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十勝岳爆発遭難記録

高橋 寅吉 大正三年五月十六日生(八十二歳)

はじめに

大正十五年五月二十四日の、十勝岳爆発による、泥流被害は百四十四人の尊い犠牲と、草分地区の広大な農地の埋没となった大災害でした。
その悲惨な状況等については、その後に発刊された「災害誌」「災害写真集」「かみふ物語」誌を始め、「郷土をさぐる」本誌に数件の遭難記が登載されて居り、泥流の奔流した日新牧場の沢の実態及び、鉄道線路西側の状況は概略伺い知る事が出来ましたが、日新の沢に次いで、犠牲の多かった線路東側の草分地区では、被害の状況が詳(つまびら)かにはなっていません。
此の度、私の親戚であった故高橋代二氏及びその身内の方から(他市町在住)当時の状況を目の当たりで見た記録を入手できたので、此れ迄の史実を少しでも補充できればと願い掲載させて頂きます。

(その一)十勝岳爆発遭難記
     ≪故 高橋代二(家族の記録より)≫

当日は朝からシトント小雨が降っていました。私は田圃のしろ掻を済ませて家の中で一ぷくしていました。前日来、十勝岳の山の方から遠雷の様に無気味な山鳴りが聞こえていました。爺さんは「山が鳴っているから何かあるかも知れん。東中倍本の方から来るかも知れんから飯を炊いて置かんとならん」などと婆さんと話していました。家内は市街地へ買物に出ました。夕方家を出たり入ったりしていた爺さんが突然家に飛び込んで来て、「水が来たから逃るんじゃ!!」と、土間にいた婆さんの手を引掴んで表の国道に飛びだしました。私も夢中で後に続いて飛び出し山の方を見ると、毎日見なれていた筈の東の方の景色の中に、一瞬目に飛び込んだのは左手の山際から右手ずっと向こうまで、横一直線にのびた今迄見た事も無い様な、細長い壁の様なものでした。
大分遠くてよく見えないのですが、其の壁の上に一面に端から端迄、小さい生き物の様なものがうようよと群がって居て、それが一斉にモジャモジャと蠢(うご)めいている様でギョッとしました。
婆さんの手を引いて爺さんが息を切らせて山に辿りつくと、二、三人の人が走ってきて手をさしだして助けられました。間もなく田圃で働いていた人達も馬と一緒に走ってかけ登って来ましたが、買物に行った妻はまだ帰って来ません。そんな事を気にしている暇が有りません。突然、爺さんが「嫁が来た」と叫びました、何人かの人が走って行って妻を抱き上げて呉れました。座り込んだ家内がやっと立ち上がりかけた時、すぐ眼の下をゴミとも泥水ともつかない黒い物が、凄い勢いで通り過ぎて行きました。
下手の方を見た時、泥水が線路の土手に突き当たって渦を巻いて居ましたが、直ぐ土堤を越えて溢れ始めました。線路の此方と向こうで、電線がケーンケーンと鳴って、電柱は五〜六木一遍に倒れました。其の時流れて来た馬が土堤に脚を突張って立ち上がろうとしましたが、直ぐ押し流されて脚を四本共空に向けて流され見えなくなりました。
家の横に七〜八木立っていた太いポプラの木が、一度に全部倒れて見えなくなりました。爺さんが建てた頑丈な納屋も少しつつ傾いて動き始め、鉄道線路の所迄は其のまま流れていたのですが、線路に引っ掛かるとゆっくり回転する様に横倒しになって壊れて行きました。上手で誰かが叫びました。走って行くと山際のドロドロの中から誰かが這い上がって来るところでした。走っていった爺さんが手を引張り乍ら「お前は誰じゃ」と叫ぶと、其の人は口からゴボゴボと泥水を吐き出し、「田村、田村!!」と云いました。着物が半分脱げそうになってベタベタと音がしました。上手の方から家が一軒流されて来ました。傾いた屋根の上で、此方を向き乍ら手を振って「助けてくれ!!」と叫び続けて居ましたが、線路に突き当たって家がバラバラになったかと思うと、屋根と一緒に跳ね飛ばされて見えなくなりました。
それ迄は泥水が押し寄せて来た感じでしたが、急に丸太が多くなって線路土堤につき当たり、其の山に次の山がのし上る様にして崩れ始めました。其の時、今迄土堤の様になっていた鉄道線路の一ケ所がフワーツと持ち上がったと思うと、忽ち両側に伝わって、積み重なった丸太を払い除ける様にドッと立ち
上がり、枕木の間から泥水がブワーと吹き出しました。次々と押し寄せる丸太で見る間に線路床の高さの二倍位の高さに膨れ上がった時、突然門が開いた様に黒い帯が横に飛んで、丸太の山が崩れ落ちると某所を目指して、あたり一面が一斉に流れ出しました。薄暗くなりかけた頃、上手の方から四、五人の人達が、泥だらけになった人を引き上げて来ました。着物が千切れて、手が片方無くなっている様でした。
次の日は人が大勢来ていました。昨日立っていた道路の両側には、流されて亡くなった人が五、六人並べられて、何枚も筵が掛けられていました。山の下一帯は家も田圃も道路も全部亡くなって、泥だらけの丸太ばかりの荒れ野原の様でした。
昨日、流れている最中に見た時は全然見え無かった筈なのに、誰かが泥海の中に投げて行った様に捻じ曲がった鉄道線路がニョッキリと立っていました。
暫くの間金子農場入口の市川さんにお世話になって居りましたが、其の頃、誰からともなく「夜になったら誰かが呼んでいる声が聞こえる」と話題になって、或る晩、皆んなで聞きに行きました。あたりが静かになった頃、眞っ暗な泥の海の方から、確かに何人かが呼んでいる声が聞こえました。一週間か十日間位聞こえていましたが、次第に聞こえなくなりました。(後で聞きましたが、流木に掴まった儘とか、木に挟まれて動けなくなって亡くなった方の遺体が、何体も見つかったそうです。)
一〜二ケ月程過ぎた頃の或る晩、外で市川さんの叔父さん達と話をしていた爺さんが、突然大声で「火の玉だ見よ見よ!!」と叫ぶので、皆家の前に走りました。丁度、広川さんの家の上あたりを、江幌の方から東の方にゆっくりと飛んで行くところでした。そんな事があって二〜三ケ月の間に七〜八回、時には同時に二つも見た事もありました。
なお、三重団体方面を襲った泥流の様子を、少し思い出して追加しますが、鉄道線路を越えた最初の流れは、正面の小高い山並みに衝突して行く手を阻まれ、渦を巻くように北側の深山峠登口の方に流れ込みました。次に押し寄せた第二波の流れで、線路の向こう側から北の方は忽ち満杯の状態になってしまった為、線路を破って突込んだ第三波は、押し戻される様に向きを変えて草分小学校の方(二九号)に向って流れ出しました。其の後には両端がすりこ木の様に切れた、太い丸太や、擦り減って握り拳の様になった巨大の根株が無数に流れ着いていました。

(その二)泥流に追われて
     高橋効三(正男)(八十二歳) 苫小牧市字高丘六-三二

雨が降り続いた五月二十四日の昼下がりのこと、昔の草分小学校(上富良野尋常小学校)五年生の私は、当時、故利吉兄が熱病で臥して居たので、栄養を採るため学校の西、五百メートル先き、二十八号道路沿いにある山崎さん宅へ牛乳を分けて貰いにいくことになっており、授業が終わったので四合瓶を下げて、故田中 務君と二人で出掛けた。小降りだった雨が激しくなったので、牛乳を貰って近道を早く帰るつもりで二十八号道路横の畦道を急いでいた。
その時、小学校裏の前田さんが水田作業をしながら「オーイあんた達!!早く帰らないと!!、山が爆発したからねー!!」と言ってまだ作業をしていた。何げなく東の方を見て目に入ったのは、鉄道線路の向う側、そこには普段は無かった家々が丁度舟が浮かんで動いて居る様に見え、「変だなー?」「目の錯覚かなー」と立ち止まって暫く目を凝らして見ると、今度は並んで動いていた家々が、線路から逆落しになってバラバラに壊れ散って、茶色い水に押し流され迫って来た。今迄見たこともない情景に、何が起きたのやら、吃驚仰天、「大変だッ!!」心臓が止まる程の驚きで泥流の来る反対側(西の江幌方向)へ、畦伝いに馳け出した。無我夢中!!一緒に来た田中君は一級上の六年生で、ランニングの選手なので脚が早い、「早く来いよッ!!早く、早く!!」とても追いついて行ける筈もない。走ることは全く苦手だが必死に後を追って馳けた。西山迄は遠い(田中君は泥流に追われながら二十八号道路に上り、どうやら山まで辿り着いた由)。
二、三百メートル位走ったところで脚元に泥流がぶつかり、瞬時に膝元まで漬かった。「もう駄目だ〃‥」と感じた途端、目の前に天白さんの藁葺き馬小屋があって、そこへ飛び込んだ。いち早く天白さん一家は馬と共に避難した様だ。下は水浸し、どんどん泥流の水量が増えて来る。丁度飼い葉桶(飼料を喰べさせる箱型)が建物中間に吊してあったので、よじ登ってその中へ入った。これを舟代わりにして流れに乗っていこうと咄嗟に思い、入り込んだのは良かったが、底に穴があいていて、水が増して来るに従いどんどん泥流が入って来た。慌てて桶を這い出て壁伝いに登り、屋根裏の「ツマ」(屋根の三角点)に辿り着いた。
足元を見ると、泥流に汚れた大小無数の流木が藁壁を突き破り、瞬く間に四方の壁が壊れ流されて仕舞い、屋根と柱だけが辛うじて残った。
気が付いて見ると辺りは暗くなっている。自分の外には誰も居ないし、独りポッチの淋しさと、今迄の恐怖が全身に覆い被さって来た。思い出した様に涙が溢れ出して来た。何れくらい泣いたのか、泣き疲れて微睡(まどろ)む内に一夜が明けたものの、空になった頭には時刻も判らない。放心状態で、覚えていることは、藁屋根裏で暖かかったことだけである。
昼近くであった様だが、静まり返った辺りの外の方で人の声が聞こえた様だ。段々大きく聞こえる様になって来た。「オーイ!!誰か居らんか!!誰か!!」夢中で屋根藁を剥いで身を乗り出して叫んだ。「ここだ!!ここだッ!!正が居るヨッ!!正が!!」「助かった!!助けられるのだ!!」有らん限りの声を出して手を打ち振って叫んだ。
二人の男の人は全身首まで泥流につかり泥だらけで、一人は背が低いので他の一人に掴まりながらも、一生懸命泥流を漕ぐ様に小屋に辿り着いた。
泥流の沈滞しているこの辺りの水田は、深さ一メートル三十センチ以上は有る様で、到底小学生の背丈では歩くことも出来ず、背の高い人の肩車に乗せられて運ばれたが、何処をどの様に渡って山まで助け上げて呉れたのか、夢のまた夢を見た感じで記憶もなく、その人の名も分からない。
吉田元村長さん宅、斜め北の線路向かいに在った我が家は、流されて無くなっており、金子農場入口の市川さん方でお世話になっていた。辿り辿って肉親の姿を見た途端、大声で泣き出して止まらず、泣きつかれては眠り起きては泣き、三日三晩、目が覚めている内は泣き通しであったと、後後まで母が語っていた。
馬小屋の中で命拾いが出来た事は、遠い新井牧場の沢、日新の狭い沢をほとばしって来た泥流が草分原野に入って広がり、そして富良野川鉄橋附近は、最も高く線路床が築かれていて、それが堤防になり、その陰になった草分小学校(現防災センター)又その西側に在った家屋等は、泥流の勢いが殺(そ)がれて幾分弱まった場所であった為、草分地区の家屋が流されずに残った。線路の西側が幸運した様に聞いて居る。
九死に一生を得た自分が七十年経った今でも、当時の恐怖がありありと甦るところである。
(追 記)一
尚、現在は二十七号在住の高橋武雄一家は、元二十四号(自衛隊前)附近に居住していたが、爆発当日「山が爆発して水が出た!!」ことを伝え聞き、山も見えず、何処から水が流れて来るのか皆目わからないので、取り敢えず避難の馬車を仕立てて市街の中心部迄馳けて来た。ところが進む方向から流れて来ることが判り、急いで駅前通りを左に曲がり、大雄寺横の通称五丁目橋に差しかかった時、消防団員が制止して「危ないから渡っては駄目だ!!」と必死に止めにかかっていた。橋の下一杯になって泥水が溢れんばかり、すぐ先まで泥流が来ている。ソレーツ!!とばかりに制止を振り切って馬車を走らせた。橋を渡り切るのと殆ど同時に橋は流れて仕舞い、それこそ間一髪の瀬戸際だった由で、無事明憲寺裏の山に避難出来たと聞いている。

(追 記)二
災害後日になって、不思議なことが次々と現われていた。最近は火の玉と云うと、化け物屋敷か、幽霊の付きものになっているが、実際に自分は父と共に数多く夜空に飛んだ火の玉を見ている。
その色は、赤であったり、青色をしていたり様々であったが、特に屍が多かった罹災後住んだ家の前で、流木が山の様に残った場所であった。
その場所附近が発生源の様で、中では友人の一人が火の玉に追われ、無我夢中で我が家へどの様に走って帰ったのか全くわからない、と云う人が有り、暫くの間話題となっていた。
又災害で亡くなられた大人、子供の亡骸は泥に塗れて誰彼の判別がつかないので、水で綺鹿に洗い、判ったところで、知人、友人が立合って確認し、遺族の方に引取っていただくことになったが、その時、身内の方が遺体の前に来られると、必ず遺体の鼻から夥しい黒い血が流れ出て来る。何日も経っているのに、どこにその様な血が残っているのか、皆が不思議に思っていた。この様な出来ごとは、幾度となく見ているが、身近なところで、家の水田の中に、泥流で押し流されて埋まっていた大きな木の株があって、五、六年間、人の力では到底動かす事も出来なかった為、放置してあった。そこで馬二頭に鎖を着け株に引掛けて、漸く取り除くことが出来た。その株の在った下から遺体が出てきた。旧家前に住んでいた小松家の三女であることを、着物の柄を見分けた母が告げたので、当時十キロメートルも離れて住んでいた小松宅へ、兄が馬で行き知らせると、小松さんも馬で早速飛んで来た。五、六年も経っていて、遺体の骨が着物に包まっている様な姿であったが、小松の父が傍に寄った時、頭蓋骨の様な顔の鼻から血が流れ出たのである。出る様な血なぞ、何所にも無い筈なのに……。七十年経った今でも割切ることが出来ない謎々の出来ごとである。
高橋 寅吉

機関誌 郷土をさぐる(第14号)
1996年7月31日印刷  1996年7月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉