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上富良野停車場(駅)

上富良野駅は、明治三十二年十一月十五日開駅した。
富良野線の鉄道は、旭川ベベツ(現在の西神楽駅)間が明治三十一年七月十六日、ベベツ〜美瑛間、明治三十二年九月一日、美瑛〜上富良野間、明治三十二年十一月十五日、上富良野〜富良野間、明治三十三年八月一日に順次開通した。
富良野線は初め十勝線と言っていたが、明治四十年に旭川〜釧路間の全通によって釧路線となった。
更に大正二年十一月滝川〜富良野間全通によって富良野線となったのである。
上富良野駅の開駅により待望していた住民の貴重な足が確保された。旭川へ出るのに歩いて丸一日はかかったところを汽車は一時間で到達し、開拓以来労苦を積んだ人々も折には旭川へ出掛けるのが最高の楽しみ、喜びになった。
又地元の産物農作物の輸送は勿論、当時主要特産品としての木材は、駅の東側一帯に山積みされ、毎日貨車に積込む人夫の人方の掛声が、遠く江花方面でも聞え今も懐しい思い出となっている。
又余り知られていないが、大正十五年五月の十勝岳爆発により全滅した平山鉱業所から産出された純粋な真黄色の硫黄が、かますに入れられ駅の吹抜き倉庫に山積みされていた。
かますからこぼれた黄色いかけらが一面に床にちらかって居り、遊びに行っては拾って家に持ち帰った。飾ったり、火をつけて青く気味悪い色、強い匂いに興味を持ち、遊んで、親に叱られたものだ。此の硫黄は当時道内一の産出量であったと思われる。
駅関係として大正十五年五月二十四日の十勝岳大爆発により発生した泥流により、富良野線上富良野〜美馬牛間の鉄道線路が、日新の沢からの出口の草分地区ニケ所で切断破壊されたが、線路関係者の努力配意により短期間に復旧開通している。
又駅や周辺が三度の火災を経験していることも記しておく。
昭和六年七月駅前倉庫より発火し、貨物車、下り乗降場、待合室、公衆便所を全焼、原因は放火で附近十五棟二十戸全焼したが、駅本屋は無事であった。
昭和八年六月にも駅前九竹料理店より発火し、駅前十三棟十五戸を全焼し同時に駅本屋、物置、公衆便所を焼失しており、原因は同じく放火であった。
昭和二十四年四月には駅前丸通作業員住宅から発火し、三棟八戸全焼、内一棟の日通営業所も焼失したが幸い駅は災害を免れた。
駅は昭和二十年終戦数年後は乗客数も多く、駅員も駅長以下十五名を数えたが日本経済の大きな変化に伴って現在の数名体制まで縮小されてきた。
車の発達増加、乗用車も一家に一台の現状に駅の乗客も急減し、又貨物輸送もトラック輸送に切替り貨物列車も富良野線には姿も見られない有様である。
駅前通りは町の中心として賑やかであったが、最近は物淋しい感じがする。
駅員も現在は定員も少なく又今迄考えられなかったが時間によって駅員の顔も見られず、土曜、日曜は無人駅になり、時代の姿としても淋しい限りである。
(高橋寅吉記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉