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日の出の開拓

日の出地区は、市街地に隣接し市街を北東から西にかけて、抱くような形で位置する地域で、西から北にかけて草分(三重団体)に接し、北東から東にかけ日新、旭野に接し、また南東側では富原、一部は島津に接している。従って開拓の始めから、他の多くの地区のように、日の出地区として独立した開拓の歴史を持たず、草分や旭野など、隣接する周辺地域との関わりの中で開拓が進み、学校の通学区域や行政区画の部の制定などにより形成されていった地区であると言える。
まず、西・北西地域は、明治三十年に上富良野に開拓の第一歩を印した三重からの入植者が多く、一括して三重団体と呼ばれていた。明治三十五年七月市街地に新しく小学校(上富良野小学校)が設置されて、既にあった上富良野簡易教育所(後の創成小学校)と西二線北二十七号で通学区域を分離したこと、また明治三十九年五月、二級町村制施行の際に全村を十一に行政区画割りして部制が施かれ、その後、大正二、六、八年の再編成を経て地域が形成されたが、その第六部が日の出地区として定められたのである。
このように明治三十年に平坦地に三重団体が入地したのが開拓の嚆矢であるが、次いで日新に通じるコルコニウシュベツ川(基線、日の出ダムの沢)が山地に入る付近に、明治三十一年西川牧場(西川竹松)が開かれた。しかし、これは木材の伐採だけに終わり、大正に入って相馬牧場(相馬哲兵)に引き継がれている。牧場から農地へと変わるのは西川牧場時代から、既に成功検査による附与方式で個人の所有になっている部分があった。町史(四十二年)に記載の十五件から関係分は
・須藤源右ヱ門、西一線北二十七号
・森川房吉、西一線北二十七号
・長谷藤右ヱ門、西一線北二十七号
・鯖戸平三郎、西一線北二十七号
・川田千代、西一線北二十七号
・増田浅太郎、東一線北二十六号
一方、東二線北二十七号付近(日の出公園裏)から北東一帯にかけて、明治四十三年に貸し下げを受け神田牧場(神田和蔵)が開かれているが、大正十年にその主要部分を米谷浅五郎が譲り受けたのが米谷農場である。
また、東部地域のヌッカクシフラヌイ川が山間地から平坦地に流れ出る氾濫扇状地帯は砂礫土質で開墾が阻まれ、市街が近く便利な平地やその近辺に単独入地者があった他、本格的な牧場、農場は日の出を越えてその奥の旭野地域に開かれ、開拓当初は旭野と一体となっていたが、その後牧場や農場の分割や、学校の通学区域の分割などにより旭野から分離して、日の出東部地域が形成されていった。この地域の牧場や農場の変遷は位置、系統も複雑で把握出来ないところもあるが、関係分を列記してみると次の通りである。
渡辺牧場 明治三十六年、千葉県の渡辺彦七が貸し下げを受けたが一年余りで放棄された
岡部牧場 明治三十七年、渡辺牧場の後を受けて札幌の岡部熊次郎が再貸し下げを受けたもので大正五年手放している
宮下牧場 大正五年、旭川の宮下健治が岡部牧場を買い取ったが、当時豆景気の好況で翌六年多田牧場に一部を売り渡し、残りは大正十年に分割して売られた
五十嵐牧場 大正十年、宮下牧場の大部分を札幌の五十嵐佐一が譲り受けた。この頃、次第に農地は整って畑作も安定し土地を求める者も多くなったため、大正十三年に分割して個人に売り払われた
脇坂牧場 前述の岡部牧場の一部で上富良野在住の雑穀商脇坂のものであったが、所有の経緯は不明である。位置は神田牧場、西川牧場に囲まれたコルコニウシユベツ川沿いである
宮北牧場 脇坂牧場と同じく岡部牧場から生まれたものであり、譲渡されたものである。上富良野市街の雑貨雑穀商宮北忠平の所有である
九人牧場 大正十年頃、宮北忠平から高田・土井・岡和田・大石・田中・稲垣・西山・福井・西浦の九人が共同で買い受けたものである。九人が共同名義であった為、九人牧場と称した
以上、西、北西地域(三重団体)・北、北東地域のコルコニウシュベツ川沢入口付近(西川牧場)・日新寄り(神田牧場・米谷農場)・東部のヌッカクシフラヌイ川付近(渡辺・岡部・宮下・多田・五十嵐・脇坂・宮北・九人各牧場)に分けて開拓の概要について述べたが、日の出地区は市街に隣接するため、産業経済を始め教育文化等全般について市外地区の影響を受け発展してきた。
現在、昭和三十年代からの市街地の膨脹拡大で、過去に日の出であった地域は市街に組み込まれている。即ち、扇町・北町・泉町や、本町・宮町・旭町・新町・東町の一部はかっての日の出地域である。
(校閲協力…岡和田 繁  中尾之弘記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉