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江花の開拓

江花という郷土の地名は、アイヌ語の河川名「エバナマエホロカンベツ川」のエバナマに江花という漢字を当てたもので、これをエハナと澄んで読むようになったと言われている。
明治三十五年十一月、滋賀県出身の村木久兵衛氏が土地七十六戸二十二万坪の貸付を受け、翌年の明治三十六年、現地に入地、村木農場として開墾事業に着手したのが江花開拓の起源となった。単独入地者としては同年(明治三十六年)、札幌郡江別村から移住した石川庄蔵氏が最も古い。
村木農場は概ね現在の江花二南と江花中央の一部で、江花十字路から左に折れて進むと中富良野との町村界に達し、エバナマエホロカンベツ川(上富良野側に流下)とシブケウシ川(中富良野側に流下)が農地の中で微妙に分水嶺をつくっている。中富良野側が新田中農場、上富良野側が村木農場、線号で表わすと西四線から西五線、北二十号から北二十三号に至る間である。農場の経営管理は久兵衛の息子村木久次郎氏が当った。
村木農場のほか、次の団体、牧場、数は少ないが単独入植者によって開拓が進められた。
明治四十年二月、大野嘉市氏が率いる土佐団体が概ね現在の江花四地域に、同明治四十年五月、大場金五郎氏が率いる山形団体の二十七戸が概ね江花二北と中央の一部地域に、同明治四十年、高階 某氏が率いる秋田団体(一部では明治四十一年、渋谷国次郎が団体長として入植した説がある)が概ね江花三の地域で美瑛町二股御料に境界を接している地域である。明治四十一年には、団体長の名は知られていないが越後団体が西は霜取牧場、東は秋田団体、北は江幌に接続するというほか表わしようがない江花の奥地(無理に線号で表わすと西八線から以西、北二十二号から北二十三号地域ではないかと推測される)に入地したが、熊と大木にまけて、三年目に道庁から附与検査に来た時には全部引揚げて一人も残っていなかった。明治四十五年、越後の霜取四郎氏が、土佐団体(江花四)を通過し江花の最も奥で中富良野奈江、美瑛ルベシベ川上流二股御料に境界を接する一帯の貸下げを受け霜取牧場を開いた。木材が豊富にあったので牧場の施設は出来たが馬がいなかったので、附近の牧場から集めて附与検査に合格したのが大正五年で、この頃すでに二十三戸の入植者が居たと言われている。附与検査が終ると間もなく区画を設定して各個人に売渡し、牧場の形態は失くなった。
江花小学校
前記のとおり各団体を始め個人移住者の数も次第に多くなり、明治四十一年の開拓期には十字路附近は早くも一部落を形成した。ここにおいて市街地の学校に通学することが不便であることから、村木久次郎氏の奔走によって、上富良野第一教育所設立の認可を得て、村木農場内(現在の升田弘一氏の土地にあたる)中川久次郎氏の居宅を修理し仮校舎として単級、在籍一学年から四学年までの二十五名で、明治四十一年七月十三日に開校した。
大正二年九月十四日、現在の公民館江花分館の位置に校舎が新築落成し仮校舎から移転、大正六年四月江花尋常小学校と改称、同年九月、一教室増築、二学級編制となった、昭和五年十一月、校舎を改築、屋内体操場、御真影奉置所、校長住宅が新築された。
その後数次の変遷を経て昭和四十二年三月十八日第五十七回卒業生を最後に約六十年の歴史を閉じ、昭和四十二年四月から西小学校に統合された。
開校以来在籍児童が最も多かったのは昭和二十五年の百二十五名で、西小学校に統合された時は五十三名であった。
開拓記念碑
この地を開拓した先人の苦労を偲び、その偉業を後世に伝え郷土の発展を願い、昭和三十一年十一月十日、山形団体入植五十年を記念して関係者同志の手により西六線北二十三号のふらの平原を一望できる地に開拓記念碑を建立した。
また、昭和三十九年九月には、江花開拓六十年を記念して江花住民一同が当時の江花小学校(現公民館江花分館)裏の丘の雄大な十勝岳連峰を一望出来る絶好の地に開拓碑を建立した。
江花神社
開拓六十年には六十年の記念碑を建立したが、昭和四十九年江花開拓七十年を記念して、神社建立が決まり当時区長渡辺徳市氏外部落民一同の寄附により神社が新築された。
江花記念誌
開拓八十年を記念し、先人の歩んだ道のりを一筋にまとめた記念誌を発刊する事になり、区長安部彦市氏を中心に、原稿集め資料集めに奔走し、昭和五十九年九月二十日江花開基八十年式典と共に記念誌を配布した。
(前川昌之記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉