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基線道路の今昔

水谷 甚四郎 大正二年十一月四日生(八十五歳)

私の両親が三重県から北海道に渡り、現在の江花地区に開拓農として入地したのは大正五年で、五年後に島津農場の水田農家となったのは、大正十年であった。
丁度その年に、私は尋常高等小学校に入学したが、家は富良野川沿いにあって基線道路に出るまで六百米位あり、ほとんど人通りもない道のため草が茫々と繁ってくると、父が先に歩いて露払いをよくしてくれたものです。
学校からの帰りなど、道のまん中に青大将が悠々と昼寝をしていてびっくりした事も度々で、怖かった思い出が残っている。
古老の話によれば、基線道路も鉄道の付く頃は国道の予定地にとの声もあったが、地盤が悪かったので東側の東一線を国道に決められたとのことである。当時二十四号迄には人家もあったが、それから市街地に至る迄は両側とも笹薮となっており、今の町立保育所のあたりにはつぶれかかった細長い小屋が建っていた。
明治の島津農場創設当時に凶作が続き、食糧もなくなってかなりの小作人が離散してしまったので、管理人の判断で旭川の第七師団と契約して牧草を作り、その干草の保管倉庫として使われたのがその小屋であった。現在の公民館のところも一面の笹薮であったようである。
当時の物の運搬は馬橇が一番の頼りで、米を売りに出るのも、年貢米を納めるのも、買いものに出るのも専ら馬をつかった。道路の改良も管理人の命令だったものか、自主的にやったものかは定かではないが、毎年二月頃になると各戸が馬橇箱を造って、川からバラス砂利を運び道普請をし、道路の改良に精を出したので、私が小学四〜五年になる頃には道幅も広くなり、道路らしくなって往来も次第に増えてくるようになった。
島津農場入殖の早かった古老の話では、馬橇もなくリンゴ箱一杯を手橇で引いて運び、一日二十回もすると日は暮れてしまい、一杯二銭で一日中働いても四十銭にしかならなかった。
私は小学生の頃から豆本や雑誌を読むのが好きで、四〜五年生の時には学校の帰りに英雄豪傑の豆本を読みながら歩いたものだ。当時は通行者もまばらで、たまに行き逢う事があっても『勉強好きな感心な生徒なんだなァ』と思ってくれたのか、わざと避けて通ってくれる様子だった。
高等科に通う様になると、中富良野地区の生徒が数人ふえて自転車でも走れる様な道路になったが、貧乏な我が家では昭和に入ってからやっと自転車を買ってもらうことが出来た。
その当時は青年団に入っており、旭川迄も遠乗りをしたが、舗装どころか全部砂利道であったので片道二時間位で往復したことがあり、よく頑張ったものだと思っている。
昭和六十三年には国道バイパスも開通し、それに伴い基線道路も完全舗装となり、今年は歩道工事も進められ、今昔の感ひとしおでありがたいことだと喜こんでいる。
因みに、北二十四号道路沿いに人家が少なかったせいか、鉄道踏切がなく、獣道だけだったが、自衛隊が駐屯して交通量が多くなっても国鉄がなかなか踏切の設置を許可してくれず、不便を感ずる人々が多かった。私と西富区の本間区長さんとの話し合いで、町議会や行政監察局にも陳情して、漸く通行を許可してもらうことが出来たが、すぐに踏切の設置とはいかず、広い町道用地があるにもかかわらず、国鉄は線路の枕木を立てこんでまで通行止めをする頑固さには憤りを感じた程で、皆んなで莚旗を立てる直前までいったこともあった。
人生八十年も同じ町に住んでいると、あれこれといろんな出来事が思い出されてくるものである。

機関誌 郷土をさぐる(第16号)
1999年3月31日印刷  1999年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔