郷土をさぐる会トップページ     第15号目次

日新の開拓

日新の位置を示すと、北は美瑛町、東に清富、南には旭野、日の出、西は草分にそれぞれ接し、本町では東中地区に次ぐ一、六九〇ヘクタールという広大な面積を有する地域である。明治三十四年埼玉県北埼玉郡から新井鬼司が、牧場地開拓のため入植したのが、此の地区の開拓の走りと言えよう。続いて明治四十三年頃、作佐部 某が同じく牧場地の開拓のための付与申請を行い、これで現在の日新地区の形態がほぼ出来上がる事となる。此の第一作佐部牧場は、大正二年、当麻村の細野北六により買収され細野牧場となる。また佐川岩治を団体長とする佐川団体が、新井牧場内に開き分け方式により入植している。
大正八年の町村制施行時には清富地域と日新地域を合わせ第一部、後に第一区と呼ばれていたが、昭和六年、現在の清富にあった松井牧場が未墾地買収希望によって開放され、入植戸数の増加したのを機会に分離して現在の清富と、日新が誕生することになる。
一、新井牧場
この牧場を開いた新井鬼司は、埼玉県で県議を勤める程の有志者で、牧場経営を思い立ち、明治三十四年渡道して牧場地六四八ヘクタールの貸し下げを受け、牧場経営を始めることとなる。この貸し下げ地区の選定については、他の地区も検討はしたものの、豊富な木材資源に着目し、結局この地に決定した経緯がある。牧場もさることながら、造材によって、広く新井牧場の名を近隣に知らしめる事となる。
豊かな原生林であったようで、上富良野では最も遅くまで造材事業が行われ、巨木が多く馬による搬出が難しいため、富良野地方では珍しい富良野川本流を利用した流送による搬出がなされていたという。
造材と並行して成功審査の折りには二〇〇ヘクタールの牧場も開かれ、農地の開墾も進み第一次世界大戦が起こるに至り、豆景気により農地開墾も加速し、入植者も急増した。しかし、木材資源の減少、それに追いうちをかけるように、大正十五年の泥流被害によって牧場経営も下り坂となり、昭和十四年に牧場経営に終止符をうち、戦後の農地改革により分割、消滅となる。
二、細野牧場
細野牧場は、新井牧場に隣接し、明治四十三年頃五三〇ヘクタールの貸し下げを受けた第一作佐部牧場が成功付与を受けた後、大正二年に当麻村の細野北六が、買収して開拓した牧場である。
此の牧場の経営については、さしたる記憶がなく、ただ大正の豆景気の影響で、三十戸近い小作が入っていたと言われている。昭和十二年頃、五三〇ヘクタールを民有未墾地として四二区画に分割、四二名の名義で自作農創設により開放される。
三、佐川団体
日新を語るとき、忘れることの出来ないのは佐川団体の事である。明治四十二年佐川岩治を団体長として本体十七戸と共に、開き分け方式の契約のもと、入植し、先遣隊の十三戸を合わせ佐川団体を形成したのである。
○佐川団体の入植後の経緯については、後記で佐川亀蔵氏の自分史の一部を掲載し紹介する。
四、日新ダム
大正十五年の十勝岳の噴火により生じた泥流災害によって、富良野川の極度の酸性化により、農業用水として使用できなくなり、災害地だけでなく、中富良野町、上富良野町と、広範な地域の酸性鉱毒水対策の声が高まり、建設促進運動、対策協議など幾多の変遷を経て、昭和四十年、建設用送電線架設工事の施工を皮切りに、次々と工事の進捗をみ、遂に昭和四十九年八月八目、その竣工をみることが出来たのである。
えん堤幅二百十七・四メートル、高さ二十八メートル、貯水量四百五十万トン、堤体積四千八百立方メートルで、現在当該地区に真水の供給を行っている。
然し乍ら、このダムの建設によって、清富、日新の両地区合わせて七十三町歩の土地と、二十六戸の家屋が水没する事となり、両地区の過疎に拍車をかけ、ひいては、日新小学校の閉校にも影響があったことは否めないと思う。
五、佐川亀蔵氏の自分史(一部)
前々から既に亡くなられた和田松ヱ門さんから佐川団体の事は、君が書き残さなければ……と言われていましたので、自分史の一部として書いてあったものをそのまま次に書いてみたいと思います。
……和田さんが私の所へ来たのは昭和十五年十一月のことでした、それは第一回農業報國推進隊の一員として内原で講習をうけてみないか奨めにきたときでありました。日新はよい土地柄であり、十勝岳の爆発のこともあり是非……にと言うことだったと思います。爆発の事については、事ある毎に、話したり、書いたりしてきましたので、佐川団体にすんでいての実感をそのままに書いてみようと思います。
佐川団体の入植戸数は約四十戸で、佐川岩治を団体長として新井牧場地内に開き分け式により、自作農を目指して入植したのです。区域としては現在の白井一司さんの地先付近から、今私が住んでいるところからもう少し十勝岳寄りまで住宅が続いて建っていたことを記憶しています。爆発のことに少し触れなければならないのは、大正の爆発で鹿の沢の入り口にあった久保木為栄さんの家一戸だけが残り、後の約四十戸(団体入植後の入植や、分家などによりその後戸数は増えている)が泥流に流される結果となりいまでも本当に残念に思っていることです。
当時の所謂佐川道路と言われる通路についてすこし述べてみますが、佐川団体の入り口、現在の佐川道路は大正十一年新井事務所のちょっと先の坂の中腹から現在の公民館の方に出られるようになり、爆発前は現在の片倉さん宅のところは、深い谷になっており、大きな池の様相を呈していて、それに通じている小川が、何条もあり、きれいな清水がチョロチョロと音をたてて流れ、その小川ごとに土橋がかかっていて、私たちは此の橋を櫓橋と呼んでいました。爆発で、慕われていた谷も埋もれてしまい、今は片倉さんの住宅地にかわり、昔の面影は全く残ってはいない。
今、私が住んでいる所の集落は十七戸で形成していて、後に、鈴木、菅原の両氏も私の家の上手に入っては来たものの、一冬越して当麻に引き上げている。
私達が此処へ来たのは、当麻に居たころ隣の細野さん(細野牧場主)の奨めがきっかけで、一時細野の方(当麻村)に落ち着き、十年ほど開墾に精をだしていたのだが、その後細野の方針が。水田の作田を目的だったことがわかり、当時の北海道の気温では水稲栽培は不適と判断し、現在の場所へ入植することとなった。此の団体の中でも、団体長はいつも出歩くことが多く、父(民五郎)が鍬頭として十五、六人居た若者をまとめて、先になって働いていたのを思い出す、新井牧場に入ったときの条件の開き分けによって半分戴くことになって居たので、三カ年たって小作料を納めることとなり、団体長(岩治)に名義を借りて耕作していたため、新井地主も事情がわかっていたようで、小作料も負けて貰ったと言って父が喜んでいたことが、子供心にもよく覚えている。
私は(明治四十二年七月五日)当麻で生まれ此処へ来てから九十年近くになりますが、その間いろいろの事がありました。昭和十七年戦争の最中、佐川団体には、男手は私の弟と本家の登さんしか残っていなかったこともあり、何れ弟たちにも召集が来る事を考え、男手がなかったら、こんな不便な所には住むことはできないのでは……と言うことで、此の土地から皆で里に降りようと考えて居たようでした。
案の定、私が召集解除になり、帰ってみると、狩野さんや、北村さんは既に降りておりました。昭和十七年十月頃だったが、私共も此処を出るつもりで、父が富原斜線の小川総七さんと、その分家の所に移るべく話を決め、家の掃除も済ませ、明日にも引っ越しという事になった訳だが、母が突然此処を離れぬと言い出し、小川さんにことわりを入れ、引っ越しを中止した事などが、今では遠き昔の語り草となっています。小川さんには、種物やら農具の果てまで用意して戴いたり、自作地を譲るんだから来年は名義変更もしてあげるという好条件であったのに、母の此の土地に対する愛着心に負け、此の引っ越し計画がご破算になり、小川さんには大変ご迷惑を掛けた事を今も心に残っています。
あれから五十年余、頭はボケてきてるし、休も随分傷んで来ているのだが、今のところ何故か……母の五十余年まえの気持ちなのか……此処を離れられない気持ちで過ごして居るのです。
家族を始め、周りの人々にはいろいろとお世話になり、ご迷惑をかけつつも、余命幾許もない事を知りつつ、わがままな日々を過ごしています。
お許しをお願いいたしたい。
          平成九年十二月二十日記
(佐川亀蔵・佐藤正男記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉