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父の日記が語る―田中農場の秘話―

田中 冨美雄
大正五年五月八日生(八十二歳)美幌町在住

私の父・田中八右エ門は、明治二十五年五月八日生れです。田中農場の開拓者であった亀八(祖父)の長男で、明治三十八年三月、十二歳の時、四国から北海道に渡り祖父亀八・曾祖父八太郎と共に田中農場の開拓に従事しました。その父が書き残した日記の中から、当時を語る一説を記してみたいと思います。
≪田中八右エ門の日記より≫
昔は北海道を蝦夷(エゾ)と称して罪人を送ったもので、従って北海道へ来るのを極力拒んだといわれ、北海道、即ち蝦夷は囚人の行く所として嫌ったので、私の母も北海道への移住を極度に嫌ったものである。
それ故、開拓途上である北海道では、一日も早く渡道をと頻(しき)りに勧誘してきたが仲々、行くと踏ん切りがつかなかったものである。
私の祖父・八太郎は、既に七年前の明治三十年に渡道し開拓の鍬を振るっていたが、父(亀八)にも早く来道するようにと迫っていた。折しも明治三十七年二月十一日、日本と露西亜(ロシア)が戦争状態になり交戦を始め、戦宣詔勅が降りたるを記憶している。父は七年間という期限を付して渡道の腹を決めたのであった。
いよいよ明治三十八年三月十日、住み馴れた故郷を後に里程五里の道を徳島市へ向かう。郷里を出帆するのも迫って来たその前日、移住民としての汽船は宗谷丸で六、七百トン級であると聞かされた。
瀬戸内海を通り途中、讃岐の国の移住民を乗船せしめて、いよいよ北海道を目指して出帆する。船は房州館山に仮停泊した。丁度十五日であったと思う。
その夕、館山を出帆して十七日の朝、北海道の室蘭港に入港し翌十八日の朝、汽車にて室蘭駅を発ち、その晩の遅く上富良野駅に到着す。
北海道ではまだ積雪が随分残っていて、駅には馬橇で迎えに来て下さっていた。我々は生まれて初めて馬橇に乗せられ、一里余の道程を揺られゆられて漸く初めて見る家に到着した。そして私達は、此の東中富良野村東六線北十六号に新居を構えてあったので、そこに住居することになった。
此処には学校として東七線北十八号に、一教室で各学級の生徒を収容して、校長と助教師一名の二名にて教授していた。私も五月頃よりその学校に通いしも高等科の教育は全然しなかった。その秋に上富良野市街の尋常小学校に併置せる高等科として、一年生が二十四、五名と二年生が十名位、三年生なく四年生として私ただ一人で、勿論、教員は一人で満足な教育は出来なかった。一応は名目だけで翌年の明治三十九年三月、第一回の高等科を卒業した。
田中亀八・米八兄弟
田中亀八・米八兄弟は、徳島県那賀郡富岡村大字西路見二十九番地で生まれ、弟米八は父八太郎とともに明治二十六年に当別村で開墾に従事し、その経験を生かして三十年六月に東六線北十六号で十六戸分(八十町歩)の貸付けを受けた。
開墾は順調に進み、道毎日新聞(明治31年1月22日)では『田中八太郎は最も開墾に熱心し、成績の宜しきは本原野の第一に居る』とあり、他の農場では開墾が思わしく無い現状の中にあって、特に成績が良く、三十四年にはほとんどが付与となり、小作十一戸六十人の入殖を得ている。
兄亀八は、三十一年に調査に来道し、家族と共に三十八年二月に入殖し、四十年にベベルイ川の水利権を取り、水田を開き成功している。
明治四十五年七月、明治天皇が御不例にして崩御され年号を大正と改められる。翌年の大正二年は春以来、天候不順にして雨量も多く晴天は殆んど数える位しかなく、遂にその年は稀有の大凶作であり水稲は一粒も得なかった。さらにその年、八月三十一日の大暴風にて、丁度出穂中であった稲が満足な開花もなく、水稲の茎は穂先ともども全くの黒色となった。
しかしその時に、生育の進んでいたる旭川の近辺は幾分結実せし所があったが種子用として殆んど販売され、その当時の価格は一石当り四十円位の値段であった。玄米の約四倍の値段であったが、北海道は北海道の種子でなければ勿論、結実は不可能であった。
我々の居住地田中農場も、開拓後すでに二十年近くを経過せし故、土地も段々と痩せ相当の肥料を施さなければならなく、故に小作人も相当の肥料を使用しなければならない。そのため小作料が満足に納入されず、地主として土地の維持経営も容易でないので澱粉の製造業を始めてはと考え、水田潅水後の水を利用して水車を以って動力を起しての考えをもち、既設の厩舎三十坪に増築なして一部に精米場もとの設計を立てる。
先ず第一条件としては馬鈴薯の種子の購入が先決問題で、尾岸澱粉工場より種子薯五百俵を一俵五十銭で求め運搬して貯蔵する。翌年三月頃より工場設計、工事の準備にかかる。
昨年買入れせし馬鈴薯は、小作人に十俵から十五俵ずつ配布して最高五反歩位を耕作してもらい、馬鈴薯の物納で小作料を徴収することと定め、自分も十七、八町歩の耕作をなす。作柄も大変順調にして九月の上旬より機械の試運転を始める。一時間に凡そ二十俵位を製造でき、祖父・八太郎爺さんも張り切って、八十二歳の老人であったが良く協力してくれた。
澱粉製造は殆んど昼夜兼行という多忙さで十一月半ば過ぎまでかかった。粉砕機が余り順調でなかったので殆んど末粉で出荷した。今は袋入りであるが当時は正味十二貫詰めの箱入りで取扱いが非常に不便であった。幸いにして製品一千余箱を得ることができ、小作人からも薯の物納で小作料は殆んど納付を得たので、萬事が好都合に行ったのである。

機関誌 郷土をさぐる(第16号)
1999年3月31日印刷  1999年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔