郷土をさぐる会トップページ     第16号目次

各地で活躍している郷土の人達
…遠きにありて…

西條  弘 昭和十二年八月二十九日生(六十一歳)


昭和三十六年四月、行政管理庁(現総務庁)に就職することになり上富良野を離れた。二十二歳であった。それから四十年近くの歳月が過ぎようとしている。上富良野を離れ、生活の場も勤務の関係で札幌、釧路、函館、東京、広島を転々とした。東京の暮らしが最も長く、通算二十三年間を過ぎた今も、仕事の関係もあり東京暮らしとなっている。寝食を忘れ打ち込んだ行政監察マンとしての、国家公務員生活は、平成九年六月を最後に三十六年間の勤務を終えた。
現在は、これまでの知識や経験を活かして欲しいとのことで、財団法人「鉄道弘済会」に監事として勤める傍ら、友達とのゴルフや女房との旅行を楽しんでいる。
振り返ると、この間、故郷上富良野は、私の人生にとって、遠くにあってもその節目節目において、多くの元気と勇気を与えてくれたものであると感謝している。
今も、母や兄夫婦が故郷に在住していることもあり、年に幾度か帰省しているが、その度ごとにどっしり構える十勝岳の麓に広がる田園風景に触れると何とも言えない安らぎが全身を覆い、不思議な力が漲るのである。
そこで、私の人間形成期を過ごした、故郷での思い出や、国家公務員として一生の仕事となった、行政改革や行政の制度、運営の改善について、紹介したいと思う。
故郷(ふるさと)上富良野での思い出いろいろ
少年時代の私は、無口で、はにかみ屋、どちらかと言うと静かに物思いに沈む性格であった。運動も好きではあったが特に上手にはなれず、専ら山野を駆け回り、川遊び等に熱中していた。
隣人の徳武弘道さん(二年先輩―現上富良野町本町四丁目在住)や、高口 眞君(同級生―現弘前大学教授)等友達にも恵まれ、小川での魚つりや広場での三角ベース(草野球)、富良野川での水遊び、日の出山等におけるスキー、ホップ摘み、山ぶどう採り等懐かしく蘇える。
中学、高校時代になると、十勝岳との関係が強く回想される。高口 眞君、会田義隆君(同級生―現上富良野町本町二丁目在住)等と十数回は登ったと思う。白樺の中にある白銀荘に泊まり、翌朝、まだ暗いうちに頂上を目指し登るのである。新噴火口から噴き上げる白煙を眺め進むと、突然、急激な登りとなり疲れも重なり、連続する急斜面で恐怖心が全身を覆うのである。この時ばかりは二度と登るのをやめようと思うのである。雲海の頂上を見極め、馬の背で立ち竦(すく)みながら旧噴火口に達すると、ホットして満足感に浸れるのである。そして、また登りたくなり繰り返すのである。
昭和三十三年三月、富良野高校を卒業し、陸上自衛隊上富良野駐屯地業務隊職員となり、約四年間勤務した。仕事は、部隊が使用する物品の調達や管理で、いわゆる会計事務である。先輩職員の増谷伸也さん(現札幌市在住)や寄谷 弘さん(現上富良野町宮町二丁目在住)、自衛官の上司の方々から色々と温かく教えられ、何とか社会人としてスタートしたのである。仕事は面白かったし、余暇の野球、ソフトボール、スキー、また、職場の皆さんと大いに夢を語らう等楽しかった。
このような中で、仕事上法令の知識を求められることが多く、法律についての関心を強くした。法律関係の図書を買って読むうち、本格的に勉強してみたいと思うようになり、毎晩遅くまで法律書を読むことに没頭した。勉強は二〜三年続いた。そして、どの程度法律上の知識が得られたか試してみたいと思い、昭和三十五年度の国家公務員法律職(現在のU種)試験を受けた。試験は、法律問題だけではなく、大学卒業程度の一般教養問題もあるため、合格は期待していなかったが、幸運にも合格し、人事院の昭和三十六年度国家公務員採用候補者として登載された。
当時、法律職の職員を求めていた行政管理庁に総理府事務官として採用されることになり、自衛隊を退職し、上富良野を離れることになったのである。
上富良野での思い出は他にも色々とあるが、両親はもとより友人や先生、職場の方々、隣人、家族などに恵まれて、頑健な身体と強い精神力、そして、夢を持つ人間に育てていただいたと感謝している。
行政改革への挑戦
行政管理庁(昭和五十九年七月組織改革で総務庁となる)の職員として十二年間、道内にある札幌、釧路、函館の各局で勤務を行った後の昭和四十八年、本庁(東京)に転勤した。本庁では運輸省、郵政省、国鉄(現JR)電々(現NTT)等の行政監察を担当する監察官室に副監察官として配属された。
同室は十二〜三名の職員で、全国の都道府県単位に配属している行政監察局、事務所を動員し行政監察を行い、より良い行政をめざし、行政制度や運営の改善に取り組んでおり、私もその一員となったのである。同室には約二十年間在室し、最後の三年間は室の責任者である監察官(課長職)を勤めた。
この二十年間、思い出すと仕事は中々大変であった。内には、いわゆるキャリア集団の中での仕事であり、外にも、政、財界を始め学界や関係する分野のオピニオン・リーダーとの議論など、これまでの私としては、想像もできない世界に入ったような状況にあった。このような中で、担当した仕事のうち、国鉄や電々の改革に挑戦した時には、その必要性や経営上の諸問題の分析作業等で、勤務も連日深夜に及び、睡眠時間も一ヵ月を通し毎日三〜四時間ということもあった。当時、行政管理庁長官であった中曽根元総理、自民党行財政調査会長であった橋本前総理から、何回か直接指導を受けた。
疲れがピークに達した時、よく故郷のことが頭をよぎり、不思議に元気を与えてくれたものだ。また、この仕事の後に臨時行政調査会(土光臨調)の答申の柱となった国鉄、電々の分割民営化に大きな影響をもたらしたと、同会から高い評価をいただいた。
この室では、他にも、航空、タクシー、トラック、バス、通信等の規則緩和や郵便、貯金事業の効率化等についても、常に住民の目線に立って行政を見つめることを基本として取り組み、少しは世の中の役に立つ事ができたのではないかと考えている。
総務庁北海道管区行政監察局長としての三年
平成五年四月、大臣から総務庁北海道管区行政監察局長を命じられた。私としては、道産子であるばかりか、最初の勤務地でもあり大変感激すると同時に、何とか仕事を通じて、北海道の一層の発展や道民の皆さんのお役に立ちたいと心したものである。
同局は、道内の国の行政機関(北海道開発局、運輸局、郵政局、国税局等)、特殊法人(JR、NTT等)、道、市町村の行政のうち、国からの委任事務や補助金を受けている事業を対象に、行政が適正に効率良く時代の変化に即応して行われるようチェックし、必要があれば改善策を示すことを主な役割としている。
北海道管区行政監察局においては、地域住民の生活に密接に関連する、行政運営上の諸問題の改善に力をいれた。
例えば、平成七年四月に改善された、札幌市営地下鉄のプレミアム付きプリペイドカード(例 千円のカードで千百円の利用が可能)の導入は、監察局が導入の必要性を立証し、これまで制度上困難とされていたのを実現していただいた。これによって、毎年、年間十数億円が利用者に還元されるようになった。また、平成五年七月、北海道南西沖地震直後に、監察局の主催のもと奥尻町(離島)で、生活に密着した道内の十八の行政機関の担当者を現地に派遣して頂き、合同で相談所を開設し、災害に伴う行政上のいろいろな相談に応じ、生活不安の解消に努めた。
この災害対策の合同相談所は、総務庁として、初のケースとして実施したものであり、平成七年一月に発生した「阪神、淡路大震災」にも活かされた。
この他、バス乗り場が散在しているJR旭川駅前に、乗り場総合案内板を設置していただいたり、釧路や函館空港における到着後の経路を、高齢者にとって負担にならない、階段の昇り降りのない経路に改善していただく等、利用者から感謝された。
また、全国の公共事業費の十%を占める北海道開発行政について、北海道開発局を中心に行政監察を行い、道路、農業基盤整備等の事業が適正に、そして、より効果的に実施されるよう種々の改善を求め、成果を挙げていただいた。
更に、在局中には、横路知事、堀知事、桂札幌市長、北海道開発局長を始め各界の方々から、北海道における行政の現状や課題についてのご意見をお聴きし、議論もし、行政制度や運営の改善に反映していただいた。上富良野においても、町長さんや各界の方々に参加いただき行政懇談会を開催した。
当時、道の監査委員会事務局長の職にあった花輪洋一さん(上富良野で二年先輩)にも何回かお会いし、お話をうかがい大変役立った。
札幌で開催された「札幌かみふらの会」や、同窓会(昭和二十八年卒)にも参加したが、久万ぶりに多くの故郷の方々や、中学校の同窓生にお会いし、楽しい一夜となった。
局長室に飾られたラベンダーの鉢は、その香り、色合いの鮮やかさで、仕事に対する意欲を高めてくれました。
そして、今
平成八年四月、総務庁中国・四国管区行政監察局長に転任となり広島に赴任した。
同局は、中国五県と四国を管轄しており、管内には中山間地域や急傾斜地対策等の農業や、生活に密着した行政課題が多く見られ、その改善に取り組んだ。
平成九年六月、未だ、行政改革には多くの課題が残されている中で、総務庁を退職した。そして、同年八月、財団法人「鉄道弘済会」に勤めることになり、同会が全国の各地で実施している保育所等の福祉事業や、鉄道の一部売店(大宮駅等)の経営が、健全に発展するよう、財務や経理の監査を担当している。
また、行政管理センターで、規制緩和研究会のメンバーとして、各種の規制行政の緩和策についての勉強を続けている。規制緩和は国に活力を呼び起こし、国民生活の向上に欠くことの出来ない重要な事柄であるので、この面で、今後少しでも、世の中の役に立ちふるたいと考えている。故郷(ふるさと)上富良野は、北海道経済が混乱する中、色々と大変な状況にあるとは思うが、農産業、観光、自衛隊の街として、大きく発展するものと期待している。
これからも、故郷上富良野は、私に多くの元気と勇気を与えてくれると願っている。

機関誌 郷土をさぐる(第16号)
1999年3月31日印刷  1999年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔