治二年頃 昆布の産地として、文久・慶応の頃より土着者三戸あり、明治五年に移民の挙あるや、青森・岩手・秋田の各県より五十戸移住者あり、人口次第に増加
明治十三年 戸数五十一戸・人口百五十九人
明治十六年四月一日 小越尋常小学校開校(現襟裳小学校)
明治十八年三月二日 小越郵便開局(現えりも岬郵便局)
明治二十三年 戸数九十七戸・人口三百五十六人
明治三十年 (北海道殖民状況報文)
戸 口 戸数 百八十一戸・人口 五百五十四人

     青森県人多く、岩手・秋田・石川県の人これに続く。
漁 業 昆布採取船六十五艘、鰈漁川崎船十一艘、鮭建網二統あり、この地の
     昆布は製造採取とも規約を励行すことから、その声価を高め、他場所に
     比べて販売価格も上位を占めている。
生 計 鰈漁から昆布採取に従事し、婦女は余暇を布海苔・銀杏草の採取を行
     い困窮者はない。
駒崎医師が赴任された明治三十六年頃の戸数・人口等の資料がないが、明治三十年末の昆布採取船は幌泉村(現在のえりも町役場所在地)が七十七艘で一番多く、次いで小越村の六十五艘であることから『日高昆布』生産の中心地として、明治時代から脈々と続いている。
明治三十年の北海道殖民状況報文『生計』の項目の中に『困窮者なし』という報告がある通り、豊かな海の幸により小越村の村民有志で駒崎医師を招聘したのである。
その後、小越村は三十九年四月一日に二級町村施行により、近呼村・笛舞村・幌泉村・歌別村・歌露村・油駒村・小越村・庶野村・猿留村の九ケ村が合併し『幌泉村』となる。(昭和三十四年に幌泉町として町制施行、昭和四十五年えりも町と改称)
幌泉郡の全部が一村というのは、全国でも唯一の事という。明治三十九年四月の二級町村制施行の時の戸数は六百二十戸・人口は三千百三十一人となっていた。
八、東川村村医となる
東川村の戸数・人口の推移
(町史ふるさと東川より平成6年7月30日発行)
明治二十八年= 八〇戸   四七二人
明治二十九年=二八〇戸 一、〇八〇人
明治三十 年=三〇〇戸 一、七七〇人
明治三十一年=三一六戸 一、八七九人
明治三十二年=三四〇戸 二、〇四〇人
明治三十三年=三四六戸 二、〇七五人
明治三十四年=三六六戸 二、一九二人
明治三十五年=三八九戸 二、三三一人
明治三十六年=三九二戸 二、三四一人
明治三十七年=三九一戸 二、三三七人
明治三十八年=四〇〇戸 二、五二一人
明治三十九年=五二四戸 三、〇九一人
明治四十 年=五七九戸 三、四二六人
日高国幌泉郡小越村(現在のえりも町字小越)に単身赴任での村医の任期を終えた駒崎政一氏は、明治三十七年三月末に旭川町近文二線一号の自宅に帰って来た。小越村での契約期間(一年)の関係もあって、事前に上川医師会役員である竹村鍵次郎氏(竹村病院院長)の紹介で『東川村村医』として赴任する事になったと記録されています。
開拓時代の東川村の戸数・人口の推移は次表の通りであった。
又、駒崎秀三氏の二男駒崎宣之氏(駒崎政一医師の孫)は当時の『村医契約書』『村医嘱托辞令』『月手当金辞令』を大切に保管されています。しかし、東川町史には『村医駒崎政一氏』の記述がありません。
契約書に書かれている『東旭川外一村戸長 古賀悠吉』と辞令書の『東旭川外一村戸長役場』は存在するのかと、東川町史年表を調べると

 ○明治三十二年六月 東川村が東旭川戸長役場の管轄となる。
 ○明治三十九年四月 二級町村制施行。東川村、東旭川村組合役場となる。

   駒崎秀三氏の年表(明治三十七年四月の項)
  東川村村医赴任、父ニ伴ワレ四日旭川一泊 五日東川村着

従って「東旭川外一村戸長 古賀悠吉」の呼称があり、又、旭川医師会史(昭和三十五年発行)の会員名簿に着任又は会員の在籍年が記録されているので関係分を記すると次の通りです。
―会員名簿の動き―
明治三十二年 駒崎 政一(上富良野村)
池田政次郎(東旭川村)
明治三十三年 福原 志雄(東川村)
駒崎 政一(上富良野村)
明治三十五年 池田政次郎(東旭川村)
福原 志雄(東川村)
駒崎 政一(上富良野村)
明治三十七年 医師会史の記録が全部なし
明治三十八年 池田政次郎(東旭川村)
福原 志雄(東川村)
駒崎 政一(東川村)
林宗  寿(東川村)
明治四十一年 小川 為吉(東川村)
福原 志雄(東旭川村字)
池田政次郎(東旭川村番外地)
坂田 篤蔵(東旭川村)
以上の関係資料から、駒崎政一氏は「東旭川外一村戸長」との契約で『東川村村医』として発令を受け、赴任し契約期間の一年を東川村民の医療に専念された。
東川町史には次の様にある。
・医療施設の推移について、前町史によれば、明治三十年に東川村西六号南七番地に福原志雄医師が医院を開業、三十九年西八号南一番地に移転開業、四十一年に廃業している。
・明治三十八年に村医制度ができ、初代村医には林 宗寿医師が委嘱され、翌三十九年には福原医師が臨時村医に委嘱されている。四十二年には小川為吉医師を村医として招聘。
・明治三十八年四月 村医林 宗寿との聘雇契約
次の契約により林宗寿という漢法医が雇用されたが、その履歴と免許状を示せば次の如くで、当時の開拓地の住民がどのような医療をうけていたかを窺い知ることができる。
〇村医聘雇ノ件
明治三十八年度東川村々医聘雇ニ関スル条件左ノ如シ
 一、村医診断処ハ村有物建物ヲ充用スルコト
 二、手当金ハ一ケ月金拾八円トス
 三、薬価ハ上川医会ノ規定額ニヨリ二割減額スルコト
 四、往診料ハ如何ナル場合卜雖モ無料トス
 五、定期及臨時種痘共旅費日当ヲ給セズ
 右評決候也
         明治三十八年四月一日 東川村総代人
                         永谷 鎌次郎
                         園田仁右エ門
                         右管理者
                         東旭川外一村戸長
                         古 賀 悠 吉
明治三十七年四月の駒崎政一氏の契約書と、明治三十八年の林宗寿氏との契約内容を比較すると「第二条の手当額」が二十五円と十八円の違いだけど、あとは同じである。この手当額の七円の差は何んでしょうか疑問が残ります。年令から考えれば、駒崎氏は四十五歳、林氏は六十一歳。駒崎氏は医学校で西洋医学を、林氏は漢法医学出身。村医制度は北海道庁から補助があるが、東川村財政の厳しさもあって減額したのでしょうか。
駒崎政一氏は一年間の契約期間を終えて、旭川町竹村医院に医師として勤める事になった。
九、下富良野村(現富良野市)で開業
履歴明細書
             愛知県平民
                 林 宗寿
一、安政三年丙辰二月ヨリ父林宗純ニ従ヒ文
 久元年己酉十月迄五年九ケ月間漢法医学
 内外科修業
一、文久弐年壬戌十一月ヨリ西洋医石黒通
 吉二従ヒ八年二ケ月都合年数十三ケ年十一
 ケ月漠法医術内外科修業
一、明治三年庚午六月尾張国春日井郡印塔
 村ニテ漢法医術開業
右相違無候也
     明治三十八年四月一日
              右
                   林 宗寿
東川村村医を明治三十八年三月末に辞した駒崎政一氏は、旭川町四条十二丁目(現旭川市)の旭川博愛堂竹村医院(院長竹村鍵次郎氏―明治二十七年東京帝国大学医科大学卒)の医員となり、当時の最新欧米医学の研鑚に努めていた。
富良野村村医(現上富良野町にて診療)を辞して三年の歳月が流れ、富良野村は大きく変った。
鉄道の開通による開拓移民・商工業者の移住や、北海道大学第八農場・東京帝国大学演習林などの設置があって、富良野村は戸数・人口とも飛躍的に増えた。
明治三十六年七月八日、富良野村の南方を割き『下富良野村』を置き、従来の富良野村を『上富良野村』とした。
駒崎秀三氏の年表(明治三十八年三月の項)
東川村出発、近文二線一号へ引越、二十六日父卜共ニ竹村病院ニ
よって、下富良野村戸長役場が置かれた。当時の戸数・人口の推移は次の通りです。
下富良野村の戸数・人口の堆移
(富良野市史より)
明治三十六年 九六九戸 二、六一八人
分村の動き
  =富良野村が上富良野村と下富良野村を設置
明治三十七年 一、一五六戸 三、七三一人
明治三十八年 一、二七一戸 五、一五六人
明治三十九年 一、八二二戸 六、六五三人
明治四十 年 二、一七〇戸 八、一五七人
明治四十一年 一、二九三戸 七、二三七人
分村の動き
  =南富良野村を設置
明治四十二年 一、三二三戸 七、六八三人
明治四十三年 一、五一四戸 八、五二一人
明治四十四年 一、六六七戸 九、三九七人
駒崎政一医師は、三十七歳で北海道に渡って、医者として大きな夢と希望を抱いて、月形村・滝川村・富良野村・小越村・東川村と北海道の開拓移民と関わって四十六歳を迎えていた。
四十六歳の年令を考えて、本来の夢である北海道での医院開業の最後の機会であると判断し、当時の上川医師会会長でもあった竹村医院の竹村鍵次郎院長と相談の結果、富良野盆地の中心で、交通の分岐要衝の地であり、人口が飛躍に伸びて今後の発展が大いに期待できる『下富良野村』にて医院開業する事に決定した。
竹村医院にて医師として診療の傍ら、下富良野村での開業準備を着々と進めていたのである。
駒崎秀三氏の年表より(明治三十八年九月の項)
九月三日 父 竹村病院ヲ辞シ 下富良野村ニテ開業
駒崎医院は、下富良野村字下富良野市街地拾九号(現在のJR富良野駅前付近)にて、明治三十八年九月十九日に医院開業した。
駒崎政一医師が、北海道庁長官 男 爵園田安賢に『開業地異動届』を提出している。
『明治時代の病院通いは大変で、汽車の開通は大変な重昂であった』と、下富良野駅(元富良野駅で、明治三十三年八月一日開駅)開駅五十年記念座談会(昭和二十五年八月開催)で、元富良野町長松崎品治郎氏(大正十四年〜昭和十六年まで歴任)は次の様に語っている。
   松崎晶治郎氏語る

開駅のよろこびは大変なものでした。医者通いは馬車で上富良野まで行かなければならないが、当時よくあった「オコリ」などになった場合は、午前五時に出て昼前に着き、患者がたくさんいた場合、診療を受けるのは午後の四時半ごろ、また馬車で帰ると家に着くのは夜中になるという状態で、普通の人でも参ってしまう位であるから、病人はかえって重態になるという始末であった。

※著者注 開拓の初期時代の風土病の一つとして最も多かったのが「マラリヤ」で、通称「オコリ」と言われていた。富良野地方は沼地・湿地が多く、土地が泥炭化していたので蚊の発生が多発、蚊→人によって「オコリ」が発病した。
松崎品治郎氏の発言にある様に、下富良野の人達は病気になると、当時の富良野村村医(現在の上富良野にあった)駒崎政一医師の診療を受けていたのである。
その駒崎政一医師は縁あって、明治三十八年九月十九日下富良野村で医院を開業したのであった。
しかし、富良野市史では『新宮涼三医師』が医院の起源と次の様に記されています。
――開拓時代の医師――(富良野市史第二巻)
下富良野における医師の元祖は、市街地における古老座談会によると、旭川市から荒井貞好がつれてきた清水省三郎という医者が年代的に最も早いということである。新宮涼三より古いので、おそらく明治三十六年か、七年のことであったというが、その期間は短かいので余り知られていない。
新宮涼三 明治三十八年十二月
執行藤洋 明治四十年一月
渡部俊雄 明治四十一年四月
鈴木豊彦 明治四十四年六月
この四名は下富良野として最も古い医師であった。下富良野郷土誌はこの四名をあげている。この外、古老座談会には駒崎医院があったという発言もあった。これは明治三十二年に月給三十円で、富良野村の村医になった駒崎政一のことで、上富良野にいたのである。現在の中富良野・富良野市等はその区内なので出張してきたものと思う。

――大正時代からの病院――(富良野市史第二巻)
富良野病院東四条南二丁目にあって、明治四十年一月駒崎医院のあとをひきつぎ、執行藤洋の執行医院開院となり、大正五年に現在地に富良野病院を開いた。現在執行靖彦が院長である。

――富良野医師会史――(昭和六十年三月二十日発行)
富良野市の医療機関―開拓時代―の項では、富良野市史第二巻と同じ記述である。ただし、医師の紹介ページに特筆すべき事が書かれてあった。それは次のとおりである。
執 行 靖 彦
富良野病院明治四十年一月、初代院長執行藤洋に依り開設された。当時旭川市竹村病院に勤務のところ乞われて当地の駒崎医院のあとを継承したときく。その診療所は下富良野駅の近くに位置していたが、その後執行医院として本通りに新築移転した。(現在の朝日町四-十五 元北酒販営業所のあたり)
――旭川市医師会史(昭和三十五年十一月二十三日発行)より――
下富良野村で開業医の紹介抜粋

◇医師会員略歴
新富涼三氏
慶応元年五月一日京都に生れる。明治二十八年済生学舎、札幌北海病院、小樽愛生病院、明治三十八年士別村に。明治三十九年下富良野村にて開業す。

執行藤洋氏
明治五年十一月十一日生。佐賀県出、明治三十三年済生学舎、登一二七九号。卒業後足尾市にて開業、後に旭川竹村病院に、明治四十年一月下富良野村にて開業現在に至る。

中岡守朝氏
文久元年十月三日生れる。鳥取県上小鴨村蔵内住、明治十三年従来開業、明治三十六年から同三十八年まで下富良野村に在り大正十四年には鹿越に在住す。
◇会員の入会・在籍年度(関連分)
明治三十二年 駒崎 政一(上富良野村)
明治三十五年 横田  信(上富良野村)
荒井 貞好(下富良野村)
中岡 守朝(下富良野村)
明治三十六年 横田  信(上富良野村)
中岡 守朝(下富良野村)
荒井 貞好(下富良野村)
池 久郎太(空知郡金山沢)
新宮 掠三(士別村)
明治三十八年 駒崎 政一(東川村)
荒井 貞好(下富良野村)
明治三十八年 清水省三郎(中富良野村)
中岡 守朝(下富良野村鹿越)
新宮 涼三(士別村)
明治四十一年 本多 勝安(下富良野村字岡山)
執行 藤洋(下富良野村)
新宮 涼三(下富良野村)
渡辺 俊雄(下富良野村)
田中 善助(中富良野村)
柳生万之丞(中富良野村)
成瀬 孝三(上富良野村)
井村 万作(上富良野村)
以上、富良野市史・旭川医師会史・富良野医師会史の関係部分を再録しました。
駒崎宣之氏(政一医師の孫)保管の貴重な資料と共に検討した結果、新宮涼三医師より駒崎政一医師の医院開業が早い事が判明します。
又、駒崎医院の跡に、執行藤洋医師が執行医院として開業された事も明らかになりました。
十、駒崎医師急逝される!
駒崎政一氏は、医院開業の最後の機会と、最適地と選択した下富良野村市街地十九番地に、明治三十八年九月十九日『駒崎医院』を開業した。政一氏が四十七歳の時でした。
旭川の竹村病院から来た『駒崎先生』、元富良野村村医として上富良野にいた『駒崎先生』と人伝えに下富良野村内に広がり、下富良野停車場前という地の利もあって、多くの患者さんの診療に追われる日々であった。
六男一女の子供さんに囲まれて、やっと安住の地としての下富良野に落着くことが出来ました。
しかし、明治三十九年の歳の暮れも迫った十二月二十八日突然の不幸が訪れた。
駒崎医院を開業して、僅か一年三ケ月目の突然の訃報で、享年四十八歳であった。
明治二十九年十月末に、故郷石川県奥能登の岩井戸村を後にして、医師として北海道に新天地を求めて十年目のことでした。
駒場秀三氏の年表より(明治三十九年十二月の項)
廿八日午後七時三十分父政一急逝   下富良野ニ於テ
夫であり父であった、駒崎政一氏が明治三十九年十二月二十八日に逝去された時、家族の年齢は次の通りです。
母  かつ 45歳(文久元年二月六日生)
長男 秀三 20歳(明治二十年五月十六日生)
二女 とみ 17歳(明治二十三年四月十六日生)
二男 秀平 15歳(明治二十五年八月三十日生)
四男 秀雄 8歳(明治三十二年七月二十五日生)
五男 五郎 7歳(明治三十三年十月十九日生)
六男 六郎 4歳(明治三十六年五月三十一日生)
祖父圓次郎 69歳(天保八年五月四日生)
祖母 みつ 65歳(天保十二年四月十一日生)
駒崎秀三氏の年表より(明治四十年一月の項)
廿五日下富良野引揚 母以下 在富者一同 旭川近文二ニ祖父母卜同居ス
二十歳の長男秀三氏を頭に、僅か四歳であった六男六郎氏までの、六男一女を遺された母かつさんの心境はいかばかりかと思うと、非常に心に痛みを感じました。
以上の経過に基づいて、富良野市史・富良野医師会史を検証すると
@ 古老座談会で『駒崎医院があった』という発言に対し、それは上富良野にあった富
 良野村村医の駒崎政一氏のことである。
  各資料から、古老の記憶の通りであった事が証明されます。しかし、開業期間が一
 年三ケ月と短期間なので印象が薄かったと思われます。
A 富良野病院は、明治四十年一月駒崎医院のあとをひきつぎ、執行藤洋の執行医
 院開院となり、大正五年……。
前項の『九、下富良野村で開業』の中で、旭川市医師会史『医師会員略歴』に執行藤洋氏について記しました。その文中に『……後に旭川竹村病院に……』とあります。
亡き駒崎政一氏も何度も竹村病院に勤め、院長の竹村鍵次郎氏に大変お世話になっていました。
その様な関係で、当時、上川郡医師会長でもあった竹村鍵次郎氏の斡旋で、駒崎医院の後を執行藤洋氏が引継ぐ事になったと推測されます。父の急逝後、旭川近文に引揚げた六男一女の子供さん達は、母・祖父母を中心に明治・大正・昭和を確かな足どりで歩んで来ました。
駒崎秀三氏の年表より
・明治四十年二月  一日ヨリ竹村病院薬室勤務ス
・明治四十年三月  薬種商免許 鑑札第八九三号下附トナレリ
・明治四十年十二月 妹とみ竹村鍵次郎氏媒酌 村上 琴卜結婚ス
――駒崎政一先生・遺児の皆様のその後――
長男 秀三  旭川郵便局
二女 とみ  向井病院薬剤師 村上 琴氏に嫁ぐ
二男 秀平  日本通運株式会社
三男 秀作  旭川市田中木工場
四男 秀雄  札幌市北辰病院
五男 五郎  電々公社電気通信部
六男 六郎  北洋相互銀行
駒崎政一医師の七人の遺児の皆様は、父の任地の変更、突然の死去、激変の中での生活、戦争等の激動の明治・大正・昭和の時代を逞しく生き、各々の職業を経て、駒崎家の血を子々孫々に継承し鬼籍に入られました。
――村医駒崎政一先生の稿を終えて――
駒崎政一先生の調査の発端は、昭和十二年生れ丑年の皆様が、四十二歳厄年に『かみふらの物語』を発刊したので、六十歳の還暦を迎えた記念に上富良野開基百年『かみふらのふるさと写真集』発刊(会長平山寛氏・幹事長千葉陽一氏)しようとの事に有りました。
その為に、写真及び資料収集を行っていた平成九年十月のある日、幹事長の千葉陽一氏が旭川で知人の結婚披露宴に出席した時、隣の席に『駒崎宣乏氏』(旭川市株式会社北都測量社社長)がおられ、お互いに自己紹介をしている中で、『私の祖父は、上富良野で村医をしていたのですが……』と語られたのです。
そして、祖父の写真を含めて色々な資料が、父から引継いで保管している事であった。千葉陽一氏は、突然の話しに驚かれ、昭和十二年生れ『かみふらのふるさと写真集』の編集委員長であった筆者(中村有秀)に連絡がありました。
早速、千葉陽一氏と筆者が出旭し、何回となく駒崎宣之氏と会い取材をしました。
それらの一部が、『上富良野百年史』及び『かみふらのふるさと写真集』に掲載して、上富良野の歴史の一コマを埋めることが出来ました。
当時の富良野村村医駒崎政一先生の足跡は……生涯は……どうであったのかと思いを巡らし、第十六号に掲載する事になったのです。
今回の調査で、東川町史での駒崎政一医師の空白や、その他の市町村史にも若干補う点がありました。
この稿を終えるにあたって、貴重な資料を大切に保存し提供いただきました『駒崎宣之氏』に心から厚く御礼を申し上げます。
又、何回かの取材に同行いただきました『千葉陽一氏』にも心から感謝申し上げます。
―駒崎宣之氏と千葉陽一氏との出会は……上富良野百年が作ってくれたのでしょう―

機関誌 郷土をさぐる(第16号)
1999年3月31日印刷  1999年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔