郷土をさぐる会トップページ     第15号目次

初代村長が就任 選挙で村会議員誕生

明治三十九年四月、これ迄の戸長役場を廃し、二級村制が施行され、同年四月三日初代村長草浦耕蔵が就任した。村長は官選で従来と同様に官から給料が支給される。助役の職制はなく上席書記が事務を執るも新たに収入役制ができ福屋 新が就任した。
二級村の施行で大きく改正されたのは、村政を決議する村会議員を住民の選挙によって選出することである。だがこの選挙の執行は、戸長制による総代人の任期中であることから執行を延期し、明治四十一年五月に新制度の住民選挙が行われ、初の村会議員(定員一〇人任期二年)が誕生したのである。この選挙の有権者となるには現在の総ての住民が平等に享受する参政権がない時であり、満二十五歳以上の男子とされ、財産の有無や納税の多寡などによって、選挙権に差別のある制度であった。その当時の選挙権有権者数を調べる(四十二年発刊上富良野志)と、四十二年九月現在では村会議員選挙有権者数四〇四人、道会議員選挙有権者数一五七人、衆議院議員選挙有権者数一八人であった。
これらのことを古老から父がよく聞いたと、金子全一氏が話をして呉れた。
当時は資産があり税金を納めていなければ選挙ができないので、選挙権を得ることが成功者として信用される証しだとする風潮があり、若い者にはその家のためにも大きな目標になっていた。又年輩の方で無理をして税金を納め選挙権を得た人もあったと言う。だから投票の当日は殆どの人が羽織、袴に白足袋に着替え、正装して出掛けた。中には投票には毛筆の墨書であったから、その日のため準備し間違わぬよう練習を重ねた人もあったようである。
選挙人の選挙に対する考えが真剣であり、棄権防止などの言葉は戦後の啓発運動であり、清く正しいとする「選挙粛正」が叫ばれ、いつの頃か明らかでないが、役場の投票所内にあった神棚に拝礼をしてから投票したとも聞いたことがある。
昔も立候補制であり選挙運動はあったが、街頭演説と言えるかどうか立候補届出の当日自宅前で近隣友人に挨拶をする程度で、車での連呼など考えられない時代であったなど聞くことができた。
大正八年四月、村の自治体制も整い一級町村制が認められた。これにより官選の村長でない、村民が自らの手で選ぶ村長ができるのである。ただ当時は直接選挙ではなく、村会議員の互選によるもので、初代村長吉田貞次郎が選ばれたのである。
一級町村制施行で上席書記が廃され村会に諮って初代助役下平森市が就任した。
戦後新憲法の下で選挙権が保障され、二〇歳以上の男、女総ての国民が選挙を行うことになった。
これまで村会議員の互選だった村長の選挙も議会議員と同様に直接選挙となり、昭和二十二年四月公選初代村長田中勝次郎が当選したのである。
協力者 金子全一・佐川亀蔵  (久保栄司・村岡八郎記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉