郷土をさぐる会トップページ     第15号目次

小学校

上富良野町内各小学校の創立について、開校年月順に各校沿革史、上富良野志、上富良野町史、及び上川管内統廃合学校総覧などを参考に概要を記載する。
一、創成小学校
三重団体移住の年、即ち、明治三十一年の冬季農閑期から、島 義空が寺小屋を開き教授していた。
やがて明治三十三年四月二日、上富良野簡易教育書が設置認可を受け、同月中に字上富良野西二線北二十八号で共有家屋を仮校舎に充て、授業を開始する。通学区域は上富良野一円とし、生徒数は約三十名、教員は島 義空、次いで佐々木善次郎であった。
ついで、西三線北二十八号に三十二坪八合の校舎を新築し、明治三十五年三月三十一日竣工し移転をした。尚、工事費は二百十円とあるが審(つまび)らかでない。
やがて、市街地方面の戸数増加に伴って、市街地に小学校の設置を見るに至り、明治三十五年七月通学区域を変更し、西二線北二十七号を以て本校通学区域とした。その後、江幌、里仁、日新校の設置に伴い、区域を変更する。
学校沿革誌が載せている初期時代の功労者は次の各氏である。
吉田貞吉、田村栄次郎、吉田貞次郎、高士仁左エ門、田中勝次郎。
校名の変遷
上富良野簡易教育所(明治三十三年四月)
上富良野尋常小学校(明治四十一年四月)
上富良野国民学校(昭和十六年四月)
創成国民学校(昭和十六年六月)
創成小学校(昭和二十二年四月)
上富良野西小学校に統合(昭和四十二年四月)
二、東中小学校
明治三十二年三月、東中富良野地区への移住者漸く増加する中で、子弟教育を施す途がないのを憂い神田和蔵始め有志相計って、神田氏の小屋(三間×五間)を私設の簡易教育所とし教育を開始した。
教員は始め神田和蔵自から教鞭をとったが、次いで勢井愛次郎を招聘し、その任に当たらせた。
明治三十三年四月二日、東中富良野簡易教育所として設置認可をうける。同年九月九日に東九線北百四番地(北十七号旧神社所在地付近)に、掘立小屋に柾葺一重壁で天井なく、総坪数十七坪の木の香も新しい校舎が建設され、使用開始を見たのである。
その後、地域開発進展につれて児童数も増加し、校舎の狭隘と位置の不便から、東七線北十八号に中島農場主より敷地一町歩の寄附を受け、建設費は各有志の寄附を得て、工費六百五十円で校舎二教室を新築し、明治三十八年四月完成移転した。
しかし、大正十二年三月十八日午前七時十五分出火し、一時間半で校舎とそれに連なる一切を焼失したが、かえすがえすも一大痛恨事として記録されている。
校舎復興の態勢昂まり、東八線北十八号(現在地)にコンクリート土台付の新装凝らした校舎が竣工したのは大正十三年九月である。
校名の変遷
東中富良野簡易教育所(明治三十三年四月)
東中富良野尋常小学校(明治三十七年十二月)
東中富良野尋常高等小学校(大正四年四月)
東中国民学校(昭和十六年四月)
東中小学校(昭和二十二年四月)
三、上富良野小学校
明治三十五年二月四日設立申請、島津農場事務所外八十五名で五百二十七円六十五銭を寄附し、校舎を市街地東一線北二十五号に建設し、上富良野尋常小学校と称し同年七月より開校、同三十八年七月高等科を併置し上富良野尋常高等小学校と改称、同時に通学区域を字上富良野西二線北二十六号より東四線北二十九号に至る方一里と定めた。
明治四十一年四月一日尋常科六学年、高等科二学年、編制となる。
校地は始め四千八十坪であったが、明治四十二年一町三反六畝付与許可される。
校舎は木造平屋柾葺で三十九坪二合五勺であったが、殆ど毎年増築或いは修理改築が繰り返され、昭和三年に木造二階建一棟及び付属平屋建二百六十八坪(工費二万五千六百三十四円二十銭)建築で一応落ち着きを見ることとなる。
校名の変遷
上富良野尋常小学校(明治三十五年七月)
上富良野尋常高等小学校(明治三十八年七月)
上富良野国民学校(昭和十六年四月)
上富良野小学校(昭和二十二年四月)
四、江花小学校
明治三十九年村木農場を始めとして、翌年土佐団体、山形団体、次いで秋田団体そして個人移住者と次第に移住者は増加し、上富良野尋常高等小学校に通学する不便さから、村木久次郎等の奔走によって、上富良野第一教育所設立の認可を得て、村木農場内の中川八次郎の居宅を修理して仮校舎とし、明治四十一年七月十三日に開校した。
位置は大正二年十月西五線北二十三号に移転するまで西四線北二十四号の前記中川宅であった。
また通学区域は東は西三線、西は西十一線、南は北十八号、北は北二十六号内であるが、中富良野村の分村によって南は北二十号迄となった。
開校時は、単級で在籍一年から四年まで二十五名であった。
大正六年四月一日江花尋常小学校と改称し、昭和四十二年四月一日上富良野西小学校に統合するまで輝かしい多くの歴史を刻んでいる。
記録によると校地が山の中腹にある為、水や屋外運動場に苦労があり、校舎、屋内運動場等が段々になり階段式の渡り廊下で結ばれていた。
校名の変遷
上富良野村第一教育所(明治四十一年七月)
江花尋常小学校(大正六年四月)
江花国民学校(昭和十六年四月)
江花小学校(昭和二十二年四月)
上富良野西小学校に統合(昭和四十二年四月)
五、江幌小学校
江幌と静修の開拓は、明治四十年四月から入地が始まり、逐年移住者が増加するのに伴って、明治四十三年上富良野村第二教育所が設立された。位置は西八線北二十八号の十勝岳を望む小高い所であった。
児童数四十七名、総建坪二十八坪の校舎落成、四月十日に開校式を行い授業を開始した。明治四十四年に二教室を増築して計三教室となり、翌大正元年江幌尋常小学校と改称する。
当時、通学は夏は着物一枚に素足で草履履き、冬は着物にももひき、足には毛布を巻きツマゴをはいた。農繁期には子供も動員され、日曜放課後は勿論、大半の上級生達は週に一日か二日位は休まされて子守や農作業の手伝いをした。
大正七年から昭和四年十一月まで西十二線北三十三号に江幌尋常小学校静修特別教授場が設置された。
昭和四年、西九線北二十九号に校舎新築、十一月一日落成と共に静修特別教授場と併合移転し、現在に至っている。
校名の変遷
上富良野村第二教育所(明治四十三年四月)
江幌尋常小学校(大正元年)
江幌尋常小学校静修特別教授場設置(大正七年〜昭和四年十一月)
江幌国民学校(昭和十六年四月)
江幌小学校(昭和二十二年四月)
六、里仁小学校
明治四十年、守屋熊治率いる豊里団体が入植開墾し開拓の先駆者となり、翌年より単独移住者追々増加し、次いで津郷農場更に沼崎農場に夫々二十戸の入植者があり、地域が形成されていった。
これにともない子弟の教育の場が無く、最大の悩みの種であった。明治四十三年には児童数二十名近くなって教育の場の必要性が益々強く、一同協議の結果、神山翁に特に願い、その宅において寺小屋式の教育が始められた。同時に要請していた学校の設置について、明治四十四年四月認可があり、西十一線北三十四号に、経費全額四百八十二門六十五銭を地元負担で校舎建築、同年十月二十五日上富良野第三教育所として開校の運びとなった。校舎総建坪三十五坪、単級、児童数二十八名である。
大正四年四月一日里仁尋常小学校となり、以来郷土発展への数々の光輝ある歴史を刻み、昭和四十八年その幕を閉じた。
校名の変遷
上富良野村第三教育所(明治四十四年十月)
里仁尋常小学校(大正四年四月)
里仁国民学校(昭和十六年四月)
里仁小学校(昭和二十二年四月)
上富良野西小学校に統合し、廃校(昭和四十八年三月)
七、日新小学校
明治四十四年、新井牧場の発展によって人口が増加したので、児童教育のため牧場主の新井鬼司が校舎を建築したものである。位置は富良野川とピリカフラヌイ川の合流点(後の日新小学校の位置)から富良野川本流沿いに約一里上流にあった。
明治四十四年十一月十一日上富良野村第四教育所として開校し授業を開始する。総建坪三十三坪であった。
大正六年四月一日、日新尋常小学校と改称した。
当校にとって特筆されることは、大正十五年五月二十四日、十勝岳爆発により全流壊滅したことで、災害後作成した沿革誌には、「(前略)就中本校ハ右泥流々下ノ沢ノ中心ニ位置シ校舎ハオロカ校地ノ跡サへ判別ニ苦シムマデニ決潰流失シ職員一名同家族三名惨死ス当日ハ休校ナリシタメ児童死亡比較的僅少ナリシハ不幸中ノ幸ナリト雖モソノ惨死十一名ニ達シ通学区城中ノ死亡六十五名ニ及ビ実ニ全死亡ノ四割五分強ニ当タル」と誌るされている。
翌六月、下一里の前記箇所にバラック校舎一棟二十坪を建築し、六月十六日より授業を開始、建築費は義援金より、人夫は部落から出役した。
昭和三年、改築工事落成、五十九坪二合五勺、工費五千四百四十円。
その後、地域の復興発展の拠点としての役割りをつとめた当校も、昭和五十四年三月その責務を終えた。
校名の変遷
上富良野村第四教育所(明治四十四年十一月)
日新尋常小学校(大正六年四月)
日新国民学校(昭和十六年四月)
日新小学校(昭和二十二年四月)
上富良野西小学校に統合し、廃校。(昭和五十四年三月)
八、旭野小学校
旭野地域は大正六年に至って十人牧場約二十戸、山加農場十戸、中の沢十戸、計約四十戸の部落になった。熊の出る笹やぶの細道は山の端に遮られ、ヌッカクシフラヌイ川に妨げられ、見通しのきかない泥土道を八粁も上富良野尋常高等小学校に通う生徒の苦労は想像以上のものであった。橋は流失し、泥土はひざを没し、笹は全身をを濡らす時、低学年は欠席がちで、最も近い十人牧場の高学年の生徒も六粁の山道では約三時間かかったのが実情であった。
大正二年十月に、林 熊七、末永友槌、村上忠吉らの運動で掘っ立て小屋二十坪の仮校舎を造ったが認可にならなかった。
その後、前記三名の他、沖野常吉、野崎米三郎、福田慈三郎、前田林太郎、岡沢政吉など、地域全住民の熱心な奉仕で大正六年四月十三日竣工し、同年五月九日上富良野尋常高等小学校不息特別教授場として悲願の開校を迎えた。
大正十二年七月二十日独立し不息尋常小学校となり、昭和十年八月二十三日旭野尋常小学校と改称された。
昭和三十六年頃より、地域の過疎化と児童数の減少、教育効果の向上を図ることから、統合問題について協議が重ねられ、昭和三十七年二月に校下住民から統合についての要望事項が提出され、昭和三十七年三月十七日、同年同月三十一日をもって廃校し四月一日より上富良野小学校に統合することが決定し、その使命を終えた。
これは、上富良野町内における学校統合の第一号となる。
校名の変遷
不息特別教授所(大正六年五月)
不息尋常小学校(大正十二年七月)
旭野尋常小学校(昭和十年八月)
旭野国民学校(昭和十六年四月)
旭野小学校(昭和二十二年四月)
上富良野小学校に統合し、廃校(昭和三十七年三月)
九、清富小学校
昭和ひと桁台まで、清富は日新地域の一部となっており、清水沢(富良野川の分流ピリカフラヌイ川)の上流なので上清水と呼んでいた。従って日新尋常小学校の通学区域であったが、昭和九年十二月十二日、日新尋常小学校清水沢特別教授場として開校授業を開始した。単級で児童数三十名であった。
位置は当時の松井牧場内三七六四番地、一反五畝強の竹内伊三郎の土地を借り受け、総坪数四十一の校舎である。工事費は一千三百八十五円八十一銭、地域からの出役は延二百八十六人、馬六十頚であった。昭和十一年十二月に独立校として陳情し、小林正知、白井弥八村議等の努力もあって、遂に、昭和十三年八月二十二日付で清富尋常小学校設置認可されて同年九月二日喜びの開校式を行った。
校名の変遷
清水沢特別教授所(昭和九年十二月)
清富尋常小学校(昭和十三年八月)
清富国民学校(昭和十六年四月)
清富小学校(昭和二十二年四月)
十、上富良野西小学校
昭和四十二年四月一日、創成小学校、江花小学校と上富良野小学校の一部を統合して新しく開設されたものである。
創立に際し、この三校の状況及び開校までの経緯について、概要次の通りである。
歴史と伝統をもつ創成小学校は、昭和三十五年頃から校舎改築について地域の要望が盛り上がりを見せたが、やがてそれに対応して昭和三十九年に海江田町長、久保教育長から地域住民に対して、創成小学校校舎改築問題に併せて、上富良野小学校のマンモス化、江花小学校の児童数減少化等を勘案し、三校統合による新設校設立の構想が表明された。これに対して、実現に向けての多くの論議がなされ、特に建設位置について創成小学校校下住民は現在位置での改築を要望、江花小学校校下住民は遠距離通学にともなう交通手段の問題、市街地区は西島津、中央区、西富区、その他新栄町、三光町が通学交通手段のことから反対意見が出されるなど、統合実現まで三年余りの年月を要した。
昭和四十一年九月、ついに上富良野町統合新校舎委員会が発足し(一色正三会長他二十四名の委員)、地域住民の要望意見を反映させる中で町への要望等、統合促進に向けて活発な活動がなされた。
昭和四十二年四月一日設立開校。
位置は上富良野町西二線北二十七号として同年十一月十八日校舎第一期工事完了。同年十一月二十日開校式を行い、また同日からスクールバス運行が開始された。
  旧創成小より百十六名
  旧江花小より四十八名
  上富良野小より二百二十二名
計三百八十四名であった。
昭和四十三年八月十九日校舎第二期工事完了
昭和四十四年九月三十日屋内体育館工事完了
昭和四十四年十月二十五日校舎落成記念式が行われた。
校名の変遷
上富良野西小学校(昭和四十二年四月)
校名の変更なし。
(中尾之弘記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉