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『懐かしの十勝岳登山』

水谷 甚四郎 大正二年十一月四日生(八十一歳)

あの聖戦という美名の下に、純情なる国民を戦争の場に引きずり込んで、何十億という尊い財物と、幾十万という犠牲者をだした大東亜戦争も、天皇の御英断に依って漸く終結を告げた。国内に居た従軍者を先頭に、遠く海外に命を賭けて戦っていた軍隊も抑留の憂日に遭いながらも、年毎の復員を果たし終えようとする頃のことである。
悲惨なる戦争の後遺症ともいうべき食糧難を脱して、明るい燭光の見えだした頃を見計らって、農業に魅力を持った者同志を募った結果、当時の農業改良普及員であった岩田賀平氏を指導役にお願いをして、農友会という一グループが発足した。この初代会長として、私如きに白羽の矢が当たってしまった。
各自が農業技術の向上を掲げて、食糧の増産に取組むのが本来の目標ではあった、此の際は戦争中の息抜きを含めて、先ず十勝岳に登って見ようではないかと相談がまとまった。農閑期の八月下旬に実行する事にして、男女合せて四十名程の参加がまとまった。
早朝五時、まだ町内でも数台しかなかったトラックに乗車、幸いに好天にも恵まれて皆大はしゃぎのうちに、約一時間余りで白銀荘に着く事ができた。
やれやれと一同思い思いに腹ごしらえをして、七時頃から熊笹の生い茂った細い登山道を登り始めた。
九条武子の碑や遭難の碑に手を合せ、泥流跡地を横切る様に噴火口めざして登り始めた迄は良かったが、天候が良すぎて、太陽の照りつけに息の切れかかった女性が目立って増え始めて来た。
近頃テレビ中継で見かけるマラソン選手のように、第一集団から第二、第三の集団迄は良かったが第四になるともう悲鳴を上げる始末、こんな事なら、初めに抽せんでもして、男女組の班を作っておくべきだったと思ったがもう後の祭りである。オーイと声をかけて先頭集団に待ってもらっても、後続集団がやっと辿り着いたのを見届けると同時に、さあ行くよと出発してしまう。後続者はほっとする間もなく登らなくてはならない。十時、十一時と時がたつにしたがって、もう大声で呼んでも聞こえない程距離がはなれてしまった。後続組はますます遅れてしまうため、奮気を促しながら私の位置は徐々に後退してしまう。こうなると責任は私一人にかかることになってしまった。仕方がないので、持ちあわせの紐や綱などにつかまらせたり押し上げたりの登攀状況となってしまった。
噴火口での待ち合わせも前述の如く、後続者は、此所があの恐ろしい大爆発を起した場所だなどと感慨に更ける余祐などほとんどなく、愈々頂上を目指して挑戦だ。もう先頭の第一集団は頂上に近づいているが、益々急坂となるので、われわれの女性集団の足はいっこうに捗らない。団体意識の強い男性は持ち物を上に置いてわざわざ降りて来て、押したり引っ張ったりしてくれるのだが、お山の大将おれ一人とばかり、もう頂上について弁当を頬張っている者もいる。
あれこれしてどうやら到着し、光顔巍々(こうげんぎぎ〜山頂標)の碑に無事到着の御礼の合掌も懇ろに、弁当を食べ終った頃になってやっとほっとすることができた。
苦労して登っただけに、頂上の眺めは又格別だった。
下界の富良野盆地は勿論、遠くは旭川方面迄見渡せるし、大雪山系の連山が肉眼でもはっきり見えて、天候に恵まれた事をつくづく感謝した。
さて一同南方に目を転ずると、富良野岳がすぐ目前にある感じだ。天候が良いので全く美しい。
我々の予定では、馬の背を越えて旧噴火口の上からすべり降り、各々露天風呂で汗を流してから三段山の裾づたいに白銀荘迄歩き、四時頃迎えに来てくれるであろうトラックに乗って帰ろうではないかというものである。当時は、十勝岳温泉は開かれておらず、吹上温泉も戦時中に廃業閉鎖されており、唯一白銀荘が登山の拠り所となっていたのである。登山道も現在の様に整備されたものではなく、獣道をたどるといった状況だった。
この時の好天は、予定の変更を主張する元気者に味方した。というのは、目前の富良野岳まで足を延ばそうというグループが出て、結果として二つのグループに分かれることになってしまったのである。
この天候なら富良野岳に登れるのではないか、無理だと思う者は近道を降りたらよかろうという事で、富良野岳を目指す元気な者はもう出発の段取りにかかっている。私はともかくリーダーとして、当初予定経路のグループに加わり旧噴の所迄来て遅れて降りる人を待ったが、あの降り口も私の想像より随分険しくなっていたのでみんな下りしぶっている。仕方なく男性組の後を追う始末となってしまった。
陵線なので上りこそ少なかったが、岩と岩にはさまれた高い岩には手を貸したり、後ろから押してやったりひているうちに、変り易いは女心と山の天気といわれる様に、急に雲ゆきが変わり始めた。曇って来たなと思っているうちに風も吹き始め、困った事にならなければ良いのだがとの心配が的中し、旧噴火口の富良野岳登り口分岐迄の間には雨も加わり、寒さが増して来た。
先発隊の面々はもう富良野岳の頂上から降りてくる始末。もうこれ迄と男性組の後について音を上げる女性組を激励しつつ笹の根につかまりながら、白銀荘目指して細い登山道を降り始めた。
その時にはもう雨も本降りとなり、最悪の状態になった。近頃の様に軽いビニール合羽があるでなし、どうするすべもないままもう少しもう少しと励ましながらの下山となり、ズルズルとすべりながらの強行軍となってしまった。
当時女性の下着は腰まきにモンペというのが普通だった関係で、雨にずっぷり濡れた場合には腰巻が足にからみ着いた。仲々歩きにくくなるので、余計に遅れていくという条件が加わって捗らない。時計を見るともうトラックが迎えにくる頃だ。
気持ちは急ぐが落伍者の足は一向に進まない。すべって転んだりしては大変なことになる。注意に注意を重ねながらも漸く白銀荘迄辿り着くことができた。
先発隊は悠々としていて、焚火で濡物を乾かしながら入浴もすませた様子。われわれは脱ぐひまもなく少し焚火に手をかざすだけで丁度トラックが着いた。
下界は雨など一粒も降らず干かんな照りだというが、ここの雨は一向に止みそうもない。予定より少し遅れて一同車上の人となり、男女の別なく身体を寄せあいながらうずくまってガタガタ道を下山した。
幸いに風邪を引いた者はいなかった様だ、全く張切って出掛けただけに一同ションポリして家路に向かった。
農友会の始めの行事はこんなかっこうで終ったが、これに懲りてか、二年目の会長さんからはしばらくの間なるべく近い所を選んで行うということになった。それから三十余年続いた農友会の行事も、世の中の遷り変りに併せての行事となって、「北海道」せましとばかり行楽の輪を広げてきたが、設立当時の壮年も還暦や古希となって、現在では農友会も自然消滅の姿となってしまった。レジャーには事欠かないグループが乱立して、それぞれが自由な行楽をしているようだ。今の調子で進めば、昔の百年は今の十年ぐらいの変りようだとも思われる。私自身も辛かった昔をふり返ってどうなる事やらと、一抹の不安を抱きながらも、余生を楽しく過ごしている。

機関誌 郷土をさぐる(第14号)
1996年7月31日印刷  1996年7月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉