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「開拓回顧一周年」友への便り

空知郡上富良野村東中第五 故 濱  巌
大正七年九月十九日生(平成二年九月二十三日没)

「やあ遥々と東京からよく訪ねて来てくれたね」
「君の便りがあまり凄いので遊びかたがた見学に来たわけだよ」
「それはそれは。然し冬のことで御覧のとおりの銀世界で広い耕地も楽しく見せてあげられないが、夏中の汗の賜をいろいろ御馳走するから、何日も泊ってゆっくりしてゆきたまえ。サァーお茶代りに搾りたての牛乳だ、腹一杯飲んでくれ」
「それは有り難い、早速御馳走になろう。外は雪でガンガン凍っているのに此の部屋は馬鹿に暖かいね」
「うん、寒地向の住宅を自分で設計して建てたし、谷川の水を利用した発電施設を設置したので電燈も点くし、このように電気ストーブがあるので、いつも此の通りシャツ一枚さ」
「なるほどね、オヤ、このパンはなんと本物だね」
「勿論さ、麦粉もイースト菌も蜂蜜もイチゴジャムも、全てが自家製品だよ」
「実に驚き入ったよ、君の先見の明には感服する。十年一日の如しとか言うが、十年というのは夢の間、本当に十年過ぎても僕はやはり変らぬ腰弁サラリーマンなのに、君は堂々たる農場主で此の様に物心両面豊かな恵まれた生活をしているのを見ると、実に羨ましいよ」「いや、これ迄になるのは実に大変だったよ。つくづく嫌になったことも何十度あったことか……、並大抵の事ではなかったよ」
十年後には、ざっと以上の様な会話を旧友と語るのを楽しみとした、夢と希望を抱いて北海道に入地しました。
私は東京に於ける拓北農民団に(北海道開拓農民団)応募後、終戦に伴い、加へて未曽有の大凶作に遭遇して、実に生れて始めての苦しみを経験したのでした。
然して、あく迄も十年後を希望の灯として只遮二無二稼ぐことをモットーとして闘って、早くも満一年は過ぎました。
顧みますと、昨年の今頃は毎日南瓜と馬鈴薯のみを主食としてためか、顔や手の皮膚は黄色になり、ヒビ、アカギレは切れ放題、入浴も出来ず履物も無い昔の六無斉の以上の無い無いづくしで、時には玉葱を丸粒のまま煮て食べ、或は雪花菜(オカラ)ばかりで数日を過ごした事もありました。
だが長い冬を無事に過ごして開墾に掛かると、もう何もかも忘れて、唯作物と取り組む日々を過ごすのみでした。月日の経つのも分らないうちに早くも収穫の秋に入り、十勝岳には雪が積り始め二度目の冬を迎えんとしています。
農夫になって一ケ年、いろいろなつらいことも、また楽しいこともありました。月日を迫って振り返って見ましょう。
その前に、私達が上富良野村へ北拓農民として入村した十九戸は、最初の一ケ年間は農業の実習期間として各部落に分散して預けられ、私は同じ部落に預けられた他の一戸と共同で水田一町歩、畑二町歩を耕作させて貰ったので、入植地の開墾も出来待ず、従って次の体験談も、既墾地を耕作したときのもので、到底新山開墾の労苦と対比すべきで無いことを予め御断りしておきます。
◎つらかった事など
一、四月十日頃、まだ積雪は一尺余りもある頃から、水田の暗渠堀りに傭われて約十日間、泥と水ですっかり手足も荒れて毎日泣きたい思いで頑張り通したのも夢のようでした。
二、馬耕を習って四・五日目、一里ばかり離れた山の傾斜地(三十度位)一町歩を古参の農夫と二人で耕起したときのことです。他の一頭の馬は脚が早い、こちらの馬はジャメ(北海道方言であばれる)で中々言う事をきかない。マゴマゴしていると追い付かれる。馬を追うので声はかれるし、脚は棒の様になる、全く馬にブラ下る様にして農夫として一日で開墾を終えたときのことです。
三、六月に入って開墾がすべて終り、移植水田の代掻きが始まりました。日中は相当暑いのと開墾の疲れで身体がだるい。その上、水田長靴で腿からピッタリ汗をかいて気持が悪い。また、ぬかる水田を馬と一緒に泥まみれに歩くのもつらいことでした。帰っても風呂も無く、入浴できないこともつらいものです。
四、六月に入ると、無理して飼った牛に与える草刈りがまた大変です。生き物で口がきけないから、尚一層可愛想です。降っても照っても他に飼料の準備が無いから、ただ草を与えるのみ、雨が降っても仕方なくビショ濡れになって刈り取った草を担いで来て与えるときでした。
五、六月十日頃になると水田除草が始まる。この作業は七月下旬まで、それこそ降っても照ってもアヒルのように水田の中をかき廻すのです。爪が毎日減っていくのがわかります。「春雨や濡れてゆこう」なんて言った人間の気がしれません。
六、六月も末になると水稲に泥負虫が発生します。薬品予防のため、手押ポンプのついた重いスキーをひいて水田中を歩き回ります。畔に来る度に重い器具を持ち上げなければなりません。稲を踏まない様に、スキーでつぶさないように気を配りつつ泥の上を引く身のつらさ、水田耕作してこんなに腹の空くつらい仕事はありませんでした。
七、七月の始めに行った消毒の結果は面白からず、再度泥負虫が発生しました。今度は手網で掬うのですが、露のあるうちでなければ捕れないので午前三時ころから起き出して始めます。目は充血し目ヤニで塞りそうでした。
八、夏の日の出は三時半、太陽に負けまいと早起きをします。これもつらいことでした。寝たと思えばもう朝です。
九、愈々脱穀だ。木炭ガス発生による発動機で行なう。籾穀と騒音が戦場のようだ。この中を機械に負けぬように狭い納屋中を要領よく駆け廻ります。小用に出る暇もありません。そのうちにガスにやられて頭は痛む、寒気がしてくる。途中で発動機がグレて中々治りません。漸く夕方から再開、頭痛も最潮で十時過ぎまでの夜業で到々ブッ倒れました。まだまだ小さな苦しみは書き切れませんが、然しその反面楽しみも多くありました。
◎楽しかった事など
一、雪が融けかけると、黒い土がチョコチョコ現れる。長い冬眠から覚めたようで何んとも言えず気がはずみます。雪の下から青い芽を出している小麥に春を告げられたとき、長い冬から愈々活動期に入るんだと心もパッとします。
二、初めての馬耕、何んだか最初の一畝は頼り無いが段々と要領を会得できて、そのうちに片手で馬の操作ができればもうしめたもの、ペタペタと気持よく真直ぐに耕されてゆくときの気持ちの良いこと。
三、初めて蒔いた燕麦が揃って芽を出し、続けて馬鈴薯、人参、ビートなど、夏に向かっての成長は驚くほど早く、見る見るうちに畑が真青になってゆくのは楽しいものでした。
四、ヒョロヒョロの稲のモヤシが水の中で芽を切ったと思うと、四・五日のうちに青く成長して水の上に延び上る。それからの早いこと早いこと三日も見ないと驚く程です。
五、夜暗くなって牛の草を背負って帰ると、遠くから話声や足音を聞きわけて、モーと鳴いて待っています。図体は大きくても実に可愛いものです。
   『うばたまの 闇な破りて こだまする
           われと知りてか 牛のなくなり』
六、南瓜の雌花が咲いた、ここもあすこにも人工受粉で今日は幾つと数えるのも楽しみです。一週間もすると赤ん坊の頭程になっています。早いこと、早いこと、その成長には驚かされます。
   『荒れた手に 持つ雄花 やわらかに
           人工受粉の 朝のひととき』
七、初成りの胡瓜がなったと思って二、三日して行って見ると、もう三寸にもなっています。この前の見落しではないかと思う程の成長振りです。
   『吾が手にて 初めて作りし この胡瓜
           尊くもあり おいしくもあり』
八、麦刈り、薯拾い、稲刈りと収穫の楽しみは、作った者以外には味わえぬ汗のこもった楽しみです。
新米を頂くときの気持……何んとも言えない程、感激させられます。
   『しろがねの 粒の新米 いただきて
           顔も朗らかに 労作偲びつ』
以上、単に直接感じたもの許りでありますが、最近幾らか落着いて考えて見ますと
一、私達拓北農民団は、当初戦争中に募集されたもので、その時の目的は一粒でも多くの食糧を国内自給して長期戦に耐えることでした。
二、其の為には、生産費の高い安いは問題ではありません。何故なれば当時の日本は金よりも現物を欲していました。
三、然し、戦争は終り更に大凶作にも心配した程の餓死者も出ず、二十一年は豊作を迎えました。
四、更に、世界的に農作物は豊作と言われ、加えて国際情勢も落着いてきているようです。
五、次に来るものは当然外国との貿易ですが、よく考えねばなりません。即ち保護関税の無くなったことをです。
六、そうなると、我々の作る農作物は世界各国の農産物と競争することになるからです。
七、アメリカ、カナダの小麦、バター、佛印、シャムの米、豪州の羊毛、満州の大豆、キューバ、比島の砂糖、これ等の価格(生産費)において太刀討できるものがありましょうか。
八、品質が良くても一円のマッチより、多少劣っても十銭のマッチの方がよく売れます。火をつけるという単なる目的の上から考えると、価格の低廉ということが品質の粗悪を補って余りがあります。即ち悪くても安い方がよく売れます。
九、これを例とすれば、米は腹を満す穀物のうちでは日本人に一番好かれていますが、多少おいしくても一毛作の内地または本道米と、多少不味くても三毛作、二毛作の南方米とはどうなるでしょうか、更にアメリカでは飛行機で種子蒔を一日百二十町歩位は蒔くと言われるが、此の辺では腕がよくても六・七反で雲泥の差です。その他は推して知るべしです。これ等が全部生産費を形成するのです。
十、こうして種々考えて見ますと、今後の農業は大規模(共同化)にして機械を先進国に負けぬ程駆使して生産費を低廉にするか、さもなければ特殊作物で売って買うの式でゆかねば、今まで通りの主穀農業は命、且夕に迫れる様な気がします。反当りの収量の増加は必ずしも生産費の低下にはなりません。
十一、昨年の食糧不足で、米食の日本人殊に都会人には粉食が盛んに行われ、これが今後の食糧情勢に大きな影響をもたらしはしまいか。即ち粒食から粉食へ進むのではないでしょうか。
十二、最後に繰返して申しますが、道産麦の相場はシカゴの小麦相場に通ずることを。
以上甚だ生意気なことばかりですが、回顧一年の想い出と最近の感想をそのまま潤筆するに及んで拓北農民団各位の御健闘を祈ります。
   ≪故濱  巌氏の略歴≫
大正七年九月十九日 山口県厚狭郡王喜村第二五五番地で、父五千朗、母シゲコの長男として出生。幼い頃、父の仕事の関係で一家は渡鮮し、邦人小学校に学ぶ。
昭和十年三月   朝鮮京城公立中学校卒業。(元韓国国務総理の金貞烈氏とは机を並べた級友で、永く交友関係を続けられた)
昭和十年四月   朝鮮中清北道「朝鮮酒醸造工場」工場長。
昭和十七年七月  東京都本所区吾妻橋「啓正式製作所」勤務。
昭和二十年三月十日 東京大空襲で会社と妻の実家(本所区吾妻橋)も全焼す。
昭和二十年九月  戦災により「拓北農民団」の一員として上富良野村東中に妻歳子、長女睦子(昭和二十年七月十七日生、現在士別市温根別中学校長)を伴い集団帰農する。
昭和二十二年十一月十七日 二女由紀子生れる
昭和二十四年三月  請われて上富良野中学校東中分校に勤務。
昭和二十六年二月十二日 三女美千絵生れる。
昭和三十年一月 校名の改まった上富良野町立東中中学校に引き続き勤務し、アスパラガスの栽培、野菜や花の電熱育苗栽培、花壇の造成など、多くの実践指導の実績を残す。
昭和四十一年四月 上富良野町立上富良野中学校勤務となる。転校後も引き続き花苗や花壇の育造成指導に努め、両校勤務を通して進路指導の高い実績とともに高く評価される。
昭和五十四年三月 同校を退職。
昭和五十四年四月 上富良野公民館東中分館主事。
昭和五十六年一月   同  分館長。
昭和五十六年 「郷土をさぐる誌」創刊より編集委員となり、逝去された平成二年第八号まで携わる。
昭和五十六年十月 上富良野社会教育委員並びに公民館運営委員。
昭和五十八年十月 上富良野町教育委員会委員(一期目)
昭和六十二年十月   同  委員(二期目)
平成二年九月二十三日 逝去。(享年七十二歳)
平成二年十一月三日 上富良野町より、永年の功績により社会貢献賞を受ける。

機関誌 郷土をさぐる(第14号)
1996年7月31日印刷  1996年7月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉