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偶然出会った巨大噴石

平成八年五月八日(水曜日快晴)。友人で本町三丁目に住む佐々木 實氏が、一緒に同行してくれるとの言葉に甘え、倍本の奥地へ出掛けた。
目的は、私が平成五年から継続調査をしている、安政五年戊午に幕府御雇(箱館奉行支配)松浦武四郎が我が町の地を通り、十勝に抜けた足跡の調査のためであり、特にベベルイ川を渡る事前で、小川に沿って五丁程歩いたその小川を探すことにあった。
探す小川は、平成六年五月十四日に調査した時点においても、その位置が確認できなく、以来探し求めていたものである。
ベベルイ川の支流に当る小川で、両岸が少々深い沢の縁に来た。
この小川の上流は前年に調査しており、武四郎の記述とは異なる小川であることは承知をしていたが、調査時間も十分にあることから、小川を下ってベベルイ川に出る興味を抱いたので、深さ十m程の沢に下りた。
両岸共熊笹を伴った樹林で、狭い低地を流れる幅が約一〜二m程度の小川を、熊に出会うことを危供しながら魚影の有無も確かめつつ下った。
曲がりくねって下がること約一五○m、曲がり終えた時、ウムー!。あとの声は瞬時出なかった。後方の佐々木氏も唸った、ウヮーツ!。
目の前に、驚く程の物が立ちふさがっていた。
「すごいですねー!」
「ものすごいですねー!」
ややおいて互いに交わした言葉は、
「……こんな大きな石を見た事がありますかー!。……ありませんねー!。……大きいですねー!。……本当ですねー!。……これは大昔、山が大爆発した時飛んできた石でしょうかねー!。……そうかも知れませんねー!。……そうだとすれば、よくもここまで飛んできたもんですねー!。……本当ですねー!。」
驚愕と感嘆の言葉より出なかった。……沢は幅も狭く、巨大な岩石が割れ落ちることが考えられる地形地質の箇所は付近にない。上流に上るに従って沢は平原になる。
木深い沢の中で、沢からは見えないが子供のころから見慣れ記憶している安政火口(旧噴火口)や、富良野岳・前富良野岳のすり鉢状の火口跡を持つ山容と、太古の驚異的な物理現象を想像しながら、目の前に在る噴石と思われる巨石に、私ども二人は次に話し合う言葉を失っていた。
石の大きさ・重さ
先ず記念写真を撮った。それからまた幾度も眺めて、距離を測る器具の持ち合わせがないため、感による目測で立方体の大きさを測り、野帳に書き込んだ。正面幅約五m、長さ約七m、高さ約五mと見た。
とにもかくにも石の面には角がなく巨大な転石である。見掛け容積の八割を実容積としても一四○uとなり、石の比重を二・四とした場合にはその重量は実に三三六トンで、更に内輪で見積もっても三○○トンはあろうという石である。
十勝岳連峰の造成される地殻変動が活発な、聞けば気の遠くなる万単位の前世紀に飛んで来たものか、幾万年掛かってこの地点まで緩やかに滑り移動して来た石のいずれかのとは思うが、大変なものを見てしまった。
巨石の位置は噴石の群落地域
倍本地区から隣町の本幸、更にその先の布礼別の山麓地帯は、太古における爆発の噴石累々たる地域で、酪農を営む事すら出来得ない所である。
平成五年の調査時に、カラ川を2q程上った地点まで行ったが、融雪直後のカラ川には小さな溜まり水の箇所はあっても流水は既になく、耳を澄ませば、地底を流れる水の音をかすかながらも捕らえられ、正直なところ不気味さを感じた。カラ川は夏枯れをする川ではなく、年を通じて流水がなく、即ち融雪水や雨などは川底に溜らず地下水脈に洩れ落ち、流れた水は下流の平坦部で各所から湧き水となって地表に出て、この地層実態を立証している。
即ち、カラ川は深い谷に噴石が幾丈にも滞積してできた川であった。
先人のアイヌ語地名で、ポン、ポロの親子連れ(大きい・小さい・多い・少ない)の名が付いたピナイ(石の沢)や、単独のポロピナイ(多い・石の沢)の名が付いた沢が、この山麓の地帯にあることを考えれば、巨石の一つや二つがあったとしても不思議ではないが、見終わって目に焼き付いた残像の巨石は今も忘れることはない、実にもの凄い石であった。
この石が話題に上らないのは、極めて見づらい箇所に在るためである。石に霊があるならば石がどう受け取るか分からぬが、静かに人目に付かぬようにしておいてやりたい。
また、地主の立場も考えて、ソッ卜しておくべきであろうと願う。
(佐藤輝雄記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉