郷土をさぐる会トップページ     第16号目次

戦艦「長門」での海軍の思い出(上)

故 落合  勇 大正十四年八月十三日生
平成九年一月十二日没(享年七十二歳)

半信半疑で軍隊志願
大正生まれの私達の教育は、男は軍人になることが名誉であり、お国の為になると言う教育を受けていた。
昭和十六年頃から戦争も激しくなり、男は早いか遅いかの違いで、軍隊に行かなければならない時代であった。その頃、草分青年学校にも何名かの志願兵募集の割当が来たのである。当時青年学校の教員をしていた岡田八郎さんが「どうせ一度は、普通の男なら軍隊に行かなければならないのだから、志願して早く行ってはどうか」と言われた。私は、小学生の頃から体が小さく志願しても合格しないのではないかと思って、軽い気持ちで志願をしてみることにした。そして志願兵の願書を提出したのである。
昭和十七年九月に検査を受けることになり、富良野町(現富良野市)に行き、試験場の小学校の体育館で受付を済ませて見ると、百名位が受験をしに来ていた。
一時間目は算数で、次は国語のテストであった。終わるとすぐ体育館に整列すると、海軍の兵隊から、呼び出しを待つように指示された。
私は八番目位に呼ばれたので、言われた所にいくと、呼ばれた三十人位を残して帰ってよろしいということである。残った者は、身体検査をするから裸になるように言われた。一通りの検査を受け、最後に軍医の所に行くと、軍医は笑いながら背丈が足りないのでもう一度測るように言われた。が、何回測っても同じだと言って、頭に当たる前の方を少し下げて、目盛りを上げて記入をしてくれたのを持っていくと、又笑って「良し」と言われて部屋を出た。
その後、皆と雑談をしていると、全員の検査が終わり、合格者の発表に移った。私は、六番目に呼ばれ甲種合格であった。全員の発表が終わると、試験官から後日各人に通知を出す旨が告げられ、解散になった。
そして年が明け、お正月が来ても、三月が過ぎても通知がない。あきらめて、四月の中旬から百姓をする為に水田の馬耕をしていると、忘れかけた四月二十七日になって、役場から五月一日、横須賀海兵団に入団を命ずる通知が来た。
役場の兵事係の所に行くと、四月二十九日、午前九時に、駅を出発するとのことで、あわただしく準備をして駅に集り出発したのであった。その時、一緒に出発したのは、市街地から、鈴木政敏、松尾 弘、江花の石川 実、佐々木久次郎、里仁の荒 清人、東中の上村静一、旭野の村上政治、川上 亭と私の九人だった。旭川までは、兵事係の白髪さんが同行し、旭川からは別の人の引率に変わった。四月三十日に横須賀に着き、八百常旅館で地方の生活も最後の夜を過すことになった。
五月一日九時に海兵団に行き、北海道の看板の所に行くと、14/33と書いた書類を渡されて、この番号の所へ行くように言われた。ここで一緒に来た友達と別れて私は一人になり、14/33と書いた旗を持っている二等兵曹をようやく見つけ出した。「よろしくお願いします」と言うと、旗を渡しながら「ずいぶん小さいやつだな」と笑われた。
三十分もすると十四人が集り、十一時になって第二海兵団へ向けて、二等兵曹の先導で出発した。私は一番最後について歩き出し、途中衣笠のトンネルの中で休憩し、十二時過ぎに海兵団の兵舎に着いて、昼食をとった。旗を持っていた人が第三十三分隊の十四教班長海軍二等兵曹杉山 茂で「お前らと三ケ月半共にする、夕食まで自由にしてよろしい」と言われた。
同じ班員同士で自己紹介をしてみると、樺太から静岡まで出身は様々であった。淋しいなあと思っていると一教班の所にいた荒 清人さんが私を見つけて声をかけてくれ、朝別れたばかりなのだが、妙になつかしく感じられた。
夕食前になると、各班から三人ずつが炊事場所へ呼び出され、食糧を持って来て配食の仕方を教わった。これが食卓番で、これから一年間位続くことが告げられた。夕食後寝るまでの時間ぼんやりとしていると、鈴木政敏さんがトイレに行く時に私を見て、「俺と松尾は、七教だ」と言っていたので、上富良野から来た者が、今、隊に四人いることがわかった。
夜は初めて吊床に入って寝る。明日からどんな事をするのか心配しながら眠りについた。
二日目は、身体検査である。志願した時と同じであったが、背丈は手加減してくれなかった。
三日目には、身体検査の不合格者が発表され帰省を命じられたが、幸いにも私の名前はなく、五人で終った。
午後から衣類が渡された。靴が大きくて困っていると、第九教班長藤澤二曹が靴が小さくて困っている者を呼び出してくれ、申し出た一人が持って来て取り替えてくれた。また、服も自分の体に合わせろと言って笑っている。夕方までに自分の衣服に名前を書き、明日はいよいよ二等水兵を命ざれる日である。陸軍では初日から大変だと聞いていたので、こんなに静かなものかと不思議であった。
海軍二等水兵に命ぜられる
五月三日になり、早朝に総員が起こされ、食事まで無事終わった。食事後、第一種軍装「冬服で紺色」を初めて着て練兵場に分隊ごとに整列した。当直将校に分隊士が報告して海兵団長豊田副武大将が壇上に上り「第何分隊〇〇以下〇〇名に 海軍二等水兵を命ずる」と敬礼をして終わりである。各分隊かけ足で兵舎に着くと、それからが大変である。軍服を脱ぎ事業服(日常の訓練服)に着替えると、今までおとなしかった当直教班長が一メートルの棒を持ち、床を叩き「何もたもたしている。できた者から中央に整列」と言われ大忙しである。
海軍と言う所はいつでも競争である。教班員に遅れる者がいると、班員全員が罰を受けるのである。約百日間海軍軍人としての基礎教育を受けた。陸戦隊訓練から始まり、カッタ(ボート)通船運用、手旗・手先信号、艦砲、水泳等日程通りの訓練を受け、朝起きてから寝るまで夢中で走り廻った。半日毎に科目が変り、時々テストがあって成績が悪いと教班長の機嫌が悪く、班員を怒鳴り散らした。
私の失敗の一号
海軍には、役員と言うものがあり、教班長係、食卓係で、分隊は用具係である。第三教班長がギヤ当番の整列号令を出した際に、私は用具係なので整列をしないでいると、「十四教の落合は、どこに行っている」と大声がかかった。それからあわてて走って行っても遅かった。後に知ったが用具係とはギヤ当番の事である。目から火が出るくらい平手で打たれた。三十三分隊で初めての事であった。
その後は、教班長に平手や軍人精神注入棒で叩かれるのが日常となった。訓練はすべて五分前で作業が始まり、課業終わり五分前でやめ掃除である。入団して当分は日曜日も衣服の整理や故郷に便りを出すのみで、半月過ぎてから、日曜日に初めての引率外出が許されて三笠見学に行き、三笠で昼食を採った。
最初で最後の面会
海軍二等水兵と言うのは、「烏(からす)」と言って、等級マークがついていない兵隊である。毎日四キロメートル位歩く訓練に憂欝になりながら衛門を入ると、面会所で忙しく動く兵隊がおり、よく見ると同郷日の出の田中一米さんである事がわかった。しかし、どうすることもできず兵舎に入り、軍服を事業服に着替えていると、班長から「落合、面会人が来ているので面会所に行け」と言われた。走って面会所に行くと、さっき見かけた田中整備兵長さんがその面会者で、お菓子を持って来てくれたのだが、お菓子等を食べている兵隊はいない。田中さんが気をきかして、お菓子をトイレの中で食べるように言われた。半月も食べていないので、トイレの臭いなどわからずに夢中で食べて出て来た。あまりに早く食べたので田中兵長さんはびっくりしていた。訓練が大変だが、頑張るようにとの激励を受け、ありがたさを身にしみて別れた。
この面会が、私の海軍生活の中で最初で最後であった。兵舎に帰って面会終了を報告し、班に戻ると間もなく食事であったが、さすがの私もお菓子を食べた後なので、半分も食べられず困ってしまった。
月曜日から、相変わらずの訓練訓練の毎日である。
同じ村から来た鈴木と松尾は、同じ斑なので一生懸命に競い合って勉強した。夜になると薄暗い中で復習をした。トイレに行く為に吊床の所を通る時、私が居眠りしていると、必ず「落合、勉強するぞ」と言い起してくれ、本当に有りがたかった。
血豆に海水がしみる
一月半位すぎカッター訓練に行くため、私の分隊がオウル(かい)を取りに行くのと、オウルを修めて帰る分隊とが交差した。私が一番最後にいると、「オチ」と大声で呼ぶ者がいた。見ると、同じ村出身の佐々木久次郎であった。私は「久」と呼んでしまった後は、決まりどおりの平手打ちをもらったが、大して痛くはなかった。
午後から夕方までカッター訓練で、オウルを持つ手には血豆ができ、破れて血は出るし、お尻は精神棒でなぐられた所が痛く、カイ立(オールを垂直に立てる)をすると、海水が血豆の破れた所に流れて来て、痛みが激しくなるのである。
こんな教育を受けて三ヶ月が過ぎた頃に、陸戦教育の夜間訓練があった。陸戦隊の時には、一教斑から三教班までが一分隊、四教放から六教班までが、二分隊、七教班から九教班までが三分隊、十教班から十二教班までが四分隊に配置された。十三、十四教班は指揮小隊で、常に伝令などをする分隊である。
私と十三教の染谷と二人が伝令に出たのだが、染谷は途中で歩く事ができなくなり、仕方なく私一人で伝令を終わらせた。しかし染谷が見当らなくなって大変だった。訓練終了後、私達分隊は今まで来た所を探しに行かなければならないし、私は染谷と離れた事で教班長に叱られるは、班員からは嫌味を言われるやらで大騒動になってしまった。ようやく見つけ出すと私と別れた所に座っており、皆で連れて帰ろうとすると「俺は鳥目で暗くなると目が見えないのだ」と言うことに、班員一同あ然とした。私も災難だった。彼は、夜間訓練の一週間前に夜トイレで教班長に小便をかけてしまい、死の一歩前までの制裁を受けた後であった。教班長は、「なぜ鳥目だと早く言わなかったのだ」と叱るが、言い出せない雰囲気の中で、大変であったと思うとかわいそうであった。
苦しかった水泳訓練
私の訓練は、陸戦でもカッターでも大した苦労はしなかったが、水泳は大の苦手だった。
それは、生まれた所が山の中で海を見た事がなく、泳ぐと言えば川での犬かき程度であったからだ。水泳練習の時は、砂浜で角力をするのだが初戦は必ず負け負け残りで勝つまでやらされた。その後にかけ足をし、終わると皆でカッターに乗り五百米位沖で海に入り、岸まで泳がなければならないのだ。泳げない者は赤、少し泳げる者は白、指導できる者は白に黒の一線が入っている帽子をかぶっていた。黒線帽子の連中はカッター上にいて、泳げない者が沈没すると助けに行くのだ。沈没した者は少し休み、また海に入れられるのだ。半日泳いでいると、体中がクタクタになる。海軍で泳げないという事は恥である。叱咤激励の訓練の末、百メートル位泳げるようになったが、それまでにはずいぶん海水を飲んだ。
一番楽しい教課は通舟で、十六人の中に漁師の経験者がいたので、櫓(支点のある櫂)をこぐと教班長より上手で、彼が指導するのだ。通舟はあまり必要ないので休み時間が長く、故郷の話をしたり、手旗信号の練習をしたりして半日間の休日であった。
最後の教育・陸戦訓練
七月の中旬を過ぎる頃最後の教育になったが、私達は慣れて来て百姓の仕事より楽な位になった。七月二十八日から二日間、辻堂(江の島の直ぐ西)演習が最後の陸戦訓練だ。朝食が終ると兵舎の前に整列して出発した。小銃と帯剣で、左の肩から水筒を、右の肩からは昼食の弁当が入った雑のうをかける。小銃を一日中かついだ事がないので、一時間もすると天秤かつぎになるので、教班長に叱られながらの行事だ。
私達は指揮小隊なので、伝令で各分隊に連絡するためのかけ足が主で、水筒の水は午前中のうちになくなった。夕方まで水の配給はないのだ。やっと十一時すぎに鎌倉につき、大仏様の近くで昼食だが、小便に行くようなふりして水場を探した。しかし水道は見当らず、井戸水のようなのがあったので水筒につめてきた。少し塩気があったがないよりはましだった。午後は攻撃戦なので、駆け足をしたり伏せをしたりした。砂の上を走るので汗が吹き出し、軍事服は真っ黒になるし、顔も誰であるかわからなくなった。最後になると匍匐(ほふく)前進(腹ばいで進む)である。教班長に遅れる者は叱られながらの前進で、やっと夕方に辻堂に着いたのだが、一日中歩くのは軍隊に入ってはじめてだった。割当された家まで行くのがやっとである。宿舎で風呂に入り、夕食が終ると夜間訓練が始まり、八時に終ってから三ヶ月ぶりに畳の上で寝る事ができた。
次の日は六時に起き、日課の甲板掃除から解放されて、班毎で休養してからの朝食だった。朝礼のため広場で整列していると、専任教班長が各班員を一人一人見て歩いてくる。変だと思っていると、私の前で止った。上から下まで見ているので、私は、服装でも悪いのかなと思いまた教班長に叱られるのでなかろうかと心配していたが、注意もなく終りほっとした。
朝礼後は退去訓練であり、辻堂から鎌倉までかけ足である。指揮小隊の伝令は百メートルを走るように言われ大変な行事であったが、一人の落伍者も出さずに無事に着き休憩して昼食になった。その時、第一教班の荒 清人が鼻血を出していたので、鼻紙を持って行くと真っ赤になっていた。少し休ませておけとの事だったので、仕方なく班に帰った。心配しながら食事を終らせ出発を待っていると、荒 清人はトラックで兵舎まで行く事になったと知らせがあり、安心した。昼食後は、訓練も終り軍歌を歌いながらの行軍であった。兵舎には夕方に着き、風呂に入ってから夕食だった。今日は、吊床訓練もなく、ゆっくり寝る事ができた。
戦艦「長門」乗務員命ず
翌朝はあまり叱られずに朝食がすむと、何人かが呼ばれ、教員室の前に整列させられた。何があるのか、一人ずつ教員室に入れられ質問されている。私が最後に入ると「貴様は、どんな船に乗りたいか」と聞かれた。「駆遂艦に乗りたいです」と答えると、笑って「大きい船に乗った方が良いぞ」と言われた。
班に戻ると皆不思議に思っているし、私も何の事かわからないまま、演習用の被服や靴の手入れで一日が終った。
次の日の朝食後が大変だった。「軍艦長門乗務員命ず」と通路に貼り出されていたのである。見ると荒 清人が一番で、私が七番目に出ていた。海兵団卒業は八月十五日であるが、艦隊が近く出撃するので卒業前に出発するとのことであった。被服を整理して、渡された等級マークを取りつけるように指示があり、その日からの課業、免除が申し渡された。等級マークを初めてつけて厳粛の中にうれしさが込み上げてきた。
次の日は、慌しい出発である。分隊の人達は兵舎の前まで衣嚢(いのう―軍服他夏冬一切の衣を入れる袋)を運び、トラックに積んでくれた。一等水兵のマークをみんなより十五日早くつけ、同年兵に敬礼されて衛門を出ると、私達もトラックに乗せられた。横須賀の駅に着くと、私達の衣嚢はホームに積んであり、各分隊から来た百人位が集まっている。調べてみると、水兵科、機関科、主計科の兵隊であった。まさか全員が長門に行くとは知らなかったが、汽車が来るまで休んでいると、荒 清人が石川もいるという。
その主計科の石川 実から、この全員が長門に乗艦するという話を聞き、またびっくりしたが、同じ村から三人も行くので少し心強く感じた。
汽車が来て衣嚢をかついで汽車に乗ったが、暑いのによろい戸を下ろしての出発である。二日間分の食事を入れてもらっての窮屈な長旅だが、のんびりとして着いた所が、広島県の呉の軍港だった。その夜は、呉海兵団に仮入団である。衛門を通る時に、ダラダラするなと気合をかけられながら兵舎に入り、夕食後は吊床でなく床に毛布を敷き寝かされた。
待望の「長門」に乗艦
翌朝食後、すぐ軍港に行くと、石炭を運ぶ船に乗り込み、二時間位揺られると、待望の長門に横づけされて乗艦になった。昭和十八年八月三日のことである。戦艦長門は、大正九年十一月二十五日工厳で竣工し、排水量四万三千五百八十トン、速力二十五ノット、航続距離は十六ノットで八千五百六十キロメートル、全長二百三十メートル、幅三十四メートル、乗組員は一万三千六十八名で上富良野の人口とほぼ同じである。主要兵器は主砲四十糎(センチメートル)八門、副砲十四糎砲十八門、高角砲十二。七糎砲八門、機銃二十五粍(ミリメートル)単装三十基、二十五粍二連装十六基、三十五粍三連装七基、電探対水用二十二号二基、電探空用十三号二基、三十一号一基の装備である。
軍艦上に上がると、甲板にはゴミひとつなく、さすが戦艦である。長門に乗艦している旧一等兵の顔は、常に教育を受けているのか、目つきが違う。私達と同じ一等水兵である赤い腕章をつけた水兵長が、自分の分隊の人数を受けて昼食を取った。昼食を終えたら元の甲板に整列するように言われ、急いで食事を終えた。食器はそのままでいいからすぐに戻るように言われ私達が元の所に行くと、上等水兵曹が名前を呼び始めた。何名か呼んでから以上一分隊と、分隊別に割当をされた。私は六分隊で、十六名だった。新兵教員助手の宮下水兵長に誘導されて六分隊員居住区に入った。
そこには、先任下士官と稲葉上曹が赤い腕章をつけていた。宮下水兵長が私達に代って「六分隊十六名です」と報告すると、佐藤先任下士官が「私が六分隊先任下士官である。稲葉上曹が一ケ月間新兵教員を行う。一日も早く艦に慣れるように」と言って終り、気を付け敬礼した。その後宮下水兵長から、すぐ軍服を脱ぎ、軍業服に着がえるよう命じられた。
海兵団でやっていた半分の時間でやらなければ、使い者にならないと、まず活を入れられた。
黒い艦内帽を着用させられたが、古い兵隊は白い艦内帽で、一目でわかるようになっている。整列すると各班長が来て、割当の人数を受けに来た。
私は三十五班で、斉藤上曹に三人がついていてその班員を紹介してくれた。「今日来た新兵だ。良く面倒を見てやれ」との言葉に「よろしくお願いいたします」と挨拶すると、物珍しそうな目線を向けてきた。
高角砲対空分隊に配属
挨拶が終ると、短艇甲板に集合して、宮下助手から一同で説明を聞いた。高角砲の対空分隊であり、本艦一番の張り切っている分隊であるという。一度しか教えないので、良く覚えるようにとの前置きで、各大砲の説明が始まった。一番高角砲から四番高角砲を見てからは、前部弾薬庫、後部弾薬庫を案内され、次いで高角砲幹部の右高射器、左高射器、測距など六分隊管轄部所の説明を受けた。
一日が終り、甲板掃除である。新兵が入っても用具は増えないので、確保するのは簡単ではない。何も持たず、何もしないことは許されない世界であり、私達に年が近い若い兵隊にもらいに行っても、渡してはくれない。私が一番古い兵隊の所に行くと、箒を渡してくれた。私は、運が良かったのか、もらえない者は、すぐに宮下助手からボヤボヤするなとの叱りが下っていた。掃除が終ると、食事の用意が待っている。
新兵は食卓番が仕事である。私の班内に昭和十八年一月に入団の泉一水(一等水兵)という親切な人がいて、「落合、俺の後についてこい」と言って、私に教えてくれたので、大変助かり、あまり失敗もなく一日が終り巡検も終った。泉一水の指導で、洗面器を磨き始める。泉一水から、分隊内では一等水兵にも五段階が有り、自分は私より少し上の新兵扱いであることを含め、日常の人間関係について忠告された。こんな事は、誰も教えてはくれないから、食事時に良く気をつけるように、また班長の近くにいる人から古い順番だと思えばよいと言う。洗面器をおさめ、泉一水にお礼を言い、吊床に入り初めての艦内での一夜を迎えた。
甲板掃除と居住区掃除
まず当直員吊床納めで朝が始まり、総員を起こし、五分前行動で総員吊床納めを済ませて甲板掃除を始める。甲板を洗い、五分前で始まるのではあるが、ここでも、数は兵隊数より少ないように甲板ハケが出してある。新兵は立場上、なかなか古い兵隊より先に取る事はできないのである。新兵は、ボヤボヤするなといつも叱られたが、私は、泉一水が甲板バケを取っておいてくれるので助かった。片道三十メートル位の甲板を洗っていくのだが、大変だった。甲板助手は、まず古い兵隊の模範演技を見させる。終ると新兵の作業である。片道を何とか行く者は少なく、体中が海水でズブぬれになりながら何とか終った。用具を片づけ終る頃には、総員顔洗いの時間になり、海水のついた足を洗う暇もなく、靴をはき、班長の洗面用意をしなければならない。走って行くと、泉さんはもう来ていて、私に、持って行けと言って洗面器を渡してくれた。あとの兵隊は、私が班長のところから戻ってくるのを待っていて、順番に洗いに行くのだ。
艦内では、朝食までには、上官に敬礼をしなければならないのである。新兵は手をあげたままでいないと失礼になるので大変である。洗面が終る頃になると、食事の用意である。一人はお湯をくみに行き、二人は食事を取りに行くのだが、食卓番整列で運ぶのだ。二十名位の兵隊に配るのだが、泉一水が飯盛りをして、私が配給するのだ。私が食事をはじめる頃には古い人が終るので、その前にお茶をもって行くのだから、立ったままで食事をするようなものだった。食べたのか食べないのかわからないうちに終り、食事後の片付け作業である。終ると居住区の掃除である。リノリュウム甲板なので、油をつけて甲板を磨ぐのだが、新兵は甲板洗と同じ境遇に置かれてしまう。艦内は暑いので、服を絞れるほど汗が流れるのであるが、共同作業なので泣きごとは言えない。
新兵は今にも泣き出しそうな顔をしている。
次は身の回りを磨く日課手入になるが、古い兵隊達に教えられながらしていると、やがて「甲板掃除終り。たばこぼん出せ」の時間になる。軍艦旗上げまでつかの間の休憩である。食事が終ると、士官以下には、敬礼をしなくてもよくなるので、一寸だけ新兵は、気がらくになる。
(以下次号に)
≪落合勇氏の略歴≫
大正十四年八月十三日 上富良野村西四線北一六八番にて、父善助、母ふゆの長男として生れる
昭和六年四月一日 上富良野尋常小学校入学し、昭和十三年三月二十日同校卒業
昭和十三年四月一日 上富良野尋常高等小学校入学し、昭和十五年三月二十三日同校卒業
昭和十五年四月 父母と共に、家業の農業に従事
昭和十七年九月 海軍へ志願
昭和十八年五月一日 横須賀海兵団入団
昭和十八年八月三日 戦艦長門に乗艦
昭和二十年七月十八日 戦艦長門、横須賀港にて敵艦載機の攻撃を受ける
昭和二十年八月一日 戦艦長門より退艦、厚木砲台久里浜陸戦隊へ配属
昭和二十年八月十五日 厚木砲台にて終戦を迎える
昭和二十年八月二十五日 復員命令を受け、同年の八月三十日上富良野に帰る。帰郷後は、家業の農業を営むと共に、持前の行動力と本音で語る発言力で、農連書記長、創成小学校、草分幼稚園、専誠寺檀徒総代(父善助も歴任す)、高田幼稚園理事等を歴任される。
平成三年三月五日 自宅火災により全焼す(火災により海軍時代の写真も焼失する)
平成九年一月十二日 七十三歳にて逝去される。
――編集委員より――
落合 勇氏(宏規)は、平成九年一月十二日逝去(享年七十三歳)されましたが、生前中に書かれた『海軍、戦艦長門の思い出』の記を、何回となく書き直した原稿が約七十枚がありました。落合家の長男としての農業後継者でありながら、海軍へ志願、戦艦長門への乗艦と、様々の体験を記してありました。
第十六号の掲載に当り、約七十枚の原稿を『郷土をさぐる誌』用の原稿用紙への転記・句読点・誤字等を含めての清書を、落合 勇氏の次の三人の子供さんにお願いをいたしました。
長女敏子さん(富原炭田隆夫氏と結婚)
二女弘子さん(泉町元木俊明氏と結婚)
三女美代子さん(東中藤倉美巳夫氏と結婚)
父上から生前に時々戦争や海軍の話しを聞かされましたが、この様な形で書き遺されていた事を知り驚嘆されると共に、父上を思い出しながら、その体験記を一字一文を清書してくれました。
海軍での貴重な体験記録なので、海軍専門用語については、元海軍飛行兵(予科練乙第二十期昭和十八年五月一日入団)の秋山茂明氏(上富良野町新町二丁目)に考証を含めて校正をいただきました。
又、思い出の記の中に上富良野出身者として再三登場している、戦艦長門に主計兵として乗艦していた石川 実氏(上富良野町新町三丁目)にも考証をいただきました。
落合 勇氏の子供さんである、炭田敏子さん、元木弘子さん、藤倉美代子さん、そして秋山茂明氏、石川 実氏に誌上より厚く御礼申し上げます。

機関誌 郷土をさぐる(第16号)
1999年3月31日印刷  1999年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔