郷土をさぐる会トップページ     第16号目次

それから―上富良野に七十年―

故 荻子 ます 明治32年3月16日生
昭和61年9月10日没(享年87歳)

木曽川のほとりで
私は、愛知県海部郡鍋田村字森津で農業をしていた父佐藤甚三郎と母きようの四女として明治三十二年三月十六日に生まれました。母が四十一才の時だったそうです。
長姉りゆうは小学校へ行った事がなく文盲でしたが、次女とらの時からやかましくなり四年生まで行ったとのこと、三女さくも同じでした。幸いなことに私が四年生の時から、尋常科が六年になり、私はその上の高等科一年も学んだが、十四才の春学校をやめて、明治四十五年の春からは長姉などと共に田や畑の仕事を手伝い、ちいと暇なときには、隣村まで和裁を習いに行きました。こうして三年間手伝いました。
鍋田村は三重県との境にあって、大きな木曽川があり、わが家から一里ほど下流の所は伊勢海になっていて、潮の満ち干も一日に二度あったようです。
木曽川の幅は三百間位あって、夏中、子供達は男女を言わず、たまには大人も混じって川の中はすごーくにぎやかでした。小学生の子供は、男も女も夏中川の中で暮らしているようなものでした。
佐藤の家は川端がうまく作ってあったので、学生も佐藤までくると、カバンと着物を住宅の前に放り投げて幾人も、われ先にと川に飛び込み、ひとしきり泳いでから家へ帰っていく。暑いときはこれが毎日の事でした。
私も誰に教わると言うこともなく平泳ぎをしていました。たまに今日こそは、向こうの川原(三重県)まで頑張って泳ごうなんて友達と張り切って一直線に泳いでも、深いところは水の色が真っ黒く見える、そんな所まで行くと本式の泳ぎを知らんものばかりで恐ろしくなって戻るのです。そんなことで私は三重県まで泳ぎ着いたことは一度もなくて、いつも残念に思いました。
大人も昼に田畑から上がってくると、暑いから男も女も川で一泳ぎして昼食でした。着ているものが汗でびっしょりだから、帯だけとって着物のまま泳ぐと丁度よく洗濯ができる。食事と昼寝をしている間に着物はがりがりに乾いているので、「早く家の中に広げなきゃ暑くて着て出れん」とやかましかったものです。
荻子家の北海道移住
次女のとらは、同じ村同志の荻子信次と結婚していました。信次は明治四十一年の春、四月十日過ぎに上富良野へ移住してきたという。そのとき長女きくえは五才、次女ひなこは生後三十日余り、母ゆうは六十才余り、この家族で信次の弟・俊三さんの待っている上富良野村基線二十七号の畑ばかりの五町歩の土地へ来た。そのときのお金で千五百円で買ったそうで、世間では大変高いと評判だったそうです。
俊三さんは、森津出身の人が畑作をしていた幌向で、明治四十年の春から秋まで一カ年働いたとのこと。三重県人の加藤伊之松と言う人が上富良野の西四線二十九号で農業をしていたので、その人を頼りに畑作の出来具合いを見に来たそうです。八月始めの上富良野村のお祭りの時で、仕事を休んでいられるのを幸いに近所をそちこち見せてもらったところ、俊三さんの働いている幌向とは較べものにならん畑作で、何でもいい出来であったとのこと、来るなら上富良野と決心して取入れが終わってから森津へ帰って渡道の準備にかかったという。
一家が上富良野へ来たのは、四月もちょうど半ばで雪は少なく、一足先に来た俊三さんはとてもやるせない思いで待っておられたという。北海道への移住民の荷物はどれだけあっても道内だけは無料で運んで戴けたとのこと。大きな荷物が十三箇だったという話です。
開拓とおとらさんの死
そのうちに加藤伊之松さんが、「俺の近所に荒地が半戸分(二町五反のこと)あるが誰が願い出てもちっとも下がらんが、荻子さん道庁へ願ってみたらどうか」と教えてくれたので、早速願書を出してみたら意外にも早く下がり大喜びで、基線の家からは一里に余る道を荒地起こしに通ったそうです。
その翌年の秋のこと、二十九号の山へソバ落しに筵七十五枚と他の道具も馬車に積んで国道を二十九号へと行ったが、道が物凄く悪くてあの大型の車輪がずるっと半分埋まるので、馬がよう引っ張らずどうしてもだめだった。そのとき雇っていた青年が七十五枚の筵を一人で背負って汽車の線路へ出て二十九号の山まで行ったという。いつまでも道の悪かったことと青年の強かったことを話の種に聞きました。
住宅のある基線の畑で落しものをしたときは、この青年は一俵六十キロ入りの俵を二俵ずつ背負って家まで運んだそうです。「目方だけなら三俵でもいいが、三俵背負うと足につかえて歩きにくいで」と二俵ずつ運んだそうです。私が荻子へ来てから、落しものをして家まで運ぶときは、土そりで二俵ずつ馬に引かせたものです。その後、江花の方へ行くところで一戸分(五町歩)の荒地があることを人から聞き、願書を出したらまた下がり、あっちこっちと荒山起こしに毎日とても忙しい思いをしたそうです。江花の方の荒地起こしは春子が生まれた明治四十四年(三月生まれ)で、大きな箱に赤ちゃんを入れて、毒虫がいるので四隅に棒を立て、寒冷紗で大きな袋を作ってかぶせてあったそうです。
私の大勢の子供も、この箱の中で丸一カ年余り過ごしたものです。産後は私が二、三週間家で休養しているのに、「生まれて七日過ぎたら赤ん坊を早く箱の中に入れなきゃ悪い癖がつく」と信次はやかましかったものです。
そのうちに、西三線二十一号に畑地三戸分(十五町歩)まとまった所を六百円で買い求め、俊三さんを分家させたとのこと。俊三さんは、加藤伊之松さんの娘をもらったんです。俊三さんは、冬期間は馬で丸太の運搬に毎日行かれたそうです。
信次の方も、住宅のある土地と地続きの人が土地を売ったのでそれを買った。江花の方へ行くところの土地も、二十九号の土地も、苦労して起こしたのだが、そんなに作れないので致しかたなく売り、大正三年は渡道以来初めて通い作せんでもよくなり、おとらさんは、毎日のように喜んでいたとのことです。
しかしそれも一夏だけのことで、この年の十一月十七日に急に亡くなってしまった。二十九才の若さで、渡道以来、麦と芋ばかり食べて苦労と難儀ばかりして一生終わってしまった。ちょうど時期だったので、お産だと思っていたら、他の病気だったのです。全く可哀想な人でした。
そのとき長女のきくえは四年生、次女のひな子は一年生、末の春子は四才、馬は二頭いるし、おゆうさんは七十才に近く、冬はそれこそ何もできない。
信次は春子をつれて内地行きをする事になり、留守宅の世話をして貰うために十二月も押し迫った頃、五十才ほどのおばさんを雇ってきた。とに角、毎日の水を流れ川から八十間に余る雪道を担いで運ばなければならない。人の飲み水は、火の気のない土間に四斗樽に汲んでおく。水温器というものに火を入れておくと氷が張らずにすむのです。おばさんは、馴れない家の事を一切まかされ大変だっただろうと思います。
一夏ぐらいなら手伝ってもいい
信次は春子をつれて、先ず名古屋の荻子幸之輔さん方へ行ったという。大正四年の新のお正月だったそうです。その後で森津の佐藤甚三郎宅へ来て親類の人や知人を集め法要をしました。法要が終わってから何か相談があったそうです。数日すぎてから、父が私に「北海道行きどうする」と言われたが、私は「何も聞いていないで何のことかわからん」と言いました。
「北海道で働き手がなくなり困っているがお前手伝ってやるか」と聞かれ、学校をやめてからは、それこそどこへも行ったことがないので、北海道まで行ったら何か珍しいものでも見物できるかのように考えて、「一夏ぐらいなら行って手伝だってやってもいい」と答えたのです。そして「水田はないんでしょうね」と念を押した。大正二年は冷害で、まるで米が穫れなんだそうです。またそんな事があったら大変だと思ったが、水田はなく畑ばかりと聞いて来る気になったのです。
期待の上富良野の家
それで大正四年二月の末に信次について上富良野へ来たのです。下駄は妻皮さえついていないのに足袋一足だけで、上富良野の駅から春子をおんぶして歩いてきた。家についたときはもう暗くなりかけていました。家は玄関といっても三尺の障子一本、上半分が障子で紙は煤けて真っ黒、下半分は板でひどく割れていて、吹雪の時は中の土間へ雪が沢山入るので、風がやむとスコップで家の外へ撥ね出すのです。囲炉裏に裸火を焚いている部屋と、寝る部屋との二室だけ。部屋の中は、床板の上に筵一枚敷いただけで座布団は無しでした。
住宅の屋根や下の囲いは、野山に生えているカヤ、ヨモギ等の草ばかり。風の無い日はいいが、風の吹く日は室内のカヤの葉や穂がぶらぶらゆれて、外にいるように寒かった。とにかく、毛糸編みのものは一枚も体につけていない、足にも木綿の足袋一足だけでようく辛抱したものだと思う。
ご飯はまるで麦ばかりのようでした。森津の母に、「畑ばっかりの所では麦食べなきゃならんわ」と言われたときは、森津の家でも麦ご飯を食べているのにと思った。森津では米ばかり食べると体に良くないとかいってほんの僅かだけ麦を入れていたのです。
上富良野の家では、米は大事に大事にしていたが芋は沢山あって毎日大鍋に一杯ずつご飯の代わりに食べました。といっても芋は雪のある間は畑に埋めてあるので冬期間は思うように食べれませんでした。
この年の夏は、寒いうちに留守に頼んだ小母さんの娘トメさん(十四才)を頼み夏中仕事を手伝ってもらいました。
その翌年(大正五年)の二月に薪つくりのため、十二才と十八才の男の人を雇いました。寒い冬の間、しばれる朝でも早く起きて朝食の用意、そして三人の弁当を作り持たせたのです。ところがこの二人は二人とも夜、寝小便をするのには全く困りました。
毎日毎日布団を干すのに苦労していましたが、十八才の男は三月のいつごろであったか、自分の家へ戻ったので薪つくりは困ったでしょうが、私は布団干しがよほど楽になりました。しかし、部屋の方は相変わらず小便臭くて困りました。
また別に、荒山の方から十六才の女の人を頼んできたが、麦ご飯や馬鈴薯を喜び、またトウキビ、かぼちゃも大好物だと言うので、わが家では好都合でした。
食事は相変わらず毎日麦ばかりのご飯に芋とキャベツの味噌汁、それにグスベリの塩漬けが冬中の漬物でとても寂しかった。一枚三銭の油揚げを年に一度一枚買って、運動会に人参、ごぼうを入れて五目ご飯。また、ごく稀に豆腐一丁を買ってきて味噌汁に入れると、美味しいって子供らは三杯も四杯も食べる。「これだからどうにもならん。キャベツの味噌汁に限る」と父さんは言っておられた。
また、魚だとて、大きな鰊が安く求められたのだが、父さんは、十銭で大きなのを十本買えるなら買うが、それより高ければ「そんな高いものは買われん」と言っていました。あの頃は、それこそ麦飯と芋で生活していたのです。私は馬鈴薯が好きだったのでこの上富良野で暮らせたのです。
お正月だといっても、イナキビの餅にキャベツの雑煮、毎日の味噌汁に出しなんか使ったことはない。
わが家の味噌は隣の藤崎さんに教わったもので、すごく美味しく、上富良野一だったから出しは使わなくて良かったのです。
湧き水の川ベリの新しい住宅
大正六年の春四月に、基線道路へ出るにはちと遠くなるが、山の裾から出る湧き水だけの小さい川のすぐ傍に住宅を建てました。この水はきれいな事は言うまでもなく、大変おいしいのが幸せでした。ある時私が内地へ行った時のこと、水を飲んで「ここの水はまずい」と言ったところ、父親が「水のおいしいのが何よりの幸せだから喜べ」と言われました。
誠にお恥ずかしい話だが、私は冬中の漬物を秋のうちに漬けねばならんことを知りませんでした。信次もお母さんも一言も教えて下さらなかった。渡道して何年も過ごしておられるのに、なぜ聞かせて下さらなかったのだろう。私の生まれた森津を思うと、その時期時期に少しずつ漬けていたのではないかと思ったし、第一、私は歳が若かったので、長い冬の漬物を心配する気もなかったんですね。暢気なものだったとつくづく思う。
冬中大工さんが住宅作りに来てくださるのに漬物らしい漬物が何もない。小樽の底にラッキョウ漬けが僅かあるのを幸いに、それを使いました。この大工さんは、平岸という所から来て戴いてたのだが、わが家だけでなく、半里もない所のある農家の大きな納屋を建てる切り込み作業のために、暫くずつわが家と代わるがわるご苦労してもらいました。その間、漬物の無いのが何より一番辛かった。わが家では冬中毎日グスベリの漬けたのを食べていたのです。家の者はグスベリでも致し方ないが、大工さんに出す漬物が無いのには、まったく困りました。あの頃は、今のようにすぐ食べれる漬物は店になかったんだろうか。最近のように町まで物を買いに行くなんてことはなく、ただわが家にあるもので工夫して食べたのです。
四月十日頃、建前の時、二十九号の加藤さんのお母さんが手伝いにきてくださって、万事指図をしてくださったが、漬物らしいものが何もないのでどうしたものかと案じていたところ、わが家のすぐ近所に老夫婦が住んでおられ、雪の降りかけに、ひとり生えの葉っぱを拾い集めて漬けておいた塩漬けで、まずいけれど言って恵んでくだされ大いに助かりました。
隣り近所と行ったり来たりしなかったので、それこそ私は何も知らずに過ごしていました。歳もいかない知識もない私なのに、今まで何年も過ごしてきた人が、漬物のことなんか一言も世話やいてくれなかったのだもの、みんなの笑われものになったのも無理もないことだったと思います。
漬けもの作り
これにこりごりして翌年は、春からときどき漬物の話をしましたら、信次は「ここでは大根一本なりで漬けることできん。虫が入ってるでぼつぼつに切って漬けるんだ」って。それでも無いよりいい、何でもいいから漬けてみたいということで、春蒔く時なし大根は虫が入らないというので、それを沢山蒔いて漬けることになりました。土用前の暑いうちに漬けたと思う。冬に食べたらなんと大根が固くて美味しくないので、次からは秋蒔大根を蒔くことに決めました。荒地を起こして蒔けば虫がはいらないというので僅かの所でも一所懸命起して蒔きました。
それ以後は秋蒔の大根で、四斗樽一本ずつは沢庵を漬けました。初めは、余りいい塩加減でもなかったが、二、三年後には、どうやら美味しく漬かり褒めてもらえるようになりました。こんなことで沢庵だけはうまく漬けれるようになったので、大勢の娘らにもなんとか教え、若くても上手に漬けれるようになり、お互いに喜びあいました。
雪が融けると、菊芋とかブタ芋とかいうのを荒地から掘ってきて、川で洗えばすぐきれいになる。これを毎年春によく漬けました。二斗樽に漬けたこともある。塩漬けだがかりかりと歯切れよく、一同喜んで食べたものです。葉っぱも漬けて夏中美味しく食べました。
私のようなものは、世間に二人といないでしょう。全く恥ずかしい。後になって、ときどき婦人会の集いの場でも、どうかすると漬物の話が出るので、私には有難かった。
何でも手作り
美代子が生まれた大正十二年の冬のこと、父さんが戸棚を作ってくれました。戸が付いたら貞一(長男、大正九年生まれ)が汽車だと言って喜んだ。父さんが玄関を入ったところの火のない部屋で冷たい思いをして作ってくれた物でとても嬉しかった。今もそのままあの家にあります。
また、二十九号の山から持ってきた木で、冬に寒いところで仏壇を作ってくれました。それまでは囲いの草に掛けてある仏様が、風のある日はふわふわして、紙だから破れるかと心配していたのだからとても有難かった。「内地では、鋸もかんなも使ったことがないのに木挽きまで自分独りで全てやったのだから大事に使え」と父さんにやかましく言われました。
雑穀を落とした後のごみと実の選別機を唐箕と言いますが、これも近所で見せて貰って作ったんだそうです。そくてん車(手で廻すところ)だけは、私が北海道へ行ってから二、三年後に買って取りつけました。
西三線へ引越し
父さんが「基線の方では畑地ばかりだから、麦ばかり食べにゃならんので、同じ農業していてつまらん。折角いいところに住宅を建てて喜んだのだが、水田作りをして米食べよう」といいだして、墓地の方、西三線二十五号の土地を、大正八年の春に買いました。
今度求めた土地は、山と山との間の谷地で、大人が一人では抱えられんような太い木が方々にあり、ちょっと細い木は数えきれんほどありました。古川は、蛇のように曲がって流れているし、よし、かや、がま等、大人の背より高く伸びている。水田を作るのに先ず草刈りをし、それから大木は切って薪にする。馬耕時にじゃまにならんように、うんと下の方から切る。小さく細い木は、女でも切ったり倒したりして古川の中へ株を入れてようく踏みつける。川は隣の地主に相談して、本職の人に測量してもらい、本職の人に依頼して掘り替えました。八畳位の田を一枚作るにも、どれだけ人手がかかったことだろう。
なんといっても、自分でやってみなければ苦労、骨折りは分からないものです。
一町歩ほど、畑にして何か作付けしたような所もありました。そこは四方に畦をつけ、土地の高低はみな馬に引かせてなおしました。毎年一所懸命に荒地を耕しては喜びました。上富良野の市街地に土方の佐々木さんという人がおられ、その人にずいぶん水田作りをしてもらいました。荒地から水田一反歩作ってもらうと、あの頃のお金で五十円ずつかかり、土地を二重に買うほどかかると言いました。
十勝岳の大爆発
そうこうするうちに大正十五年五月二十四日、あの十勝岳の大爆発に遭ったのです。あの年も代かき時は毎日雨降りで、蓑笠で働いていました。
二十四日の午後は、「雨も大粒だし体も疲れこんできたで今日は休むか」と言って家にいました。傘無しで外に立つと遠い遠い方で今までに聞いたことのない変な音が聞こえる。傘無しだとぬれるので傘を使えば聞こえない。まったく変な物音、それがようく聞いていると同じ場所ではない、変わっていく。
不思議だ不思議だと父さんは表の道路で耳を傾けていたが、もうそのとき水上の方では人や牛馬などが沢山流されて苦しんでいたのでしょう。晴天だったらあんなに大勢の人が死なずにすんだろうに、霧雨だったから、すぐ近くまで何も分からなかったのです。
遠くの聞いたことのない変な物音ばかり気にしていたら、すぐ近くの田の中までドロドロに押されて、ゴミや家財道具と共に大きな柾屋根、小型の屋根、草や木など数え切れないほど沢山のものが押し寄せてきた。良くみるとこれはびっくり、わが家の納屋が土台までドロドロに沈んでいる。前年とった米は一俵もまだ売らず納屋にあるので、シンナや鶏の餌などを下敷にして、売る米を上の方へ積み替える大騒動。住宅は納屋より土地が高いので、玄関を入ったところの畳を縁側に積み上げてその後へ父さんが一俵ずつ担いで運び、私とひな子は太く短いロープを使いうまく二人で一俵ずつ運びました。
春子は高等科をやめて間もなかった。美代子は四歳だったが、全員そわそわしているので、何か恐ろしい気配がしてか、おんぶしてくれと春子から離れず、春子は大きな赤ちゃんをおんぶして俵を転がしてくれていた。そのうちに父さんは、藁を沢山、山の裾野までもって行き、白米一俵と水をバケツ二杯もって行き、やっとみんなで一息つきました。
そんなことで、どんな具合いに色々なものが流されて行ったやら、私どもは何も判らずでした。
俊三さん方は親子五人、あの家は川中島だから、早く家を出ないとこっちへ来られんようになるところ、早くに墓地の山まで逃げていてよかった。その頃、私は絹子(大正十五年生まれ)におむつが要るし、俊三さん方もおむつが要る。毎日天気が悪く、干せなくて困りました。
ある時は全然知らない中年の男の人が二、三日私方に泊まったが、何処へ行かれたか居なくなりました。
この年父さんは、この組の組長さんで、爆発以来毎日弁当持ちで何処かへ行かれた。私らはお天気が悪いので、何仕事もできず、ただ炊事とおむつの仕事だけでしたが、わが家には、泥水が入ったところよりもう少し水上の江花の方に荒地があったので、佐々木さんに田を作ってもらいました。
それから何日後であったか、父さんが「お前達明憲寺の付近まで行って見て来い」といわれたので、俊三さんの妻カネエさんと私と、それぞれ赤ちゃんをおんぶして出かけてみました。以前見事な水田だったのを知っているところ、どうしてこんなに沢山の木が運ばれてきたのやらと驚きました。流れてきた木は、枝や根が付いている木は一本もなかったので、どこかの木工場に積んであった木が流されてきたのかと思われるくらいでした。
あの大爆発のあった日は、この上富良野は朝から霧雨より強い雨が降り通しだったため、広くは見えず、十勝岳に近い山あいでは一家全滅のところもあったといいます。
ある家では、主人は馬を好きなところへ逃げよとばかりに出してやったが、後で馬は死んだことが判ったという。お母さんは赤ちゃんをおんぶしてねんねこを着、主人と共に逃げたが二人とも水に流され、主人はこれがこの世の別れだと言った。線路がめくり返っているところで、誰かが消防団の人に助けられていると思ったら、少し前に別れ別れになった妻だったという。自分も同じ所で助けられたとのこと。
ねんねこの中の赤ちゃんは、暖かいのを着せて、ストーブの側で長ながあたらせたが、冷たい雪解け水にしばらく浸かったため、なかなか体が暖まらなかったそうです。お姑さんは、親戚に泊まっていたとかで流されず良かったとのこと。そのおばあちゃん、数年たって寺詣りに孫を連れてきた。「この子が爆発の時に流された子だが、もうこんなに大きくなった」と喜んでおられました。
ところで流れた後を歩くのは大変なことでした。
なんと云っても広いところがどぶどぶだから、流れてきた木の上を右へ行ったり左へ行ったりしながらやっと歩いたのです。
川という川が皆流木と泥水で埋まり、村としては先ず大勢の人で水を流すように、川の中の木を引き上げる作業が始まりました。大勢の中には「こんな広い場所が平らになったで飛行場にしたらいいんでないか」という人もいました。
わが家の水田は、泥流の本流とは別の谷にあるから、驚くような大木は流れてこなかったが、細かい木は物凄くあり、大きいものでは、唐箕、餅つき臼等でした。名の書いてある品物は主人に取りにくるように話すのだが、「どうせどれも使い物にならんだろうから薪にしてくれ」という。わが家の田んぼは、江花の方から小川の水がいつも流れてくるので、ちっとも乾かず困っていました。だからといって放ったらかしでは何年経っても同じだから、荒地のとき田に作って貰った人にまた依頼してなんとかご苦労して作り直して貰いました。
種籾が一俵そのまま流れてきたものがあり、江花から流れてくる水の中に少し蒔いたら、芽が出てだんだん伸びたので、役場へ持って行き村長(吉田貞次郎)さんに見せたら大喜びだったという。
家の外へ出て空気を吸うといままで臭いだ事のない硫黄臭さでいっぱいです。「この先こんな所でとても生活はできん」と、上富良野を後に十勝とかどことかへ移住した人も何軒かあったと聞きました。
大爆発のため、あちこちで沢山の人がひどい目にあったので、親戚知人を訪ねようと多くの人がやってくる。とにかく墓地の方へ来たら、何処かから回って行けるものと、沢山の人が毎日、わが家の水害に遭わなかったところの畦を道路にしてぞろぞろ歩くので、一本の畦はじきに潰され、次の水上の畦も潰されてしまいました。次には二十五号道路より水上の仁木さんの畦に回り、これも又二本潰されました。
そこで、組の人達と相談して、流木を拾わせて戴くように役場へ願い出て、組の人が大勢で、畦から畦へと横に渡し、太い木細い木いろいろで凸凹の道だが、馬車では駄目でしょうが、人が通るくらいでは絶対潰れないいい道が出来て、今なお流木道路として使われ便利で喜んでいます。
あのとき犠牲になった人は百四十四名で、明憲寺の境内の石碑に刻まれています。毎年五月二十四日には、方々のお坊様が集まりお経が上げられるので、私はいつもお参りしておりました。もう五十年経ったので、最近はお経を上げないとの事ですが、あの側を通るときは必ず頭を下げて通ります。
十勝岳大爆発のことは、上富良野物語・昭和十二年生まれ丑年会という本に、あちこちの事が詳しく出ているので、それを読んで下さい。
おばあさんのこと
おばあさんは、東京に大震災があったり、美代子が生まれたりした大正十二年から数年後までは割に元気で、よくお寺参りをして居られましたが、昭和三年三月一日から起き上がれなくなりました。今までは体の調子がどこか少しでもおかしいと、うどんをゆでて召し上がると不思議とすぐ元気になられたが、この度は何日食べても起きられず、それから何ヵ月も寝たままでした。
飛沢先生に何度も来診して貰ったが、悪いところは無いといわれる。何ヵ月も寝たままだったから、他家の人達があちこちから見舞って下さるのに、枕元には薬の一服も薬瓶もない。父さんは「よその人に変に思われるから何でもいい、薬を下さい」と軽んだら、先生は「こんな目出たいことは無い」と、薬は一服も出して下さらなかった。
そのとき美代子はまだ小学校へ入る前だし、妹の絹子は四才だったので、朝でも昼でも私どもが仕事をする所へついてきて遊んでいたものでした。「おばあさんが独り家でおしっこしたくて待って居なさるだろうから早く家へ行ってあげなさい」と言って帰すと、二人で布団の角を一つずつ持ってはぐってあげる。すると自分独りで起き上がり、便器で用を足される。済むとまた二人で布団を掛けてあげると喜んで、その度におやつのお礼を下さるのですと。
私はときどき、夕方町へ出て、何かとおやつを求めてきて、おばあさんの枕元で半々に分けて、これだけは退屈したときお上がりなさいと枕元に置き、半分は子どもにと私が持ってくる。おばあさんは、自分はほとんど食べずにいなさったようだ。
自由に動けないようになってからは、ずうっと麺類ばかり召し上がっていました。名古屋にお住まいのおばあさんの娘さんが、上等の鰹節を度々沢山お恵み下さった。そのお陰で美味しい汁が出来るので、喜んで召し上がりました。
その頃は、いりこ売りが大きな籠で売りにきたものですが、私がある時いらないと言ったら、「毎日の味噌汁を何のだしで食べるのか」と言われる。
「そんならいま見せるわ」と、昨夜かいて貰った削り節がお膳に山盛りあるのを見せ、また丁度、大型の鰹節が一本あったのでそれを見せて「私ではなかなかかけんで、いつも夕食後に、男の人にかいて貰う、それを一摘みずつ麺類や味噌汁に入れて美味しく戴いています」と言ったら、いりこ屋さん「こんな家聞いたことない」と言いながら帰られた。おばあさんは、丁度六ヵ月寝ておられて、一度もご飯は食べず麺類ばかりだったので、私にはすごく楽で有難かった。麺を食べず、お粥をと言われたら、どれほど困ったやらと思います。名古屋からのお恵みのお陰様と、いつも感謝しています。
自分らは毎日風呂に入るのにと思い、父さんにも手伝って貰って、内地から持ってきた大型のたらいに沢山の湯を用意して、おばあさんに腰湯をしてあげた。しかし、湯が熱すぎた訳ではないだろうが、その後何だか惚けたみたいで驚き、それ以後は全身を拭いてあげるだけで腰湯はやめました。
おばあさんは、八月三十一日に亡くなられたのだが、恒雄がこの年(昭和三年)七月二十六日に生まれたので、細ごまと世話をして上げられず、済まないことをしたと思っています。今でも三十一日には、麺を仏前に供えることにしています。
おばあさんは梅干しが大好きで、森津に居た若い頃、田畑で働くとき、半日に梅干しを必ず十ヶずつ竹の皮に包んで帯の間に入れて行ったと言う。一ヶずつ口に入れ、外側の柔らかい実から、中の硬い種までばきんばきんと食べる美味しさ、何とも言われんとのこと。こうして十幾年も食べた。子を産んだら食べたくなくなるかと思ったが何の変わりもなく食べたかったそうです。
今のようにビニールが無かったので、大人も子供も弁当持ちと言えば必ず竹の皮に包んで持って行ったものです。梅干しがいつも口の中に絶え間なく入っているので、今のように時計はなかったが、梅干しの数で時間がだいたい判ったらしいです。
梅干しは何処に
そんなに大好物の梅干しだったから北海道への移住の話が村中に知れたとき、梅干しを持って行くだろうと村中の人が親切に梅干しを持ってきて下された。四斗樽の上の口、直径が五センチくらいかな、その小さな穴から梅漬け一ケでも多く入れようと毎
日毎日揺すり込んで、一杯入れて持って来たんですと。森津の方ではどの家でも、梅の木が一本もないという事はなく、又何に必要という事はなくても毎年必ず梅を漬けて、小さい甕(かめ)などに年号を付けて蓄えておくのです。
私が渡道したのは大正四年二月でしたが、それから二、三年後、内地へ行ったときのこと、森津の私の母が尋ねられた「四斗樽一本持って行ったのだから、今も梅漬けはあろうが」と。「四斗樽は何本も並んでいるが、自家製の醤油が一本と、他に毎年四斗樽一本ずつ味噌を作るのでそれはあるが他には何もない」と私は言った。私はグスベリを漬けたのが僅かだけあるのは知っていたが、グスベリは小さいし、両端を切らなきゃ漬けられんし大変な仕事なのだから、梅漬けがあるならグスベリは漬けないだろうと思い、梅漬けはないのだと思いました。おばあさんも信次も、冬期間の漬物の話なんか、私には一言も言わなかった。持ってきた梅漬けは食べてしまったのだろうか。
夏の間、森津では糠味噌漬けをやっていました。
たまには私も漬物をあげて来いと言われたが、三本あげればなんでも傍にあるものを三本入れる、そして糠味噌のなかに手を入れたら全部引っかき混ぜるのです。味がいいから皆がようく食べるのです。上富良野へ来てから私はおばあさんに言って、糠味噌漬けを作り美味しく食べました。しかし、上富良野では、寒くなるのが早いので何月頃に糠味噌漬けを止めたのか、私には覚えがないが、秋になっても漬け物の話は何もないので冬中どうするのかと思っていたら、「冬はグスベリの漬けたのがあるでいい」と言われた。
着る物については、私は和裁を習っていたので、裁板を作ってもらい、四ツ身も本裁も何でも縫いました。
赤本健康法
私は大勢の子どもをすべて皆、母乳だけで育てたのですが、どれほど注意しても自分が風邪をひいて困りました。すべての子がどれほど私の風邪気味の乳を飲んだことかしれない。
ある時婦人雑誌の記事で、内科の先生がお書きになった赤本にいろいろ良いことが書かれており、風邪をひかぬようにすること等も出ているというので、あの時分で千円というお金、大金で勿体なかったが、大勢の子どもがいるし、赤ちゃんには乳を飲ますのに心配でならんから、一冊求めて風邪予防の所だけ一所懸命読みました。その予防法が全身摩擦です。
お陰様でなぜか乳のみ児が風邪を引いたことはなく、私には不思議と思うより外ありませんでした。
それで今なお摩擦は続けています。寒い間はストーブの側でやりますが、少し暖かくなれば、夜中に必ず一度や二度はトイレに起きるので床に入ってもすぐには寝つかれず困るから、丁度具合い良く全身摩擦をやります。摩擦を終わって足を伸ばして寝ると、足を暖かい炬燵の中へ入れたようにポカポカとしてとても暖かです。どこかへ行って一泊するような時は、摩擦用品を必ず手提げの中へ入れて行きます。
恒雄が達者でいた頃、毎日夕食すぎに摩擦をすることにしていましたが、背中だけはこすられんので、「恒雄」と呼べば、いかほど疲れて寝ころんでいても、すぐ起きてごしごし擦ってくれました。
背中は自分では擦れないし、また、膝から下は赤味が出るだけ擦れないので、いつも子どもに擦って貰いました。弘行と正文は、朝食が済んだあと、私の背中を半分ずつと、足を片方ずつ、必ず擦ってから学校へ出かけたものでした。蝶野さんのお兄さんが、私方の子供を毎朝誘ってくれたが、「まだすぐ出られんから先に行っててくれ」と何度も言わなければならない。それでも蝶野さんは先に行かずに、私方の物置の前に作ってあった鉄棒でぶらぶらやって待っていてくれました。
その後、自分自身で背中を擦ろうと考え、亀の子たわしを一ケ買ってきました。靴下の足首のところから上だけ丈夫なのが幾らでもあるので、それに亀の子たわしを入れ、両方をきつく括り寄せ、丈夫な布で紐を作り両方の手で背中を擦れるようにしたら、もう誰も頼まなくても自分独りで何時でも自由に背中を擦れるようになりました。もっと早くにこれを考えたら誰にも気の毒せんでよかったのにと思う。
でも、皆がよくやってくれると感謝していたし、今も思い出すたび感謝で一杯です。そして今私の略歴を末尾に記しましたが、私の二十才代、三十才代の頃には、三年目とか四年目とかに沢山の子供を生み、田畑の仕事と両方で、四十才になるまではすごうく忙しい目に会いましたが、八十才半ばの今なお生かされ、まことに幸せです。
昭和五十八年十二月、私はめまいがして家にいてもなかなか治らんので、町立病院へ行ったら、とにかく二階へと、暫く入院することになりました。一ヵ月程の入院だったが、皆が(富士子等も)度々、代わるがわる見舞ってくれて有難かった。退院の時に、荻野の主人が浪子に「ばあちゃんを、わが家へ連れて来い」といって下さったそうで、それ以来こうして厄介になり、食事は浪子が特に注意してくれていて、とても幸せです。
最近、荻野では、日に二、三十種の物を食べなきゃ駄目だと言っていろいろなものを作って食べさせてくれます。浪子は何年も前から月刊の料理の本を取っているのでなかなかのものです。
我が過ぎた日のこと、まだまだ書きたいが、三日前から腰痛がひどくなり毎日治療に通っているので何かしらどうも書けません。何時の事かわからんが、腰が直ったら又書きます。
≪荻子 ます 略歴≫
明治32年3月16日 愛知県海部郡鍋田村字森津に生まれる
明治38年 小学校入学
大正元年 高等科一年で学校を止める。兄夫婦等と共に田畑の仕事を手伝う
大正3年11月17日 おとら死去享年二十八才
大正4年2月末 ます渡道
大正6年1月19日 政子出生三日で死去
大正7年4月13日 恵美子出生
大正8年12月6日 恵美子死去二十一カ月の寿命
大正9年10月14日 貞一出生
大正12年9月5日 美代子出生 東京大震災のとき
大正14年5月16日 貞一死去 享年六才
大正15年2月14日 絹子出生
大正15年5月24日 十勝岳大爆発 犠牲者百四十四名
昭和3年7月26日 恒雄出生
昭和6年1月1日 芳雄出生
昭和8年6月12日 浪子出生
昭和11年5月31日 富士子出生
昭和14年1月10日 弘行出生
昭和16年7月23日 正文出生
昭和37年4月15日 信次死去 享年八十才
昭和40年5月6日 恒雄事故死 享年三十六才
昭和61年9月10日 荻子ます死去享年八十七才

母「荻子ます」の手記について
荻子 芳雄

「郷土をさぐる会」から会の趣旨をつけて寄稿の依頼を受けたのですが、私は中学時代から家を離れたようなもので、私自身が上富良野のことや近隣、父母のことが分からないという状況なので、代わりに母が昭和六十年頃に書いて残してくれた手記を整理して、明治の女性の経験した明治末から昭和の前半にかけての農業移住者の生活の一端を紹介させて戴くこととしました。
手記によると明治四十一年に上富良野へ移住してから十年余は、特に厳しい生活環境の中で節倹と労働の日々であったようで、生前母から聞いたところでは、書かれているところから想像されるより遥かに過酷な暮らしだったらしい。このことは、移住後間もなく若いおとらさんや三人の子供を続けて失っていることからも伺い知ることが出来ます。
また当時の社会情勢が男性専横の時代であり、女性や子供は人格や権利が殆ど無視され、労働力としての価値が主なるものでしたから、そこへ飛び込んだ満十六才になったばかりの母が農作業と家事、育児を受け持って、いかに苦労したかが推測できます。
ところで、このような状況は第二次大戦後まで概ね似たものでしたから、母ばかりでなく私の姉妹及び兄の妻春江さんにも同様に多大な犠牲と労苦を強いることとなったのを、そんな時代であったとはいえ、申し訳ない気持ちであり、また、感謝の気持ちで一杯です。三十数年前に逝った父と兄はどのような考えであったのか聞く機会がなかったのが残念です。
母は自分の子育て時代の事しか書きませんでした。
続きはわれわれが書かねばならず、われわれの生きざまが問われています。果たして恥ずかしくないものが書けるでしょうか。戦後も五十有余年、日本は目覚ましい経済的な発展を遂げ、物質的な豊かさを手にしましたが、世界とのつながりは急速に深まり、自分だけの繁栄というものはない入り組んだ複合社会の時代になっています。そんな中でわれわれは、目前の豊かさになれて今日を築いた先人の労苦を忘れ、また、地上に未だ満ち溢れている貧しさ、飢え、戦い、環境汚染などの悲惨さを忘れて、独り善がりの虚栄に浮かれる心貧しい者となってはいないでしょうか。
母が生まれて今年で丁度百年になります。この時にあらためて先人の労苦を偲び今日の繁栄を感謝し、これを更に発展させて尊敬に値する豊かなゆとりのある社会を創り、次の世代を育て引き継がなければならないとの思いを強くします。
(平成十一年二月)
(元防衛庁技術研究本部技術開発官(船舶担当)海将)
≪荻子芳雄略歴≫
昭和6年1月1日 上富良野村西三線北25号で荻子信次、ますの三男として生まれる
昭和23年3月 庁立旭川中学校卒業
昭和30年3月 北海道大学大学院工学科研究科修了
昭和30年4月 海上自衛隊入隊(技術幹部候補生)
昭和63年3月 防衛庁退職、最終配置、技術研究部技術開発官(船舶担当)海将
昭和63年6月 三菱スペースソフトウエアKKに入社顧問
平成8年6月 同社退職

機関誌 郷土をさぐる(第16号)
1999年3月31日印刷  1999年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔