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里仁の開拓

里仁は上川管内の空知郡の最北端に位置する。北東は郡界を越えて美瑛町であり、西側は静修で共に分水嶺になっている。南は草分であるから北を頂点とする三角形のこの地域は江幌完別川支流一本の水系でもある。国道二三七号と富良野線の鉄道がほぼ中央を貫通しており国道の郡界は旭川、富良野間で最も高い処であり、この附近を美馬牛峠と称している。
開拓当時、旭川から富良野盆地に通じていた旧国道は、昔々のアイヌ道を区画設定(明治二十九年富良野盆地の植民区画が設定される)以来和人が通行している間に出来た刈分道路であった。国道西七線附近から現今野 昇氏の所有地の沢を降り鉄道線路(富良野線)とエホロカンベツ川を越えて、沼崎を通り郡界へと続いていた。
旧国道と多くの人々が言う習慣になって今尚その一部が昔の名残りを止めている。富良野原野に入地した人々の大部分がここを通ったとされ、物資の補給に旭川に出た人々も必ず通行したのが里仁であった。
このように郡界を越すのに必ず通る所であるが、開拓が草分方面より遅れているのは、美馬牛峠つまり郡界を越した人々は其の分水嶺に止まらず、はるかに平原を望んで降りて行ったからである。
明治四十年西十一線から十二線、北三十五号から三十六号に至る区間に団体長守谷熊治氏のひきいる豊里団体(宮城県登郡豊里村より移住した)約二十戸が入植開墾の鍬をおろし、この地域開拓の先駆者となったのである。
北海道のこの地方の植民は五町歩の中に一戸ずつ入植して散村をなすのが普通なのに、全戸が二間に三間の掘立小屋を並べたのである。この集落形式は独特であったが、入植後三年目に火災を起こし不在中に灰になってしまった。故郷から持って来た総てを失った団体では非常な決心によって立ち上ったので、開拓の実績は大いにあがり上富良野でも優秀な方であったのである。
ところが欧州大戦による農産物の高値に酔っているうちに思いがけない暴落が来たので、大正八年から脱落者が出て佐々木兵三郎氏等三戸だけが残り九年から十年にかけていなくなってしまったのである。ここで落ちついて畑作農業にとりかかったのは明治四十四年以降に単独入地した人々である。同じく明治四十年西十二線北三十三号より三十五号の間に原田徳次郎を団長として阿波団体(徳島県出身者)約二十戸が入殖したが、思うにまかせず四十一年の秋頃には団体を解散して三戸になっていた。結局岡久利吉氏(飯田あい子氏の祖父)ただ一人ふみとどまり開墾に従事したのである。明治四十一年以降は単独移住者が追々増加して開拓が進んだのである。
次いで明治四十二年に津郷農場が設立され約二十戸が入殖している。農場主の津郷三郎氏は香川県綾歌郡長炭村の出身で、明治二十五年に父と共に上川郡東旭川に移住し十月に屯田兵となった。日露戦争に出征して勲八等をいただいている。明治三十九年に樺太に渡り事業に失敗もしたが、海産製造業で成功して明治四十二年三百五十町歩の土地を購入して津郷農場を設立したのである。大正四年には澱粉工場をつくり馬廻し動力で運転し後に発動機にした。又大正八年には豊里川上流に貯水地をつくり四町歩の水田をつくった豪快な構想の持ち主でもあった。
昭和十年村上 盛氏が津郷農場全部を譲りうけて経営し実質上村上農場となったが、津郷という地名が固有名詞になっていて表面に出なかった。戦後の農地改革まで農場として残っていたところは上富良野としての最後である。
里仁地区のうち鉄道から東部でほとんど郡界にある美馬牛駅を頂点とし、草分の金子農場を底辺とする細長い三角形をなしているのが沼崎農場である。
前身は第二マルハチ牧場で、美瑛町の田中亀夫氏が明治四十二年頃貸付けの申請をしたとされている。
大正二年に附与検査に合格し牧場は農場に変ったのである。これを沼崎重平氏(旭川市向井病院の実際上の経営者であったという)がゆずりうけて経営したものであり、大正二年に沼崎農場が設立された。
約二十戸の入地であるが単独入地なのでそれぞれ年代が違っている。最も早い人が桜木由五郎氏とされているが、繁義氏(由五郎氏の子息)の語る処によると、明治四十一年西一線の日の出に桑田氏を頼って入地、四十三年西十一線北三十四号附近に入殖した後、大正五年に沼崎農場に入地したという。開拓時代人々の往来もはげしかったと思われるがこうして現在の地域が形成されたのである。
弘法大師地蔵尊
美馬牛峠国道二三七号の郡界で村上高司氏所有地内(前津郷三郎氏所有)に安置されてある。明治時代本道開拓の雄図を抱いて各県より入殖して来た人々を力づけたのは、強い宗教的信念である。昼夜わかたぬ重労働と経済的窮乏を慰やす為には、心に安らぎと、身体には一定期間の休養を与える事であった。
ここに着目されたのが、当時上富良野村弘照寺開基住職岩田実乗師、下富良野村富良野寺開基住職宮田俊人師と美瑛村光明寺開基住職小倉秀淳師等が発願者となり十方施主を募り浄財を乞った。その過程に於て旭川を加えて四国にちなんだ四ケ村とし、富良野から旭川間に八十八体の御本尊を安置して富良野沿線新四国八十八ケ所霊場として開創されたものである。
明治四十四年札所八十一番として津郷農場(当時)に安置されたのが弘法大師地蔵尊である。大正七年にスパニッシュ・インフルエンザ(流行性感冒)が大流行したとき、美馬牛では多くの死亡者を出した。
ところがこれが里仁にまで被害を及ぼさなかったのは、津加郷農場(郡界)にあるお大師さんのご利益だとその頃信じられ、今も其の事が云い伝えられている。毎年三月二十日津郷の婦人だけ(昔から)によるお祭りが施行されている。
馬頭観世音菩薩
西十一線北三十五号豊里神社の敷地内の西角に堂があり、馬頭観世音が安置されているが、二度の移転でここに落着いたものである。
大正十三年荒 周四郎氏宅が火災により全焼し、その火災で牛二頭馬一頭を焼死させるという悲惨な出来ごとがあった。農耕の原動力である家畜を失った衝撃は言語に絶するものがあった。田浦金七氏の主唱で砂川子之吉、遠藤己之助、久保米八各氏が発起人となり、上富良野村第三部馬頭観世音として大正十三年九月二日六十二名の寄附によって建立した。場所は荒 周四郎氏所有地で国道沿いの一角であった。
開拓時代馬は農家の財産であり、馬がなくては農業が出来ないところから、部落全員の意志がこの一堂に結集したもので、堂の中には当時の人々の名がことごとく書かれている。寄附額で其の時代の実力もわかり、協賛商店名により取引先まで知る事が出来る。毎年四月十七日に大雄寺住職によって供養され、畜生の菩薩をとむらっている。
(菅野 稔記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉