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玉葱

玉葱は東中地区に於いて多田良雄が最初に栽培された。しかしその時期は大正末期か昭和初期とも言われているが定かではない。また当時の記録、資料等も見当たらず、岩田賀平さん、森本清さん等に当時を思い起こして頂き、種々お話をお伺いしながら記してみたい。
栽培当初の作り方は直播であり、十アール当り一升位の種子を播いたと言われる。発芽後間引をし管理するのだが、除草剤がない時代本当に草取りに追われたと言う。俗に言うズベラ草が主で、畑からバケツやかごで外に出し、やっと一回目除草が終わったと思っても最初に取った所は草で一杯、引き続き取らなければならず此の草取りには全く泣かされたという。また、足や腰が痛いので、畦をまたぐ椅子を作り座って草取りをしたという。
此のように労力のかかる作物だった為大面積の作付は出来ず、多田さんが七反か八反、森本さんの五反位は多い方で、あとは二反か三反位しか作られなかった。農薬のなかった時代玉葱バエの発生した時は大変で、廃耕しなければならない位、大きな被害を受けた。玉葱畑の中に広大な空地が出来て白菜などを植えた事もあったという。
収穫時は一個一個はさみで根と茎を切り、屋根コマイなどで四角の檻を作り畑に何ケ所も置き、叺に入れて運び乾燥した。また出荷は二十キロだったか三十キロだったか定かではないが、業者から預った雑木の板で箱をつくり馬で富良野迄運んだ。特に来年度の種子を確保する為、収穫した中から丸く形のいいものを選び出し種子用として残した。
昭和四十年頃から移植栽培が取り入れられて来た。
早目に予約しておくと五十人でも六十人でも出面さんの確保は出来た。実際に畑で植える人は六割位であとは苗とりだった。三十人も四十人もの人たちが一列に並んで植えていく姿は見事なものであり、こうした労力面での解決は出来たが、支払う労賃もばく大な金額となって来た。
当初東中地区のみでの栽培であったが、除草剤、殺虫剤も開発が進み次第に町内各地へと作付が広がり、特に水田休耕などにも取入れられて面積は増えて来た。
昭和五十年代に入ると面積も大体四十ヘクタール位にまで伸び、昭和五十三年玉葱耕作者部会が設立された。その後面積は増加の一途をたどり昭和五十九年には五十五ヘクタール、六十年から平成元年頃迄は九十ヘクタール、平成二年以降は百ヘクタールを越す大面積となった。十アール当り収量も五トン前後を維持し、平成三年は一三〇ヘクタール、十アール当り五、三八〇キロ、平成五年は一一〇ヘクタール、五、六〇〇キロと記録されている。
今日では早春から全量ハウス内で育苗され、移植も大半が機械植えに変った。管理面でも農薬の進歩は目覚しく、トラクターによる収穫作業も取り入れられ労力的にも大きく変化して来ている。
農協としても昭和六十一年に玉葱倉庫を新設し貯蔵選果に当っている。
平成九年度は五十一名の耕作者が一〇五ヘクタール位の面積を保持し、仲島久雄氏が部会長として親睦を保ちながら運営に当たって居る。
今後増え続ける輸入農産物の圧力は玉葱とても例外ではないが、高品質、食味良好な生産地として、上富良野の名声を残す為一層頑張ってほしいと思う。
(安部彦市記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉