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開拓地の附輿第一号は神田和蔵氏

北海道に新天地を求め渡道した入植者は、国から指定された土地に入地し十年間で耕地にする条件で貸受け、開墾が完了した者から道庁の成功検査を受け、初めて自分の土地となるのである。
フラヌ原野の植民地区画が明治二十年から始まり二十二年に設定を経て、二十九年十二月、フラヌ原野の植民地開放貸下げの告示がなされ、翌三十年から一挙に入植が進み、三重県団体の五十戸(三百万坪の貸下げを得て)が最も多いが、石川県団体、福井県団体(現中富良野町)等が同年移住し開墾が開始されたのである。
この開墾を終え、成功検査を申出て、道庁植民課滝川派出所の係官の検査合格を得て明治三十三年七月六日付で附与をされたのは、東八線北一〇六番地(現東八線北十八号上富良野農協東中支所のところ)に入植した神田和蔵で、札幌郡当別村から明治三十一年に転住し、二年余で五町歩の面積を原始の荒地から畑地に拓いたのには誰にしもが驚き、その努力には多くの者の励みとなっていた。それには、当時としては全く画期的な畜力プラオを導入し三頭曳きによる、起耕法を駆使し開墾したのである。
これを現在の役場で管理している土地台帳によると、登記地番、富良野原野壱番」とあり同年(明治三十三年)九月十九日登記済、十月一日通知を受けている。この払下げについては明治三十年の国有未開地処分法ができ三万坪以下の移住者は無料(三万坪以上の大所有者には、千坪一円の割で払下げだった)とされ、租税も附与以後二十年間除祖の恩恵を得たのである。この土地の台帳評価額は五町歩、二九〇円(一ヘクタール当たり五八円)であったことが判る。
因に、二番目に附与を受けたのは、同年十二月二十八日付で畑、四町六反三畝二七歩を須藤源右ヱ門が受けている。場所は現在の北町二丁目で西小学校の前に当たるところである。地番を迫って見ると西一線から三線、北二十七から二十九号に入植した三重団体の名が多く連なっている。
(久保栄司記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉