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清富の開拓(一)

清富部落が発足したのは昭和十六年四月である。
それ以前は日新部落(旧上富良野村第一区)に含まれていた。従って小学校は日新尋常小学校で俗称・新井牧場の学校と言われ、新井牧場主である新井鬼司という人が建てた学校であった。場所は鹿の沢の中程の所(現在上富良野町ゴミ焼却所の上方約二百メートル位)に在ったが、大正十五年の十勝岳爆発の時に流失してしまった。
清富地域は、住民が十戸余りと少なく、通学の児童は十人もいなかった。日新小学校まで二里余りの道を(今の日新ダムの堰堤の処から南東へ山を横断して越える)通った。道は道路らしいものではなく人が通るから道型がつくという具合で両側には草や笹が茂り木の枝が覆いかぶさっていた。熊の出没も多く、ラッパや鈴を持って、しかも衣服は着物に下駄の子も居たし、通学は大変なことで休む者も多かった。
十勝岳の爆発で新井牧場の学校が流失したので、昭和二年に廃校になり、現在公民館に変っている場所に日新小学校が新築され、清富地域の子供達もそこへ通学する様になった。
昭和七年、松井牧場が分割され、民有未墾地として売払いされることなり、四十数戸の人がこれを買入れて入植して来たので一挙に住民は増加した。
住民は学校の新築を陳情したが聞き入れられず、致し方なく住民の自力で四十坪余りの校舎を造った。
これを『日新尋常小学校清水沢特別教授所』として認めてもらい、遠藤金吾先生を迎えて昭和九年十二月授業が始められた。
昭和十三年、特別教授所が小学校に認可され、遠藤先生の草案であった『清富』が取り上げられ、清富小学校と命名されたと聞いている。
その後、入植者は荒地の開墾に励んだので北の地に定着する人が多く、松井牧場の奥の方まで人家が建つようになった。部落としても役場の通達事項等に地域が広過ぎ区長の仕事が困難になったので、昭和十六年四月この地域を第一東区として分区し、第一区(日新)から離れたのである。清富と部落を呼ぶ様になったのは戦後になってからのようである。
清富部落の地域は、元松井牧場、新井牧場の北部・元細野農場の東部と、終戦後になって元陸軍用地の一部と四つの地区が集まっての集落である。
住民が多かった時は五十数戸、学校生徒数も六十人近かったが、今は農家は十戸、学校職員三戸、その他三戸、併せて一六戸で、学校の生徒数は八人と減少してしまい誠に寂しい感がする。
(竹内正夫記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉