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回顧・佐川団体と私

佐川 亀蔵 明治四十二年七月五日生(九十歳)

今日(平成八年五月二十四日)は、大正十五年の十勝岳大爆発から、丁度七十年目の命日に当たる。
例年通り、十時頃お寺にお詣りしてお経をあげて頂いた。仏前に座り、広いお堂に和尚さんのあげて下さるお経の、澄み切ったお声の響きを聞きながら、七十年前の出来事や、或いは五十年前の戦死した多くの戦友達のことなどが、走馬灯の様に脳裏に浮かび思いをめぐらせていた。
私の戦時中における軍歴は、僅かの応召期間であったが、東京の防空砲台で「今日も助かった」「今日も生きた」と、何れここが死に場所になるとの覚悟であったが、幸い衣服や靴が傷ついた程度でたいした怪我もなく帰ることが出来た。徴兵検査は第二補充兵であり、私は召集令状が来るまで兵役には関係がないと思っていたが、三十六歳で、それも海軍に引っ張られたのだ。上富良野から六人、それが親父さんばかりが横須賀の海兵団に召集になり、生まれて初めての軍隊生活、若い者達から色々と話は聞いていたものの、三十六歳のお父っつあんにとっては、毎日の生活は予想のつかぬものであった。上富良野から征った六人の中只一人、江花の菊地久助さんだけ南方の海に散華し、誠に気の毒な事である。
また、大正十五年の爆発には、僅か二、三分の違いで命拾いし、戦争では怪我もなく無事帰還、その後、伐木作業中に木の下敷きになり、救急車で富良野協会病院に運ばれて、腹部を切開して十六針縫う大手術を受け、もう駄目かと思ったこと、その他に怪我も随分したが、皆さんのお陰で生命を保ち得た事は、我ながら本当に運の良い男である。
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佐川団体は明治の末に、沢と高台に四十数戸入ったが、今は高台に私が一戸だけ、沢に数戸残っているのみだ。即ち、沢に入植した人達は、あの大正十五年の十勝岳大爆発で罹災し、殆ど全滅状態に陥り減少、また高台に入った人達も、一人減り二人減りで戦後の一時期、道路が出来てから十戸近くになったが再び減少を続け、昭和四十年にはとうとう私一軒になってしまった。
出て行かれた方々には夫々事情があり、その事はよく解る。私は当麻の生まれだが、生まれた年の秋に当地へ入ったので、この地が出生地と同じであり故郷である。この地を離れた他の方々も、私と同じ故郷への思いがあったであろう。
振り返って思えば、私の父と北村留五郎さんと佐川政治さんは、佐川団体の働き手であり、この三人の妻は共に、当麻時代に一緒に岩治伯父が内地から連れて来たらしい。今でいう集団結婚とでも言うのであろうか。佐川政治さんは大正十五年の爆発で悼ましくも一家全滅した。また北村留五郎さんは佐川団体随一の働き者でインテリ、農具の改良発明には真剣で、馬での畝切り除草機など考案されていた。
大正十四年に一番先に儲けて草分地区に出た。私の親とは大の仲良しだった方である。
佐川団体といえば優れた部落であるが、十勝岳爆発で壊滅的被害を受けた部落でもある。「十勝岳爆発災害の、この有史以来の大事件を詳しく知っている人は地元の貴方だけだから、必ず書いて遺して置くように」と、和田元町長を始め、多くの方々に言われていた。また私自身、十勝岳爆発の事件は忘れることの出来ないことであり、当時の地域部落の悲惨な状態は、今もはっきり脳裏に焼きつき、目前に浮かび展開する。
あのような災害は、過去にもこれからも、二度と無い事と思っていたが、沢の地層など、過去を調べると何回もあった事の様である。私は大正十五年の十勝岳爆発災害は宿命であったと今思っている。そして二度と罹災しないように、対策を十分とって置かなければと思っている。
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当時、地主で新井鬼司さんと言う人がいたが、私が子供の頃の覚えを辿ってみると、なかなか進歩的な人で、測量機械を所持していて、各地に測量に出掛けたり、鹿の沢の高台と佐川団体の高台を測量して、水田にしたいとの計画もあったようだ。また、富良野川の上流に温泉があるとか、鉄鉱が出るとか言っていたことを覚えているが、この新井さんもあの災害は、夢想だにしなかった事だろう。
昭和三十一年だったと思うが、美瑛の白金温泉で部落からの農業委員選出などの件で、役員会が開催され、出掛けた事がある。役員決定など議事は簡単に終わったが、一泊した翌日早朝、私と白井藤蔵さんが、かって新井さんから、富良野川の上流に温泉があると聞いていたが、捜してみようと言うことで、宿からお握りを作って貰って、泥流の跡を調べながら下ってみた。官林を出た少し先で、二カ所程水が白く濁って、水草が伸びてよろよろしている処があった。此処がきっと湧水の沢で温泉だ。硫黄と石灰分が化合して流れているのだと、勝手な解釈をして見たことがある。
その後、川井さんが砂防ダム付近に、温泉の試掘をしたことがあったが、あの付近では深さ六十米ばかりの間に断層があり、過去に十一、二回泥流が流れた痕跡があって、昔から何回もの泥流があったことは間違いのないことである。
先住民族のアイヌ伝説にもある通り、十勝岳は火の山で、何時爆発するかわからない。これを止めることは出来ないことは勿論だが、現代科学、技術の進歩から、災害を出来るだけ少なく軽微に、そして災害が無になることを期して、防災推進に努めなければならないと思う。
後年、日新ダム着工に当たり、貯水量補水の為に、湧水の沢から送る話も出ていたが、やはり鹿の沢の高台を越して清水の沢に補水することになった。
日新部落は、大正十五年の爆発泥流災害で大部分の戸数を失い、昭和四十一年に、富良野原野の鉱毒処理の為の日新ダム着工によって、かっては七、八十戸あったのが、今では十一戸となり、仲良く堅実な農業経営をしている現状である。
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前述の通り明治四十二年に当麻村からこの新井牧場に集団移住した佐川団体も、昭和四十年には唯一戸だけとなってしまった。戦時中の昭和十八年に佐川団体は、ひと時、私の弟と本家の登さんだけになった事がある。この様な僻地で、男手が無くては生活が不可能なので、皆でここを出るのもやむを得ないと言うことになり、私達一家は移転先として、斜線富原の小川総七さんから話があった移転場所の話が進められた。小川さんからの話の所は街に近く、水田三町歩あるし、畑も欲しければ近くにあるからとの事である。小川さんは、弟を分家させたのだが兵隊に召集され、家族もあまり身体が丈夫でなく百姓が出来ないので、自作農で買うんだったら来年名義変更してあげるからと言われた。住宅の方も、前に下平さんが入って居たのがそのまま使えるし、それに、種子物から農機具一切あるからといわれ、こんな良い所はないと思い、父の同意も得て手金二百円を打ち、決めて家に帰り、母に話したところ、母は此処から出ないと言い出した。父も街から二、三十分で行ける所だし、畑も近くにありこんな好い処はないと言って聞かせても、此処から出ないと言って、どうしてもその気にならないので困ってしまった。なぜかと聞くと、生(な)り木(宮城県では果物の実る木のことを生り木という)がいたましいからと言う。
生り木だって売るんでもないから、何時でも採りに来られるんだから、と説得しても賛成して貰えなかった。丁度その頃はリンゴもブドウも沢山生っていたので、それが惜しかったのだろうか。ここから出たくない本当の理由は、入植以来、全くの大森林を拓いて、折角苦労して造りあげた土地に愛着があり、離れたくなかったのだ。遂には、そんなに好い処なら皆行けばよい、私だけ此処に残るからと涙を流す始末で、断念せざるをえなかった。翌日、早速小川さんにお伺いし、お断わりの事情を話し、許して頂いた。
それからは、私は、もうこの地を離れることは出来ないだろう。一生をこの地で終えようと決意した。
思えば、住み慣れたこの地は、地形も良くトラクターは縦横に入るし、それに、山の眺めは素晴らしく、富良野原野も一望出来るし、こんな良いところはないと思っている。
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この地に踏み止どまる事について、若い頃から親父の様に親しみ、何事も相談相手になって頂いていた白井弥八さんに相談に行ったが、「それでは佐川団体にはあなただけになるんだなあ」と言われ、永住するには先ず道路を付けなければならないと言う事になった。当時は道路に砂利を入れることが、最良の工事であり、白井さんは、佐川団体入地当時からの高台を通って、西山さんの処へ出るのが一番と言っていたが、考えてみると、冬期間の吹雪が心配で、吹雪の影響が少ない斜面の林の中が良いと思い、雪が大体解けた昭和十九年四月八日に、図板と水平器と分度器を持って一人で測量に出掛け、見当をつけた山林の分約三粁を見て歩き、夕方までに終えることが出来た。
終戦になり帰って来たときは、すでに北村末五郎さんは旭川に出ていたし、狩野覚三郎さんは日の出に移り、北村豊四郎さんも金子農場へ出て居なかった。一方、弟が本所憲兵隊から公職追放で山へ戻って来たし、小樽から、妹の嫁ぎ先の若い者、有沢さんが、食糧事情等から農業をやりたいということで、門口に小屋を建てて農業をすることになった。また、樺太から引き揚げてきた堀川さんも、大体此処に落ち着くことになったので、ひと時、私一戸になってしまうかと思っていた佐川団体も、十戸位になる状況で、再び活気ある部落になると思い嬉しかった。
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応召前に下見をしていた道路を造るための運動を始めなければと思い、用地を寄付して戴くため地主は勿論、町や議会にもお願いして、道路の開削実現方を陳情した。当時の町長田中勝次郎さんは、本町開拓の功労者であり、佐川団体の事情は熟知しており、支庁から道庁まで熱心に動いて頂いた。特に小林八百蔵議員さんには、工事の始めから終わりまで助言して戴き、忘れることは出来ない。また、当時の佐川団体のことをご存じだった福家敏美議長さんは、この地は、今後も開拓の余地は高く、引き続き努力を期待すると、力づけて呉れた。
この様に多くの関係者のご努力により出来上がったが、当時一本の町道開削のために、四十万円の町費が支出されたのは恐らく初めてなので、私自身も責任の重さを感じていた。また、工事担当者の村上さんは、財政的に余りゆるくなかった中で、大変よくやって呉れた。人夫を確保するため釧路まで出掛け、炭鉱の鉱区役員の協力を頂き、小坂勇次郎さんを始め数人の働き手を得て連れてくるなど、工事はすすめられたのである。
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志波姫町梅崎笹ケ森に、小さな社があったが、明治の末期に判らなくなったと志波姫町史にあり、思えば墓守りだけ残してきたので無理もない。昨年、お盆に、娘達のお陰で訪ねることができ、墓参りも出来た。
この移り住んだ佐川団体については、私は開拓前の大森林の時から知っており、大沢と佐川団体の高台では、四十数戸が、かってない辛酸と苦労を重ねての開拓であったろう。
団体長の岩治伯父は三十二歳で当麻村に入り、そこで約十年間細野農場の開拓に従事、明治四十二年に、上富良野のこの地を、第二の故郷と定め落ち着いた。私は伯父達の中で、岩治伯父は団体長であり子供の頃から一番偉いと今も思っている。部落でも尊敬されており、ひと頃住んでいた市街八町内の人達も良い爺さんだったと、今でも伯父を知る人は褒めて呉れて居る。新井牧場主は、佐川の団体長に約束した通り、今の神社の処と団体奥に数十町歩分けてくれた。富良野からの東四線道路は、丁度神社の処へ来ており、向山から藤山さんの門口の処へ行っている。新井さんは、裏の沢の日向から藤山さんの門口の処まで、佐川の団体長に無償で分けてくれた。また、沢の分に屋敷(住宅地)のところが少し狭かったので、上手に川の曲がった処まで分けてもらった。今、白井啓治さんが持っている。元熊谷さんの民有未墾地の分に少し入っている。
大正十一年に、佐川の本家は沢に移った。これは山の上は水が乏しくなって来たのと、学校へ通うのに便利が悪い為である。菅原・狩野さんも沢へ下りてきたが、爆発後、本家と狩野さんは、再び山の上に戻った。十勝岳爆発被災で、菅原寅右エ門さんは三重団体へ移転した。佐々木忠次郎さんは日の出に、佐々木留治、末治さんは当麻へ戻った。佐川庄七さん、浅野さんも当麻へ、千葉寅吉さんは富原へ戻った。
また、大沢の人達は耕地の回復が望めないので、全戸美瑛の二股暇御料に土地をもらい移って行った。小屋掛料から農具・種物一切、時の吉田村長さん始め、関係の皆様達の骨折りで、被災農家で羨む程の支援で移住出来た。当麻に戻った人達も、水田五町歩くらい、買うだけの支援を受けた人もあると聞いた。
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宮城県で、北上川の氾濫の際の酷い災害地が復興に努力して、見事に成功させたと言う話を聞いていたので、昨年のお盆に父母の郷里のお寺や墓地のお詣りに行ったとき、親戚の車で鹿島台まで廻って見てきたが、立派な水田になって居た。仙台湾に面する気候の良い処だが、見事な黄金色の穂が波打っていた。水路と道路が立派に整理されており、さすが宮城県の穀倉地帯と感じ入った。
十勝岳の爆発災害の復興に捧げた吉田村長さんのことは忘れてはならない。特に日新の人、佐川団体の人は忘れてはいけないと思う。私はあの沢を歩く度に昔のことを思い浮かべる。今の旭新道路の合流点が、佐川団体の終点であり、泥流前の一軒一軒が思い出される。大沢に住居を構えて両方の高台に通い、耕作に従事していた大勢の人達、みんな苦労した方々ばかりであった。
災害に遭って、もと居た当麻に戻り、立派に暮らしている人も居る。私と同年輩の方は殆んど亡くなったが、後継者は立派に仲良くやっており、私は時々遊びに行くが、当時、災害に遭った人ばかりでなく、親たちが昔十年も一緒に暮らしたという親近感からか、懐かしく、何となく気分が和むからである。
若い頃、燕麦刈りに来てくれた佐々木計男さんの妹さんが、大陸の花嫁になるんだと云っていたが、やはり満蒙開拓団に行き終戦後無事戻ってきたが、先年、満洲の村長さんの様な方に招待されて、大変お褒めにあずかったと言っていた。常日頃、人は皆仲良くしなければいけないと云っていたが、その通りである。その方も今は芦別で編み物などを教えて暮らしている。
当麻には、佐々木福治さんの姉が居る。佐々木福治さんは泥流罹災者で、当麻では山つくりに熱心に従事して、大臣賞を早くに貰った人だが、当麻町の森林組合に勤めており、皆に慕われている一家である。真面目な方は、何処へ行っても真面目に仕事をされる。新井牧場の沢では、急斜面を毎日這い上がり森林を開拓し、不幸な目にあっても再起奮励した立派な方で、私は大沢に居た時からそう思って居た。
この間、当麻に行ったときはまだ雪深く、山へは出掛けて見なかったが、心配していたドイツトウヒも良くなっただろう。母岩も礫青岩で、風も強くないところだから、立派な林になったと思う。
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当麻町は、親達が宮城県から移住した処で、時々行って見る。当麻は、屯田兵の開拓で知られているが、佐川は屯田としてではなく細野農場への入植者で、それは明治三十二年だと言うから、丁度今年が百年になる。細野に入り十年開墾に従事したが、水田を作るのが嫌になって上富良野に来たとの事だ。
父親は細野さんの門口近くに分家になったが、細野さんの信頼を得ていたので、上富良野に行ったら難儀するから行くなと言われたそうだが、父は親類の者が大勢一緒なので来たらしい。父の出た後には白岩さんと云う方が入られ立派にやっている様だ。事務所は、石北線が出来たので、今は道路から入った処で郵便局長さんをやっている。
この間、当麻郷土館を見せて頂いたが、屯田時代の事が多く、細野に入った佐川のことは余り無かった。
当麻屯田から上富良野に来られた方は、日新の喜多久吉さん、市街の福屋 新さん、旭野の川野さんで明治の末頃に移住されたらしい。
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当麻居住当時、団体長の佐川岩治が、師団の建築用材料を愛別から運ぶのを請負って、その落成式に招待されご馳走になったというが、今でも愛別方面からは良材が出ている。佐川団体も当時、良い木材の産地として知られていた。親達が此処に入ったときは、十勝岳の煙は勿論、空も見えない程に茂った原始林であったと言うから、どれだけの木が茂っていたものか解らない。
入植してから何年後の事だったか記憶が定かでないが、ある日の夜中に、私が目を覚ました時、家の中に誰も居ない。それで、西隣の倉本さんに行って見たがいない。倉本さんでは、東隣の佐川政治の所でないかと送ってくれた。途中は大木で、月が出ていたが茂みで見えず、かすかに月明かりの空が見えるだけで、足もとが真っ暗だったことを覚えている。
今考えると、家があまり近いので火入れが出来ず、そのまま積んであったものと思う。この伐木は暫くそのまま置いてあって、そこは蛇が棲んでおり、子供の頃は、よく棒で遠くまで持って行き投げたものだった。
佐川団体には私の小さい頃、上道路と下道路があり、上道路は隣に行くとき人だけ通る小路で、下道路は馬車で荷物を運んだり、畑に通うのに使っていた。子供たちはよく上道路と下道路を走り回って遊んだ。下道路は泥濘になっていることが多く、今もある溜め池の所に湧水があって流れており、昔はよく、沢からカジカやザリガニを捕まえてきて放すと、秋までいたものだ。本家と菅原さんの所には池があり、アヒルなども飼っていた。
この付近は、始め水田にしようとの考えもあり池を作ったが、米が自由に買えるようになってからは、これを牛の飲み水に使ったりしている。池は広さ正味一反で小原さんに頼み掘って貰った。これは赤平や芦別へ行って降水量などを調べ、一反歩の池があれば、食べるだけの米が作れると言うことから造ったが、牛を飼うようになってその飲み水にしたり、鯉や鮒を飼ったりしている。八月頃には睡蓮が咲き、ひと頃ホタルもいた。
すこし下手に、北村末吉さんが入っていた。大正の始め頃、大沢の及川ミネさんと結婚して下金山に転出された。
佐川団体は、入地初期は何処を掘っても水が湧いたものだが、開けるとともに次第に出なくなった。
私の家の前では三、四尺も掘ると水が出た。当初、狩野覚三郎さんの辺りまで流れて居たが、それが段段と切れて、大正五年頃には、私の家の前に井戸を掘り水を担いで運んで居た様に、次第に乏しくなって、裏の沢から毎朝家族総出で担ぎ、後には馬に土橇を引かせ積んで運んだ。また、冬は各戸で雪を溶かして使った。
このように水が無かったのと、学校への通学が不便だったので、大正十一年頃大沢に移った。
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学校へは、山坂を二つも越して毎日通ったが、夏は下駄履きだから、朝露でズルズルと滑るので裸足になり、そして熊が出ないように、手に持った下駄をパンパン打ち合わせ鳴らしてよく通ったことを思い出す。また、菅原武次郎さんが針金で下駄の緒を作った事が話題に残っている。夏は熊が出るし、冬は大木から枝にたまった大きな雪の塊が落ちるから、大木の下は走って通り抜けなければならなかった。
大正十五年の爆発後は、現在の住居地に移ったが、ここは部落のはずれではあるが、平坦で冬は堅雪になり、何時でも通れるので良くなった。冬は市街の学校の高等科に通うのは、草分を廻り二里半の道程を朝暗い中から出かけ、帰宅も夕方暗くなってしまう。それでも高等科では、二ヵ年共に精勤賞を戴いた。今でも足が丈夫なのは、こうして歩いたからだろう。夏になると近道と言う西一線に出たが、軽い荷物や空の馬車は、基線の高田さんの所に出た。戦後、西川の坂から日向に開削道路が出来た。
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佐川団体の人は、働き者とよく言われていたが、隣の伊藤八重治さんの息子で、草分の金子村長さんの後へ分家した善夫さんも、仕事の早い人だった。
或る時、子守の姉ちゃんと二人で、大豆三反刈ったと言っていたが、半分ほど根っ子が付いていたと言う。爆発後、二股御陵に行き、佐川団体の土地には通って作っていたが、その後、旭川に出てから馬車追いをして儲けたと言ってた。やがて、戦中から戦後にかけてトヨタ自動車に入り、今ではトヨタの幹部社員となって立派に暮らしている。
働く人では菅原さん家族にも多く、佐川団体の奥に分家も出していたが、政次即さんが出るときは、落葉松が大分大きくなっていたが、戦後の農地改革で畑として買収され、大沢にも早くから造林していたのを、農地として処分されたと言って憤慨していた。新佐川道路を開削する時、北村さんと菅原さんへ道路用地を頼みに行ったときに、組長と農地委員に来て欲しかったと言われた。
佐川団体から出る人、それは人それぞれ勝手だが恨みを残すような事をしてはならないと思う。私は昔の儘の佐川団体を後世に伝えるつもりである。小説と違うので、正しく書き残さなければならないと思っている。
私の友人の谷口清作さんは、農地は問題が起きる土地だから山の分は買うが、農地の分は買わないと言って、山の分は大沢の分までもっていた。菅原さんの手放した分は、学校道路の所にも、当時背丈を越す植林地があり、忠次即さんの坂と言われる所だが、その後道路変更などがあったが、その林地は大木になり立派な森林となった。菅原さんにとっては、ひと鍬、ひと鍬開いた苦労の土地であり、それにあの十勝岳の災害で家族を亡くした所の、忘れ難い土地である。
私は常に考えているが、内地から北海道に来て儲けたら帰ると言う考えの開拓民も多く、成功した人、失敗した人、様々だと思うけれども、自然の大災害に遭い、最愛の家族を亡くされた方たちにとって、この地は、生きている限り、忘れたくても忘れられない、辛く悲しい出来事を体験した場所だと思う。
             ◇
私共の父祖が当麻町に入った時、団体長が三十二歳であったと聞いている。伊香牛付近に入った当麻屯田に対して、佐川が細野農場に入った時は番外地で、愛別寄りの地域らしい。宮城県から来道、旭川の近文で、ひと冬越したと聞く。私の家にサロベツ原野三百五十町歩払い下げの願書があった筈だが、応召中に無くなっていた。上川の方が気候が良いので、当麻の細野農場に決めたらしい。
当麻で十年過ごした。当時、当麻に何戸入ったか分からないが細野農場史では十二、三戸とあり、これは最後まで残った戸数であろう。十勝岳爆発後、再び当麻に戻った人もいるから、その戸数も入っているのかも知れない。当麻町役場で調べてみたが、細野農場のことは余り出ていなかった。
宮城県から来道した時は、一部は岩見沢付近へも泊ったらしいが、同方面は水害が多い所であまり長くは居なかったらしい。その人たちは上富良野に引っ越してきたが、大抵は佐川の親戚と聞いている。西中から富原の辺りまでに、十戸余り入植したらしい。
西中の佐藤幸太郎さんや、富原の岩部寅右エ門さん、千葉伝エ門さん、早坂清五郎さん、堀井さん他十数名は私共より早く上富良野に来たらしい。
また、私の隣の伊藤八重治さん達も、私の母を頼って一年後に佐川団体に来た。千葉寅吉さんも、学校の下の佐々木忠次郎さんの沢の入口に入った。のちに菅原さんが入ったところは、今のゴミ処理場の処である。
地主から分けてもらった佐川岩治の土地は、佐川の神社の下手二十間ばかり、大沢の藤山さんの門口の処までである。私の父はコルコニ沢に面した笹の浅かった所を開墾して本家に渡した。牛舎の沢を越して北向きの尾形さんにくだる処も、七反ばかり開墾して本家に渡した。地主とは聞き分けの契約だったので、本家には大分手伝ったそうである。後に佐川東一郎さんの処、狩野覚三郎の処などである。
             ◇
熊谷健次郎さんは、水の関係で牛舎の沢の一番上に入った。大正七年頃だったが、長兄は北村留五郎さんに奉公、次兄は鷹栖の農家に年期奉公、末弟は私より一級(学年)上で日新小学校に通っていた。
熊谷さんの父親は、北海道は厳しいところで長く居れない処だ。やがて帰ってくるだろうと言っていたそうだが、その父が亡くなって母がこちらに来られた。やがて子供の通学に不便なので、大沢の渡辺さんの出た後に入った。そして、あの十勝岳の爆発に遭われたのである。
あの日、熊谷さんのおばあさんは、今の日新ダムの所に通い作をしていた。魚釣りをしていた私も一緒になって、昼食を共にしていたが、夕刻近く、山が何時もと違う鳴動だったので、早目に仕事を止めて急いで帰途についたが、滝の沢から大沢に下りて見たが、何一つ無く流されてしまっていた。大沢は全滅である。夕方まで、若し助かっている人があるかと思い、必死に捜し回ったが、熊谷さんの人は一人も見えず、暗くなるまで捜しても見つからなかった。夜になり仕方なく藤山さんが開拓当時入っていた小屋に泊まった。熊谷さんのおばあさんは一睡もせず、嫁を二人も殺したと言って一晩中泣いて居た。
その日は、偶然にも、私の姉は家に来ていて助かったが、親類の熊谷菊次郎さんは、家族が多勢災害に遭ったので、殺しに北海道へ呼んだようなものだと嘆いて居た。気の毒で如何しようも無かった。
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一昨年の五月二十四日に、お寺詣りの帰り、郷土をさぐる会の事務所のある郷土館に寄って、原稿用紙を受取り、愈々新井牧場と佐川団体のことを書き始めようと考えた。しかし、多くの出来事が去来してなかなか書き出せない。そうこうしている中に、「佐川団体のことを是非書いておけ」と言われた和田さんとの約束もあるし、まだ大丈夫と思っていた自分の健康も最近弱ってきており、昔のことを話し合える関係の方々も殆どいなくなった。その少ない中のひとり、美瑛の慈光園にいる吉田くめさんに会い話し合ったが、色々と思い出して呉れ大助かりであった。くめさんは、九十歳を越しているが私よりも、新井牧場や佐川団体の事を良く知っている。
記憶をたどり、色々と人の話を聞き、やっとここまで書き上げて、どうやら責任の一部を果たしたとの思いである。以上でこの稿を終わりたい。
(平成十年市街別荘で・亀蔵八十九歳)

機関誌 郷土をさぐる(第16号)
1999年3月31日印刷  1999年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔