郷土をさぐる会トップページ     第16号目次

今書き遺すノモンハン事件の激戦

和田 正治 大正四年二月九日生(八十四歳)

昭和十二年十一月、私は二ヵ年の現役を終えて帰郷していた。十三年二月召集令状がきて、旭川第二十八連隊第三中隊に入隊する。七師団に満州派遣の動員令下令される。
一月十日 入隊の初年兵を主軸に、私等召集兵を基幹として満州派遣部隊の編成をする。
三月一日 七師団は出陣、旭川衛戍地(えいじゅち)を軍旗を先頭にして出発。
三月二日 改造の貨物船にて室蘭港出帆、母国と別れる。
三月六日 北朝鮮羅津港上陸一泊。
三月七日 満鉄の貨物列車に詰められて、凍る北満の拡野を走り続ける。
三月九日 北満の「チチハル」に到着駐屯する。
三月十日 北満の警備についた。
八月東郡国境にソ連軍が越境し張鼓峯(ちょうこほう)事件が勃発、吾が芦塚部隊(二十八連隊)が出動する。
昭和十四年五月、満蒙西部国境にて勃発の戦闘以来六十年が過ぎ去り忘れられ様としている。郷土の二十一歳の若者、北村(島津)、西谷(東中)、永楽(富原)、山口(市街)の四人の諸君が激戦で、若い尊い生命をお国に捧げて戦死された。
この激戦を郷土の皆様に語ることなく流れ去って行くこと残念に思う。満州から帰還後村民に「ノモンハン」の戦闘を語ることを強く禁じられていた。町内でも「ノモンハン戦」参加者は中央区の千葉誠君と私二人になり、他は亡くなった。
私も八十歳の峠を越し四人の方の激戦の思い出と吾が中隊の行動を書き御冥福を祈らんと決意し、書くことにした。
―― ノモンハン事件とは ――
モンゴル人民共和国と満州との国境ノモンハン地区での日ソ両軍の衝突事件。一九三九年(昭和十四)四月、関東軍は「満ソ国境紛争処理方針」を発表、国境線不明個所の国境線は防衛司令官が自主的に認定するという対ソ強硬方針を採用した。ノモンハン付近の国境不明確な地点(日本はハルハ川の線、ソ連はそれより十三キロ東方のノモンハンの線を主張)で、五月二十二日ハルハ川東岸にはいったモンゴル軍と日本軍との衝突がおきたが、モンゴルとの相互援助条約によるソ連の機械化部隊のため、同月末日日本軍は全滅した。六月二十日、関東軍は第二三師団に第一戦車団・第二飛行集団などを加えた大部隊をノモンハンに集結、陸軍中央部の事件不拡大の説得の前に、二十七日モンゴルの拠点タムスクに対し、一三〇機による爆撃を強行、関東軍独走の局地戦争となった。これに対しソ連側は、ジューコフ将軍指揮の第一軍団が戦車・銃砲・飛行機の援護で八月二十日から全面反撃に転じた。そのため日本軍の火炎びん作戦も第七師団による増強も失敗、第二三師団の死傷者は一万一〇〇〇余人、死傷率七〇%を超える被害をうけた。たまたま独ソ不可浸条約の締結、欧州大戦の勃発に直面した。陸軍中央部は関東軍の反対をおさえて、九月四日攻撃を中止し、兵力撤退を決定、関東軍司令官以下首脳部を更迭、以後モスクワでの東郷重徳・モロトフ間の外交交渉で九月十六日停戦協定が成立した。
「ノモンハン」の戦闘は、満州西部国境の満州国領と外蒙古領の境界にて起る。「ハルハ河」と言う大きな河が流れ、一望千里の満蒙国境は砂原の平野が続き河の水は大切な資源であった。昔から両国はこの河を自分の領土として主張して小競り合が起きていた。昭和十四年五月外蒙古軍が「ハルハ河」を越境して満州領に陣地を構築してきた。それで満州国軍が追い返し、「ハルハ河」を奪回して追いつ追はれつ、小戦闘を繰返していた。その中外蒙古は共産主義国家でソ連が支援していた。ソ連軍が近代兵器や飛行機、戦車部隊を逐次増援してきた。やむなく関東軍は「ハイラル」駐屯の「小松原師団」(九州部隊)に動員をかけ、遂に満蒙軍は影をひそめて、日ソの「ノモンハン」の激戦が始まった。ソ連軍は驚くばかりの物量戦を展開、これに小松原師団は対抗して反撃なせるも、日ソの被害は甚大なものであった。ソ連はひるむことなく益々飛行機、戦車など近代兵器を繰入れて日本軍に攻撃してきた。
関東軍は六月二十日、「チチハル」駐屯の園部師団(七師団)の須見部隊(二十六連隊)と吾が芦塚部隊(二十八連隊)に動員下令された。六月二十日に先遣隊として須見部隊と吾が芦塚部隊の二大隊と速射中隊を出陣させて「小松原師団」の指揮下に入る。両軍は「ハルハ河」の争奪戦が激化して、一進一退悪戦苦闘が続き死傷者も多勢出て部隊に帰還し、安置所の白木の箱も日毎に増えて行った。関東軍は待機中の芦塚部隊(二十八連隊)と砲兵中隊に八月一日出動命令を下令した。
三十一日夜半、満警と満軍が町の十字街にて満人の客馬車の馬夫と満馬を物言わず徴発して、日本軍に引き渡すのであった。部隊の裏側には、引込線が「チチハル」駅から入っていた。その引込線に黒々と長い軍用貨物列車があり、日本の将兵や清人の馬夫と馬、野砲、軍馬がこの貨車に詰め込まれていった。八月一日未明引込線を出陣、「チチハル駅」を経て翌二日昼頃「ハイラル駅」に到着し下車する。「ハイラル」の駅には公主嶺駐屯の戦車部隊が、指揮官の戦車を引いて帰っていた。戦車部隊兵から、皆どちらから来たのかと尋ねられる。「チチハル」の北海道部隊と言うと、気の毒だが日本の戦車は指揮官全員戦死全滅、戦地には日本戦車は一台もないとのことで、公主嶺の部隊に還るのだと言う。戦塵真黒な兵士の顔、いささか哀れと思う。私達はその戦場にいくのである。悲壮な心になる。吾が部隊は出動の「小松原師団」の空兵舎に一泊する。夕食時に一杯の「ビール」にて小隊長を中心にして別れの乾杯をする。
翌三日薄暮、吾が部隊は夜行軍にて軍旗を先頭にして堂々と「ハイラル」を後にして戦場に向けて進軍を始めた。愛国婦人会の襷をかけた十数人の日本婦人に混じって、白系ロシア婦人三、四人が送ってくれた。
昼間の行軍は敵ソ連の爆撃機の恐れがあるので、部隊は夜行軍をするのだ。夜通し歩き未明部隊は砂原の平原に散開して夕暮を待つのであった。又夕暮に行動開始、草原に軍靴と砲車がつけた一本の軍用道路が、草原の彼方にどこまでも続き、その上を将兵は一歩、一歩歩くのである。三晩も歩くと些か将兵は疲れが出てきた。四十五分歩くと十五分の小休止、兵は道の両側に「背のう」を着けたまま「ゴロ寝」で鉄砲を抱えて眠りに入る。防蚊網をかぶって眠る兵隊に、満州特有の大きな蚊が真黒に襲来、上から刺すのであるが払う力もなく眠りにつくのである。
「背のう」の中には靴下に入れた白米や着替えの襦袢その他、又その上に、腰の帯革の前金に六十発、後金に六十発の銃弾、「雑のう」には手榴弾や医薬品等を入れており、器具等を含めて四十キロ近くもある。兵は疲れ果てているが戦場に向う闘志は意気盛んである。
毎日、地平線の大草原に沈む赤い夕日を拝みつつ夜行事が開始される。人家は一軒もなき草原で、道端に「ゴロ寝」する兵士達が仰ぐ満州の夜空には、星が輝いている。故郷の父母や、同胞を思い夢を見て眠るのであった。満蒙の草原には一滴の水もない。夜行軍で水筒の水も朝までに呑み干すのであった。行軍開始の翌朝から兵隊の呑み水は「給水トラック」で「ハイラル」から中隊に「ドラム缶」一本の水が配給される。軍馬の水は消防自動車で運ぶ。「ドラム缶」の水は石油臭くて苦労する。散開の兵は朝方一本の水筒の水で三食の炊飯をして又水筒に夜行軍の呑水が一本配給される。一晩に四十キロ位の行軍を続けるのである。三日位すると軍馬は赤い消防車を覚えて、見ると「イナナキ」水を持つ可愛いものである。石油臭い水もぜいたくは言えぬ。
兵もすっかり足を痛め疲れきっていた。四晩歩いた、人家は一軒もない草原、七日朝友軍の飛行場が見えた。若干の戦闘機が攻撃に飛び立っていった。武運を祈る。
八月七日、十時頃目的地の採塩場についた。小さな沼があった。その横に蒙古包が二つある。そこで激戦になるまで満人が塩を取っていたらしい。沼の水は塩分で飲めない。当分ここでソ連軍の進攻を見んと待機することになる。「ハイラル」から百四十キロ以上夜行軍で連続歩いたのだ。
各中隊から二名使役兵を出して沼の端に飲水の鉄管三本の「ボーリング」を打ち始めた。広野にその音が響いた。綺麗な水が出た。兵士はその水で汚れた身体を拭き飯盒炊飯をする。部隊は二十個分隊毎に携行天幕にて幕舎を建て、草原の丘には無数の部隊天幕が立って見事である。夜になるとその中に二個分隊毎、軍衣は着たまま、枯草を集めて敷き、夏外套をかぶって「ゴロ寝」をするのだ。戦場とは、このこと、明日の命も分らない運命だ。夜は幕舎内での「ローソク」の灯は禁物であった。
蚊の来襲を防ぐため真暗の中に兵は眠りにつく。吾が幕舎の上には軍馬が一列につながれている。夜になると軍馬は蚊を払う足音と、尾のうなりが一晩中聞える。野戦で始めてのお盆を迎える。
欧州では「ドイツ軍」が猛進撃を続けていた。敵ソ連軍の情報が入る。ソ連は不可侵条約を締結し、「ポーランド」国境に布陣のソ連軍を引き揚げて、二日程で「ノモンハン」に移転したとのこと。これが重砲火、飛行機、戦車、狙撃師団の近代兵器の装備の最強の部隊であった。
八月二十日、草原に待機中の吾が部隊に、「ノモンハン」の激戦地に向けて出動命令が出る。吾が三中隊は、野砲と満夫満馬の輸送隊の護衛中隊として夜行軍を命ぜらる。愈々ついていない。他の部隊は「トラック」輸送で急遽戦場に行くことになった。朝から部隊は幕舎を撤去、身体を清め千人針を腹に巻き各中隊は出動の準備をする。赤い夕日が地平線の彼方に沈む頃に、吾が中隊は行軍を開始する。彼方には砲車を曳く六頭曳きの軍馬の隊列や、満人の輸送隊が長々と続く。草原の一本の軍用道路を兵は黙々と進軍する。
翌朝「ノモトツリン」に着いた。当地は満軍の騎兵隊が守っていた。散開して三食の飯盒炊飯をする。後続の「トラック部隊」が追越して行く。夕暮に行動を開始し、しばらく歩く。行軍部隊は道路両側にて大休止、夕食をとる。西方の空に変な音がする。
皆が見ると、ソ連の爆撃機らしい。四、五機こちらに向って飛来する。大休止の吾が部隊に近づくと「バラバラ」と爆弾を投下する。夕焼けに輝いて見える。
爆弾は部隊の両側百米位に落下、爆発炸裂して砂土を噴き上げ、物凄い轟音と噴煙が立ち込めた。幸いに吾が部隊には命中せず、飛び去って行く。愈々戦場なのだ。夜は更けて行く。
無言で兵は歩く。時折「ライト」を消して「トラック」の輸送部隊が追越して行く。夜空に星がまたたいている。敵の爆撃機が数機吾が頭上を飛び去って行く。吾が行軍部隊には気がつかない。爆音に空を見ると星が「チラチラ」とさえぎられ敵の機影が見られる。数分すると遠方眼前に今の爆撃機が投下した爆弾が炸裂し、火花が噴き上げる。戦場は近いのだ。惨劇な戦場で兵士は闘っている。朝「将軍廟」に着いた。
以前ここまで戦場であった。小高い丘に小さな廟がある。色の法衣を着た僧が二、三名で廟を守っていて、私達を見送ってくれた。いずこも同じで、信仰は強かった。
小休止後又歩き続ける。戦場は近づく。丘の草原に焼かれた敵装甲車や戦車が真黒くなって放置されている。昼頃日本の野戦糧抹所に着いた。昨日夕べの六時から十六時間歩いたのだ。
ここで大休止の最中空襲警報が鳴る。兵は散開して「蛸ツボ」の壕を掘って一人当て入る。これも「ノモンハン」戦で発明された壕である。私達日本軍は横に長い散兵壕の指導を受けていた。「ノモンハン」では、敵戦車はその散兵壕に片側の「キャタピラ」を入れて兵を引き殺して行くのだ。それで一人当ての丸い「タコツボ」式の壕に切り替えたのだ。兵は「蛸ツボ」で仮眠する。
夜半敵爆撃機が襲来し、照明弾が投下され地面は明るくなる。それをめがけて爆弾が投下されるのだが、我が方では敵機が見えぬ数分間が続く。地上の炸裂の轟音と大煙が噴き上げて去る。静かになる。大丈夫かと叫ぶ声、大丈夫と応える声が飛び交う。吾が中隊は一人の被害者もなかった。爆弾は恐ろしくはない。
夜が明けてみると糧株所はやられていた。朝方出発。吾が行軍部隊の進む道には、敵爆弾が開けた「トラック」の入る程の大きさの穴が数カ所ある。以前に行軍部隊を爆撃したあとだ。又道端に焼けた敵の戦闘機があり、その横に焼けこげたソ連飛行士が真黒になって死んでいる。誰も葬る者もいない。それを見て進む。哀であるが戦場なのだ。
夕方吾が中隊の行軍部隊を、烏の群来の様に無数の敵戦闘機が低空飛行で頭上「スレスレ」に襲撃してきた。中隊は散開し応戦する。
池に豪雨が降り無数の水しぶきが上る様に、兵の身辺には機銃弾が砂土を噴き上げた。数分後敵機は去った。吾が兵士は銃身が焼ける程射ったが敵機は一機も落ちなかった。吾が兵士も、一人も敵弾に当たらず無事であった。弾は当らぬものと兵は確信する。
やっと夕方部隊に復帰する。柳の幼木が見渡す限り草原に密生していて、その中に吾が兵は散開する。
しかし、夕暮には敵戦車は吾等を見つけて戦車攻撃を始め、弾丸を射ってきた。「ズドンズドン」と吾身辺に炸裂する。不気味である。吾が速射砲が撃ち返すと、敵は逃げ去った。
柳の原の中に、二人入る大きさの「蛸ツボ」を掘って入る。日は暮れ、柳の下に穴を掘って三食の飯盒炊飯をする。
壕の中で夕食「干しホーレン草」に生味噌をかじっての夕食。小雨が降ってきた。壕の上に天幕を張って雨をしのぐ。兵と共に壕の中で仮眠する。爆音も止み戦場は静かに夜は更ける。未明二時頃に起床、集合の命令が響く。兵は一斉に壕から出る。夕べの雨が少し天幕に残っている。生味噌で水が欲しい兵は皆天幕の水をなめてしのいだ。満蒙の朝は冷える。部隊は集結する。小隊に一缶の「ガソリン」が配給された。私は「背のう」の上に背負う。部隊は前進を始める。霧のため十米先も見えぬ。時々停止し道を探しながら、やっと進駐した。朝霧で腰から下が「ベチョベチョ」に濡れ、寒く身振いがする。朝食をする。兵は、甘味品にあがった「サイダー」の空瓶を「雑のう」から出して、「ドラム缶」の「ガソリン」を詰める。敵戦車攻撃をするのだ。朝霧のため二十米先程しか見えぬ。
愈々今日は敵陣地に部隊は総攻撃をするのだ。「小松原師団」の残存部隊と吾が芦塚部隊(二十八連隊)と須見部隊(二十六連隊)は、霧の中の前線に横一線散開し待機する。朝八時頃霧も少しずつ、晴れてきた敵陣地七八〇高地の丘が見えてきた。ソ連はこの丘に近代兵器の陣地を構築し、日本軍の進撃を阻止せんとしている。丘まで二千米位あるであろう。
谷間から敵戦車が三台出てきた。吾れに射ってきた。弾は身辺に炸裂する。吾が速射砲が反撃する。一台は焼け上る、二台は谷間に逃げ去って行く。
間もなく「ハルハ河」後方敵陣地から、吾が後方の野砲部隊に向けて、十五糎砲弾攻撃の射ち込みが始まった。
吾が頭上は轟音にて兵の話声も聞えぬ。敵は一日三万発も射ち込んだそうだ。霧も晴れて陣地の丘もはっきり見えてきた。
やっと十時、総攻撃の命令が出た。日本兵は重い「背のう」と銃弾を背負い散開して前進する。友軍の志気は猛盛である。千米位前進すると敵砲弾は吾が前進部隊に射ち込んできた。砲弾は無数に炸裂し、機銃弾が物凄く身辺に射ち込んでくる。左右に散開する。部隊の姿がかすんで見えぬ程、砲煙で曇っている。
「ノモンハン」の草原は、一瞬にして爆音と炸裂音が鳴り交し、騒然となる。その下を兵は這う様にして敵陣に近寄る。吾が小隊長も足を敵弾に射ち貫れて歩行困難になる。兵も「ヤラレタ」の声がする。
携帯の綿帯で仮治療して前進する。小隊長は吾れに小隊を指揮して前進する様に命ずる。吾が横を機関銃の兵が前進している。その兵に敵砲弾が炸裂した。爆音と共に砂土が天空に噴き上げる。やられたと思うと爆煙の中から、二人の兵は重機関銃を提げて走り出てきた。「生きていたのだ」私は思わず拝む。敵弾は雨霰の如く射ってくる。五、六百米位前進するも丘の陵線には陣地らしきもの見えぬ。何故これ程射ってくるのか不思議でならぬ。三百米位まで近づくと、漸く丘の麓に動く敵の鉄帽が見えた。一線陣地がこんな処にあったのだ。
ソ連は日本軍の攻撃を察知し戦略を変えていたのだ。日本兵は昔から一線陣地は陵線にあるものと指導訓練されていた。ソ連は裏をかいていたのだ。私は三個分隊の軽機に射撃を命じた。軽機は一斉に火を噴いた。擲弾筒分隊も射ち込んだ。敵の壕は土煙りを上げて噴き飛ぶ。敵兵は這って五十米近く接近する。私は突撃をする。一斉に兵も飛び立って昼頃陣地に突撃する。その時私は二線陣地の狙撃兵の銃弾にて左肩から脇下に射貫かれて重傷を受けた。出血は千人針にたまっている。吾小隊の兵二名が戦死、多数の負傷者を出してしまった。敵の戦車は火焔放射器で歩けぬ兵を焼き殺して行くのだ。悲惨な戦場だ。
総攻撃の日、部隊は戦死者と負傷者で戦力半減になった。敵の壕の中にも戦死者と負傷者があった。翌未明「トラック」の給水車に拾われて野戦病院に収容される。驚いたのは柳の幼木の下に何百と言う負傷兵がうごめいていた。敵の空襲をさけるため柳の木の下にかくれていたのだ。一昨日第二野戦病院をソ連戦車が襲撃、全滅したとのこと。赤十字の旗を立てているが、そんなものも容赦なく、情けも涙もない。戦争と言うものは、こんなものかと知りながらも、敵を憎む。
夕方十数台の患者輸送のための「トラック」部隊が来た。
柳の下の重傷兵を衛生兵が「トラック」に乗せる。
薄暮「トラック」部隊は「ハイラル陸病」に向う。「ハイラル」まで百六〇キロ以上あった。夜中には敵戦車が出没し、停止、散開の繰り返しである。私は「ハイラル陸病」に収容後も、陸病を転々と三カ月治療が続いた。
二十四日の総攻撃では、敵は一歩も後退せず抵抗した。友軍は凹地に集結したが、敵は昼夜を問わずに迫撃砲と戦車攻撃を続ける。止むなく日本軍は八月二十四日の総攻撃地点まで後退する。
敵狙撃兵は全員「眼鏡付小銃」を持って射撃してきた。日本兵は昔の三八式小銃で反撃する。装備は天と地の差である。部隊は後退して支援部隊を待って二次の総攻撃を計画した。この矢先九月十六日停戦協定が結ばれ激戦は終った。「ハルハ河」から深く入って、国境線を認めた。日本魂、肉弾戦はソ連の近代戦と物量戦には完全に負けたのだ。前記の郷土の若い兵士四名も、各中隊に配属になって激戦に参加しており、悪戦苦闘の中で若い命をお国に捧げたのである。
吾が中隊も中隊長以下二十八名の戦死者と多数の戦傷者を出した。三ヶ月の激戦にて七師団(旭川)の戦死者は一、五〇五名にのぼり、殆どが須見部隊(二十六連隊)と吾が芦塚部隊(二十八連隊)の兵士であった。
一、五〇五名は一個連隊全滅と同様である。如何に激戦であったかを物語るのである。戦争は二度としてはならぬ。私は再度の召集を受けたが、二十年八月敗戦になり軍隊は解体された。十月に曹長の軍歴を捨て郷里に還り、一介の百姓として第一歩を踏み出し英霊に報いんと生き抜いてきた。
生き残りを詫びて只々戦死の皆様の御冥福をお祈り申し上げます。
略  歴
大正 4年 2月 9日 二男として出生 昭和15年 3月 8日 内地還送チチハル原隊出発
昭和 4年 3月21日 上富良野尋常小学校卒業 〃    3月21日 旭川留守隊帰還
〃 11年 1月10日 現役入隊 〃    3月25日 召集解除帰郷
〃 12年11月30日 現役除隊 〃    5月 1日 在御軍人会青年学校指導員任命
〃 13年 2月15日 召集 〃 17年 3月15日 結婚
〃    2月20日 七師団満州派遣動員 〃   12月20日 分家
〃    2月21日 伍長任命 〃 19年 8月10日 召集四部隊入隊
〃    2月28日 旭川衛戌地出征 〃 20年 6月 1日 曹長任命
〃    3月 8日 満州チチハル駐屯警備 〃    8月15日 終戦軍隊解体
〃    8月 9日 張鼓峯事件出動 〃    8月20日 召集解除帰郷農業従事
〃    7月16日 芦塚部隊二十八連隊動員 〃 38年 4月25日 町議会議員
〃    8月 1日 チチハル出動ノモハノン事件参戦 〃    8月 1日 議会解散議員退任
〃    8月24日 ソ連陣地総攻撃負傷 〃 44年 7月16日 農業委員任命
〃   10月 1日 軍曹任命 〃 56年 7月15日 農業委員退任
〃 14年12月27日 負傷陸軍病院退院 平成 2年11月 3日 社会貢献賞授与

機関誌 郷土をさぐる(第16号)
1999年3月31日印刷  1999年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔