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上富良野電話中継所

上富良野電話中継所は戦後、道東方面の通信網の拡充強化によって、金山、新得と共に同時に設計され、上富良野町南区(現在の南町)に昭和二十六年五月新築建設され、旭川と帯広、つまり上川と十勝を結ぶ重要な中継所となった。
敷地一千坪、庁舎百二十坪、宿舎九十二坪で国内長距離電気通信網の基幹を担った。
線路波器架装置、保案加装置等金山中継所と同じであるが重信搬装置が三組だけ多い。
地元民との接触は少ないが、近代化する電気通信の背後にあって地味な仕事をつづけていた。
初代所長は今野熊蔵であったが間もなく無人化され現在は電話関係は自動化され建物も使用中止となり、自衛隊員クラブとなり、隊員の厚生施設として利用された。自衛隊員クラブが閉鎖後は、柔剣道、弓道の練習場としての武道館に転用、社会教育総合センターに武道館が整備されてからは、各種イベントの準備作業場として活用されている。
地域団体加入電話
上富良野東中地域団体加入電話利用組合は、昭和三十六年頃東中市街地附近で、三十戸位まとまるなら団体加入電話施設をしてもよいという旭川電気通信部からの呼びかけがあったので、東中郵便局長高橋寅吉が奔走し遂に四十二戸のとりまとめに成功した。
組合は昭和三十七年九月二十日設立総会を開き次の役員機構を定め発足したのである。
組合長   床鍋正則・副組合長 実広清一
理事    中西覚蔵・松岡国雄・高橋寅吉
監事    谷口清作・多田良雄・竹沢章雄
庶務会計  浜 巌(田浦寅一後任)
昭和三十七年度に発足したときは四十二戸であった。
交換所は東中市街地、松岡国雄宅に有り、二名の交換手(山川道子、高橋優子)が交代で勤務した。
通信開始は昭和三十八年二月であった。
農村集団電話の充実
通信機関に恵まれない農村地帯に、いわゆる「農村電話」の開通した年代を調べてみると次の通りである。
日新 昭和三十二年   小学校
草分 昭和三十三年   小学校
清富 昭和三十三年   小学校(十一月二十三日)
江花 昭和三十四年春  小学校
江幌 昭和三十四年五月 小学校
日の出は農村電話がない。市街地に近いので矢野辰次郎が電話をひいたのが第一号である。
昭和二十五年六月十一日に清富に有線放送が美瑛からひかれたが、浪曲の時間には畑から帰る者もあったとのこと。
清富の自家発電により日新に共同聴取が出来たのは昭和二十七年である。
私設電話
上富良野の電話の起源は明治四十三年だという。
幾久屋商店(金子庫三)が市街地から離れた島津農場の富良野川に水力による精米所があったので、この両者を私設電話によって結んでいたからである。
里仁と通信
里仁は美馬牛局が近いので農村電話がない。
上富良野でありながら美馬牛局下(昭和二十四年)になっているので、静修・草分の一部と共に少々不便なことも多かった。
電話は旭川で交換されるので上富良野と通話するのに時間を要し、上富良野発の郵便物が一日遅れて到着する。また美馬牛局区内と明記しないと、一旦上富良野局を経由して美馬牛局に廻るため他町村からの郵便物も一日遅れることがあった。
公衆電話
上富良野郵便局電話取扱開始
電話通話取扱開始   明治四十四年十一月六日
交換電話取扱開始   大正九年三月三十一日
(高橋寅吉記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉