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父の失明を救ってくれた観音様

吉田 清二 大正八年一月一五日生(七十七歳)

私の父は大正八年三月二五日、祖父、母とともに、滋賀県伊香郡杉野村字金居厚から渡道、空知郡上富良野村東一線北二六号に移住した。
翌年たまたま市街地の銭湯「竹の湯」を引き継ぎ、やらないかとの誘いを受け、浴場を改築し営業を始めたが、北海道開拓の夢を抱いて新天地を求めていた父は、この浴場の経営とを兼ね、大正一四年春から美瑛村二股御料(現在の美瑛町共栄部落)の緬羊牧場であった北村牧場に入地し小作農を決意した。
当時のこの地帯は成功検定を経た土地の他は、昼なお暗い鬱蒼とした大原始林であった。
入殖開墾をするには、先ず生い繁る太古のままの森林の伐採作業からで、冬は毎日木を切り倒して、太く長い良質の丸太は用材として雪解けまで馬橇を連ね、まだ薄暗い明け方から二股峠を越え二八号道路を上富良野の○一山本木工場か∧七伊藤木工場の土場まで運搬するのである。春先からは倒された枝木やつる草などを集めて焼き払い、その土地をひと鍬ずつ開墾し、種子を蒔き植付けをする。夏から秋には農作物の除草や収穫の間に、大木の伐根の取り除き作業に明け暮れる毎日が数年続いていた。この時代は、農産物の収入より、木を切り出した製材用丸太や燃料として使う薪や木炭を、夏冬を通し作業して得た代金で生計を維持していたと云える。
そんな苦しい時代を乗り越え、農業収入も年毎に増え、家庭にも明るい兆(きざし)を掴(つか)んだ頃だった。私にとって忘れることのできない昭和六年三月二十日のこと、この日は彼岸の中日なので母が「今日は休んでは」との声をよそに、働き者と部落から云われていた父は、いつものように木炭の切り割り作業に出かけた。
木炭を焼く窯に入れる一定の大きさに整えるのには、斧だけではできない。木に小口を作り楔(この頃は「や」と云って三角で先を尖った木片)を斧で打ち込んで木の目に沿って割るのである。いつもなら苦労なく割れるのが今日に限って割れない。三月とは云え木が凍っていたのか楔が入らず、逆に楔が飛んで父の左目を直撃した。父は大きな声をあげたまま失神し倒れて仕舞った。その大声で近くで仕事をしていた人が何事かと駆けつけて呉れたが、施すすべもなく目を冷す位の応急手当をし、直ぐ戸板を担架代りにし部落の若い四人で担ぎ、付き添いを伴って魔の七曲り峠を越え約三時間をかけ、上富良野市街の飛沢病院に着き、早速先生の手厚い手当を受けることができた。数日入院した後先生の診断では「元の目に戻るのは難しい」と云われ、父はもとより家族は悲嘆に沈むばかりだった。
この頃巷では、医者に見放された難病は「観音様にお願いすることが一番」だとする風潮があり、なかでもご利益があると有名だった石狩管内石狩町生振村の勢至観世音菩薩にお縋(すが)りするよう、親戚や部落有志からも強く勧められ、父は藁をもつかむ思いで御堂にこもった。仏のご慈悲を、一心に七五日間お祈りしたお陰で、左目がどんどん良くなり視力を回復することができた。この吉報には家族、親族、部落の方々は我がことのように喜んで呉れた。
この方々から寄せて戴いたご厚意と、父の失明を救って呉れた観音様に対する感謝の気持が日を増すごとにつのり、忘れることのできない観音様をお迎えしたい一心で空知管内雨竜村の仏師(僧侶)を訪ね、仏像を作って頂き迎えることができたが、この像を安置する所は、自分一人のものではなく多くの人のお力を戴いてするものだと云う古老のご意見に、部落を挙げてお堂を建てることになった。この話が近隣町村まで伝わり美瑛、上富、中富、富良野からも浄財が集まり、現在も建っている勢至観音堂が完成し、昭和六年十月二七日上富良野村聞信寺住職門上浄照氏により入仏式を斉行建立された。
しかし、観音様のご加護で回復できた感謝に対する報恩の気持は、何としても自分の力でお返ししたいとする一念が、或る朝いつものように太陽に向かって合掌していると、目を閉じた瞼に観音様の神々しといお姿を感じ、父は咄嵯に、お返しは「自分の力で観音様を迎え感謝の気持を遺したい」と思い立ち、我が家の裏山の中にある最も古く大きな栖の木に観音様を彫って戴くことを決意した。先にお堂に安置した像を作った仏師に再度懇願したところ快く引き受けて貰い、翌七年夏、雨竜村から来られて我が家で家族と寝食をともにし、根元に父が組んだ櫓(やぐら)の上で一カ月をかけ、地上二・五メートルの樹皮を彫った表面に、胴体幅三〇センチメートル、仏像の体長一・二メートルの立派な勢至観世音菩薩像が完成されたのである。
昭和二十年、一家がこの地を離れ上富良野村西三線北二七号に移ったが、このお堂と、立ち木観音(この楢の木は高さ一〇メートル余、背丈周囲四メートル余、樹令一五〇年余)は、この部落の守護像として護持され今なお、毎年八月二五日を二股共栄地区の「観音菩薩大祭日」として、聞信寺の住職が三代にわたり部落を挙げて盛大なお祭りをしている。
このように多くの人々に親しまれている観音様にお礼を申し上げますとともに、社会に対し報恩感謝を申し上げたい気持で一杯であります。
なおこの寄稿にあたり編集委員の方々には遠く美瑛町二股の現地まで同行を戴き、雪の中を写真で現況を撮って頂くなどお世話になりましたこと改めてお礼を申し上げます。
≪故吉田清平氏の経歴≫
明治25年5月25日 志賀県伊香郡杉野村で生れる
大正 3年6月20日 妻こと(明治27年6月29日生)と婚姻
大正 8年3月25日 北海道空知郡上富良野村に移住
 〃 9年 上富良野村市街地で銭湯竹の湯を営む
 〃14年 上川郡美瑛村二股御料に入殖農業を営む
昭和 5年 上富良野村西4線北29号でも農業を営む(昭和8年まで二股と両方を経営)
 〃 6年3月20日 炭焼材作業中楔が目に直撃事故
 〃 6年10月27日 部落有志と勢至観音堂建立
 〃 7年 裏山の楢の木に観世音菩薩を仏師で彫る
 〃20年 上富良野村西3線北27号に移り農業営む
 〃45年5月23日 享年78才で逝去

機関誌 郷土をさぐる(第14号)
1996年7月31日印刷  1996年7月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉