郷土をさぐる会トップページ     第15号目次

そ ば

ある古老は語っていた。開拓と同時に先ず考えられたのは食料だ、持参したものはなし、買うにも金はなし、あく迄も自給する事だった。その為には開墾をし食物を作ること、「四百四病の病いよりも貧ほど辛い事はない」、貧しさを表した例えだが、人間食べる物のない事は貧より辛い事だ。木炭を一俵一俵背負って行き麦に替えて帰ると、家には腹を空かした子供達が待っている。来る日も来る日も此のくり返しの中で開墾は進められた。こうした中でもそばは作り易いことと、蒔き付けの時期が早まき、おそまきの出来る作物として各戸に作られた。山を焼いて種子をバラまきし、けずり蒔きと言うか浅く鍬でけずるようにして歩くだけで発芽する全く作り易い作物であった。蒔き付ける時期により草丈の長短はあるが山あいを白くそめる花盛りは風情があり各地で見られた。
独自の三角の実が黒く色づけば刈取り、立てて乾燥し、カラサオでおとし調整すれば出来上る訳であるが、此のそばの実は非常に風に弱く、大風が一晩吹くと殆んどの実が落されてしまうこともある。強い風が吹くような時はこれを防ぐため長い棒でそばを倒して歩いたものだと言う。各家庭で作られたそばは、石うすを使って粉に挽いたが、冬期間女の人の日課みたいなものであり、寒い部屋での粉引きは辛かったと老女は語っている。一日かかって一斗のそばを引いても家族が多かったので一回に全部食べてしまったと言う。今では笑い話として語るが、当時の苦しさが偲ばれる。
古い資料によると、明治四十三年頃の作付面積は五十町(ha)位、十アール当り十一石二斗、大正十年頃は一六五町歩で十アール収量十二石と記されている。昭和に入り十年には一二四町歩で収量十一石三斗などとなっている。今日本町に於てはあまり作付面積が見当らないが、当時は大切な食料として麦と共に各戸で作られていた。
(安部彦市記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉