郷土をさぐる会トップページ     第16号目次

―演習場に関する余談(1)―
障害問題について

大森 明 昭和五年一月五日生(六十九歳)

◎ はじめに

上富良野演習場が、陸上自衛隊の中演習場として、供用以来、四十二年有余、年間約二十万人に及ぶ防人達が、有事、真に役だつ北部方面隊の精強化を目指して猛暑砂塵に汗して、或いは降雨厳寒に耐えて練度向上に精進している。
然し、この演習場も供用当時を省りみるとき、こん日の運用容易な長閑(のどか)なものではなかった。
今も町内ではよく耳にする会話のひとつに『上富良野町は、自衛隊との協力関係は、日本一の町だ』という。真にそのとおり大方の町民と、自衛隊相互間で通過してきた手形であった。
但し!!その蔭には、演習場隣接居住者、演習場への進入・退去(六本の)道路沿線住民が、幾多の障害と苦痛に耐えて戴いた真の理解と、尊い協力の賜であったことを、決して忘却することはできない。
当時は、駐留米軍の行動による障害・損失に対する『特別損害補償法』は制定されていたが、自衛隊の行動によって発生した障害・損失補償に対応する『防衛施設周辺の整備等に関する法律』が制定されたのは、演習場として供用開始以来十一年目の、なんと、昭和四十一年であった。
私は、三十二年有余、この演習場の行政運用を担任し、近傍住民の民生安定と、自衛隊の教育訓練向上の両立を図りながら努力をしてきたが、法に基ずく損失補償が末制定であった当時、多くの近隣住民からの苦言は絶えることがなかった。
然し、その都度、実況見聞はさせて戴いても、一方的なお詫びと、お願いで、損失に耐えて戴く以外の方法手段がなく、物心両面の障害と犠牲の連続に耐え難きを耐え忍んで戴いたのであった。
補助金・補償金に浸っている現状の社会、どんな小さな事案でも容易に採り上げ要望に副うよう整備を実施しているこん日の制度体制では想像を絶する。
星霜四十有余年を径た上富良野演習場、当時、大変な犠牲の上に、ご理解を賜った人びとの中には、既に故人となられた多くの先人を偲びながら、一冊の郷土誌に投稿させて戴き、供用当時の障害問題の事実を後生に伝えることができるならば、望外の幸せである。
この度の十六号誌への登載は、射撃・爆破の騒音振動問題。進入道路の砂塵、振動、騒音問題、河川の汚濁、氾濫洪水、渇水問題等、これ等の事実について、北の方向から地区別に、南の方向に順次記述する。
◎演習場の概要について
演習場の行政管轄は、上富良野町・中富良野町・富良野市に跨っている。
東西約六キロメートル・南北約十一キロメートルで、約三六〇〇ヘクタールを擁し、道央唯一の共用演習場である。
使用する部隊は、主として第二師団隷下部隊と同管内及び、上富良野駐屯地所在部隊であるが、道央の地理的条件に恵まれている関係から、道内各師団・団等も使用している。
また、米軍の冬季訓練等にも使用される等、年間約二十万人に及ぶ使用状況で、過去の最多人員は約三十万人もの使用実績を有している。
演習場の使用統制・整備・管理・警備・消防等の責任区分については、上富良野駐屯地業務隊長が、国有財産の供用事務担当官として、管理と警備の責任者となっている。消防については、上富良野駐屯地司令。使用統制及び整備責任者は、第二師団長である。
土地の取得については、民有地の買収が主で、農林省からの有償所管換受け、大蔵省から、開拓財産(国有未開地)及び、旧内務省の道路予定地等の所管換受け等である。
◎演習場となる以前の状況
演習場となった地域の最も早い開拓入植は、明治四十四年頃で、森農場・橋野農場等は、明治四十五年頃と聞いている。多田牧場・日高牧場・藤井農場・第一安井牧場・長野農場等は、大正末期から昭和初期のようである。
演習場の中心部となる倍本部落の東南方の橋野・森農場等は、新潟県から佐渡団体四十戸・続いて、大正十年には、十戸が、現在の森の台付近に入植開墾されたと聞いている。当時の開墾を物語るように、演習場中腹部一帯の原野、山林内には、ひとつ、ひとつ、手で拾い集めた小石を積み重ねた箇所が、随所に見られる。(その後、部隊は砕石用として利用した。)また、この地域の開拓者は、大正時代の豆成金当時、威勢が良くて、東中の市街地にある小学校を、倍本地区に移設させる動きがあった程景気の良い時代があったと聞かされている。
然し、豆成金の途絶えた昭和の初期には、土壌の悪い森農場、今の戦闘射場一帯の開拓者の殆んどが他に転出した。(高橋重志さんから聴取)なお、この土地の国有林側寄り一帯の山林は、大正十四年に、開墾の火入れの失火で大きな山火事となり、北は旭野川、南は布部川に至る広大な天然樹林を焼失したという。(本間庄吉さんから聴いていた。)
◎演習場内から転居された世帯数
昭和三十年、演習場売買時の居住者は、五十一戸で、昭和四十五年、南地区拡張に伴う(中富良野町・富良野市管轄内の)居住者は、一戸で、更に、昭和四十六年、中富良野町本幸地区買収時の居住者は、一戸で、合計五十三戸が居住していたが、それぞれ生活環境・農地条件等に恵まれた代替地を求めて転居された。
◎演習場の地形・地質
標高三二〇メートル〜八〇〇メートルの丘状台地で、地質は一部が火山灰地で、一帯に石英岩が多い。
斜度平均八・五%〜十二%で、集中豪雨の時など直線道路は、川と化する場合がある。
◎実弾射撃・(爆破を含む)火砲等
実弾射撃の主な火砲等については、特科部隊(旧軍の砲兵)の一五五ミリ・二〇三ミリ自走榴弾砲・七四式一〇五ミリ戦車砲・普通科部隊(旧軍の歩兵)の無反動砲・迫撃砲・対戦車誘導弾・施設料部隊の地雷爆破訓練等を実施している。
以下、首題の射撃・道路・河川に関わる問題について、地区別に記述する。
一、山加地区(道道吹上線沿道)の障害状況
(一)射撃による、騒音・振動障害について
Oさん宅の母親は、日頃から心臓が弱いこともあったが、住宅の至近距離を陣地とした火砲射撃を開始すると、直ちに、然も常に市街地のT病院に緊急避難入院の連続であった。射撃の振動によって、住宅等の棚から物が落ちる、目覚し時計は、一回の落下で壊われてしまった等、射撃が始まると、そのつど、棚の物をおろしていたという。演習場買収時の話しでは、住宅の近く(道道沿い)からは、射撃はしないと聞かされていたのに、とOさんは嘆いていた。
Kさん宅は、生後間もない幼児が、住宅至近距離からの射撃音響、振動騒音に脅えの連続となり、射撃がないときでも、食事の時など箸が茶碗に当って『カチン』という音にも『ビクッ』と鉢が震える状態となり、幼児の両親は、斯のような環境の地で暮すことは、子供が可愛そうで、もうこれ以上耐えられなくなった、として、この土地を離れて、市街地で暮らしたい、との決心をしたところ、老父母が、開拓当時から長年住み慣れた此の土地から離れたくない、とのことから家族の騒動にまで発展してしまった。(北海道新聞朝刊であったか、北海日日新聞であったかは、不明であるが報道された。)
≪対策措置≫
当日の新聞朝刊で始めて知った筆者は、登庁直ちにジープを走らせ、Oさん宅を訪ね、実況見分の結果、早くから此の問題で悩んでいたこと、隣家のKさんも全く新聞のとおりだ。更に、行政に関わる或る人を通じて対策を訴えていた事実等、本間題の取り組みには複雑な事項のあった事をも併せ聴取した。
帰隊即、じ後、当該地域を陣地とする火砲射撃は当分禁止させる措置を構ずると共に、退庁帰途、有力町議Kさん宅を訪ね、本間題の早期対処できなかった複雑事項等も含めて説明し、緊急に問題解決のご尽力を懇望した。
なお、町議に対する示唆事項として、演習場は、国家国民の貴重な国有財産である、供用目的のとおり、隅から隅まで有効最大限に活用しなければならない。
然し、現状の訓練規模と現有面積では、閑所地帯を設ける余積がない、演習場の効率運用のためには、どうしても、二戸について、他に移転をさせて戴きたい。この際、土地は町が買収し、二人の戸主を町職員に雇用し、町営住宅に入居させる等の手厚いご尽力を強く要望した。
引続き、町長に対して、K議員に申し上げた同様内容を申し上げたところ、被害者・自衛隊両者の立場をご理解賜り、早急に対処する旨のご回答を戴いた。
その結果は、迅速に移転措置を実現して戴き、以後有効に当該地域の活用を果たしている。
(二)演習場内からの鉄砲水による農地被害
旭野部落に住むSさんは、旭野川沿い、演習場山加地区西側の境界沿いに畑地を通い作で耕作しておられた。農地に接する演習場側の火砲陣地・宿営地の開発と併せ、装軌車両走行による草地の道路化等、地形状態も絡んで、融雪水とか、大きな降雨時は、幾度か浸水障害を被った。農民の命と謂われる表土の流失被害が数回に及んだ。
障害確認後は、境界線沿いに素掘り排水溝を新設、毎年五月、土砂浚いを実施して対応してきた。
また、林野庁との境界線に併行した装軌車道路が集中豪雨時、旭野川の渡渉地点で決壊し、氾濫洪水は、装軌車道路を川と化し、中茶屋方向に流出、更に、道道吹上線に併行して流れ、山加地区のEさん、Wさん、の牧草地・Sさんの畑地に浸水し、それぞれの表土流失の損害を被った。
表土流失量が余りにも多いため、演習場から腐殖土を搬入復旧すべく、時の町長に相談申し上げたところ、過去にも類似の事例があったのだから、土砂搬入等はしなくてもよい、とのご指示を受け被害者の犠牲に甘んじた。
≪演習場内におけるじ後の対策措置として≫
旭野川渡渉地点の道路の角度構造を改修すると共に、流失荒廃地復旧保全と併せ、山加地区の射場から、近傍住宅への音響障害削減を図ることと、道道吹上線を走る観光バス・一般車両等から演習場内部の射撃・野営の状態を遮蔽する目的をも含めて、道道吹上線沿いに、幅五十メートルで、ハルニレ・から松を植林した。(当時の宿営地には隊員の赤、青等のフンドシの洗濯物が滑稽にも見えていた)
二、中の沢地区の障害状況
(一)射撃騒音に関わるTさんの問題
当時の営農は総て、馬が主体で、更に副業として乳牛・豚・鶏なども飼育していた。
入植以来、静かな山間地での営農者は、これ等の家畜を好天時には牧草地へ放牧する飼育であった。
突然の火砲射撃と弾着炸裂音響に驚いた牛馬は、狂ったように牧柵の有刺鉄線で裂傷しながら柵を越えて、或いは繋束ロープを切断して畜舎に向って逃避することが幾度か。
斯のような牛馬の暴走時、常に心配でたまらなかったことは、屋敷周辺に居るであろう老人・幼児の無事を祈る気持であったという。また、茶の間や玄関の硝子がドスーンと抜けてくる感じの連続であった、という。
当時、O町議・H町役場課長の立会いを受けて、Tさん宅で射撃音響の測定を実施したが、主たる騒音は、弾着区域からの砲弾の炸裂音響であることが確認された。
然し、演習場の地形的条件と、効率使用目的からも、弾着区域を他に移設することは不可能であるため、Tさんの苦痛に対しては、これとした対処方策もなく只々耐えて戴いた。寛大なるご人徳と、ご理解ご協力に対し、今も胸の痛みを禁じ得ない。
その後、問題解決の手段として、当時の町長と協議し、此の地域を買収する計画をたて、継続上申をしてきた。
(二)家庭用川水の汚濁・氾濫の問題
中の沢道路の南側を流れる小さな川は、当時、流域農家の家庭用水として利用されていた。小さな水源は、演習場隣接の民有林地にあったが、主流となって流れてくる水は、演習場内の双子台・林子台が水源となっているため、降雨時には、射撃陣地、宿営地、爆破訓練場等からの泥土流入による被害は、地形条件から免れ得ない状況にあった。
また、中の沢部落を保護するための、人工植林地の保安林(ヌッカクシフラノ川〜旭野川の間)が、演習場火災によって全面積が焼失し、水害要因を増長させた。このような状況のもとで、家庭用水として使用不可能になったことが幾度か、その時の辛らかったことは一言では言い表すことはできない、と述べておられた。
このような水問題の対策として、演習場側の境界線沿いに素掘り排水溝を構築して、演習場内からの主流水を多田沢川へと流路を切替えた。
なお、後半に至ってからではあるが、演習場境界付近を水源とする湧水を利用した簡易水道工事を実施すると共に、障害防止対策工事として、多田沢川の改修工事を目下継続実施中である。
三、市街地区の一部と、日の出地区の障害状況
     (駐屯地北門〜東二線〜吹上線〜翁道の各沿線)
当該道路沿線の居住者からは、射撃騒音の苦情はない。また、演習場を水源とした家庭用水使用の河川もなく、河川氾濫とか、濁水等の問題事案はなかった。
但し、これ等の道路は、駐屯地と演習場を結ぶ戦車が往復する唯一の道路であった為、振動・騒音・砂塵等の苦痛は図り知れない大きなものがあった。
当時の住宅は、こん日のようなサッシ・防音等の密閉された構造ではなく、束石土台の木造建築が多く、出入口の引戸・窓も木造一重の隙間のある住宅であった。
以上の環境条件で発生する、沿道住民から苦情のあった主なものを列記する。
真夏の暑い日でもベランダの戸を開けて涼風を入れることができず快適な生活が阻害されている。また、洗濯物は、快晴でも外気で乾燥させることができない。(Eさん、Sさん)
営林署直営の苗畑で(今の社数センター・東二線道両側)作業中、砂塵がひどく、作業を一時中止して待避することもある。(Hさん、Fさん)
旧若葉町(今の新町)の住民は、営外自衛官の住宅団地であったが、睡眠中の幼児が、戦車の轟音と振動で狂気の状態で泣き狂い、高じて引きつけ状態になったこともある。(Eさん)
高等学校の授業中、戦車の通行による轟音・振動騒音は、とても勉強にならない(教職員)
レンガ積構造の住宅が、戦車走行の振動によって、建物上下の中間部で大きなヒビ割れが入ったため、特注の鉄帯で巻きしめている。(Wさん)
菜豆に、農薬散布の直後、重車両が梯隊で走行、砂塵が豆に付着する被害(Yさん)
農家住宅で、朝畑仕事に出るとき、玄関・居間の窓などは全部カーテンを引いておいても、昼に帰ってくると居間は砂塵で真白く足跡が鮮明につく状態だ。(Mさん)
このような問題の対策措置として、
自衛隊車両による散水と、自衛隊車両の走行速度規制。(装輪四十キロ・装軌二十キロ)関係規則に挿入のほか、期別の演習場使用割当調整会議で徹底を促すと共に、道路管理者の承認を受けて、速度制限の標識を設立した。
駐屯地北門から道道停車場線の間は、戦車走行は、最低減速とさせ、併せて人力による土砂の掃き取りを実施した。
高校授業時間中の戦車通行を規制し、授業開始前か、授業終了後の時間帯とした。
東二線・北二十六号・翁道については、施設科部隊によって、改良拡幅工事を実施した他、後半ではあるが、装軌車専用道路を新設すると共に演習場に関わる全路線の舗装工事を実施した。
また、専用道路の新設に当って、道路の北側にあったSさんの住宅を北二十四号の南側(夏季は、南風が多いから)に移転して戴いた。
四、富原地区(長野道路沿線)の問題
道路問題では、現在の多田分屯地管理棟の東方地点を陣地として、特科の火砲射撃を実施していた。これがため、装軌車が大砲を索引して駐屯地間を往復していた。
当時、馬車が辛ろうじて通行する狭い、しかも砂利が殆んど敷設されていない軟弱な道路で、自衛隊の重車両の通行による道路損壊は、言語に絶する状況で、道路損壊による農地への侵入通行とか、ホップ畑では、ホップの蔓用支柱を取り外して、泥濘化道路に敷き並べて車両を通行させたこともあった。(Oさん)
河川に関わる問題として、長野道路沿いに流れるホロベツナイ川は、流域農家の家庭用水として使用していた。
この水源の上流部は、旧長野農場で、原野部の野焼き、山火事などの他、戦車の射撃訓練場であるため、表土の崩壊が激しく、降雨による土砂が流入し河床高となり、氾濫洪水の被害も幾度か発生した。
家庭用水の不便は勿論のこと、渇水時には水田用水不足対策として、流域水田耕作者は、午前と午後に区分して交代潅水を実施していたが、水田の乾いてくる状態を見かねて交代潅水の定めを破り、近隣同志の人間関係に大きなひびが入ったこともあった。(aさん)
≪これ等の対策措置として≫
長野道路の装軌車両通行を禁止させ道路の保全を図った。
河川の保護については、ホロベツナイ川及び安井川上流部の装軌車両の渡渉を総て通行禁止すると共に、道路の渡渉地点には、土砂流入防止の築堤を構築し、更に地隙箇所にはシガラミ・雑草の植付け工事を実施する他、戦車射場と河川の間の地には、隊力及び外注工事をもって植林を実施した。
更に法施行後は、水量調整の砂防ダムを設置し、河川の一部流路変更と河床切り下げ等の改修工事を実施した他、目下、水量調整池の工事に着手するところである。
なお、家庭用水対策として、多田分屯地構内、二か所の湧水を利用した簡易水道を敷設した。
五、北十九号及び倍本道路沿線住民の問題
(一) 道路走行に関する問題
この道路は、演習場を使用する部隊の使用頻度が一番高く、当時の砂利道を重車両が梯隊で視界も遮断される砂塵の中を、自転車通学児童や、お寺詣りの老人の歩行する後ろ姿を見ている時の不安は、家族の者でないと判らんよ!!と聞かされた。
勿論、農薬散布直後の砂塵付着、菜豆、水稲の開花時期の砂塵被害も沿道農民の大きな悩み(倍本は沢の中であるため砂塵がいつまでも消えない)であった。
火砲を索引した装軌車両の頻繁な走行による道路損壊も、住民の苦情が尽きない問題であった。
当時、視界が遮断する猛裂な砂塵の写真付きで、新聞は大きく元老(Kさん)の苦言を報道された。
斯のような状況について町議会でも、地元議員(Mさん)から涙ながらに訴えられた。
傍聴していた筆者は胸をしめつけられ、今も脳裡に焼きついている。
かつて北十九号道路は、北海道の道路品評会で優勝したことのある道路で、沿線住民の手によって立派に整備維持されていた道路であった、と訴えていた。以上のような状況に対する措置は、先に記述した北二十六号・翁道路と同様な措置で対応した。
(二)水に関わる問題について
この地域は、演習場南北のほぼ中央部に位置し、演習場との接地面積は尤も広く、加えて倍本部落と演習場との地形的関わりは扇の要的な条件にあるため、水に関わる事案は極めて高い。
然し、この地域には素晴らしい湧水と清浄な小河川に恵まれている関係から、演習場内最大規模の宿営地として頻繁に活用されている。
かつて、陸上幕僚長が統裁した二個師団の対抗検閲実施に伴い、師団規模が宿営可能な拡大整備を実施した。
また、倍本部落に隣接した訓練施設は、基本射撃場・戦闘射場・高台には戦車射場がある。
以上のような諸条件の中で、下流域の農家は、演習場内からの湧水・川水を利用して、虹鱒・金魚・鯉などを養殖していたが、野営後の宿営地撤収時、散布した消毒薬剤が降雨時下流に流れ、養魚は口から血を流して死滅してしまった。(Tさん)
また、家庭用水としても使用していたため、昼食後の鍋、釜等を引水した水槽に潤かしておいたところ、鉄砲水で流失されたり、泥水で家畜に呑まされなかった事、晴天続きでも油断することなく降雨濁水に備えて、大きな樽などに汲水貯水を絶やすことはできなかった。
また、地形的に演習場側が隣接農地よりも高い等の高低差があるため、降雨の都度、農地への浸水被害は免れ得なかった。
このような農地への浸水防止対策として、演習場境界線に排水溝を設置して対応してきたが、法制定後は、西本道に併行して床固工を併設した大型排水溝路を設置すると共に大規模な沈砂池を設置し、更に、農地境界線に本格的排水溝路を設備して、民有地方向への浸水は確実に遮断している。
なお、家庭用水対策としては、演習場内の湧水を利用して関係全戸に簡易水道を設置した。
北十九号道終点方向のベベルイ高地(△五一六)南側一帯も山火事によって防災林の全域に近い面積が焼失する等、扇状地であるため、降雨のつど農地への浸水被害は絶えなかった。(Kさん)
表土の流失量も多いことから、一回ではあるが、施設料部隊の機械力をもって、演習場から牧草地の腐殖土を搬入させて戴いた。
なお此の地(並木の台一帯の地隙箇所には、隊力施工による玉石投入・シガラミ構築、植林を実施して対応した。
法施行後は、大規模の排水溝路と沈砂池二か所を設置して、春、秋には堆積土砂を浚っている。
また、山火事跡地を含めて境界線付近一帯に植林を実施して、民有地への浸水防止を図った。
(三) 騒音振動問題について
射撃・爆破訓練による騒音振動問題については、厚いコンクリート標的を目標とするロケット射場が基本射撃場に併行設置されていた。また、爆破訓練場が戦闘射場内にあった。これがため隣接住宅の蛍光灯とか棚の物が落下する等の苦情があり、爆破訓練場は、石山台南側の国有林の近くに、ロケット射場は元の長野農場跡の谷部の地に、それぞれ移設して振動障害の防止を図った。
六、ベベルイ零号線沿いの射撃障害の問題
中富良野町行政管轄区域内の本幸部落で、演習場の南地区に隣接居住していたK爺さんから、南地区の用地拡張に伴う特科射撃の発射騒音と振動による大変な障害が発生していたことを聴取した。
振動障害として、木造白壁構造の住宅が、火砲の発射振動によって、外壁・内壁の白壁部が数カ所崩れ落ち、ベニヤ貼りで応急措置をしていること、また最近白壁が落ちたばかりだ、と言って未だベニヤを貼らず、崩れ落ちた白壁を床の間の部屋にそのまま集積していた。
人身障害として、息子が馬でハロー掛け(プラウで耕した土の塊りを砕土する農具)をしていたところ、家の前から突然大砲を発射され、その音響で馬は狂乱状態で暴走し、息子は引き倒され畑の中を引きずり廻された。
手綱を肩から脇にかけていたため咄嗟のできごとで外すこともできず、住宅のそばで見ていて、息子は、もう死んだのではないかと諦めていたという。
Kさん宅の馬は、特別大きな馬で、挽馬競走に出場したり、造材山で働く重輓馬であった。
此のような大きな馬が狂乱状態で暴走し、軽いハローと、Kさんを引きずり廻すその状況を想像して当時、身の縮む思いを禁じ得なかった。
然も、此の畑には、大きな岩石が露出しており、躰を打ちつけられたのではないか、と心配だったと言う。
E爺さんから、始めて苦言を聴取した筆者は、直ちに、中富良野町役場に町長を訪ね、K爺さんからの見分結果を、説明し、他の地への移転措置を懇願申し上げた。
町長の甚大なるご尽力のお陰をもって極めて早急に移転の措置を構じて戴いたのであった。
おわりに当り、演習場供用当時、末制定法体系の下で、自衛隊の行動によって生じた障害事項の一部の事実について書き述べた。
耐え難きを耐え、忍んで下さった当時の戸主の大方、そして、町長以下、行政面で、これらに関わって下さった方々も既に故人となられてしまった。
理屈を抜きに耐えて下さったこの方々こそ真の理解者であり協力者であった、と感謝している。
此の演習場が、いつまでも、防人集団の練度向上の道場として、存分に使用できるように、行政に関わる人、管理運用に関わる人達は、このような歴史の事実を、少しでも理解して戴けることを願いつつ、更には、町民と自衛隊が、真の意味での「協力態勢日本一」と、自信をもって語るに恥じない相互関係の深い信頼と確立を念じて筆をおく。
【故人となられた関係者】
工藤信治郎  海原カネノ  和田松ヱ門  松岡 鉄雄  松岡 隆七
佐藤 良太  藤崎 春吉  菊地 彦治  山崎  宏  山本松治郎
山崎  功  二口苗畑所長 手塚 官一  手塚 輝一  築館丑太郎
佐藤平之烝  大窪 貞一  神谷加津馬  池上  保  南 米次郎
上田 美一  金田 惣吉  河合松五郎  河合 鶴吉  海江田武信
桐山 英一  山川 義春  三原 健吾  三島五二次  森  善治

機関誌 郷土をさぐる(第16号)
1999年3月31日印刷  1999年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔