郷土をさぐる会トップページ     第15号目次

裁縫所

町史「私学校」の項を見ると『義務教育の六カ年だけを終わって実業についた女子の娘時代の花嫁修業は、専ら和裁であった。学校の教師の夫人や、街で和裁を教えていたところに冬期間通ったのであるが、昭和の初期に高橋トミエという和裁の先生が広く知られている。大雄寺では大正七年から昭和十三年まで教えていたが、この年に小学校に補習科が出来たので止めている』と記されている。
他に、古老の話によると大正中期、佐藤サカエさん(現在の本町三丁目、佐藤輝雄さんの母)が教室を開いており、かなりの生徒がいたとの事で、当時「佐藤さんに裁縫を習いに行った」と言われる方や、また子息・輝雄さんの記憶を辿って頂くと大正後期頃から昭和二十五年頃まで、裁縫所を開いており、和裁だけでなくミシンを使ってエプロンなどを縫い刺繍を施したり、また文化刺繍も教えて、終業式には自宅に入り切らず、上富良野劇場を借りて記念撮影をした事もあったと言う。このことからも当時斬新な裁縫所であったことが伺える。
又同じく、大正中期に聞信寺でも和裁教室を開いていたと言う話を聞いている。
さらに日新地区では開拓まもなくの頃(日新は明治三十四年頃牧場経営開始)から昭和十年頃まで、小寺ミヨノと言う人が自宅で和裁を教えており、日新・清富地区の殆どの女性が習っている。礼儀作法も教えるなど小寺さんは模範的な女性として人望が厚かったとの事である。(佐川亀蔵さん談)
このように和服が日常着であった時代には、女性が和裁を身に付けるのは当然の事とされており、教える側も特に免許や資格を必要としないことから、ある程度の技術を習得し経験を積んだ人の家に、親戚や近所の娘達が三々五々集まって教えを受けると同時に、修養の場であり、コミュニケーション・憩いの場ともなり、この様な光景は市街地、部落を問わず見られたことである。
昭和の年代になってからの街の裁縫所として菅原さん(現中町みのや旅館のところ)、錦町の竹谷さん、若佐トミさん、高松迪子さん(現在栄町)、中町の上村さんと言った人達の名が残されている。
戦争が始まり、国家非常時と言われるようになった昭和十六年頃から物が無くなり、女性の服装も簡素且つ機能的なものに変わり、戦後は洋服ブームに乗って洋裁が流行し、更に高度経済成長期には既製服が主流となって、和裁はいよいよ下火になった。
しかし、日本古来の伝統美である和服の人気は根強く、近年その需要が伸びていると言われており、都市部では和裁の専門学校が開設されるなど、教師や技能者(仕立てのプロ)の資格取得の道も開かれている。
こうした時代背景の中で、かつての上富良野の裁縫所も徐々に姿を消し、最も遅くまで開かれていたのが高松さんで昭和五十七年の閉所である。現在では仕立てをしている人は何人か居るものの「裁縫所」の名は聞かれなくなった。
(倉本千代子記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉