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富良野原野の殖民地撰定

町史編纂室 野尻 巳知雄
昭和十二年三月三十一日生(六十二歳)

はじめに
上富良野町百年の歴史の集大成としてまとめられた「上富良野町百年史」は、道内において歴史研究者として知られる十一人の執筆者が、夫々の専門分野を分担し、企画から五年以上の調査期間を費やして、平成十年八月に刊行されました。
この百年史の発刊により、先に発刊されている「上富良野町史」(昭和四十二年版)では知り得なかった新事実や、記述内容の誤解も多く発見されました。これらの新事実や、今まで正しいと思っていた誤った認識について、新しい資料を混えながら「郷土をさぐる会誌」の紙面で、少しずつ紹介して行きたいと思います。
今回町史編纂室の仕事に携ってみて、一番に感じた事は、昭和四十二年に刊行された町史の編纂が、そのほとんどの原稿を岸本翠月氏が一人で執筆されていることです。
旧町史を読むだけでも何日も要する膨大な原稿を、その何倍もの資料を分析して纏められた労苦は、大変なものであったろうと推察されます。更に上富良野町のみでなく、中富良野町・富良野市・南富良野町の沿線の各市町村史にも深く係っており、そのご努力には驚きと共に深甚なる敬意を表したいと思います。
反面、氏が富良野地域全般にわたって係わりを持っていたと言うことは、同じ誤解が沿線各市町村に及ぶことが予想され、事実は事実として受止めていただければ幸いに思います。
富良野原野の初踏査
北海道の開拓は、当初海と川を中心に進められ、集落と集落を結ぶ交通の手段は、専ら舟を利用した移動に限られていた。そのため、川の無い内陸の奥地は道路も無く、獣道と言われる人跡のない道と、アイヌが狩猟のために使った細い刈分け道があるのみで、長い期間原始のままの状態が続いていた。
このような未開の地であった富良野原野に、初めて足を踏み入れたのは安政五年(一八五八年)のことで、三重出身の探検家松浦武四郎である。彼は非常な健脚家で、十四才の時から諸国を遊歴し、十九才で仏門に入り全国を行脚して数多くの紀行集を著している。当時蝦夷地と言われた北海道に渡ったのは弘化三年(一八四六年)二十七才の時で、富良野盆地を探検した様子は「十勝日誌」の紀行集で紹介している。
その後の富良野原野への踏査として、旧町史では「明治十年七月に札幌農学校(現・北海道大学の前身)のベンハロー教授が、石狩川流域の動・植・鉱物を調査するため、学生(佐藤昌介、内田瀞(キヨシ)、田内捨六等)と共に空知川を上り、富良野盆地に入った」と記されているが、後に内田瀞がクラーク博士に宛てた手紙によると、この時の調査では芦別までで、富良野原野までは及んでいないことが判明している。(「北海道開拓記念館所蔵」南富良野町史より)
また、この時同行した学生の一人佐藤昌介が、北大総長となって昭和七年頃(学長・総長の期間は明治24年から昭和5年12月まで)富良野町(現富良野市)を訪れた折に、有志や岩手県人会等の歓迎会の席上で「空知川を溯り島の下から富間を通って、清水山の頂上に登った」と語ったと記されているが、その時期も中富良野町史では明治二十八年を明治十年であると訂正されており、内田瀞の手紙から明治十年ではないことから考えると、佐藤昌介が富良野へ来た年度が昭和七年であると七十五才の高齢でもあり、総長も退任していることなどから実際に清水山に登ったと見られる時期を証す資料は見当たらず定かでない。
日高十勝釧路根室北見諸巡回報告書
明治十五年札幌県(三県時代で、開拓使から札幌県、函館県、根室県に分割して統治された)では、札幌と道東地方を結ぶ道路建設ルート探索のため、田内捨六・藤田九三郎に上川(現旭川市方面)から富良野盆地を南下し、空知川に沿って十勝に抜けるルートと、空知太(現砂川市・滝川市周辺)から空知川を溯って十勝に抜けるルートの調査を命じている。その報告では調査結果を比較した次のような記述がある。
空知ヨリツナシベツニ到ル
空知ヨリハ地形漸ク高起シ、方言谷地ト唱フル卑湿ノ地ハ殆ント無キカ如シ。但カムイコタンノ険阻アリテ、巌石峨々凡ニ里餘ニ亘ル。比ヲ過クレハ則チ上川郡ノ昿野トス。
夫レヨリ忠別ノ支流ピーペツ川ニ沿ヒピエーニ出テ、トップノ原野ヲ過グ、フラノ川ハ空知川ノ支流ニシテヲプタテシケ山(現十勝岳)ニ発源シ、西流空知川ニ合ス。比水源ニ温泉(現吹上温泉)アリ噴出スル。高サ五、六尺就テ浴スヘシ。奥ニ硫黄山アリ。空知川ノ上流ニ沿ヒ、ニシタップニ到リ而トテツナシベツニ達ス。
又ツナシベツヨリ空知川口ニ通スル一路アリ。是蓋シ流ニ沿ツテ炭山ノ間ヲ経来ル者ナリ。比路線ニ由ルトキハ里程稍近ク、旦カムイコタンノ険ヲ避クルノ利アリ卜雖モ、今却テ険ヲ越テ上川ニ路線ヲ取所以ノモノハ、他日興産ノ益ヲ計ルニ在ルナリ。
彼ノ空知川ハ山間ヲ流シ、両岸ノ地形甚タ狭ク、絶テ墾田牧畜ニ適セス。
この報告書から、カムイコタンの巌峡よりも、空知川の大滝や川岸の峡谷がより厳しいことが判るとともに、十勝ルートの路線が富良野原野を通ることに選定されたことと、明治に入ってからの初めての踏査が明治十五年であったことが判る。(資料・町百年史・南富良野町史)
殖民地撰定
明治十九年、北海道は三県から北海道庁に変り、岩村長官は内陸部の開発を進めるために、道路の開削と殖民地撰定事業を最重要施策として進めた。
殖民地撰定の基準として次の点を標準としている。
一、農牧に適する土地であること。
二、地積が五〇万坪(約百六十七町歩)以上の面積を有すること。
三、傾斜度は二〇度以下の土地であること。
四、海抜は二〇〇メートル以下であること。(但し牧場は例外とする)
(新北海道史)
この殖民地撰定事業は、各原野の地理・面積・土壌・植物・運輸などの調査に重点を置き、さらに用排水・気候・温泉・水産・水害・河川・地勢・高地・道路などの状況を明らかにしようとしたもので、これらの調査に基づき、未開地を次の四項目に区分している。
(1) 直ちに開墾可能な土地
(2) 排水後耕作に適する土地
(3) 牧畜適地
(4) 大規模な改良を要する土地
殖民地撰定事業は、明治十九年八月、内田瀞を主任技手に、十河定道を補助者として早速事業に着手し、石狩国空知・夕張二郡と、胆振国千歳・勇払二郡の原野を踏査した。
十二月に積雪のため調査は中断となり、道庁は殖民地撰定事業を強力に推進するべく、柳本通義・福原鉄之輔の二名を主任技手として増員した。(内田家資料目録・開拓記念館著より)
ここで、フラヌ原野の殖民地撰定を誰れが行なったかが問題であるが、旧町史(昭和42年版)では『フラヌ原野の撰定は、明治十九年に内田瀞が実施した』と記載されている。しかし、実際に手掛けたのは柳本通義であり、調査年度も明治二十年であることが彼の自叙伝で明らかになった。
当時のフラヌ原野の状況や、踏査のときの苦労した様子などは、かれの自叙伝で、詳しく知ることができる。
≪柳本通義の自叙伝から(抜粋)≫
明治十九年、本庁において北海道殖民地撰定事業開始に当り、主任技手に学士三名(柳本通義・内田瀞・福原鉄之輔)が選抜され、帰庁を命ぜられる。
同年十二月、家族を一時函館に遺し、急ぎ札幌に帰り日々本庁に出勤す。
撰定事業の着手は、石狩原野を上川、雨龍、空知の三大区域に分ち、三名の主任之に当る。余は空知を担当す。
明治二十年五月下旬、助手一名、測量工夫七人(内土人(著者註‥アイヌのこと)四人)を引卒して、各主任同時に札幌を出発。
本調査は、開拓以来の大事業にて、本道内部の実質養牧及び移民適地の地積を撰定踏査し、以て拓殖の資源開発の基礎となる……。〜中略〜
五〜六ヶ月分の糧食(味噌、塩、醤油、缶詰、切干、梅干、米等)を丸木舟に積込み、天幕三張りを一組で石狩川を上る。
沿岸に四泊の後空知太で他の二組と分る。翌日、三艘の丸木舟で空知川を上る。此附近至るところ陸上道路なく、少数アイヌ小屋の外人家あるなく、全くの未開の地にして、一行の外人跡もなく寥々たる別天地なり。
川口より約十三里上流に大瀑布(註‥現滝里ダム付近)あり、高さ三丈餘(約九メートル)川端迫りたる大岩上あり、大小二・三條の滝となり落下する水勢激怒の状、最も壮観にして六月の候、此爆下に群集する鱒はさながら鱒を桶に放ちたる如く、水中真黒にして瀑下に集り瀑布を昇らんとする状は実に奇観と言うべき、鯉の滝昇りとは真に此の状態を云うものならん。
大瀑布は通舟不可能なるにより、アイヌに丸木舟を造らしめ、約一週間滞在し、下流の舟は陸上に引揚げ新造舟を用ひて沂上す。
フラヌ河々口に達し露営を張り、フラヌ原野の位置方向を探査す。
内部原野は開びゃく以来人跡到らず、樹木鬱蒼、昼なお暗く草木鬱生して人より長く、沼地ある、低湿地あるも、木に登り漸やく原野の大勢を一瞥して方向を定め、フラヌ川を仮基線とし、荊棘を刈り、測器を使用して原野を横断し実測、終点の山麓まで数條に横断して実地調査に数日要す。
途中大雨となり、大出水の折父大病の急報により、空知川を下り帰札せしに、父病快報にて、空知太より迂回して美瑛の高原に出で、フラヌ川上流から営地に帰着する計画にて、案内のアイヌ二人と炊事方一人を雇ひ上げ、辺別川より高原を南東に横断してフラヌ川上流に下る。二日目夕刻に到るも幕営地発見せず、遂に又野宿す。
翌朝野宿を発し川に沿うて下り、漸く幕営地に到着するも、札幌再出発以来上川まで一週間を費し、上川からは辛うじて三日目に任地に到着せり。
本原野調査を終り、空知川沿岸左右の地を調査しつつツナシベツ迄舟を遡上したるも川底浅く、水勢激流で舟行困難なため、そこからは踏査となり、落合に達したときは、大雨で勢猛烈にして激流ドット押来り、天幕等を納め置きたる舟は、三艘共転覆し貯蔵の物品全部流失し、舟は堅く繋ぎある為流失せずも、補給の途なく、前進を中止し次年度に於て十勝方面より踏査することとす。
比の調査は、上川よりフラヌを通過して十勝国に達する中央道の位置を予測する目的なり。
この自叙伝により、フラヌ原野の殖民地撰定は、明治二十年に柳本通義によって実施された事が判ったが、その他にも色々な事が判明している。
その一は、当時の交通の手段は、内陸部の道路整備が遅れ、専ら舟を中心に移動していたこと。
その二は、空知太から富良野盆地へのルートとして難所とされていた滝は、高さが約九メートルもあり、大小二〜三条の滝となっており、鱒の遡上は滝で止められていたこと。
その三は、基線の設定は、明治二十九年の区画測設の時でなく、殖民地撰定の二十年にすでにフラヌ川を仮基線として測量が行なわれていたこと。
その四は、柳本通義が札幌を再出発して富良野入りするルートに、危険な空知川沿いのルートを避け、美瑛からのルートを使ったことなどである。
柳本通義
富良野原野の生みの親とも言うべき柳本通義の人物について、自叙伝から探ってみたい。
彼は安政四年二月八日、桑名寺町(現三重県桑名市)の武家屋敷で生まれた。
父は通徳といい、家系は代々桑名藩主松本公に任へ小祿を食み、母は咲といった。兄弟は男四人、女四人の八人兄弟である。
幼名は庄之助から後に猶平と言い、文久三年、七才で藩の志田羊右衛門から漢籍、習字を習い、明治元年十一才のときに藩学立教館に登学し、紫山塾に入る。
五年、義塾英語教師小林貞吉に英語を学び、六年一月十七才のときに東京に留学して、岸塾で会津藩士岸俊雄から数学・英語を学び、九月横浜で英国人ドクトル・ブラオンに英会話を学ぶ。
八年に東京英語学校(米人教師スコット)に入り、この時の同級生として佐藤昌介、内田瀞、田内捨六と共に学んでいる。
九年六月、札幌農学校(四年制)が新設となり、転学を志願し、同級生佐藤昌介、内田瀞、田内捨六などと共にクラーク博士の試験を受け、官費生となる。
八月開校式の後、クラーク博士(植物・修身)、ホスラー学士(土木工学・図学)、ペンハロー学士(化学・植物学)、ブルフク学士(農学)、カッター学士(気象・簿記)、加藤少尉(演武)に学ぶ。
十三年七月十日、五十名入学し途中退学などで十二名が卒業し、一同開拓使御用掛(月俸三十円)で五ヶ年の奉職の義務を負い、七重勧業試験場詰となる。
十九年、殖民地撰定事業の開始により主任技師となり、二十年富良野原野など、空知原野の撰定を行なう。
二十二年十一月、大和十津川大洪水の罹災民を受け入れる為、樺戸郡トップ川原野を一戸五町歩の割合で区画設計測量を行ない、二十三年に新十津川村移住地開墾の監督官となって、開拓の指導を行なう。
二十九年、台湾殖民地調査の主任技師の内命を受け台湾に渡る。(北海道大学図書館蔵・昭和十二年発刊・「柳本通義自叙傳」より)
この自叙伝により、富良野地方の調査、開発に大きく係って来た人物で、佐藤昌介、柳本通義、田内捨六、内田瀞等が、明治八年の東京英語学校入学時からの同級生で、共に札幌農学校でクラーク博士に師事し、同校卒業の一期生であったことは、偶然とはいえ、運命の結び付きの様なものを感ぜざるにはいられない。
二十年に撰定されたフラヌ原野の状況については、旧町史・百年史の撰定報文で詳しく紹介されているが、撰定された面積は、上フラヌ原野・中フラヌ原野についてみると、合わせて二千六百二十四万坪が撰定されており、全体の面積との比較では約40%の面積が撰定されたことになる。(全体面積の合計は、三百四十五・六七平方キロメートル、上フラヌ、中フラヌ原野を合わせたのは、当時の撰定区域と、現在の町界とが一致しないためである)
上富良野町ばかりでなく、富良野沿線各市町村においても、富良野原野の殖民地撰定は、明治十九年に内田瀞によって行なわれたと、長い間信じられて来た。これも郷土史家であった故岸本翠月氏が、各市町村史の発刊に深く係って来たことと、その当時は資料も少なく、他の文献を参考に推定で執筆せざるを得なかったことに、起因していることが大きかったのではないかと想像される。
(以下次号に続く)

機関誌 郷土をさぐる(第16号)
1999年3月31日印刷  1999年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔