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北海道上富良野高等学校

昭和二十二年教育制度改革による、六・三制の義務教育と共に、高等学校制度が出来たのを機会に、勤労青少年の教育の場として、全国的に定時制高等学校が設置されたが、上富良野高等学校も、昭和二十三年十月三十日、北海道立富良野高等学校上富良野分校定時制課程、(夜間普通科)としての設置認可された。
これを受けて村(当時は上富良野村)では、設置に向けて十二月定例議会に、議案第二号として「道立富良野高等学校上富良野分校設置について」を提案した。その主なる内容は次の通りである。
一、校舎
 旧青年学校校舎(島津農場米倉庫を改造した建物で、現公民館の場所)
二、開設予定
 昭和二十四年一月十日
三、学科内容
 普通科を置き、農業科を選択科目として置く
四、授業の形態
 十二月〜三月   昼間定時
 四月〜十一月   夜間定時
五、生徒数
 第一学年   四十名
 第二学年   四十名(二学級男女共学)
六、授業料その他
 授業料月六十円、入学料二十円
七、生徒募集
 昭和二十三年十二月十五日(開始)
八、その他
 (1) 授業に対する人件費は道費支弁、以外は村費負担
 (2) 教授は富良野本校より派遣、常駐として三名
 (3) 教師住宅は○竹を使用する予定
   (註)○竹とは当時村所有の共同住宅〜現割烹「いろは」
以上の原案は可決されたが、更に開設内容については教育常任委員会(委員長故飛沢英寿氏)に附託され、その審議の結果は、授業形態は学校に一任、生徒数は第一学年八十名、生徒募集は二十四年一月五日〜十日迄、開校は一月二十日などとして十二月二十二日の本会議に報告され、同時に設置運営に要する追加予算三十五万六千円も議決された。
その後、生徒募集が行われ、第一学年六十一名、第二学年二十四名、計八十五名の応募があり、昭和二十四年一月二十五日上富良野小学校を校舎として開校した。尚初代校長は、富良野高等学校長の武田俊介である。
生徒は役場、農協、郵便局、国鉄職員が多く、年齢も十代から四十代までの幅広い層であったが、昼の勤務と夜の勉学の両立はやはり厳しいものがあったが、昭和二十七年三月の第一回の卒業証書を手にされたのは、敗仲川正広さん一名である。
当時間借りしていた上富良野小学校校舎は、木造で冬の暖房は石炭ストーブで、しかも質の悪い石炭であることから燃えが悪く、生徒はオーバーを着たり、時にはストーブの回りに車座になっての授業もあった。又電力不足から、ローソク送電と停電も多く、その都度授業が中断された。授業は午後六時に始まり、九時三十分頃までであったが、生徒は夕食をとらずに登校する者が多く、空腹のため二校時終了の休み時間に、学校前の川仁製パンでパンを買って空腹を満たした。その後、生徒会厚生班が一括仕入れ販売したが、一ケ十円のパンはよく売れた。又昭和二十六年五月からは、ユニセフ提供による、脱脂粉乳によるミルク給食が開始された。
昭和二十七年十一月一日、北海道上富良野高等学校と名称変更独立したが、その後数度の学科転換を行っている。その経緯を見ると、
○昭四二年四月 定時制課程(季節制)農業科設置
  定時制普通科募集中止
  北海道札幌南高等学校の通信協力校(定通併修設置)
○昭四五年三月 定時制課程普通科廃止
○昭四五年四月 定時制課程(季節制)生活科設置
  定通併修募集停止、通信制に変更
○昭四八年三月 定通併修廃止
○昭四九年四月 全日制課程普通科設置(二学級)
  定時制課程農業科、生活科募集停止
○昭五十一年四月 道立移管、現在に至る。
校舎も開校時の上富良野小学校から、昭和三十一年十一月に上富良野中学校に併置。昭和四十年十二月には、現在地にようやく校舎が新築され移転した。
その後、体育館の新築や、特別教室の増築、昭和五十年十一月には道立移管に向けて視聴覚室、音楽室当の建築を行い現校舎に整備された。
この間、定時制普通科三百七十一名、季節定時制農業科百八十八名、季節定時制生活科百十四名、全日制普通科二千二百十四名、合計二千八百八十一名の卒業生を送り出し、本年上富良野町開基百年にあわせ、開校五十周年を迎えた。
(西口 登 記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉